第3話 治療を止めた母が快復

 それはキヨシが三四歳の秋、仙台市に住んでいたときのことである。娘の二歳の誕生日を祝って、四歳の息子と共に八木山やぎやまの動物園や遊園地で一日を過ごした。午後の三時ころ、遊園地を出た家族は、近くにある妻の実家に立ち寄ることにした。


 その妻の実家には、年取った義母とその長男が二人だけで暮らしている。八木山から急な坂を降り、カーブの多い旧道を走って長い橋を渡った。妻の実家の近くに車を停めて、彼が息子の、妻が娘の手を引いて玄関に近づいた。

 すると、縁側に義母がカエルのような格好で這いつくばっている。妻が駆け寄って、抱き上げようとするが思うに任せない。よく聞き取れないが、「頭が痛い! 体が思うように動かない」と訴えているようだ。近くに少量の吐瀉物も見られる。

急いで妻が座敷に布団を敷き、二人で義母を抱え上げて布団に寝かせる。それらの作業を進めながら、彼は考えた。


 ――これは脳卒中に違いない。とすると、国立病院の脳卒中センターか・・・。

 妻が狼狽うろたえて、どうしたらよいかと訊ねてくる。その妻を片手で制し、彼は居間の受話器を取り上げた。幸いなことに仕事で付き合いのある脳外科医、中村医師が電話に出た。義母の状態を掻い摘んで話すと、すぐに救急車で連れて来いと言う。

 彼は一旦受話器を置いて、119番をダイアル。数分後に義母は救急車に収容され、その脇に妻が付き添う。彼は二人の子供を車に乗せて、救急車の後を追った。


 義母の病名は『小脳出血』。出血した部位と出血量などの精密な診断がつくと、即座に緊急手術で血腫(血の塊)が取り除かれた。手術の直後には、血圧や呼吸が不安定な時期もあったが、その修羅場を乗り越えると義母は順調に恢復。十日後には歩いて退院することが出来た。

 しかし、病院の外は枯葉が舞い散り、冬も間近い十一月のことである。義母の家は木造の古い造りで、暖房がほとんど利かない。そのうえ風呂場は外にあり、一旦、家から出なければ入浴もできない。しかも、母と息子の2人暮らしでは、昼間に義母の世話をする者は誰もいなかった。


 そこで、彼は妻と話し合い、当分のあいだ義母を預かることにした。そのあいだに、古びた家の改築を進めて、義母が安心して療養できる住環境を整えるようにと義兄に申し入れた。小脳出血などの脳卒中は高血圧が主な原因であり、寒い家屋では血圧の管理が難しいうえに、再び倒れる恐れもあったからである。


 その頃、彼が住む家は狭かった。2DKの公団住宅の六畳を義母専用に、もう一つの六畳に夫婦と子供の四人が寝起きすることになった。不自由ではあったが、非常事態だから・・・と我慢するしかない。

 しかし、彼より先にを上げたのは義母であった。「こんなコンクリートの狭い部屋では息が詰まる」、「もう我慢できない、耐えられない」と不満は日を追って募るばかり。仕舞いには「こんな所に居るくらいなら、死んだ方がましだ!」とヒステリックに叫び出した。


 考えてみれば、義母には脳出血の後遺症は何一つなかった。退院して日が経つにつれて体力も戻ってきている。狭い六畳間で「一日中じっとしていろ」と言う方が無理なことかも知れなかった。そのように感じたキヨシ夫妻は、次の休日に、改築が始まったばかりの義母の家に彼女を送っていった。


 それからしばらくは平穏な日々が続いた。しかし、二年後の秋に義母は再び倒れ、初回と同じ脳卒中センターに搬送された。そのとき、キヨシは出張で家にいなかったので仔細は知らない。一緒に暮らしていた義兄が救急車の手配や入院の手続きをしたようである。しかし、初回と違って二度目は、すべてが裏目に出た。義母に下された診断は『クモ膜下出血』で、手術は出来ないという。意識も朦朧としたままで、日が経っても快方には向かわなかった。


 二週間ほど過ぎたとき、キヨシは脳卒中センターから呼び出しを受けた。約束した時間に医局に入ると、主治医の中村医師が待っていた。そして、「言いにくいことだが、お母さんの退院先を探して・・・」と切り出した。義母は手術ができないし、いまは肺炎を併発していて、強力な抗生剤を投与しても治らないのだという。


「君は顔が広いから、お母さんを引き受けてくれる施設を探せるでしょう。ここには急患が次々と押し寄せてくるから・・・」

「分かりました、中村先生。転院先が決まりましたらすぐに連絡します」と即座に答え、彼は医局を後にした。


 主治医には平静を装っていたものの、彼は突然のことで困り果てた。理屈ではよく分かっているが、我が身に降りかかってくると病院探しは大変なことである。仕事で出入りしている先は、大半が急性期の病医院で、脳卒中後や慢性期の患者を受入れる施設には殆ど付き合いがない。それでも資料を漁って、彼は転院が可能な先を絞り込んだ。


 しかし、候補の施設が決まっても、それらの施設に足を運んで入院を頼み込む気には中々なれない。二年前の苦い思い出、「こんな所にいるくらいなら死んだ方がましだ!」という義母の叫びが脳裏に焼き付いている。

 結局、キヨシは妻とも相談のうえ、新たな療養施設に義母を入院させることを取り止めた。そして、義母がそれまで通っていた小川医院を訪ねて、院長に自分たちの考えを伝える。院長の小川医師は、彼の申し出を快く引き受けたあとで、静かに言った。


「うちにもね、お母さんのような患者さんが何人も入院しているよ。良かったら見ていきなさい」

 そう言って、院長は傍にいた年配のナースに耳打ちをする。そのナースに導かれ、彼は小川医院の二階に上がった。そこは見通しの良い病室で、十数台のベッドが並んでいる。明るい窓際に数人の患者がいたものの大半は空ベッド。その空きベッドの奥隅に案内されて彼は驚いた。ベッドに萎縮した患者、身長は小学校の二、三年生ぐらい、全身がピンク色のキューピーに似た、男女の区別もつかない患者が転がっている。その人間とは思えない患者は、一本の細いチューブでベッドの脇の点滴瓶に繋がれていた。

「この患者さんは十五年、このベッドで十五年も寝たままなのよ」

 ナースの言葉に彼は息をのんだ。ただただ、ここに義母を連れて来たくはない、入院は絶対にさせまい・・・という思いが強まるばかりであった。


 小川院長の承諾を取り付けて、キヨシは脳卒中センターから義母を引き取ることにした。約束の時間に国立病院の救急車が小川医院の玄関に到着。年配のナースが、若いナースと共に用意したストレッチャーに意識のない義母を移し替える。小川院長も診察室から出てきて、患者の受入れを確認する。

 病院の救急車が視界から消えると、ナースたちは義母のストレッチャーを医院の裏口に運んだ。そこには寝台タクシーがチャーターしてあって、ナースたちは手際よくストレッチャーの義母を寝台車に移し替えた。


 意識のない義母を、住み慣れた家のいつもの座敷に上向きに寝かせた。夕方に小川院長と年配のナースがやってきて、鼻からチューブを挿入して固定した。そのチューブから、水やミキサーで砕いた食物を補給するようにと指示して、医師たちは引き上げてゆく。

 積極的な延命治療をすべて止めた義母に、残された命は一日か二日、彼は妻と義兄に必要な親族を集めるように・・・と伝える。


 キヨシは、義母の死をしっかり見届けておこうと思った。彼の両親は遠い昔にこの世を去り、妻の父も妻が二十歳のときに逝去している。彼ら夫婦にとって、ただ一人だけ残されていた親の死はしっかり見届け、看取らなければ・・・という気持ちが強かった。そこで彼は、昼間はもとより夜も眠らないで耳をそばだてていた。義母の寝息に、注意を集中していたのである。


 翌日、親族が枕元に集まってきて、夜が更けると義母の寝室の隣に重なり合うようにして眠った。しかし、キヨシは消灯した闇の中で眼を見開き、耳を澄ませる。義母の息遣いは荒々しく、強くなったり弱くなったり。そして、ときどき途切れた。


 夜も更けた一時か一時半頃、義母の呼吸が聞こえなくなった。彼は、三十、四十と頭の中でゆっくり数を数える。およそ一分が過ぎ、さらに二、三十秒の静寂が続いた。いよいよ「そのときがきた」と彼は身構えた。が、次の瞬間、「プファーッ」という大きな寝息。ふたたび荒々しい呼吸が戻ってきた。

 それからしばらくして、義母は咳き込みを始める。何度目かの咳で、「ポン」と痰が吐き出された。多分、「ポン」という音は聞こえなかったに違いない。しかし、キヨシにははっきり聞こえたように思えたのである。その痰切れを境に、義母の息遣いが楽になってゆく。得体の知れない何かと戦う「荒々しさ」が徐々に薄れていった。


 翌日から、義母の病状は日増しに良くなり、意識も戻ってきた。そうなると介護が大変になる。鼻孔から挿し込んだチューブを引き抜いてしまうのである。すぐに小川医院に電話をかけると、ナースが駆けつけて太いゴム管を再び鼻孔から挿し込む。そして、「患者さんから目を離さないように」と言い残して帰って行く。その繰り返しが何度も続くと、車で駆けつけてくる医師やナースの態度も変わってきた。


 昼間はともかく、夜の看護はむずかしい。キヨシは妻と義兄に相談して、義母の布団と畳のあいだに薄い板を挿し込んだ。そして、布団の両脇に飛び出た板の端に、義母の両手を括り付ける。もちろん、痛くないようにガーゼの紐で手首を緩く縛っての話である。そのようにして、夜間に鼻のチューブを引き抜かないように工夫した。


 数日後に義母は言葉も話せるまでに恢復し、少しずつ食事も摂れるようになっていく。そうなると、次の課題が生まれてくる。食事は出来ても歩けない、トイレにも行けない彼女を、誰が介護するのかという問題である。

 もちろん、狭い公団住宅でもう一度療養することに彼女が同意するわけはない。住み慣れた古い家で、最愛の息子と二人で暮らすことが義母の最大の望みである。あれこれと紆余曲折を経て、平日は小川医院に入院し、休日は自宅に戻って親子で過ごすという結論に辿り着いた。


 それ以来、金曜日の夕方に仕事を終えた義兄が小川医院に向かい、母親を引き取る。そこからタクシーで帰宅し、母を背負って住み慣れた家に入る。休日を母親と共に過ごした義兄は、週明けの月曜日に再びタクシーで小川医院に向かい、母を入院させて出社する・・・。その繰り返しが、二年余り続いた。


 しかし、晩秋のある日曜の朝、義母は不帰の人となった。その前の晩は何時ものように食事をして、普段と変りなく眠りについたという。襖一つ隔てた座敷で眠っていた義兄が、翌朝、声を掛けても目を覚まさない。

 義母はまったく物音ひとつ立てず、声を出すこともなく、静かにこの世を去っていった。



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