3-6
「千速先輩!」
私はドアノブに掛けていた手を降ろして、振り返る。
後輩の眼にはうっすら涙が浮かんでいた。
「さっき監督に聞きました。千速先輩、秋に早期退部するって」
なんだ、そのことか、情報遅れてるね。そう言うように私は微笑んだ。
「陸上、やめるんですか? 先輩は、将来を期待された選手なんです。私や他の先輩と違って、千速先輩は選ばれた選手なんですよ。三年生になれば、大事な春の国体だってあります。なのに、どうして……」
私は部活用のエナメルバッグを足元に降ろし、青いカラーベンチに腰掛けた。
ゆっくり後輩を見上げて、退部の理由を端的に述べた。
「――――受験?」
私は頷いた。
「受験って先輩……、もしかして、国公立を目指すつもりですか……?」
後輩の目つきが変わった。涙の引いた目に、今度は、血が走っていく。彼女は、信じられないものを見る目で私を見下ろし、冷め冷めと言葉を吐き捨てた。
「先輩、可笑しいです。一芸制度、知らないわけじゃないんでしょう?」
彼女の言う「一芸制度」とは、私たちの通う京華高校独自のシステムだ。学生が励むべき勉学以外に、スポーツ、音楽、芸術、その他の活動により一定の成績又は社会に大きな影響を及ぼした者に、京華大学への無試験入学及び学費の無償が保証される。
私は今年の春、100メートル走の成績が特に優秀であると認められ、すでにこの権利を有していた。受験という茨の道を歩かずとも、私の目の前にはすでに綺麗なレッドカーペットが敷かれていたのだ。
「京華大学の陸上部なんて、入りたくても入れない人が圧倒的に多いんですよ? 先輩だって、そのことは十分、分かってますよね?」
京華大学陸上部は全国屈指の強豪校だ。国内外から「我が一番」とお国の陸上自慢が集まってくる。また強大な資金力によって建設された練習施設は、日本代表のナショナルトレーニングセンターとしても利用されており、そうした環境は選手たちを更なる高みへ、向上心を育んでくれる。
彼女の言う通り、陸上部は内部進学生の中でも競争が激しく、部に入れるのは、ほんの一握りだ。
でも、私は以前から、短距離担当のヘッドコーチから熱烈な誘いを受けており、内定は確実だった。他の部員には黙っていた。でも情報はどこから漏れているか分からない。気づけば、私が陸上部に入ることは、皆の間で既定事項のように語られていた。
「どうして、受験するんですか? 陸上、やめるんですか?」
私は首を強く横に振った。
「だったら、どうしてですか……?」
陸上はやめない。
いつか父と約束を交わしたように、私は前に進むことを選んだ。国公立に入って、弱小の陸上部に入ったって、私自身が何かに変わってしまう訳じゃない。必ずこの世界で日本一、いや世界一になる自信がある。私が何者かに変わってしまわない限り、歩んできた全ての歴史と、刻まれてきた記憶が、私を栄光の大道に導いてくれる。
でも、どうしてだろう。
私の前に道はいくつもあるのに、どうして受験勉強という道を選びたいと思ったのだろう。
それも、選んだのは〝県立流渓大学〟―――偏差値59、決して難関とは言えない、中堅大学。
誰にその名を教えられた訳でもないのに、私の意識はこの大学に引き寄せられていた。
名門の京華高校から中堅どころの冴えない大学に通うことになった私は周囲の先生や友人から後ろ指を指された。それは私の前途に対する期待の裏返しだったと思うが、もはや誰も私に目を向ける者はいなくなった。
それでも大学に入ったその年から小さな陸上部に入部し、コツコツと鍛錬を積み、能力を向上させてきた。設備の整ったトレーニングセンターもいい――、だが色の禿げた野ざらしのトラックにこそ人間の能力の限界を試されているような気がした。雨降り、風吹く日も、私は懸命に努力を重ねた。
それは自分の力だけでは成し遂げられなかった。
いつも、いつだって、母の柔らかい笑顔と、先を走る父の背中があったからだった。
私は幾度と記録会に参加し、着実にその名を上げるようになっていた。一度はそっぽを向いたかつての恩師たちはやがて私を無視できなくなり、大学卒業と同時に実業団への入団を勧められた。当然、断る理由などなかった。それがあの夢の舞台への切符だと分かっていたから――――。
――――――
――――
―――
視界が開けると、そこは所帯じみた大学の一室だった。
扉のプレートを見ると、〝G513〟――私はG棟513号室に来ていた。
中には白衣を着た男子学生がいて、その隣には小学生くらいの身長の女の子がいた。
「えーと、ここは―――……」
私が神妙な面持ちで室内を見回すと、女の子が答えた。
「ここは、めいめい研」
「めいめい……研……」
私がしばし思慮にふけっていると、白衣を着た男子学生は落胆の表情を浮かべ、大きく溜息をついた。
「あら、何かしら。来ちゃいけなかった?」
「もしかして、もしかしてですけど、貴方は――いえ、すいません。先にお名前を聞いてもよろしいですか」
「私?」
それは半ば祈るような面持ちだった。
「桐野千速――って言うんだけど」
「クソっ――!!」
地面を蹴って頭を抱える男子学生。私と女の子は何が起きたのか分からず目をぱちくりとさせた。
「名城、どうしたの。たぶんいつもの相談者」
「相談者じゃない!」
女の子は肩を小さく震わせた。
「違うんだよ――! 彼女はもう〝改名の儀〟を終えて、名前を〝千早〟から〝千速〟に変えたんだ! 僕がこの手で変えたんだ! 川名、君にも言っただろう。僕は〝改名の儀〟の瞬間だけは覚えている! 彼女が〝早い〟の字をしんにょうの〝速い〟に変えたいと言って僕が変えた! この意味が分かるか! 誰も未来を変えれないと信じて他人の改名を行わなかった僕が、変えたんだ! でもどうだ? 結局、〝千速〟さんはまたココに戻ってきてしまった! 僕達と出会ってしまったんだよ!」
男子学生は下唇を噛み、悔しそうに私を睨んだ。
「〝千速〟さんも未来は変えられなかった! やっぱり運命は変えられないんだ――!」
「待って」
机を叩こうとする彼を私は制止させる。
「アンタの言ってることはよく分からないけど、私自身は名前を変えたいと思っていないから……きっと改名は成功したんだわ」
「もうこの世界の貴方はご存じないでしょうが、改名を考えている人のみがこの研究所を訪れることができるんです。つまり、ココに来たと言うことは貴方はまだ自分の名前に未練があるということなんですよ」
「ああ、そういうことね。それなら――」
私は扉の外で待っている友人に声を掛ける。
「麻龍!」
呼びかけに応じて友人の麻龍がおずおずと入ってくる。
「この子名前を変えたいんだけど、少し話を聞いてくれるかしら……、ちょっと久しぶりの外の世界で気が滅入っちゃってるけどね。優しくしてあげて」
「麻龍……さん……? じゃあ、この方がココまで辿り着いたという事ですか」
「そうじゃない? この部屋を見つけたのはこの子よ」
その時、突然、女の子が短くキャッと嬌声を上げた。
「名城、この人……」
目を丸くして私を指差す。
「どうした、川名」
「ウチのOGで、きょう公演に来てる――オリンピック女子短距離走金メダリストの桐野選手」
二人は目を合わせてゆっくりと私に視線を戻した。
「あら、知っててくれてたの?」
私は懐から前回大会で勝ち得た金色のメダルを取り出す。それを二人の目の前にチラつかせると、ひとつおまけにかじってみせた。
「アハハ、オリンピックに興味がないと選手の顔なんてなかなか一人一人覚えてないもんだけど――意外と認知度があったのね、私」
二人の眼はキラキラと輝いていて私はその眩しい眼差しに目を細めた。
「自分では特別なことをやってきたという自覚はないのだけれど――そうね、ひとつ言えることは、やっぱり自分の名前に誇りを持っていたからかな。千の影より速く走る者、それが私という女――〝千速〟――だって私より速い人がいたら名前負けしちゃうでしょ? それにそういう思いで付けてくれた両親の期待に応えたいから……頑張ったよ、私……」
私は二人の間を歩いて行き、窓辺に立って、大学構内とその奥に聳える山岳の遠景を望んだ。
「未来を決めるのはいつだって自分よ。悩んだときは思い出して」
振り向いて若人ふたりに微笑みかけた。
「進むべき自分の姿は自分の〝名前〟に込められてるってことをね」
青い空、白い雲。
講堂の前には、私の姿を一目見ようとすでに長蛇の列が出来ていた。
ああ、そうだ……。
いまの言葉は公演の最後の締めに使おう。
了
めいめい研は我にあり! 白地トオル @corn-flakes
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます