3-5
「いいですか……、僕と呼吸を合わせて唱えてください」
名城は私を椅子に座らせると、落ち着き払った声で言った。
「本当に新月の日じゃなくてもいいの?」
「はい。確率が高いのは確かです。でもそれ以上に僕の願掛けとしての意味合いが大きいんです」
「願掛け?」
「新月は全てを無に帰してくれる――悪夢のようなこの悪循環を断ち切ってくれないかと思いその日を選んでいるだけです」
「……なるほどね」
川名をちらと見やると、とことこと駆け寄ってきた。
「千早……、せっかく会えたのに、寂しい」
「何よ。今生の別れでもあるまいし」
「これは今生の別れ。本当に千早の言うとおり運命を変えられたなら、〝改名の儀〟が終わったその瞬間から私たちが出会っていない未来が待っている」
「そうね。でも名城とアンタ達は何度も出会えてるじゃない?」
「それは――」
川名は名城に気を遣って小さな口をギュッと結んだ。
「僕が運命を変えられなかったからですよ。何度やっても川名達とこの場所で出会うんです。各々が名前を変えたいと願う限り自ずとここに集まるのは必然なんですが……」
「でもいいじゃない、運命は運命でもイイ運命ね。アンタ達三人を引き裂く地獄の鎌はこの世に存在しないって訳よ」
「ハハ……、こんな時にも、貴方は面白い人ですね」
「ありがとう。手向けの言葉として受け取っておくわ」
私がはにかむと、名城もつられて口角を上げた。
「それではいきますよ。〝特異点〟はもう分かっています」
「ええ」
私は目を閉じた。
ネーミングライツ……イズ……マイン……
名城の声が耳殻に反響する。
「ネーミングライツ・イズ・マイン」
命名権は……我にあり……
鼓膜が震える。
私は大きく息を吸った。
「命名権は我にあり!」
――――――
――――
―――
白い天井と……、柔らかなベージュ色をした白熱灯……、両脇には丸みを帯びた木の柵があって……、背中には綿あめのようなフワフワした感触を覚える。
ここは――病院だ。
そしてにこやかに私に微笑みかけるのは、若き日の母だ。ほんのり淡いピンク色をした前開きのマタニティウェアに包まれて私は抱きかかえられた。
「生まれきてくれてありがとう」
私はあーうーと唸った。
「あなたは私たちのかけがえのない宝よ」
言葉の意味は分からないが、どうやら歓迎されているらしい。
「お父さん!」
母は部屋の外にいたらしい父に声を掛けた。
「この子、目がとても綺麗だわ! きっとアナタに似たのね」
「ああ、そうかい」
この鼻につく匂いは……、まさかね。
私を覗き込む父から何やら危険な香りがした。
「ちょっとアナタ……、飲んできたの?」
「別にいいだろ。ちょっとくらい。悪いのか? 煙草やめてんだからそれくらいいいだろ?」
「え、ええ、そうだけど……」
母の表情が曇る。
私はこの三人の中で父が絶対だということを生まれて間もなく知った。
「それより、この子の名前どうしようかしら? そこに出生届を置いてあるのだけれど」
「――名前ねえ」
「可愛い女の子よ。とびっきり可愛い名前を付けてあげましょ?」
「とびっきり可愛いか……、それならアレどうだ?」
「アレ?」
父の顔がイヤらしく歪んだ。
「ほら、昨日ドラマに出てた――、あの乳のでけぇ女」
「
「そうそう、あんな色ッぺぇ女になってくれたらいいよな」
「……」
「なんだ? イヤか?」
「いえ、嫌ではないけれど……」
「だったらそれでいいんじゃねぇか、なあ千早」
母が私の額をさする。
父には見えていないだろう。
いま母が母として強くあろうと踏ん張っているところを。
「あ、アナタ……」
「ああ?」
「少し思う所があるのだけれど……、確かに、河春ちゃんは綺麗な女の子よ。人間としても魅力のある素敵な人。だからこそ〝千早〟はあの人の物だけにしておきましょう。私たちの子には、この子だけの唯一無二の人生を送らせてあげたい」
「……」
「――いいかしら?」
父は舌打ちをした。
「だったらどうするってんだよ」
「そうね……、この子は間違いなくアナタの血を受け継いでる。だからアナタに似てとても足が速いに違いないわ」
「けっ……、そんな昔のこと言いやがって」
「昔のことじゃないわ。私達にとって、いえ、この子にとってここからがスタートラインなの。この子の前にはまだ先にゴールテープがあるのよ。コーナーを曲がる時、周りの速度が気になって歩幅を緩めてしまう時もあるでしょう。でも、この子はきっと走り続けられるわ――〝千速〟なら、きっとね」
「ふんっ、俺への当てつけか? 夢半ばで陸上を諦めた俺への当てつけか」
父が自嘲気味に笑うと、母は自分の言ったことが愚かだったと言うようにササッと前髪で顔を隠した。
「ごめんなさい。そんなつもりはなくて」
その弱弱しい一言で、母の精一杯の抵抗は虚しく幕を下ろした。
「……」
「やっぱり〝千早〟にしましょうか。なんだか〝速〟って男の子の名前みたいですしね」
母は出生届を手繰ると手にしたペンで私の名前を書き始めた。
私も一緒になってペンの走る先を見つめていると、不意に地黒の腕が伸びて、母の手をがっちりと掴んだ。
「――――〝千速〟にするぞ」
*
「千速ちゃん!」
母の呼ぶ声がする。
「千速ちゃん、そう、こっちよ!」
私はよたよたと覚束ない足取りで、母の胸の中に飛び込む。
「わあ、偉いわね! 千速ちゃん! もう一人で歩けるようになったのね!」
母が私の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「お父さん! ちはやちゃんが歩けるようになったわ!」
居間で寝転がってテレビを見ていた父が飛んで起き上がり、庭先まで急いで駆けてきた。
「本当か! 千速!」
私はキャッキャッと嬉しそうに笑った。
「将来は、陸上のオリンピック選手、間違いなしね!」
父が母の腕から私を抱きかかえる。
「当たり前だろう。私たちの子なんだから。きっと素晴らしい陸上選手になってくれるよ」
目の前に父の大きな顔が飛び込む。
「千速……! 君は今日、一歩を踏み出した! それは小さな一歩かもしれないが、君の人生にとって大きな一歩になるだろう!」
父は誇らしげに言った。母が、まあ、と口元を押さえて微笑む。
「お父さん、またテレビの影響ですね」
ブラウン管テレビの中では、モノクロの宇宙飛行士がはためく国旗を月面に挿している。
「千速、自分の足で歩き出すようになれば、いくつもの困難が君に降りかかる。足を止めたくなる時もある。後ろ歩きしたくなる時もある。でも、前に進むんだ。立ち止まるより、振り返るより、前に進んで見える景色の方が、ずっと美しい……!」
父が私の小さな手をぎゅうと包む。
「お父さんは、千速が歩んでいくこれからの景色が楽しみでならないよ」
立ち止まるより、振り返るより、前に進んで見える景色の方が、ずっと美しい――――それは父がこの数年で身を持って経験したことだろう。私の成長を見守るうち、賭け事やお酒が好きだった父はいつしか私の将来に心血を注ぐようになっていた。〝千速〟は必ずオリンピックで金メダルを取る逸材になってくれると言い、私に陸上の魅力を余すことなく伝えてくれた。
私にとって、この数年の人生のうちに知ったことは、母の愛情、父の愛情、そして自分が目指すべき光り輝く道筋だった。
「千速! 走れ! 行け! そこだ!」
私は手を振り切って、最後の曲がり角、際どいインコースを攻める。
「行け、行け! 千速!」
父の声援が風を切って耳を掠める。視界の端に、飛び跳ねて声援を掛ける母の姿も見えた。
「そこだ! 駆け抜けろ!」
父の声がどんどん離れていく。
私は目の前のゴールテープに向かって、必死に足を蹴り上げる。風圧に体がのけぞりそうになる。胸が膨らみ、顎が浮き上がる。
「千速! 引け! 顎を引けぇ!」
たぶん、その声だけはしっかりと聞き取れた。私は、父に散々習った走り方を思い出し、上体を少しずつ低くしていく。体が軽くなる。風の流れが変わった。
「そうだ、いいぞいいぞ! 行け! 行け! 行けぇぇぇ!」
父の掠れた叫び声は聞こえなかったけれど、私は声援に背中を押され、ゴールテープを切っていた。
短く荒い呼吸を繰り返し、息を整える。額からじわじわと汗が追ってやってくる。眼に入りそうな汗をぬぐって、私は駆け寄ってきた先生の手に引かれて、赤い一番の旗の下に体育座りをした。遠くの白いテントの下で、父が私の名前を叫んでいる。
私ははにかんで、小さくピースサインをした。
私はやはりと言うべきか、父の血を色濃く受け継いでいた。
周囲の友達より早く背が伸びたという事もあって、校内では誰も私より速く走れる子はいなかった。運動会ではいつもアンカーを任され、赤いハチマキを額に巻いていた。小学校六年生の年、全国運動能力調査で私はなんと短距離走の部で県内一位に輝いた。噂を聞きつけた私立中学の陸上強豪校から声を掛けられたこともあったが、両親が言うには、当時の父の稼ぎでは難しいらしく、私は地元の中学に進学することとなった。
「ウソ! 千速、また学年一位?」
友人が私の成績表を覗いて、嬌声を上げる。
その声を聞きつけたクラスメイトが続々と集まってくる。
「千速、一位だって!」
「千速、マジ? 一位? すご!」
「すごいね、千速ちゃん! 天才じゃん!」
私は急に恥ずかしくなって、成績表を机の中に仕舞い込んだ。
「ほら、隠すなって、ちはやぁ……!」
友人のしがみ付く手を振り払ってうずくまり、泣き声を上げる。
「千速? 一位なの? すげぇじゃん」
囲む女の子を分け入って、一人の男子が私の席にやってくる。
「あ、相田くん。ちはや、すごくない? ほとんど百点だって」
相田くんが、私を賛嘆の眼差しで見ているのが分かった。ずっと顔を伏せている訳にもいかないので、私は赤らんだ顔で、彼を見上げた。
「千速、成績表、俺にも見せてよ」
私は言われるがまま、彼に成績表を差し出した。
「すげぇな。数学以外、ぜんぶ俺よりいい点数だ」
相田くんは頭が良かった。家柄が良く、地元で有名な進学塾に通っていた。特進クラスでもとりわけ成績が良く、貼り出された順位表の、彼の名前にはいつも金の王冠が戴冠されていた。でも、進学塾で王様をしている彼が、肝心な学校の定期テストで、私に王座を譲っていることは耐え難い事実に違いない。
「千速、俺と、京華高校を目指そうよ」
キュッと心臓を掴まれた気がした。相田くんに、そんなことを言ってもらえるなんて思いもしなかった。
京華高校は間違いなく、県下で一番の難関校だ。内申点はともかく、当日点で合格ラインを切れるかどうかというところ。私にとって、そして、相田くんにとってもハードルは高そうに見えた。
「お前となら頑張れる気がするよ」
相田くんの眼差しは真剣そのものだった。
「それに、陸上続けるんだろ? あの高校ならちょうどいいじゃん。俺もサッカーで選手権に出たいからさ」
彼が私に握手を求めて、手を差し伸べる。
「一緒に、目指そうぜ」
クラスメイトが私たちを囃し立てる。彼らの声は、赤くなった私の耳にはもう届いていなかった。
結果から言えば、勉強も運動も出来る、文武両道だった私は県内最高峰の京華高校に難なく入学することができ、例の相田くんと一緒にその門を叩くことができた。
しかし、この頃、父の頭の中に取り除けない大きな腫瘍が見つかり、父は間もなくこの世を去った。仕事がなく稼ぎが少ないと言っていたのは私を心配させないためで、本当は体調が芳しくなかったからだった。
父の遺した貯金のお陰で私は京華高校に進学することができた。
しかし、不幸は往々にして折り重なるものである――一年後、最愛の母も後を追うようにこの世を去ってしまったのだ。
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