悔恨
暁 睡蓮
第1話 悔恨
庭の片隅に咲いた清楚なバラが、昨夜の大雨にすっかり、うちひしがれて、あわれに見えました。梅雨はまだなのに、なたねづゆとか、今日もうっとうしい朝でございます。老夫婦だけの隠居生活も、気楽で結構だと言われる方もありますけれど、時折おとずれる孤独感には、人さまにわからない悩ましいものがございます。
「きょうは海軍記念日だなあ」
と、私の明るい返事も期待しない夫のひとりごとが聞こえました。
息子のところへ手紙を出して一週間がたちました。何の返事もありません。しびれを切らした私は、こんなに早くから電話をかけるのでございます。
「あっ、さっちゃんか。元気。大垣のおばあちゃんだがね。おとうさん起きてる。」
「おとうさん、おとうさん。」
孫の幸子が息子を呼びました。
「いつまでねとるんやな。この前出した手紙読んでくれた。ふーん。みんな元気。そんならいいけど、返事ぐらい電話でいいから、してちょうだいよ・・・・・。」
うれしそうな応対をしない息子とは、わかっていても、つい、くどくどと話しかける私でございました。
「いいかげんにしいや。わかった。わかった。今はいそがしいで帰れないが、そのうちに帰るで、体を大事にして、がんばってえや。」
切られても、まだ名残惜しそうに受話器を中々離しませんでした。こうして六十路の峠を半ば越えた私と、四十を過ぎた息子との別居生活は、何か一本綱が切れたように感ずるのでございます。
あれから四十年が走って流れました。はやいものでございます。今残照に立って、人生行路の足跡をふり返って、息子の幼い時の顔をえがいてみるのも、なぐさめでございます。
私たちが結婚しましたのは、終戦前の昭和十六年の春でございました。亡くなった兄が、遺言で、
「この家のあとは、房子に、学校の先生をお婿さんにもらってやってほしい。」
と言ったので、父母の骨折もさることながらふしぎな縁で私は、夫と結ばれたのでございます。
夫は、この家とは随分離れた農村の小学校の教員でした。通勤には自転車で、随分時間がかかり、くたびれはしたものの仕合せな二か年が、またたく間に過ぎ去りました。父母は初孫を見て、とても喜んでくれました。夫は、近くの農村の国民学校に教頭として転勤し、通勤も楽になりました。物資の欠乏と、生活の不安にも拘らず、わが家には、あたたかい春がおとずれたのでございます。
でも、よいことは、永く続きませんでした。戦争も末期症状にはいり、
「ほしがりません、勝つまでは」
食べるものも、着るものも、統制経済で、不自由な苦しい生活をしなければなりませんでした。夫も高等二年生を担任していたので、出征兵士の遺族のお手伝いやら、荒地を開墾して、豆や麦を作ったり、桑の皮をむいて供出したり、重労働の勤務に追われました。おまけに、校長との折合いが、うまくいかず、悶々の日々を送るようになりました。夫は、学校でのことは余り口にしません。どんなことが、あったかはわかりません。やる瀬ない思いで、育児と家事にまぎれて、どうやら一年も無事終わりかけて、でもまだ、冬の名残りの消えやらぬ寒い夜でした。
「こん夜は、お前に、あやまらんならん。」
夫の顔色は、何だか青ざめていました。不安な予感がして、すぐには返事も出来ませんでしたが、おずおず、夫の話を聞きました。
「お前に何も相談せずに、重大なことを、きめてしまって、すまん、すまん。本当にすまん。」
何のことか、さっぱりわかりません。夫は、何度も、すまん、すまんをくり返すばかりです。私はいらいらして立ち上がりました。夫は私を坐らせました。そして度胸をきめた態度で話し出しました。
それは十二月も終わり頃だったそうです。県の通牒で、その学校から二人の満蒙開拓者少年義勇軍に参加志願をさせるようにとのことだったそうです。食糧難に苦しんでいた日本には、満蒙開拓は必要なことだったのでしょう。
夫は児童に、時局に協力して、義勇軍に参加するよう説得した結果、二人の児童が、応募を承諾したそうです。桑の木の供出にはあまり成績が上がらなかったが、義勇軍には満足な成績をおさめたことを喜んだのでした。
「それは、よかったではありませんか。」
私は、稍落ち付いて、すまぬわけを尋ねました。
「なかなか思うようには、いかぬものだ。児童は行きたいというが親が承諾しない。一生けんめい話したが一人の児童の親は、がんとして承諾しなかった。でも、もう一人の親は、
「先生がついていってくれたら、やってもよろしい」
と言ったので、俺は思わず、『勿論私も、行けたら行きます。』といってしまったんだ。」
そんな話のなりゆきで、義勇軍志願者一人を確保し、その手続きを済ませたものの、夫はその子が不憐で、後悔に悩まされたのでございます。幾日も思いなずんだ夫は、私にも、両親にも内緒で視学の家を訪ね、満州派遣をお願いしたそうです。
「今年は岐阜県から、満州派遣教員の志願者は無かったが、君が行ってくれるなら、それから文部省へ行ってくる。」
それはもう一月の終わりの頃で、夫の帰宅時刻がおそく、機嫌の悪い夜だったことを思い出しました。
「そんな重大なことを、どうして、かくしていたんですか。」
私は、くやしい思いで夫をなじりました。夫は、すまん、すまん、をくり返すばかり。翌日、私の父と、夫の父と県庁に行って、夫の満州派遣取り止めをお願いしましたが、決定はくつがえされませんでした。
「在満教務部へ出向を命ず」
「東満総省、牡丹江聖林在満国民学校教諭を命ず」
こんな辞令を受け取ったのは、昭和十九年四月一日のことでした。桜の蕾もふくらんで、子供は、よちよち歩きはじめ、少しは明るい我が家を期待していましたのに、何とも言えぬさみしさに、めいるのでございました。夫は、師範学校出なので、出征の招集は無いと聞いていました。それなのに、自分から満州へ行くなんて、泣いても泣き切れません。会話の無い荒涼とした日が続きました。時局柄交通事情も悪く、満州庁の切符を手に入れるため東方西走する夫は、見るも哀れでございました。
五月十日、大垣駅で悲しい別離を迎えました。なんのことかわからずに、足もとにからみつくわが子を何と思ったのでしょう。夫の目には光るものが見え、乗車ぎりぎりまで抱きしめておりました。
「ひどいとうちゃんだなあ。」
母は、二歳になる孫をだきよせて、今日食べさせる食料の工面に頭をなやませています。父は、少しでも家計の足しになればと、老骨に鞭打って、市役所の嘱記に雇われていました。私のうちは農村でしたが田んぼの耕作はしていなかったので、配給米だけでは腹がふくれません。お米のある農家へ着物を持って、やみ米と交換してもらうため、母は可愛そうなくらい奔走してくれました。私も堤防の開墾をして、お芋や豆を作り、馴れない鍬仕事も夢中でございました。命の綱に行ってしまわれた私は、先の見通しが立ちません。気が抜けたとはこのような状態のことかも知れません。でも、いつまでもしょげこんではいられません。人生は戦場である。そして勝ち抜くことこそ至上命令なのだ、と思い直すのでした。そして一ヵ月がたった六月半ば夫からの第一信が、待ちくたびれた私の手に配達されたのでございます。
第一信
知らぬ間に一ヵ月がたってしまった。みんな元気で暮らしていてくれるだろうか。今までに見たこともない故郷の夢を昨晩見た。そして修一の笑顔で目をさましたのだった。
お母さんのお怒りは、まだとけないだろうか。おとうさまやおかあさまには、お前からよく詫びておいてほしい。ほんとうに虫のいいことを言うと、腹が立つかもしれないが、許してほしい。今異国での、ひとり寝の枕に後悔とお詫びの涙を流している。
でも、こんなさびしい東満の地にも、可愛い子供が待っていてくれた。そして俺は二年三組の学級を担任することになった。こちらは内地とはちがって、春と秋が短いそうだ。五月半ばに春が来て、ねこやなぎの芽がふくらむと、またたく間に満目に緑がひろがり、可愛い花を咲かせるのだ。先日も、体育の時間に裏の丘まで駈足をした。緑の草の上に腰をおろして休憩をした。子供達も春のいぶきを、なつかしそうにたわむれていたが、一人の女の子が、俺に話しかけてきた。
「先生、うたおしえてあげようか。」
「うん、どんな歌かな。」
「うちの父ちゃんが教えてくれた歌よ。」
「ふうん。教えてもらおうか。」
「いい。花つむ野辺に日は落ちて、みんなで肩をくみながら、うたをうたった帰り道おさななじみのあの友、この友、誰か故郷をおもわざる。」
「じょうずだなあ。」
ほかの子供も集まってきて、拍手をしてほめてやった。
「これは一ばんだけだけど、二ばんも三ばんもあるよ。でもこれだけしかうたえないの。」
「一ばんだけでいいよ。もう一ぺんうたってちょうだい。」
思わぬ所で、思わぬ歌を、思わぬ子から聞いた。不思議だった。あとで寮に帰って、同室の石井君に聞いたら、
「そのうたは、誰か故郷を思わざる、という流行歌ですよ。みんな歌っているようですよ。」
と教えてくれた。
その石井君と二人で、この前の日曜日、市街へ散歩に出た。寮のおばさんから外食券をもらって、まちの飲食店で、ごちそうを食べようと、いそいそと出かけた。いろいろ店をのぞいてみたが、出来るものは、代用食風のものばかりだった。でも寮の豆ご飯とちがった代用食で食事を済まして外へ出ると、日曜日で、風もないおだやかな天気なのに、人通りはなく、さびしい街路が、白く広がっていた。
「あれっ、お餅を売っていますよ。」
石井君が、口に手をあててささやいた。前を見ると、五十米ばかりのところに、朝鮮服を着た老婆が、籐の手さげ籠に、おいしそうな大福餅を一ぱい入れて立っていた。餅なんか久しく食べたことがない。これはしめた。高いだろうが買ってみようと二人は足をはやめて近づくと、それは突然、その老婆が消えてしまった。餅かごを道のまん中に置いたままだった。百米ばかり前の電柱のそばに、巡警が銃を肩にかけて立っていた。なるほど、闇商売取り締りをおそれてのことだと思った。置きざりにされた大福餅を残念乍らあきらめて去ったのだった。
それから午後は、まちはずれのショートル市場を見に行った。ショートルとはどろぼうという意味だそうだ。盗品売買の市場だそうだが、統制品が、自由に買えるので、とても賑やかだった。露地にアンぺラをしいて、あぐらをかいた女の人が、手をたたいて「やすいやすい」を連呼して客を呼んでいる。きれいな市街地に並んでいる店とは、まるで別天地のようだ。ここには、取り締りの目が無く自由に商売をしていた。
ここは牡丹江駅の北部にひろがる新開拓地の日本人の住宅街で、広い真直ぐな縦横の街路の整った清潔なまちだ。聖林在満国民学校はその中にあって校舎は洋風、二重ガラス窓、二階建ての堂々とした建物である。児童数も、千五百人、みな日本人ばかりである。平素は満人との接触はなく、満語が話せなくても不自由はない。でも時々、旧市街へ出て、満人の生活を見聞きすることにしている。木鐸寮は学校のすぐ近くに建っていて、通勤も便利、昼食も寮に帰っている。
内地も、苦しいだろうが、辛抱してほしい。がんばろう勝ち抜くまでは。
六月十三日
房子どの 信 夫
あれ程うらんで送り出したものの、一ときも夫のことは忘れられません。はじめて受け取った便りを、くり返しくり返し読みました。満州の生活のめずらしさとか、おもしろさとかで私を慰めようとしていることもよくわかります。でも、返事は思いが走って文章になりませんでした。
ようやく便箋に一枚、短い薄情とも思われる手紙を書きました。生活の窮屈なことや、避難訓練で味わう悲しさ、さびしさ、書けば嫌なことばかりなので書く気にはなれません。出征されているおうちには、相応の慰問や、手助けがされますが、私のうちには冷たい軽蔑の目が注がれているような錯覚をおぼえるのでございました。
でも、翌日、その手紙を投函に行って、昨日のひがみが消し飛んでしまいました。捨てる神あれば拾う神ありとか、私にも明るい話がふって参りました。それは郵便局から局長さんがみえてわたしに事務所勤務をやらないかと誘ってくださったのです。夫が満州へ行ったことも、よくご存じだったのです。うちに帰って母に話しますと、
「お前さんに出来るかいな。修一の面倒は母ちゃんが見てあげるで、やりなさい。」
と言ってくれました。父も喜んでくれました。生まれてはじめての就職に胸をはずませて、あくる日から勤めに出ることになり、局長さんの特訓を受けるのも面はゆい気がします。
郵便局といっても至極家庭的で、奥さんも、やさしく助けてくださいます。
おひる休みは家まで自転車で帰り、昼食をとり、修一の世話やら、家事を少しやって叉出勤し五時には帰宅出来ました。事務の都合で、超過勤務をしなければならぬこともありましたが、修一の面倒は母がひきうけてくれており、安心して平穏な勤務をすることが出来ました。
ようやく落ち付いて、事務の閑な時など奥さんが、
「ご主人に手紙を出しなさいよ。どんなにか待ってみえるでしょうから。」
と言って、身の上話など、きいてくださいます。奥さんは、とてもおきれいな、上品な、お方なのに、お子さんがありません。病身のようで、お掃除や家事も満足に出来ません。
はた目には、何不自由ない、しあわせそうに見えるお方にも悩みはありました。
「しあわせで、言うことなしとは、死んでから。といいますが、ほんとうですよね。」
奥さんが、さみしそうな微笑を浮かべて言われました。私のような不幸なさだめの女はいないと思ったこともありましたが、奥さんにくらべると、まだましだと思うのでした。
突然、大きな心配ごとがふってわきました。それは、母が、少しでも栄養になるものをと思って求めた缶詰を食べて、修一がおかされてしまったのです。つゆ時の、うっとうしい時でした。下痢と高熱で、衰弱してしまいました。隣に疎開してみえた大阪の工場長さんのおうちにも病人が出て、町の病院長さんの来診がありましたので、うちにも来てみてもらえませんかと、母は一生けんめいお願いしましたが、お金を出さない家には来て貰えませんでした。でも、母の必死の看護で、修一の一命はとりとめることが出来たので、ございます。
七月も半ばとなり、修一も、ようやく元気になり、やれやれと胸をなでおろした処へ、夫からの二度目の手紙が配達されたのでございます。
第二信
暑くなった。満州は今、猛暑というにふさわしい。内地の夏よりもはげしい暑さだ。外出は、無帽では目がくらみそうだが、内へはいると、とてもさわやかで気持いい。もう昨日から夏休みになり今日は、木鐸寮の部屋で、石井君と二人、夏休みの生活プランを語り合った。石井君は一年五組を担任しているが、九月には入営することになっている。瀬戸内海の小豆島出身ということだ。俺が牡丹江へ来て、石井君の部屋へ入れてもらって三ヵ月、もう別れが待っていた。この前の日曜日、二人で外へ散歩に出た。牡丹江市の郊外の小高い丘に登って街並を見下ろした。
「あれが軍の官舎ですよ。あの中にちょっと大きい家があるでしょう。あれが、司令官の官舎で、今は居ないがこの間まで山下大将が一しょに住んでみえたそうです。近所の子供とキャッチボールなどして、やさしいおじさんと、慕われていたそうです。今は南方で、暑いでしょうね。」
石井君は、いろいろ教えてくれた。軍の官舎、社宅等みっしり並んでいる。王道楽土は、果たしてここなんだろうか。しばらく二人は黙っていた。牡丹江のポプラが遠くに見えた。
一昨日は、一学期の終わりなので、寮の懇親会をやった。さいわい砂糖の配給があったので、おはぎを作ってもらい、石井君の送別会もかねて、食堂でみんなが自己紹介をやった。独身教員ばかりで若い人が多いから、俺は、寮長を仰せ付かってしまい、渡満の事情も話してしまった。殆んど日本全国から集まっているのも不思議だった。隣席に坐っていた茨城県出身で、牡丹江師範学校の神田先生が、
「先生は、なぜあがらないのですが。」
と、俺のおはぎを見て言われた。
「わたしは、甘いものは、とんと駄目なんです。よろしかったらどうぞ。」
というと、
「わたしは、甘いものなら、喉につかえるまではいります。では遠慮なしに頂きます。」
といって食べてくださった。
もう一人の牡丹江師範の若い先生、佐藤さんは、俺と懇意にして貰って、俳句の会や謡曲の会などに一緒に行っている。新潟県出身で地理の文検をとり、満州の舞台に羽を伸ばそうとして来たのだと言っていた。俺とは違う夢を持っていた。その佐藤先生の部屋へ、数日前、二十歳ばかりの女の子が二人訪ねて来ていた。小学校時代の教え子だそうだ。先生の渡満に刺戟されて、満州に行けば何かいいことがあると思ったのであろう。それにしても、こんな時に、単身、渡満するなんて驚かずにはいられなかった。
懇親会の主食は、おはぎだったが、ビールと日本酒、ブドー酒の特配があり、久しぶりのほろよいだった。みんな日頃の鬱積した、さびしさをはき出すかのように流行歌を歌って、わめき散らすのだった。
「湖畔の宿、湖畔の乙女、誰か故郷を思わざる。あすはお立ちかお名残り惜しや」等随分新曲を教えられた。俺は石井君の前途を祝福して誰でも知っている小学唱歌の「故郷」を歌った。俺は今まで、故郷を離れたことが無かったので、この歌の本当の意味がわからなかったが、こうして満州へ来て歌う「故郷」に、望郷の思いの切なるものを感ずるのだった。
叉、夏休みが終わった頃、手紙を出すつもりだ。くれぐれも、体に気をつけ、暑さに負けないよう、修一の世話や、父母への孝養につとめてほしい。お前のまごころのせいだと思うが、俺の健康も極めてよく、いそがしい夏休みを送るつもりだ。
七月二十三日
房子どの 信 夫
隣の家に疎開してきてみえた大阪の工場長さんという人が、私のうちの別棟を貸してほしいと申し込んでみえました。隣の家は、家族が多いのに部屋が少ないので、疎開者まで入れてさぞ窮屈だろうと思います。でも、軍需工場を経営して、しこたま儲けられたとかで、肩で風を切る恰好の傍若無人さには、好感が持てませんでした。強引な工場長さんの交渉に父もかぶとをぬぎました。父は、経済面でも助かると思ったのでしょう。私は、修一が病気の時、町の病院長さんの診察に何の好意もよせて貰えなかった工場長さんには、どうしてもいい感じは持てません。でも止むを得ませんでした。さみしかった我が家に、大きな犬をつれた威勢のいい疎開者が入り急に賑やかになりました。
お金の力は偉大でした。甘いものに蟻がたかるように疎開者の軒には、絶えず人が集まり、夜おそくまで談笑するのでした。お粗末な食事をさびしくとる我が家へも、ご馳走の匂いや、笑い声が聞こえると私はやり切れない気持ちになるのでした。
父母は仏教を深く信じて、
「愚痴や不平を言ってはいけない。感謝を忘れぬように。」
と、絶えず私に教えてくれました。でも同じ疎開者でももう一人の疎開者は、遠慮して、つつしみ深く、気の毒な程、小さくなってみえます。それに比較すると、高い借家賃を頂くだけには中々感謝の念もわかないのでございました。
夫への返信は書くこともありません。修一の病気にかかったこと、戦死者が出て、村葬があったこと、疎開者を引き受けて不快なこと、何一つ明るい話はありません。ただこちらも元気でいるから安心してください。あなたも健康に気をつけてご活躍をお祈りしますと、手短に心をこめて書きました。叉近いうちに手紙を下さいとも頼みました。
いつしか九月にはいり、畠に、きびが、黄色い重たそうな穂を垂れていました。大根や白菜の種まきも始まり、堤防のさつまいもも小さいだろうが掘ってみようかしらと、思っていると、夫からの三度目の手紙がつきました。
第三信
夏休みも終わって第二学期が始まった。まだ残暑も厳しく緊張が中々軌道に乗らず閉口している。みんな無事に暮らしていてくれるだろうか。お前の郵便局勤務はうまくいっているだろうか。修一は元気か。俺はおかげさまで無事、短い忙しい夏休みだった。
夏休み中二つの旅行をした。その一つは、開拓団の実施を見学し、青少年義勇軍に送り出した利雄君の苦労を少しでも理解したい為に、久田見開拓団の国民学校を訪問したことだった。七月二十五日、牡丹江から乗車、東支鉄道を南へ二十里ばかりところに馬蓮河という小さな駅がある。下車して、よもぎや、おおばこ、くまざさの生い茂る丘を登っていくこと一粁。高粱や、とうもろこしの畠の中に煉瓦作りの学校が建っていた。学校とは別棟の赤煉瓦の住宅があり、校長先生の出迎えを受けた。この開拓団は、岐阜県の東農、久田見村の分村開拓団で百戸ばかりの大所帯だそうだ。学校を中心に四部落に分かれ一里四方にひろがっている。時たま、牛の泣き声とぶたの叫びが聞かれるだけの、さびしい野原である。
「さみしいことはありませんか。」
というと校長先生は
「住めば都ですよ。それに魚つりにも行けるし、楽しいです。叉、時折は牡丹江へも、出張出来ますし。」
といって笑ってみえた。都会に住んだ者には、到底辛抱出来そうにないことも、楽土かもしれない。校長先生の手作りのどぶろくと、ふなをご馳走になって帰ってきた。
その二、八月十七日ハルピンへ行った。満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入所している利雄君を慰問する為である。
ハルピンは、牡丹江から西の方へ、さみしい高原を越えて四百粁、昔は匪賊が出たと聞いて気味が悪かったが、異国での一人旅にも少しは訓れて、度胸を決めて出かけた。内地とは遠い単線の、のんびりした汽車である。高原の峠で夜になる。さやさやと鳴る熊笹の中で汽車は一服。寝台車ならぬ普通列車で、乗客もまばらのさみしい車内でまどろんだ。
そして翌朝ハルピン駅についた。北満といっても夏は暑い。朝から汗をかいて駅員に義勇軍訓練所をたずねた。駅前にたたずむと教会や、並木にあふれる緑が、ロシア風を吹かせているようだった。車に乗っていく気にはならないで、上着をかついで歩いて行った。農場か道か、わからない草原をかなり歩くと、それらしい平屋が並んでいた。
利雄君は病気だった。土用かぜというか、頭が痛いといって床についていた。まだ一年も経たないのに、内地の学校に居た時とは随分ふけた感じで、思いなしかやつれていた。
「苦労しただろうなあ。」と口の中で言った。利雄君も何も喋らなかった。むやみに汗が出て、何度もハンカチを顔に当てた。利雄君もよごれた手拭で、無闇に顔をぬぐった。俺は利雄君の手を握り、
「病気なんかにまけるなよ。はやくよくなってくれ。」
これだけが、やっと出た言葉だった。何分間かの無言の会見が終わり、
「じゃ、帰るでなん、がんばれよ。」
とは言ったものの足が中々動かなかった。
悲しいハルピン旅行になってしまった。期待していたキタイスカヤ街や、豊かな流れの松花江も、日露戦争の横川沖の両勇士の碑も、みんなあきらめて帰途についた。
郵便局へ為替を頼みに行ったら、
「もう近いうちに内地との交信ができなくなります。送金は早目にしてください。」
と言っていた。そんなに戦局は不利なんだろうか。内地は大丈夫だろうか。心配になってきたが、必勝を信じてがんばろう。
八月二十八日
房子どの 信 夫
この手紙が最後となりました。それからは音信不通の長い日の連続でした。でも食料生産は至上命令です。精出して栽培したさつまいもを持って郵便局へ行った日です。あれは十二月も八日のお昼頃でございました。ものすごい地震が揺れました。うちの板塀が倒れたのもその時です。東海の軍需工場が再起不能の大打撃を受けたとも聞きました。天も私たちに味方せいびはして下さらなかったようです。戦争は次第に深刻となり、空襲警報がしきりと修一をおびやかすようになりました。
あれは、七月も、はじめの頃だったと思います。空襲警報のサイレンが鳴り、修一が泣き出すのを抱えたとたん、風を切る砲弾が頭の上をかすめました。
「やっさんどこへ、落ちたー。」
どこかで、どなる声がしました。二百米ばかりの西の安三さんの家に火の手があがり、またたく間に家は消えて無くなりました。
こんなことでは、私の郵便局勤務は不可能です。やめて専ら家の防備やら防空壕の
整備やら夢中でした。でもいつかは勝てると信じていましたのに、根底からくつがえって、悲しい悲しい敗戦となったのでございます。
はりつめていた気持がゆるんで、虚脱状態になり、ぼんやりした生活に、待たれるのは、夫の帰りです。復員の兵隊さんも噂に聞くようになりました。この村にも満州から帰ってみえた人があり、毎はその人をたずねて、牡丹江の様子をききましたが、その人は、
「牡丹江は形勢がよくないと思います。」
と言って、悲観しなければなりませんでした。それからも、満州の引揚者と聞くと遠方へもいとわず夫の安否をたずね歩きましたが、いずれも、かんばしくありませんでした。
半ばあきらめていた昭和二十一年六月四日、修一を寝かせつけたとき、ぼろぼろの服に、リュックサックを下げた夫が我が家の敷居をまたいだのでございました。待つ身のつらさが一ぺんに消しとんで夢かと思うのでした。修一を起こして、
「おとうさんだよ。」
と夫の膝におしつけました。夫は博多の収容所で頂いたするめを修一に渡し、
「おみやげだよ。」
といって、むくんだ顔をほころばせました。二年余りの離散に泣いた私でございます。話すことが山程たまっていた筈なのに、余り話が出てきません。父母も「よかった、よかった。」の連発で、仏壇にお灯をあげるのでございました。
一週間ばかり静養して、身のふり方を話していた時、
「俺が生きて帰れたのは不思議という外はない。ハルピンの利雄君は帰っただろうか。」
話が、ここへくると、夫は息を呑んでしまうのでした。そして、
「俺は死んだものとあきらめてくれ。もう教員はやらない。やる資格もないのだ。」
と声を落として私に頼むのでした。教え子を、義勇軍に出したことが骨の髄までしみて、悔恨の涙を流したのでございます。
あの時から四十年、修一もおとうさんになり、今朝の電話のおわびに、夕食後電話してくるのでございました。
悔恨 暁 睡蓮 @ruirui1105777
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