ある日のフルムーン

本陣忠人

ある日のフルムーン

「あっ、満月…」


 千歳チトセが小さくそう呟いたのは、狭い軽自動車の車内。

 それは公開初日の話題作を観に、隣町のシネコンに行った帰りの事だ。


 人影まばらなレイトショーを観賞し、その内容に満足したままのテンションで隣接するレストランで空腹を満たした僕達は帰路に着いていたんだ。


 ビル群を抜けて海岸線に出た瞬間、下から人工的な建造物で押し上げられて窮屈そうに身をかがめていた空がふわりとひらけて。深海とそこに降り注ぐマリンスノウを思わせる夜空に浮かんでいたのは美しい真円。


 正確に言えば真円ではなく歪んでいるのだろうけれど、薄っすらアカに染まる満月が優しく輝いていた。


 彼女の呟いた独り言めいた言葉から想起されるのは今朝見たニュース。小さく音楽を鳴らすカーステレオをバックに聞きかじりりの知識をひけらかす。


「そう言えばさ…平成最後の満月らしいぜ? そう聞くと、ただの満月フルムーンも趣き深く思えるね」

「ふーん、そうなんだ」


 返ってきた素っ気ない言葉から察するに外したらしい。

 まあ茶飲み話以下の些細な話題提供のつもりだったから、そんなにヘコまないけれど、横目に入る恋人の姿が少々つまらなさそうに見えたので、ジェントルマン的には意地になって広げてみようか?


 そう思った矢先に、前方に黒のセダンが割り込んで小さく舌打ち。危ないだろ。


 そういった極小の怒りが湧いた事で何を話そうとしていたか忘れてしまう。鳥以下のアタマをゲロを吐きそうなくらい回転させて、その内脳髄がバターになって溶け出した頃になって月の話だったと思い出す。


「月関連でもう一つ思い出したんだけどさ…」

「何を? ブルース・ウィルス? それともエアロ・スミス?」

「それはもうアルマゲドンだね…つーか月じゃねぇし、小惑星だし」

「だね。私も言いながら思った」

「じゃなくて、僕ってさ、中学生に入るくらいまで結構真剣に…月面には兎がいると思ってたん……」

「ぶまおふっっ!!」


 僕の文末に被せる様に大きく吹き出す千歳。

 塩対応は嫌だけど、そこまでオーバーな反応が欲しかった訳では無い。


 吐いた息を押し止める様にヒーヒーと声を殺してせながら笑った君は目尻に浮かんだ涙を拭う。そのあどけない表情に目を奪われそうになるが、運転手ドライバーとしては疎らな街灯に頼りなく照らされた自動車道に注意を向けていなければならない。


「いや…ごめんごめん。君にもピュアな時期があったんだなって思うとおっかしくてさ。それでそれで? 磯部イソベ少年は如何にしてクソつまんない現実に屈したの?」


 自分で話しておきながら、そんなに愉快な過去で無いことに気づいて暫し思案。左手で鼻の辺りを探りながら決意。在りし日の淡い思い出を明らかにする。


「理科の時間に…」

「天体観測でもした?」

「教師に一時間かけて論破された…」

「うわあ…ドンマイ」


 天体や宇宙についてひとしきり常識的かつ科学的な観点から優しく諭すような語り口で現実を突き付けられたんだ。

 その過去をバネに猛勉強して宇宙飛行士にでもなっていれば美談にもなるが、勿論僕はそんなハイパーエリートでは無いので普通にただの失敗談で滑稽譚である。


「でもまあちょっと分かるよ」


 余程苦々しい表情をしていたのであろう。助手席から控え目な言葉で気遣いの言葉が流れてきた。


「月に兎とかかぐや姫とか、そういう神秘性みたいな引力ものが満月にはある気がする」

「かぐや姫とはらしくないお話だね…いって! 今運転中! 危ないって」

「ちょっと良い話をするから黙って聞くの!」

「はいよ」


 チョップが入り、鈍く痛む脇腹を被害者アピール全開で大袈裟に擦りながら良い話とやらに耳を傾ける。


「満月って何だか凄く惹きつけられる。蒼白い光が――今日はちょっと紅いけど――ぼんやりと滲んでて。今よりもっと昔の、電灯とか全然無い頃の人々にとってきっとシルベみたいな存在だったんだと思う」


 想像する。

 電気が無くて、ガスが無くて、ひょっとしたら「火」が無い頃の生活を。そこで営まれる人々の暮らしを。


「それはきっと今よりもずっと重要だったんだよ。暗い夜道の中で家族の待つ家まで導く光で。愛する人を写す鏡で。報われぬ恋愛を書き記すキャンバスだった」


 そう考えると、とてもロマンチックじゃない?


「なるほどね…確かにロマンチックだ」


 呟いて、口角の端を薄っすら高くする。

 大昔では無い現代でも夜道は暗い。運転しながら隣の恋人の表情を完璧に捉えられない程度には暗い。


 けれど、それでも僕の網膜の中で想像製の虚像が結ばれる。多分、きっと自慢気に鼻を鳴らす彼女の頬は僕達を照らす月光よりもずっと紅い筈だ。


 僕の心を暖める微笑ましさから生まれる沈黙をどう解釈したのか。千歳は不満気に口を尖らせる。


「何よ? やっぱりって言うつもり?」

「別に。らしくないとは思うけど、聞くに値する素敵な話だった」


 人工の光帯が立ち代わり入れ替わり。消えては現れ去っていく。どんな人がどんな思いで運転しているのか少し気になったけど、すぐに何処かへ行った。それこそ光の速さで何処かにね。


「なら、お返しに僕も一つ、話をしようか」

「なになに? 超聞きたい! はやくはやく!」

「いやおい食い付き良過ぎだろ…。そんなに大した話じゃないよ?」

「いーから早く! 時間は光の速さで過ぎて行くんだよ?」

「時間は一秒ごとに一秒しか過ぎないよ」


 何でそんな会話に突っ込みどころが多いのだか…。

 ため息を一つ。ブレイク。リスタート。


「じゃあまあ…確か一ヶ月で新月が満月になって、そしてまた満月になる…ってことはフルムーンを拝めるのは月に一度ってことだろ?」

「別に私も詳しくないけど、多分そうなんじゃない?」

「ってことは一年のマックスは大体十二回。僕があと何年生きるか知らないけど、仮に百歳まで生きたとしても…ざっくり千回行かないくらいか」

「千回かぁ…。多いのか少ないのか」

「だろ? しかも実際は雲や雨なんかの気象条件にも左右されるし、惑星同士の位置関係とかの影響もあるから…」

「それよりもシビアな数字になるワケだ!」

「そう」


 ここまで持論を展開して来て今更ながら羞恥が込み上げて来たが、今更止まれない。

 心のアクセルを上げつつ足元ではフットブレーキ。ウィンカーを出してゆるやかに左折。


「そしてその――恐らく千回を下回る満月を――何度君と見れるのかなって思って。寂しくなって、尊くなった」


 言っちゃった! 言ってしまった!!

 うわ何だこれめっちゃ恥ずかしい。素面か? 素面なのか? いや素面だわ。むしろ素面じゃなければ大問題だ。


 バターと化した脳髄が溶けて消え失せるんじゃないかと言う危惧が浮かぶ沈黙。やべぇ、勢い任せで言うもんじゃねぇわ。


 運転中でなければこのまま頭を抱えて布団に潜り込みたい衝動に支配されそうな僕は二の句が継ぎにくい。何を言っても裏目を引いてしまいそうだ。


 なので隣席からの言葉を待つことにしたのだが、精神的籠城を決め込む男への投石は言葉ではなく肉体言語であった。


「キャアアアアーアーアァ!! 何よ何よ? 何嬉しいこと言ってくれちゃってんの? なになにどうしたん? マジでらしくないって。マジですか!?」


 黄色い嬌声きょうせいと共に肩を断続的に叩く振動。

 段々と勢いが増し、ちょっと普通に痛くなってきた。どうやら琴線に触れたらしいのは分かるが、だから危ないって!


「うっせぇーなぁ。口に出さないだけで普段から結構思ってるよ? 桜見てる時とかも『あと何回こんなことできんのかな』とかさ」

「だったら、もっと態度に出しなさいよ! 何よ、いっつも淡白でクールぶっちゃってさ」

「はいはい、それはまた来世でね。ほい、到着」


 小さなアパートの前の小さな駐車場に到着。

 サイドブレーキを引いてエンジンを止める。


 車外を流れる生温いやら肌寒いやら複雑な気流が肌に纏わりつくのも感じながら大きく伸び。運動で酷使した筋肉を労る。


 肩を大きく回す僕の目の前にはいつの間にやら恋人が。

 アーモンド状の眼に月明かりを映しながらチシャ猫の様に意地悪く笑った。


「ねぇ、今度はお月見でもしようか?」

「いいね。玉手箱でも用意しとくか」

「何で浦島太郎だし。滑ってるよ?」

「うるせぇ。照れ隠しだ」

「はいはい。君はとってもシャイだからねぇー」


 彼女の小さな掌から伝わる熱が何だかとても愛おしい。

 鉄コンの階段はエジソンの作った成果物で大層明るく照らされていて。


 無慈悲なその明かりで足元を確かめながら、酷くどうでもいい事を考える。

 火鼠の衣と仏の石と蓬莱の玉の柄。どれが一番簡単に手っ取り早く手に入るのだろうかと。ひょっとすれば石油採掘業者になって小惑星を破壊しに行く方が現実的かもしれないね。


 愛する姫君が何処かに行ってしまわないように、握る手にぎゅっと力を込めながらお馬鹿な妄想を益体なく考えた。

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