縄と、桜と、小火焼と

月庭一花

「……わたしを縛って欲しいのです」


 わたしはそっと彼女から、そして手紙から視線を逸らした。

 猫間障子の向こう側。

 一月の空に粉雪が舞っている。葉を落とした庭の古い桜が、飄々と風雪に吹かれて震えている。火のない客間に外の冷気が染み込んでくる。

 座卓の上の封筒を裏返す。差出人の名をもう一度確認する。そこにはただ、


 〝夜々子ややこ


 と。

「月庭先生」

「わたしは先生と呼ばれるような人間ではありません」

 彼女の前に茶請けと湯呑みを置きながらわたしは言った。セーラー服の赤いスカーフがわたしの動きに合わせて微かな衣擦れの音を立てた。

 彼女は緊張した面持ちで、そして僅かばかり戸惑いを含んだ瞳で、じっとわたしを見ていた。おずおずと両手で湯呑みを包み込み、ゆっくりと口に運んだ。猫舌なのだろうか。熱い茶を口にして少し眉根をひそめたのが見えた。

「それでは……月庭さん、とお呼びしても」

「ええ。構いませんが」

 わたしが答えると彼女は茶を卓に置き、畳に両手をついた。左手の薬指に金色の指輪が光っていた。

「月庭さん。改めてお願いします。わたしを、縛ってください」

「……なぜ、と訊いても?」

 なぜ、わたしなのか。なぜ、縛られたいのか。それを知る権利がわたしにはある。じっと見つめていると彼女は少し困った顔で頬を赤らめ、首を微かに傾げてみせた。

「主治医の先生から、あなたのビデオを見せていただいたのです。それは……あなたが女性を縄で縛っている姿を映したものでした。先生がこの人ならわたしの病気に適任だろうとおっしゃられて。それでこちらに」

「病気?」

「はい。……先生からの手紙には書いてありませんでしたか」

 ……手紙。

 わたしはちらりと紙面に目をやる。

 便箋には柳のようなやわらかい筆跡で、〝その子、あなたに任せるわ〟と書かれている。いや、それだけしか書かれていない。

 夜々子さんのことだ。この短い文章の中に何か意図があるに違いない。……そう思うのだが、ではこの手紙と目の前の彼女とがいったい何を意味しているのか。わたしには計りかねた。

 それとも、病気。もしかしたら病気というのは……。

 わたしはかぶりを振った。考えたくなかった。小さく息をついて、手紙を封筒に戻した。

「あなたは何か、勘違いをしていませんか」

 わたしの声は些か冷た過ぎたようだ。彼女は居た堪れない様子で慌てて茶を飲み干した。そして。

 空の湯呑みを両手でぎゅっと握りしめている。

「縛ること、縛られること、そこには信頼関係がなくてはなりません」

「よくわからないのですが……縛られる側は相手に身を任すから、ということでしょうか」

「縛る相手が信頼に足る人かどうかも、です」

 しゅるりと胸に結んでいた赤いスカーフを抜き取る。あっけにとられている彼女の両手を、わたしは湯呑みごと、硬く結び上げた。

 そのとき彼女の目の端にほんのりと朱が差したのを、わたしは見逃さなかった。

「やっぱり勘違いしているようですね」

 急須にポットから直接、熱い湯を注ぐ。

「体に縄をかけるということは、ときに大事故に繋がります」

 わたしは彼女の目を見つめながら、彼女の手にしている湯呑みに、茶を注いだ。

 一瞬の驚きの表情のあと、彼女は苦悶の表情を浮かべて、うめき声をあげた。

「あっ、熱いっ、お願い。お願いです。ほどいて……っ」

「どうして? あなた、わたしに縛って欲しかったのでしょう?」

 彼女は顔を赤くして、目尻に涙を溜めて、上目遣いにわたしを見ていた。

「……わたしがどういう人間かわからないのに、軽々しく縛って欲しいなど、よく言えたものだわ。あなたにしてもそうなの。わたしはあなたのことを何も知らないの。知らない人間に対してなら、大概の人は無関心になれるの。残酷になれるの。ねえ、わたしが女だからひどいことをしないとでも思った? 男と違って犯される心配はないと思った?」

 違います、と彼女が小さな声で叫んだ。

 わたしは小さくため息をつき、結び目をほどいて彼女を解放した。湯呑みを取り去ると彼女の手のひらは赤く染まっていた。体がふるふると小刻みに震えていた。

「……申し訳ありませんでした」

 わたしは畳に手をついて、頭を下げた。

「でもこれでわかったでしょう。そこに悪意が介在するのなら、この程度の怪我では済まないのです。相互に心を通わせていなければ、どんな些細なことだって事故に繋がるのです。わたしは初めてお会いした人を縛ることはありません。お引き取りください」

 彼女は黙っていた。わたしが頭を上げると両手を握りしめたまま、彼女はわたしをじっと見ていた。

「それでも」

 悲しい声で、彼女は言った。

「わたしはあなたがいいのです」


 夜々子さんから電話がかかってきたのは、その日の夜半のことだった。既に雪は降り止んでいて、雲の切れ間から白々とした月の光が白銀の庭を照らしている。

「あなた、まだセーラー服を着ているの?」

 開口一番それか。わたしは夜々子さんに聞こえるようにため息をつき、言った。

「いけませんか」

「別に」

 くすくすと、まるで鈴の音のように。笑い声がわたしの耳をくすぐる。

「わたしをからかうために電話をしてきたのではないのでしょう? 昼間の彼女のことですか」

「そうね。それもあるけれど……久しぶりに一花の声が聞きたいなって、思ったの」

「ならもう満足でしょう」

「相変わらずつれないのね」

 そう言って、夜々子さんは再び小さく笑った。癇に障る笑い声だった。

「あなた、あの子を追い返したそうね」

「ええ。それが?」

「わたしの患者をもっと大事に扱ってほしいわ。患者同士、仲良くしてくれないと」

「わたしはあなたの患者じゃないわ」

 わたしは語気を強めて言った。

「用はそれだけ? だったら」

「あの子」

 夜々子さんがわたしの言葉を遮る。

「かすみちゃんと一緒の病気よ」

 気がつくと奥歯を強く噛みしめていた。

 ぎりぎりと、砂を噛んだときのように、軋んだ音が頭の中いっぱいに広がっていく。やっぱり。そうだったのか。だから。

「だから……わたしのところに寄越したのね。彼女に見せたビデオもかすみのものなのね」

「そうよ? 当たり前じゃない」

 夜々子さんの呆れたような薄笑いが、目に浮かぶようだった。


 お願い、もっと強く。

 かすみの声が今も耳に残っている。

 もっと……きつく縛って。

 わたしは小さく、駄目、と言った。

「これ以上体に負荷をかけたら神経を損傷してしまうわ」

 わたしは彼女の結び目に指を這わせた。縄はかすみの体のラインを正確にトレースしていた。

「最近、少し変よ。……わたしは苦しみだけを強いる方法や、過度の痛みを与えるやり方はしないわ。かすみだって知っているでしょう」

 かすみは唇を噛み締めて、わたしを見上げていた。

「でも」

「……でも?」

「安心できないの」

 涙が頬を伝って流れていく。かすみは後手に縛られていて、それを拭うことができない。わたしは濡れた頬に唇を寄せて、甘い涙を舌先で掬った。

「もっと……刺激が欲しい?」

 かすみは首を横に振った。

「怖いの。縛られていないとバラバラにほどけてしまいそうで」

 わたしは彼女の制服から、スカーフを引き抜いた。深紅のスカーフは織り上げられた運命の赤い糸だった。

 わたしはそれを自分の手首に巻いた。

「大丈夫よ。わたしとかすみはちゃんと繋がっているわ」

 ……かすみの不安が増加し、悪化していくのを、けれどもわたしは止められなかった。いつも何かに縛られていないと落ち着かなくて、いくら諌めても、咎めても、自分で自分を縛る行為をやめさせられなかった。かすみは十七で、まだ高校生だった。

 わたしはかすみを夜々子さんの元に連れて行った。夜々子さんはかすみを強迫性障害の一種である緊縛依存と診断した。精神の病なのだと。そして……かすみの親がわたしと彼女を引き離した。

 かすみが夜々子さんの病院に入院したことは夜々子さんから聞いて知っていたが、わたしにはどうすることもできなかった。精神科の病院の面会は、基本的に家族しか入れない。恋人であっても……いや、同性の歳の離れた如何わしい恋人であったからこそ、わたしはかすみと離された。姿を一目見ることすら叶わなかった。かすみの両親が娘の病気はお前のせいだ、と言った。そうなのかもしれないと思った。わたしは病院に足を向けることができなかった。

 かすみはよく泣いていたという。

 かすみがだからどうやって病院を抜け出たのか、わたしは知らない。彼女はわたしの留守中に、この庭の桜の老木で、自ら首を吊って死んでしまった。いつも縛ってあげるときにも着ていた学校の制服姿のままで。発見したのはもちろんわたしだった。春だった。桜が満開だった。かすみは花の雨に打たれ、ぴくりとも動かずにぶら下がっていた。

 もしもわたしが留守にしていなかったら。あるいはかすみは死ななかったのかもしれない。ううん、それ以前に彼女と離ればなれにならなければ。それともそう考えることがエゴなのだろうか。たとえ引き離されても、病院に会いに行っていたら。嘘だ。彼女の病気が自分のせいじゃないかと怖がっていたくせに。彼女を最終的に手放したのは自分自身なのに。

 思考がわたしを縛る。どうしてかすみは死ななければならなかったのだろう。どうしてわたしの家の庭で自殺したのだろう。それも制服姿で。縄を使って。……わからなかった。わたしにはわたしのことも、彼女のことも、なにもわからなかった。わかりたくなかった。

 極度の不眠症になったわたしは夜々子さんからこっそりと眠剤をもらっていた。そしてわたしはわたしを縛ることにした。わたしはかすみが着ていたセーラー服を、あれ以来ずっと着続けている。忘れないように。全部。体が覚えているように。セーラー服を着ているときにだけ、わたしは罪悪感で泣くことができた。泣き疲れて少しだけ眠ることができた。

 ……夜々子さんは電話を切る間際に、ホテルの名前を言った。そこにあの子が泊まっているから、と。

「ほどいてあげて」

「彼女を、でしょうか」

 縛って欲しい彼女をほどくというのは……どういう意味だろう。訝しげに訊ねたわたしに、夜々子さんはため息のような声で言った。

「あなたにも言ったのよ」


 二度目に彼女に会ったとき、彼女の左腕の肘の辺りから指先にかけて、細い紐が蛇のように巻き付いていた。見るとすべての指が鬱血し、むくんでいた。

「どうしてこんなことをするのっ」

 結び目はめちゃくちゃな固結びで、ゆるめることすらできなかった。わたしは鋏で彼女の紐を切った。紐の痕は青黒い痣になっていた。

「いつから縛っていたの? しびれていない? 指先はちゃんと動く?」

「月庭さん」

 彼女は虚ろな目でわたしを見ていた。

「答えて。受け手は……縛られる側の人は、自分の体の異変を、その信号を、絶対に見逃してはいけないの。自分で自分を縛るときもそう。縄に酔って正常な判断ができなくなれば、障害が残ることだってある。最悪死んでしまうこともあるの。だから正直に答えて。指は動く?」

「……はい。少し、痺れていますけど」

 わたしは彼女の左手を両手で握りしめた。冷たい指先に息を吹きかけ、優しくマッサージした。すべての指に赤みが差してくるまで、わたしはずっとそうしていた。

「ごめんなさい。わたし」

 どうしていいのか。どうしたらよかったのか、わからなかったのだろう。縛られたい、自分を縛りたいという欲求だけで、正常な判断などできなかったのだろう。彼女は泣いていた。はらはらと涙をこぼしていた。かすみを思い出した。思い出さないわけにはいかなかった。あのとき助けてあげられなかったものが、形を変えて今、目の前に存在している。

「わたしにあなたを教えて」

 彼女の目を見つめてわたしは言った。

「あなたの好きなもの。嫌いなもの。あなたの癖。すべてをわたしに教えて。身長と体重、体のサイズ、抱えている疾患。されると嬉しいこと、嫌なこと。全部わたしに教えて」

 涙を指先で拭う。

「わたしがあなたを縛ってあげる。だからもう、自分自身を縛らないで」

 自分の指先に唇を寄せると、あの子と同じ、甘い涙の味がした。


 彼女の名前は伽倻子かやこと言った。わたしよりも二つ歳上の二十六歳で、左手薬指の指輪を見たときからわかっていたが、既婚者だった。子供はいなかった。できなかった、と言っていた。

「夫とはもうしばらく会っていません」

 伽倻子は裕福な家庭で何不自由なく育った。幼稚舎から短期大学まで同じ系列の、名門と呼ばれるカトリックの女子校に通った。伽倻子は出荷されるためだけにパッケージ化された、美しい花として育てられた。

「結婚は幾分政略的な意味合いのものでしたが、わたしは気にしませんでした。いつかそんな風に結婚させられることはわかっていましたから。誰かと自由に恋愛をするという発想が、元々わたしにはなかったのです」

 短大を出てすぐに伽倻子は結婚した。歳は離れていたが、夫との結婚生活は穏やかで、やはり何不自由なく、順風満帆であったという。ただ一点だけ、子供ができないことを除けば。

 一年目、二年目はそれでもよかった。けれど結婚生活が三年目になると周囲の雑音がうるさくなってくる。子供はまだかと言われるたびに、自分が不出来な人間なのではないかと思うようになった。夫は不妊治療に非協力的だった。自分の側には何の問題もないのだから、問題があるとしたらお前の方だろう、と。

「共通の知人から、夫が以前付き合っていた女性を妊娠させてしまったことがある……と聞きました。本当かどうか知りません。夫にも訊きませんでした。でも、だからあんなにもはっきりと、わたしの責任だと言ったのだと思います」

 伽倻子の症状が現れたのは、その頃からだった。気づくと輪ゴムやほつれた糸を指に巻きつけていた。自分が何かに縛られていると安心したし、そうでなければ不安で落ち着かなかった。巻きつけられるものならなんでもよかった。夫はそんな伽倻子を気味悪がって、家に寄り付かなくなった。夫婦仲は冷えていった。

「そのとき、わたしには自分というものがないのだと気付いたんです。自分自身を規定するものがない。何かに縛られていないと自分という存在が保てない気がして不安だったのです」

 やがて二人は別居するようになり、伽倻子は不妊治療をやめてしまった。自分がおかしいことは薄々気づいていた。父親の紹介で夜々子さんのところに通院するようになった。

 ある日、そこで不思議なビデオを見せられた。それはわたしがかすみを縛っているプライベートな映像だった。伽倻子はその行為を見て、羨ましいと思った。自分の求めていたものはこれだったのかもしれない。恍惚とした表情で喰い入るように、伽倻子は画面を見続けた。

「主治医の篠懸すずかけ先生がわたしにおっしゃったんです。この人ならあなたに適任かもしれないわね、と。それで……」

 わたしは縄のテンションを確かめながら、ゆっくりと彼女を縛っていった。体にどのくらいの負荷がかかっているのか、伽倻子が何を感じているのか、見極めながら。

 縄によってもたらされる脳内物質は多岐にわたる。拘束されるストレスから来るアドレナリン、麻薬に似たエンドルフィン、快楽によるドーパミン、触れ合うことの安心感の証であるオキシトシン……。それらをカクテルして受け手の人に最高の愉悦をもたらすのがわたしの仕事だ。そこに羞恥と苦痛のフレーバーを加えることもある。必要だと思えば、限度を超えない限りにおいて、わたしは躊躇しない。

 わたしは息をついた。制服がわたしの汗を吸って重くなっていた。これだけ本格的な縛りをしたのはかすみを失って以来のことだったから、わたしも慎重にならざるを得なかった。

 わたしは彼女を縛りながら、でも、本当はわかっていた。

 違う、と。彼女が本当に求めているのは、違うものなのだと。

 このままではきっと伽倻子はかすみと同じように、心の空隙を埋められず、徐々にわたしの、縄の刺激に対して物足りなさを覚えてしまうだろう。然りとてわたしは夜々子さんのような精神科医でもない一介の縄師だ。縛ること以外にいったい何ができるのだろう。

 伽倻子が大きく深呼吸をしたのを見て、わたしは気持ちを改め、意識を縄に集中させた。そして初めての縛りではここが限界だと判断した。

 ゆっくりと縄をといていく。縄を抜く方向にも十分に注意しつつ。伽倻子は放心したように一点を見つめていた。首筋にうっすらと汗をかいていた。すべての縄をとき終えると、わたしは伽倻子の体を毛布で包み、優しく背中をさすった。

「痛みや痺れはある? 体に違和感はない?」

「……大丈夫です」

「よかった。少し休みましょう。今お茶を淹れるわ」

 伽倻子は小さく頷いた。そして、何気なく、本当に何気なく、左手の、薬指の指輪を見ていた。


「手を出して」


 わたしは言った。冷たくもなく、激しくもない口調で。

 伽倻子はわたしの言葉を聞いて、不思議そうにわたしを見上げた。

「約束したでしょう。あなたを縛るのはわたしの役目なの。だから」

 わたしは彼女の左手を取ると、薬指から指輪を抜き取った。

「あなたを今まで縛っていたものは、今も縛っているものは、全部わたしが取り去ってあげるわ」


 伽倻子がわたしの家に住むようになって、二ヶ月が経った。四月の声を聞くようになり、庭の桜の老木も、蕾がほころび始めている。

 朝。雨戸を開けていると鳥の声が聞こえた。

「不思議な声」

 伽倻子がわたしの隣に立って、耳を澄ましている。

「石を打ち合わせているような……。あれはなんという鳥なのかしら」

「ショウビタキよ。火打石の音に似ているでしょう。だから火焼ヒタキというの」

 わたしは反対側の手で、伽倻子の髪にそっと触れた。正式に離婚した彼女はこの頃どこか晴れ晴れとした表情を浮かべている。けれど。

「渡り鳥だからもうすぐ帰って行くわ」

 わたしがそう呟くと、どこに、と伽倻子は不安そうに訊ねた。どこかへよ、とわたしは答えた。伽倻子の体の動きに合わせて、わたしの左手が揺れた。

 今、わたしの左手は、伽倻子の右手と繋がれている。赤い紐で縛り合わされている。

 握り合わせた手に、絡めあう指に、わたしは伽倻子を感じていた。伽倻子もきっと、わたしを感じているはずだ。

「今年ももうすぐ桜が咲くわ。伽倻子はこれからどうしたいの」

 わたしは訊ねた。

「ここに居たい。そう言ったら……いつまでも居させてもらえるの?」

「あなたの自由にしたらいいわ。わたしたちを結んでいる紐をといてもいいし、縛られ続けてもいい。あなたが決めるの」

 伽倻子は黙って庭の桜を見続けていた。ショウビタキはどこかでずっと鳴き続けていた。

 わたしは伽倻子と住むようになって、彼女たちの病の本質が少しだけわかった気がした。その根底にあるのは、自分を取り巻く何がしかから自由になりたいという切なる思いだった。けれどもその思いと相反する、束縛から解放されてしまうことへの不安と恐怖も心の中にはくっきりとした冷たい光で存在していた。アンビバレンスな不安定な気持ちを抱え、心が少しずつ壊れていく。それがいつしか物質的に体を縛り付ける行為へと転化していく。

 だから。

 わたしにできることは、

「一花さんはそれでいいの? わたしたちに縛られたままで、本当にいいの?」

「……え?」

 わたしはわたしの思考を遮った伽倻子の言葉が理解できず、ただ、伽倻子を見つめ返していた。わたしたち。……わたしたち?

「一花さんがいつまでもこの場所に縛られたままでいるのなら、わたしが居てあげます。わたしも一緒に縛られています。ずっと、一緒に」

 伽倻子が朝の光に、眩しそうに目を細めた。

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