江戸の柔術と明治の柔術と試合 日本の柔術と海外のジュウジュツ③
○明治維新後のやわら
明治維新で武士の世が終ったあと、前回で少し書いたように、地方では柔術は盛んになっています。
帯刀が無くなった影響なのか、四民平等になった影響なのか、明治維新後に修行者が増加した柔術流派の記録は多く残っています。全国を回る武者修行も増加、他流試合も増えていったそうです。(ただし嘉納治五郎の伝記にあるように東京では一時下火になっていたようです)
この状況下で登場するのが嘉納治五郎の講道館柔道です。立技中心の乱取を発展させ、他流から「講道館の足」と言われるほど足技に優れていました。(つまり、それまで足払いはそれほど発展していなかったでしょう。)
明治後半から講道館は海軍や教育機関を通し、さらに地方へ講道館で修行した人が布教していきます。この頃、地方の諸流派と試合を行った話が地方流派側にも講道館側にも残っています。埼玉県のある流派は講道館からは
「力ずくで絞めたり逆を取るだけで大したことは無い」
と評されていますが、地方流儀側の記録を見ると地元流派と講道館が一緒に柔道大会をおこなっていたりします。敵対的に勝負して講道館が圧倒した、という雰囲気ではありません。
明治頃、地方流派ではヤワラ、柔術、拳法などとならんで既に柔道という語も使われていました。これは私の印象ですけど、一般的にはヤワラという発音が広く使われていた印象があります。
私の友人の大叔父が何らかの柔術流派をやっていたそうですが、「(柔道ではない)ヤワラをやっていた」と友人の祖父母は言っていたそうです。
(山田實「YAWARA 知られざる古流柔術の世界」にもこの頃の話がいくつか乗っています)
そうして講道館が広まり、地方流派出身の若者などが講道館へ留学のように入門、そうして修行した人がさらに地方へ広める事で全国的に広まっていきます。さらに明治後期に武徳会が成立、数十年剣術に遅れましたが、柔術の試合方法も全国的に標準化されていきます。
〇講道館(武徳会)式の乱取
日本国内では大正・昭和頃には流派は違っていても乱取・試合は講道館(武徳会)式の流派が増えます。前回書いたように、幕末頃には地方によっては試合稽古や他流試合が盛んだった様子が伺えますが、試合方式については地域によってどれくらい違っていたのか、類似しいたのか、どのようなルールだったのか、詳しい事はほとんど何もわかっていません。ともかく、なんとなく他流試合が広まってきた日本に、統一ルール的な講道館(武徳会)形式が広まります。
先に言及したように講道館や武徳会が出来て以降、地方道場の跡取りや若手の弟子を武徳会に修行に出したり、講道館に入門させて修行させる例が増えます。これは講道館柔道あるいは武徳会の段や称号に社会的信頼があり、武道教師等になれた事が後押ししたと思われます。江戸時代ならともかく、大正昭和の頃には流派の免許皆伝だったとしても食い扶持には繋がらなくなっていました。(剣道の免状の話で書きましたが、柔術も全く同じです)
当然、講道館(武徳会)式の稽古を中心にして、伝来の技や流派の形の稽古は減っていったり、中止されたりしました。
〇講道館(武徳会)と合流した流派
このようにして多くの流派が講道館や武徳会と合流していきました。有名なところでは不遷流、扱心流、起倒流など試合をおこなっていたと思われる流派です。この他全国各地の有名、無名の流派の道場が合流していきます。
そして、これら講道館や武徳会と合流した流派の伝承者の多くが流派を残す事が出来ませんでした。柔道場や柔道一家として残った家系もあります。地方の剣術道場が全剣連剣道となった過程とそっくりです。流派を残すより、生活する方が重要なので、代々の柔道家として残ったのはある意味成功例だと思われます。ただし、中には流派を残した例もあります。
天神真楊流や関口新心流です。ただし、天神真楊流に関しては、明治大正頃には無数にいた師範のうち、二系統しか現在表立って活動されていません。(個人的に家庭で伝承されている方々はいらっしゃるそうです)
また、現在古武道と残る柔術流派の中には、近代には講道館(武徳会)と関係していた経歴があるにも関わらず、そこから離れた流派もあります。
前回説明した通り、柔道の乱取の技術、剣術の試合の技術は流派の技術とは目的も手段も違っているため、両方同時に修行するのは効率的ではないのでしょう。剣術の話になりますが、二天一流の一派の宗家(剣道家)が、
「二天一流の稽古は剣道を強くするためには無駄」
と言い切っている例もあります。
また、幕末に江戸から天神真楊流が入ってきたある地方にあったある柔術では、天神真楊流を取り入れて試合を行うようになった道場は皆体格が優れて力が強く、伝統的な稽古のみの道場は忍者のような軽業で有名だったという記録があります。(同じ流派です)
乱取試合の有無は流派の特徴にも影響を与えたようです。そういった理由から講道館柔道の稽古を辞めた会派や稽古時間や門人を柔道と流派で分けた道場などもあるようです。
現在に命脈をつないだ流派の中には、伝承者である父親が講道館柔道の修行しかさせなかったので、流儀の技を教えろと父親に無理やり頼み込み、教える気の無かった父親から習った例などもあるそうです。
〇講道館(武徳会)とは別のヤワラ
柔術の場合、剣道に比べて共通化が遅れたからか、第二次大戦後でもかなりの数の流派と道場が残っていたようです。例えば京阪神でも武徳会や講道館柔道と関係せずに残っていた例が複数あります。
現在でも世界的に稽古され高木流柔術(有名な会派では武神館武術にも含まれています)、空真流空手に含まれている今真流捕手(これも何派かあるそうです)、広島から大阪に伝わった渋川流柔術、佐賀から伝わった夢想柳流、尼崎藩伝来の竹内判官流、ほかに神妙流捕手などいくつかの柔術が昭和以降、戦後まで多くの人に学ばれ現在でも伝承されています。
また、旧南部藩、旧仙台藩の柔術は第二次大戦後になっても各地で稽古されていたようです。故島津兼治師範(柳生心眼流)を筆頭に、何人もの先生方が宮城県近辺の武術について書かれていますが、旧仙台藩の一部では明治維新以降、一つの集落に一流派(もしくはそれ以上)の流派が存在したようです。
現在表だって活動されている柔術流派は柳生心眼流数派、天神明進流、仙台藩浅山一伝流、西法院武安流などですが、他にも何流派か残っているのだとか。
また岡山の山間部では記録で確認できる最古の柔術流派とも言われる竹内流の宗家および相伝家が戦国時代から現在まで存在しています。竹内流も講道館や武徳会と合流せず、地方の流派として現在まで残っています。岡山あたりにはこの他にも平成頃まで様々な柔術流派が残っていたようです。昭和の万博で演武をしたり、古武道演武会で演武をした流派などもありました。しかし現在では竹内流と一佐流、不遷流のみが活動されているようです。
これらの流派はそれぞれが独特で、講道館柔道とは似ていません。また、明治末期以降広まる合気柔術とも違う江戸期の柔術の技法を残しています。
〇近代柔術と沖縄空手
やや時代が戻りますが、講道館や武徳会の流れとは別に明治末に活動を始めた武田惣角が広めた大東流合気柔術があります。明治末以降、合気系柔術に代表される旧幕藩時代の流派とはかなり趣の違う近代柔術が広まりはじめます。
明治維新以前に成立した流派は、帯刀や武器使用を前提とする武士文化を背景としています。多くの流派が自分も敵も帯刀を前提としており、抜刀させない、武器を使わせない、敵の武器を利用する、等々の技法が大きな部分を占めます。
それに対して大東流やその影響を受けた流派、また近代以降に成立した流派はそういった要素を取り除いて近代社会に対応した技となっています。仮にここではこれらの流派を近代柔術とします。十剣大神流、中澤流護身術、八光流、兼相流柔術、合気道などが相当すると思います。鹿島神流の柔術、日本少林寺拳法や上野貴師範の神道天心流(天心古流)、高木流の皆木三郎先生が名乗った本体楊心流なども近代柔術といえると思います。
これらの流派は素手対素手の技術を中心として、敵の想定も素手や短刀などが中心になっています。また、手首や臂の関節技が江戸時代の流派と比較して発展している傾向があります。当然ですが帯刀条件の技は無いか非常に少なく、敵を取り押さえる捕手技法もあまり無い傾向にあります。
また、大正以降に沖縄県人による空手が本土に広まります。一般的に柔術では当身技はそれほど研究されていなかったため、多くの柔術師範たちが空手に注目しました。また、空手家も柔道だけでなく柔術と交流する事も多かったようです。この交流によって柔術師範など本土の柔術を身に付けた人による空手流派が登場します。
有名なところでは和道流の大塚師範(茨城の神道楊心流出身)、神道自然流の小西師範(香川の竹内流、無双流、柴真楊流など)などで、他にも空真流の上村師範(赤穂の今真流捕手出身)や清水万象師範(富山の四心多久間流出身)などもそうです。
〇昭和初期の本土の体術
以上のような経緯があり、第二次大戦前の日本には以下のような体術(素手の武術)が稽古されていました。、
①室町時代発祥の古い流派
②江戸時代の武家文化を背景としたさまざまな特徴の流派
③江戸期の流派と乱取から生まれた講道館(武徳会)柔道
④幕末から明治大正にかけて成立した近代柔術
⑤沖縄空手
⑥柔術家が空手を学んで創始した空手流派
①~④は全て『柔術』『やわら』と呼ばれていましたが、実際のところ成立時期や技術はかなりの多様性がありました。
また、さらに拳闘やレスリングなどの影響もあったと思われます。
この他に明治維新後に宮城県付近で柳生心眼流を広めた星貞吉の柳生心眼流なども独自枠に出来そうですが、知識が足りないので割愛します。幕末から近代にかけての旧仙台藩の武術は狭い範囲でいくつもの流派が学ばれていたり、非常に隆盛しているため複雑怪奇です。ここでは維新後に武術が隆盛した典型例という事にしておきます。
古武道徒然 @kyknnm
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