沼葬
スヴェータ
沼葬
これが湖だったなら良かったのだけれど、残念ながら眼前に広がるのは沼だった。あまり良いとは言えないにおいに、あまり綺麗とは言えない色。新居への不満はここだけだけれど、なかなか致命的なものに思えた。
夫はこの沼を「幻想的だ」と言い、結構気に入っているようだった。その横顔がとても素敵で、文句を言うのも忘れて「そうね」なんて返した。
今日から私たちはここで暮らす。ずっと。死ぬまで。荷物はお互い鞄が1つきり。少しの服と、少しの本と、少しのパンと、少しのジャム。夫の荷物を覗き見たら、同じアプリコットのジャムを持って来ていた。ああ、これから私たち、アプリコットばかり食べるのね。うんざりしつつも、何だか嬉しかった。
沼を囲む木々がさわさわと揺れる。空は夕焼けに赤く染まっていて、何だか既にこの世ではないような気がした。いえ、もしかしたらもう狭間にいるのかもしれない。私は木窓を閉じると、夫がくつろぐリビングへと向かった。
家具は何もなく、床でさえ木がむき出しだった。夫は構わずうつ伏せに寝そべっていて、頭だけを起こして本を読んでいた。字を読むには暗かろうに灯りをつけないままなのは、元いた家でついてしまった癖だろう。
私はごく自然に、ひと言も断ることなく、夫の背中に頭を置いて仰向けに寝そべった。目を閉じたり、開けたり。ゆっくり、ゆっくり。外の赤が瞼裏に映るのを、ただ楽しんだ。
このまま私たちはTの字で死んでしまうのではなかろうか。そしてこの形のまま骨と化してしまうのでは。それなら何て素敵なことだろう。こうして夕日に溶け込むように死ねるなら、どんなに良いだろう。
いつしか日は落ち、私たちは眠った。そして日が昇ると目覚め、アプリコットジャムを塗ったパンを焼かないまま食べた。時には沼の周りを散歩して、どうにかして真ん中に行けたらいいわねなんて語り合った。
パンがなくなるとジャムだけ舐めた。もうアプリコットのジャムには飽き飽きしていたけれど、空腹なままではいられなかったから構わず口にした。夫は私よりずっと空腹に耐えられなかったから、私の分も分け与えた。
そんなに月日が経たないうちに、私がここに住む理由はなくなった。それで、まだ僅かに体力のあった私は、夫の鞄を開けてみることにした。隠し方が分からなくて持って来た誓約書、督促状、和解書……。もう全てがただの紙切れになったのだ。清々しくて、久し振りに笑みがこぼれた。
力のない私は夫を引きずるしかなかった。それだってとても苦労した。ようやく沼まで辿り着くと、汚れた水をかき分けながら真ん中を目指した。白いワンピースはすっかり汚れ、夫の顔はもう元の肌の色が見えなくなっていた。
とうに足は付かなくなっていて、泳ぐにも限界がきた。真ん中よりは少し手前だったが、「ここで良い」と思えるところまで来ていた。私は夫をそっと浮かせて、うつ伏せに返した。
私はここに着いたあの日のように、夫の背中に頭を預けた。そうしてまた、真っ赤な空が瞼の裏に映るのを、何度も何度も楽しんだ。そう、良いの。これで良いのよ。
夕日が私たちを溶かし込む。 ああ、何と美しいことだろう。この美を作り出したのは間違いなく私たち夫婦であり、私たちは芸術そのものとなった。もしかしたら夫にはこの景色が見えていたから、「幻想的だ」なんて言ったのかもしれない。
瞼の裏からどんどん赤が消えて行く。狭間の時間が、そろそろ終わる。
沼葬 スヴェータ @sveta_ss
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