愛の後悔

スヴェータ

愛の後悔

 花言葉はよく分からないが、こだわりたいと思った。花束を贈る時、きっと僕は大したことを話せないから。


 今日、恋人と別れる。長く付き合ってきたけれど、彼女は約束を破ってしまった。そして僕たちは「約束を破ったら別れる」と、さらに約束を交わしていたのだ。


 約束を破ったことは許せないし、許すつもりはない。ただ不思議なもので、別れたいとは微塵も思わなかった。だからこそ「約束を破ったら別れる」という約束が必要だったのだろう。


 思えば僕のこういう性格を知っていたから彼女は約束に約束を重ねようなどと提案したのかもしれない。あの時は冗談だと思っていて、しかもそれが面白いと思っていて。だからこそ笑いながら受け入れた。


 雨の石畳は危なっかしく、僕は何度も転びかけた。傘を閉じて花屋の白い木戸を開けるとふわふわのマットがあり、僕はそこで靴裏の雨を入念に拭った。


 緑の七分袖にクリーム色のエプロンを掛けた店員が穏やかに僕を迎える。ああ、花屋に来たのは初めてだけれど、僕が想像していた通りの「花屋の店員」だ。


 木の床をポクポク音を立てながら歩く。安い靴の癖に随分高級な音が出るものだ。それが何だか面白くて、花を眺めつつ無駄に行ったり来たりした。


「何かお探しですか?」


 店員が少し距離を取って、覗き込むように尋ねた。僕はこんなにすぐに話しかけられるとは思わなかったので少し動揺しつつも笑顔で返した。


「はい。紫のクロッカス、ありますか?」


「クロッカスでしたらこちらに」


 店員の案内で目当ての花を見る。思っていたより小さくて、凛としていて、彼女にぴったりだと思った。


「この紫のものを花束にしていただけますか?」


「花束にですか?」


「はい。少しでいいんです。難しいですか?」


「いえ、大丈夫ですよ。他のお花はいかがですか?」


「いえ。これだけで」


「かしこまりました」


 きっと店員は紫のクロッカスの花言葉を知っている。もしかしたら由来と言われるいくつもの物語だって知っているかもしれない。それでも何も言わずに花束を作ってくれて、僕にはそれがとてもありがたかった。


 こぢんまりとしたかわいらしい花束ができあがると、店員は来た時と同じ穏やかな笑顔をたたえて手渡してくれた。


「春らしくて素敵ですよね。花言葉、ご存知ですか?」


 僕は一瞬ドキッとしたけれど、素知らぬ顔を取り繕うことができた。


「いえ、花のことはよく分からなくて。何というんですか?」


「たくさんありますが、私が1番好きなのは『青春の喜び』です。春の始まりの楽しい感じが素敵だなって」


「ああ、それはとても素敵ですね。良いことを知りました」


 思いがけず良い花言葉を知った僕は、少し心を軽くして店を出た。そうか、そんな意味もあったのか。僕の調べ方では、その意味は目に入らなかった。


 正直、しばらくは「青春の喜び」とは思えそうにない。やはり僕にとって紫のクロッカスは「愛の後悔」だ。あの時あんな約束をしていなければ、僕は今日、君と無関係の男にならずに済んだのに。


 しかし、1つの物事にはいくつもの意味があるらしい。それならいつか、僕にとっても「青春の喜び」と思える日が来るかもしれない。それは何だか寂しくもあるが、救われるようでもあった。


 もうすぐ教会が見える。僕は何のための花束かを言わなかったから、随分華やかになってしまった。でも、別れの前の最後の贈り物なのだから、どうか許してほしい。


 今日、恋人と別れる。愛の後悔の中に、約束通りに。

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