11
最後に見た兄の……光の顔が、どんな表情を浮かべていたのか。よく覚えていない。あるいはそこに表情と呼べるものは何もなかったのかもしれない。それはただ光によく似た仮面だったのかもしれない。
光の部屋の扉は内側から閉められてしまった。
それを開けることは誰にもできなかった。
わたしとほぼ同時に産まれ、共に育った双子の兄は、わたしに全部押し付けて……壊れてしまった。
わたしたちが神話の伊邪那岐でも伊邪那美でもなかったのだと思い知ったのは、罪が体に刻まれたそのあとのこと。永遠に岩戸が閉まってしまった、そのあとのことだ。あれから光がどうなったのか、わたしは知らない。わたしはあの女子高に入学してから今日に至るまで、一度も実家には足を踏み入れていない。十年が経ち、日本を離れてしまった今となっては、光が生きているのか、死んでいるのか、それすらわからない。
もう光の顔を思い出すこともなくなってしまった。
けれども十年前のあの日には、まだ光の……兄の呪縛はわたしをきつく縛り上げていた。わたしはそれに抗えなかった。もしもあのとき、あの夜。違った選択をしていたら。違った答えを返していたら……。わたしは今、ここにいなかったかもしれない。罪から一人で逃げて、彷徨うことはなかったかもしれない。
今でも時々アリシアのことを思い出す。
あの日の夜の、アリシアのことを。
わたしと兄とのあいだにあったすべての告白を聞き終えると、アリシアは震える手でわたしの口を塞ぎ、わたしを床に押し倒した。そしてDon`t talk anymore. Don`t speak any more.と泣きながら言った。
わたしはわたしの口を塞いでいるその手で、わたしを殺してくれればいいのに、と思った。わたしの首を絞めて、楽にしてくれたらいいのに、と。
アリシアの涙がわたしの顔に、まるで三月の雨みたいに降っていた。彼女の涙は冷たいのか温かいのかよくわからない、そんな雨に似ていた。
「あたしは、マイクが好き。あなたが好きです。あたしがあなたに生きる術を教えてあげます。言語を。言葉を。英語でも、フランス語でも、ドイツ語でも。どこに行っても暮らしていくことができるように。どこに行ってしまっても困らないように。だから……そんな顔をしないでください。そんな顔であたしを見ないで。……お願い。お願いだからっ」
わたしの口から両手を離し、アリシアは馬乗りになったまま、顔を覆って泣いていた。
「……あーちゃん」
わたしはそっと、アリシアの髪を撫でた。艶やかな明るいブラウンの、長い髪。ずっと羨ましいと思っていたアリシアの髪。わたしはその髪の先端を指に絡ませながら。
「I can`t love anyone any longer.Because I don`t feel shit」
と言った。大丈夫、それでもいい、とアリシアは言った。そして寂しそうに笑って、わたしに口づけした。アリシアの唇は涙の味がした。
アリシアが自分の夜着のボタンを一つずつ外していくのを、わたしはじっと見ていた。アリシアの震える手がわたしの服の裾に触れた。わたしは小さく頷いた。アリシアとわたしのあいだには、三月の雨が降り続いていた。
……アリシアの舌も指先も、随分ぎこちないものだったけれど。彼女がわたしの穢れを消し去ろうとしてくれているのがわかったから。わたしは彼女の拙さに身を委ねた。わたしはお風呂に入っていないことを気にしたのだが、アリシアは気にも留めなかった。
夏の夜は静かで、とても長かった。
それはわたしが経験したどんな夜よりも、わたしの記憶の根元に、やわらかな楔となって今も残り続けている。
朝の光が部屋を真珠色に染めていた。鳥の囀りが聞こえた。その日の最初の蝉がゆっくりと鳴き始めていた。わたしたちは夏の音を聞きながら、裸のまま、まどろんでいた。
「……ねえ、マイク」
アリシアが小さな声で呟いた。
「あのノートを、少しだけ貸してくれませんか?」
「ノート?」
わたしは体を起こして、アリシアを見つめた。
「マイクが仕事で使っているノート。桃さんって人から貰ったノートです。……あたしには触れさせてもくれなかったですけど」
「……どうするの?」
わたしは訝しく思いつつ、アルバイト用の手提げの中からあの少女の絵の描かれたノートを取り出し、アリシアに渡した。
アリシアはその表紙をじっと見つめていた。
「フランス語って、以外と難しいんです。ここに書かれているpêcheのeに付けられたスィルコンフレクスをアクサンテギュ二つに変えるとpéchéつまり原罪って意味になるんです。ただそのままだと文法がちょっと違ってしまうので……」
そう言うとおもむろに勉強机の上から油性のサインペンを取り、
「Qui sont les écrasa un péché?……誰が罪を砕いたのか、って意味になります」
元の女の子のセリフに×印をして、新しい文章をスラスラと書いてみせた。わたしはあっけにとられて、ただ黙ってアリシアのすることを見ていた。
アリシアはそっとわたしにノートを手渡し、微笑みながら言った。
「はい。マイクの罪は、わたしが砕きました。だから……生きていて。いつか。離れ離れになっても。あたしを覚えていて。あたしのことを忘れないで」
「忘れない。……忘れないよ、あーちゃん」
わたしはアリシアの頬を伝う涙を拭って、優しく彼女を抱きしめた。
「そんな恥ずかしいセリフ。忘れるわけがないじゃない」
「……うるさいです」
わたしは確かにあの瞬間、アリシアを愛おしく感じていた。
それでもわたしは思っていた。わたしは兄と同じなのだと。兄は引きこもり、わたしはわたしの体をわたしの中に閉じ込めた。自分の指以外受け入れない、濡れない体を見つめて思っていた。
もう、わたしは恋をすることなどないのだろう……と。
そして、
いつかわたしの罪がわたしを追ってくる。
その日が必ず、来るのだと。
Qui écraser la pêche? 〜誰が桃を潰したの? 月庭一花 @alice02AA
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