10
「蛍って、なんだか魂みたいじゃない?」
桃さんは立ち上がって、そっと指先を空に向けた。
「だからね、もしかしたら雪ちゃんの魂も……ここにいるんじゃないかなって、思ったの」
蛍が桃さんの周りを飛んでいる。それが本当に誰かの魂なら。ここにはいったい何人の死者が集まっているのだろう。この中に……あの子もいるのだろうか。
「別に怒っているわけではないの。ただ、悲しくて、怖かったの。あなたの……桜ちゃんの笑顔が怖かった」
わたしはぼんやりと桃さんを見上げていた。わたしが座っている石はしっとりとしていて、冷たかった。
「わたしね、もうすぐ星川の郷を辞める。結婚するの。融と。お腹に……融の赤ちゃんがいるのよ」
「おめでとうございます」
「……ありがとう」
さらさらと水が流れている。口を閉ざすと水音しか聞こえない。
「わたしね、幸せになるって、どういうことか……よくわからなかった。ううん、今でもわかってないのかもしれない。桜ちゃんにはわかる?」
「さあ」
「だよね。急にそんなこと言われても、困っちゃうよね」
桃さんがクスクス笑っている。何がおかしいのだろう。
「わたし、幸せになるのが怖かったのかもしれない。でも今は……うん、怖くないな」
わたし手を差し伸べながら、桃さんは優しく微笑んでいた。わたしはすがるように、彼女の手に自分の手を重ねた。
「わたしは幸せになる。みんなの……雪ちゃんの分まで」
引っ張られて、わたしも立ち上がる。
「……幸せになって。桜ちゃんも」
桃さんの頬を涙が伝って、落ちていった。顔をくしゃくしゃにして、嗚咽しながら、桃さんは泣いた。泣き続けていた。
「お願い。……お願いだから」
寮の玄関はすでに閉まっていた。わたしは舎監に怒られ、あとで反省文を書いて提出するように言われた。もちろん食堂も閉まっていたし、浴場も閉まっていた。
部屋の鍵を開ける。室内は暗い。アリシアはもう寝てしまっただろうか。
「……マイク?」
暗がりの中から声がした。アリシアが二段ベッドの上からゆっくりと降りてきた。
「遅かったんですね。お仕事……きゃっ」
わたしはアリシアに抱きついた。
「ちょっ、急に……マイク?」
アリシアがわたしを見上げている。わたしはぎゅっと唇を噛み締めていた。
「……泣いているのですか?」
嗚咽が止まらない。胸がヒリヒリする。わたしはしゃがみこんで、何度も何度も顔を拭った。
「ごめんなさい。約束……破って。あーちゃん、ごめんなさいっ」
「え、え? マイク?」
「ねえ、あーちゃん」
わたしはオロオロとしているアリシアを見上げながら、訊ねた。
「わたしは幸せになっちゃいけないのかな。わたし……生きてていいのかなぁ」
アリシアはWait a while! ちょと待ってて。と小さく叫ぶと、部屋着のまま外に飛び出していった。しばらくしてから戻ってきたアリシアの手には、コーラのペットボトルが2本、握り締められていた。
「の、飲みましょうっ。朝まで。こういうとき、そうするって昔ママが言ってましたっ」
「……お酒じゃないじゃん」
「あっ、当たり前でしょっ」
アリシアがキャップを開けて、コーラをわたしに差し出す。わたしは泣きながらコーラを飲んで、少しだけむせた。アリシアもいつもよりもぐびぐびと喉を鳴らして嚥下し、大きなおくびをした。
「下品」
「……うるさいです」
電気をつけていない部屋の中で。わたしは今日の出来事をポツポツとアリシアに話し始めた。途中でつっかえ、話の筋を見失いながら、それでも喋り続けた。アリシアは黙ってわたしの話を聞いていた。施設に入所していた雪ちゃんが亡くなったこと。沢で蛍を見たこと。桃さんを泣かせてしまったこと。……それから。
「……桃さん、妊娠してるって。もう、施設を辞めるって」
わたしはぐじぐじと鼻を啜りながら、話を続けた。
「それが悲しかったんですか?」
「違う」
わたしは言った。
「わたしが失くしてしまったものを持っている桃さんが、羨ましかった」
「え?」
「わたしは諦めたのに。それなのにっ。なんで、どうして? ……わたしだけっ」
告白が闇に響いた。
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