9
「そうですかそうですか。今日はアルバイトの日ですか」
アリシアが残念そうに呟いて、わたしを見た。いつものように彼女の傍らには、飲みかけのコーラのペットボトルが置かれている。アリシアはそれを指先でつついていた。なんだかちょっと、恨みがましい感じで。
「仕方がないでしょ。わたしだって生活がかかっているんだから」
「……You were playing,weren`t you?」
「なっ、馬鹿じゃないのっ?」
思わせぶりに唇に触れるアリシアに、わたしは耳まで真っ赤になりながら、床に置いてあった帆布の手提げを手に取った。
「じゃあ、行ってきます」
玄関から振り返ると、アリシアは頬を膨らませていた。熱も下がり、帰省も終え、せっかく部活が休みなのだからどこかに遊びに行こう、という誘いを、わたしは無下に断ったのである。
わたしは小さくため息をついて、履きかけていた靴を脱ぎ、部屋の中に戻った。
アリシアは床で膝を抱えて座ったまま、わたしを上目遣いに見ていた。彼女が手にしたコーラのペットボトルが、やけに大きく見えた。
「あーちゃん」
「……なんですか」
わたしは膝をついて、アリシアの頭を自分の胸に、そっと引き寄せた。
「機嫌直して。なるべく早く帰ってくるから。ね?」
「……うん」
アリシアの頭皮からはお菓子のような匂いがした。わたしは甘い密に吸い寄せられる虫のように、彼女の頭頂部に鼻を埋めた。
冷房の効いたバスから降りると、夏の陽射しが燦々と降り注いでいて、目が眩むようだった。アスファルトの焼ける匂いがした。土手の向こうの川の水が、きらきらと光っている。
更衣室で着替え、棟に入ると、なぜか皆沈痛な面持ちで、肌がヒリヒリとするような空気が流れていた。
いったい何があったのだろう。わたしは近くにいた看護師の薫さんに、どうかしたんですか、と訊ねた。
「うん、ちょっと」
視線を逸らして言葉を濁されてしまう。ちょっと。そう言われても。わたしは仕方なく自分の仕事をするためにリネン庫に向かった。
中には桃さんがいた。
入り口に背を向けていたけれど、彼女の肩が小さく震えているのをわたしは見逃さなかった。
「……桃さん?」
「桜ちゃん? ごめん、あの」
背を向けたまま、顔を拭っている。
「泣いている、んですか」
「……雪ちゃんが」
「え?」
「昨日の夜亡くなったの」
雪ちゃん。
レスピレーターに繋がれていた雪ちゃん。
気管を切開されていて、喋ることができなかった雪ちゃん。
自分の意思では指先すら動かせなかった雪ちゃん。
「まだ、3歳なのにね」
わたしはうまく呼吸ができなくて、手足が痺れていた。そうだった。思い出した。
人って、死ぬんだ。
わたしはいつものように、桃さんの横で衣類の整理を始めた。桃さんがちらりとわたしを見た。
そして、わたしの顔を見て、表情を凍りつかせていた。
桃さんはわたしにいったい、何を見たんだろう。
わからない。わからなかった。けれど、やがて桃さんも衣類の整理を始めた。
仕事が終わり、着替えて外に出ると、ちょうど真っ赤な夕日が沈もうとしているところだった。蝉が鳴いていた。草いきれがむっと立ち込める、真夏の夕暮れだった。
「……ちょっといいかな」
バス停に向かおうとするわたしに、桃さんが声をかけた。
「このあと少し……時間ある?」
振り返り、首をかしげる。ええと……。
「良かったら付き合って欲しいの」
ちらりとアリシアの顔が浮かんだ。少しむくれて、じっとわたしを見ていた。
「いいですけど」
桃さんはほんのわずかに表情を崩して、小さく笑って見せた。良かった、ちょっと待っててね。そう言ってスマホを取り出し、どこかに電話をかけている。桃さんはしばらく喋り続けていた。
「暑いから、コンビニ行かない? すぐに来てくれるって」
星川の郷のすぐ近くのニアマートに向かう。そういえばこのコンビニも天寿傘下の一つだったはずだ。他の街ではあまり見かけない。
わたしは桃さんの背中を見つめながら、いったいどこに電話をかけていて、誰が迎えに来るのだろう、と考えていた。
雑誌コーナーでペラペラと情報誌を眺めていると、桃さんが飲み物は何がいい、と訊ねた。
「コーラがいいです」
「桜ちゃんはいつもコーラね」
……そうだろうか。わたしにとっては、コーラといえばアリシアなんだけど。人によっては違うのだろうか。とは言ってもそもそも桃さんは、アリシアとは面識がないのだ。
桃さんは再び飲料水売り場に戻ると、コーラのペットボトルを籠の中に入れた。籠の中にはお菓子がいくつかと、ミルクティー、そしてスポーツドリンクが入っていた。
スポーツドリンク。
それはきっと、これから来る誰かのためのもの。そう思うと、心の中に何か嫌なモヤモヤが広がっていく。それは腐敗した汚泥のように、ゆっくりと、そして確実にわたしを腐らせていった。
桃さんはわたしの視線には気づかずに、カバンからスマホを取り出して、耳に当てている。何か喋っている。
「もう着くって。お金払って来ちゃうね」
コンビニの駐車場にはSUVの白い車が止まっていた。わたしたちが出てくると、車から一人の男がおりてきた。
「紹介するね。こっちは
「ううん。大丈夫。仮眠はとったから」
「で、こちらが松木桜ちゃん」
「はじめまして」
わたしは小さく頭を下げた。
「どうも、宮部融です。よろしくね。じゃあ、行こうか」
融さんが運転席に、桃さんが助手席に乗り込んだ。わたしは少しためらってから後部座席に乗った。窓を小さく開けて、気づかれないようにため息をついた。
車は星川沿いの道を遡っていく。あたりはどんどん薄暗くなっていく。わたしはコーラのペットボトルを両手で持ちながら、アリシアのことを考えていた。桃さんに誘われてのこのことついてきたけれど、こんなことなら断って帰ればよかった。
桃さんは車内でずっと喋り続けていた。無理をしているのが丸わかりで、痛々しいくらいだった。融さんも何かを感じたのだろう、ときどきバックミラー越しにわたしを見た。わたしは何も言わなかった。桃さんに声をかけられてもあまり返事をしなかった。
車が山道にさしかかる。ずいぶん遠くまで来てしまった。街灯もまばらで、すでにここがどこなのか、わたしにはわからなくなっていた。いったいどこまでいくつもりなのだろう。段々心細くなってきた、そのときだった。
不意に林の中で車が止まった。外は真っ暗だった。
「融、悪いけど……わたしと桜ちゃんの二人で行ってきていいかな」
「え? なんで?」
「なんででも。留守番お願いね。行こう、桜ちゃん」
わたしは桃さんに手を引かれて砂利道を歩き出した。光源は桃さんが手にした懐中電灯の明かりだけだった。少し先の地面が丸く照らされている。ただそれだけだった。林の中の闇から、誰かがじっと見つめている気がした。わたしはその視線を確かに感じていた。怖かった。心臓がドキドキした。きっと手には汗をかいていたと思うけれど、それを気にする余裕もわたしにはなかった。
「ねえ、桃さん……どこに行くの?」
「いいところ。大丈夫。わたしが一緒にいるから」
どのくらい歩いただろう。小さく水の流れる音が聞こえていた。そして、
桃さんが懐中電灯の明かりを消した。
「きゃっ」
わたしは驚いて、桃さんの背中にしがみついた。
「大丈夫よ。だから、静かにしててね」
桃さんがわたしの手を引く。
わたしは思いの外強いその手に、戸惑いながら、それでも抗えなくて。ゆっくりと手を引かれて歩いた。一歩。……一歩。足先で地面を確かめるように。
不意に林が途切れた。
目の前に沢が広がっていた。満天の星空と、そして、小川の上には、
「……蛍」
無数の蛍が飛び交っていた。
「ごめんね。怖かった?」
桃さんが、優しい声で囁く。
「座ろうか」
沢辺の大きな石に並んで腰を掛ける。青白い光が明滅しながら、空に浮かんでいる。それが星なのか、蛍の火なのか、よくわからなくなってくる。それは幻想的で、どこかもの悲しい光景だった。
「今日ね、あなたの顔を見たとき、驚いたの」
桃さんは蛍の光を見つめていた。
「あなたがあんな顔をするなんて、思ってなかった。覚えてる? あなた」
桃さんが視線をわたしに向けた。
「笑ったのよ」
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