夜。すでに寮は消灯の時間を迎えていた。

 食堂に氷を取りに行くと窓辺に背の高い少女が一人、ぽつんと立っているのに気付いた。一瞬、幽霊かと思ってびっくりしたけれど、そうではなかった。クラスメイトの常世野とこよのさんだった。

 安堵はしたが、疑問は残った。

 彼女は常夜灯しか灯っていない食堂で一体何をしているのだろう。長い黒髪が窓の外の夜に溶けていくように見えて、幽霊じゃないとわかっていても不安な気持ちにさせられた。

「今晩は、常世野さん。どうしたの? 外、見ていたの?」

「ええと……ああ、松木さん?」

 彼女が暗がりの中から、じっと目を凝らしている。常夜灯の小さな明かりが反射して、常世野さんの黒目がちな瞳が、なんだかガラス玉のように不自然に光っていた。

「松木さんこそどないしたん? こないな時間に。何ぞ食堂に用でもあったん?」

「ルームメイトが熱を出しちゃって。それで氷を取りに来たの」

「夏風邪?」

「だと思う。この前から鼻声だったんだけど、とうとう、ね」

 あの、水族館での一件のせいだ。そのせいで彼女は帰省を逃してしまった。妹のロゼが一緒に帰れないなんて、と駄々をこねていたのを思い出す。

「風邪薬は持ってはるの?」

 常世野さんが首をかしげる。さらりと真っ黒な髪が揺れる。どこまでも美しい、絹のようなその髪が。美貌と高身長なのも相まって、なんだかモデルのようだった。

「大丈夫。部屋にあるわ」

「そう、なんかあったら言うてな」

「ありがとう」

 わたしは冷凍庫を開けて、洗面器の中に氷を移した。ザラザラという硬い音が、食堂の中に溶けていく。常世野さんはそんなわたしの様子をぼんやりと、黙って見ている。

「常世野さんは帰省、これから?」

 わたしが訊ねると彼女は少し考えるそぶりをしてから、

「うちには帰る家があらへんのやよ」

 と言った。本気か冗談かはわからなかった。

「じゃあ、わたしと一緒だね」

 思わずそう言ってしまってから、言わなきゃよかったと思った。常世野さんがわたしの後ろ……どこか遠い所を見つめながら、寂しそうに小さく笑っていた。

「……落語にな」

 彼女が不意に、ぽつりと言った。

「死神っていう噺があるんやけど。知ったはる?」

 わたしは常世野さんの言葉の意味がよくわからず、知らない、と答えた。

「圓朝さんいう、昔の偉い落語家さんがこさえたんやけど。元々はグリムの『死神の名付け親』の、翻案物らしくてな」

 常世野さんがじっと、わたしの目を見ている。

「いつか、わたしが名付け親になったげる」

 ガラス玉のような彼女の目が、深い闇を湛えていた。

 だから、かもしれない。

 結局彼女が薄暗い食堂で何をしていたのか、訊きそびれてしまった。


 部屋に戻ると二段ベッドの上段から、アリシアが小さく手を振って、マイクーと掠れた声を出した。

「なかなか戻ってこないから、寂しかったですよ」

「ごめん、ちょっとクラスメイトの子と話をしてて」

「マイクって友達、いたんですか」

 ふざけたことを言ってないで熱測ったの、と訊ねると、まだです、と。蚊の泣くような弱々しい声が返ってきた。

「熱が高いってわかると余計に具合が悪くなるですよ」

 わたしはやれやれと溜息をついて、ベッドのはしごに手をかけた。

 夏掛けをかけて、頭にタオルを乗せたアリシアの顔は、熱のせいか赤く染まっていた。

「あーちゃんタオルちょうだい。氷で冷やしてあげるから」

「はい、お願いします。ごほごほっ、いつもいつもすまないねぇ」

「それは言わない約束でしょ、って……どこで覚えてくるの、そういうの」

 はしごを下りて洗面器の中の氷水にタオルを浸し、ギュッと絞る。あまりの冷たさに、指先がじんと痛んだ。

「ねえ、あーちゃん。今日は下で寝てよ。はしご上り下りするの大変だから」

「Okay.仕方ありません。今、降りますね」

 ふらふらとアリシアが階段を下りてくる。途中で体を支えてあげると、手のひらにアリシアの体温が伝わってくる。まだまだ熱は高そうだった。

 わたしのベッドに寝かせ、タオルケットをかけてあげる。寒くないかと訊ねると、アリシアは小さく首を横に振った。汗で張り付いた前髪を指先で梳いて冷たいタオルをあてがう。アリシアは目を閉じて、気持ちいい、と言った。

「ロゼは今頃お家でしょうか」

「そうじゃないかな。この時間だし。もう、とっくに家にはついているでしょ」

「……あたしもパパとママに会いたかったです」

「熱が下がればアリシアも帰れるよ」

 わたしは言った。

 そしてアリシアの髪を撫でながら、思った。父と母のことを。それから……兄のことを。

「手を、……眠るまででいいので、握っていてくれませんか」

 アリシアが言うので、わたしはそっと、彼女の手を取った。アリシアの手は小さく、やわらかかった。爪の先まできちんと手入れがしてあった。

 帰りたい。

 そう思えたら、この気持ちは少し、和らぐのだろうか。

 アリシアの手を握りながら、そんな益体もないことをいつまでも考えていた。


 アリシアが実家に帰ってしまうと部屋は途端に静かになって、蝉の声ばかりが耳についた。朝から晩まで鳴き続ける蝉の声を聞いていると、どこにそんな生命力があるのかと不思議に思えてくる。

 そういえば、常世野さんはどうしたのだろう。あれ以来食堂でも顔を合わせないから、帰る家がないなんて言っていたけれど、そんな彼女もあるいは実家に帰ったのかもしれない。寮に居残っている生徒はすでに少数で、食堂の電気も半分に落とされている。

 一人で食べる食事は、味気ない。

 夕食を半分以上残して、わたしは部屋に戻った。

 わたしの成績で一人部屋の菊花に入れるとはとても思えないが、アリシアは一学年先輩なのだ。いつか、別れなければならない日が必ず訪れる。そのとき、わたしはどうしたらいいのだろう。一人で生きていきたい。ううん、生きなければならない。そう思ってこの高校に入学したはずなのに。それなのに。どうしてわたしは……こんなに弱いのだろう。

 わたしは自分の手のひらを見つめた。

 アリシアの手のぬくもりが、まだそこに残っているように思えた。

 一人で生きる。言葉はかっこいいし、現にそのために、わたしはアルバイトをしている。手に職をつけようとしている。

 でも、本当にそうなのだろうか。一人で生きていくことなんて、本当にできるものなのだろうか。

 いつの間にか握りしめていた手のひらに、爪が食い込んでいた。

 わたしは小さく息をついて、窓の外を見つめた。

 暗い木々のその影の向こうに、夏の夜空が広がっていた。

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