眼下の砂浜に波が寄せている。行きつ、戻りつしながら。砂を黒く濡らしている。わたしは窓辺に立ち、その様子を見ていた。海を見ていると、遠くに来たな、と思う。ずいぶん遠くに来てしまったんだな、と。

「ごめんなさい、お待たせしてしまって。……何を見ていたんですか?」

 わたしは振り返り、焦点の合わない目で、彼女を見つめた。トイレから出てきたアリシアがわたしに笑いかけるのを、じっと見ていた。

「……マイク?」

「海」

「Huh?」

「海をね、見ていたの」

 アリシアが不思議そうに首を傾げる。

 わたしたちは今日、水族館に来ていた。空の宮市の南端、海辺にある水族館に。水族館に行きたいと言ったのは、アリシアだった。せっかくの夏休みなんですから、と。

 大会も終わってしまって、今日はバスケ部の活動もお休みだ。夏休みだからだろうか。水族館には子供連れのお客で混み合っている。小さな子供が、きゃっきゃと笑いながら、暗い通路を駆けていく。

 子供、と思う。元気な、元気な子供たち。

 わたしのバイト先である星川の郷で生活する子供たちは、ほとんど寝たきりの生活を送っている。その中でも特に重症の雪ちゃんは……。

「マイク?」

 ううん、なんでもないの。そう返事をして、わたしたちはその場所を離れた。

 通路は薄い、青白い光に包まれている。左右に水槽が並び、その中に不思議な形をした色鮮やかな魚たちが泳いでいる。アリシアはチンアナゴの水槽の中を覗き込み、なんですか、これは……と目を丸くしていた。

 わたしはその反対側の水槽を泳ぐ、ミノカサゴを見ていた。刺々しい上に、紹介文を読むと毒まで持っているとのこと。誰も寄せ付けないその姿勢は、いっそ清々しいくらいだ。わたしも、できることならそんな人間になりたい。

「……Oh.マイクはそのお魚が好きなのですか。変わり者のマイクらしいです」

「そういうあーちゃんはチンアナゴが好き、と」

「へっ? え、いや、そんなわけでは」

 なぜか顔を赤らめながら、アリシアが否定する。わたしは慌てふためく姿が面白くて、ふふっと笑ってしまう。

「な、なんで笑うですかっ」

「別にー。ほら、そろそろイルカショーの時間じゃない?」

 わたしはムッとしているアリシアの手を取り、歩き出した。ツインテールに結った彼女の髪がふわりと尾を引いた。

 ショーの会場の座席は、すでにほとんど埋まっている。子供たちが早くも期待の眼差しでステージを見つめていた。

「あ、あそこ。マイク、あそこにしましょう」

「ちょ、最前列じゃない。絶対濡れるって。替えの服とかどうするの?」

「It must be no problem!」

「またそんなこと言って、わたし知らないからね」

 アリシアがいつも英語混じりで話すものだから、簡単なリスニングくらいなら自然となんとかなるようになっていた。

 わたしは子供のようにはしゃいでいるアリシアに手を引かれながら最前列の席に腰を下ろした。ご丁寧にこの席は濡れます、と書かれていて、やれやれ、と思う。

「マイク、見てください。イルカ、イルカが可愛いですよっ」

 目の前に分厚いアクリルの水槽のふちが見え、水中を悠々とイルカたちが泳ぎ回っている。天井に水面の光が映っている様はオーロラのようだ。

 このとき、もっと早く気づけばよかったのだ。隣に座っていた子供連れのお父さんが、いそいそとビニールシートを用意していた、その意味に。


「こんにちはーっ、……あれ? 元気がないぞ? こんにちはーっ」

 海賊風の格好をした調教師のお姉さんが元気に叫ぶと、最初はおずおずと、そして次は声の限りに、子供たちが挨拶を返す。その中にアリシアの大声が混ざっていたのは……うん、聞かなかったことにしよう。

「わたしはこの海賊船の乗組員、ジャックだ。今日はみんなに仲間を紹介しよう。ハナ、マイク、カモンっ」

 お姉さんがホイッスルを鳴らしながら片手を挙げると、二頭のイルカが水面に顔を出した。

「マイク、あのイルカもマイクっていう名前です。奇遇ですね」

「……あーちゃん、わたしの名前はマイクじゃない」

「あ、マイク見てくださいっ、マイクがジャンプしますよっ」

 わたしの抗議を無視して、アリシアが両手をブンブン振っている。バスケの試合ではあんなにカッコよかったのに。この落差はなんなのだろう。そう思ってため息をついた、そのときだった。

「それでは、おまえたちの大技を見せつけてやれっ」

 お姉さんが叫び、イルカが大きく跳ねた。

 黒く濡れた流線型の体が、白い水のしぶきが、空中で日の光を受けてきらきらと光る。わたしは一瞬、その姿に目を奪われた。とても美しい生き物の姿に、目が釘付けになった。

 そして、次の瞬間。

 バシャーン、という大きな音ともに、ものすごい量の海水が降りかかってきた。津波と見紛うほどに。

 わたしはおもわず目をつぶり、濡れネズミになっている自分を想像し、心の底からアリシアを呪った。

 でも。

 ……あれ? 濡れて、ない?

「ふぇー、マイクぅ……。びしょびしょになっちゃいました」

 情けない声に隣を見ると、アリシアのライトブラウンの髪が、ぺったりと顔に貼り付いていた。前髪からはまだぽたぽたと水滴が垂れている。白いワンピースも透けて、ピンク色の下着の色まで露わになっていた。

「な、なにしてのっ。だから濡れるって言ったじゃない」

「I got soaked up to the panty……」

 横を見るとさっきのお父さんが、目の前に大きくシートを掲げて水よけをしていた。ほんのわずかな差で、水はわたしを避けたらしい、と気づいた。

 これ以上……というかわたしまで濡れるのはごめんだ。

 わたしは周囲の目から隠すようにアリシアの肩を抱いて、そそくさとその場を後にした。

 売店で大ぶりのタオルを購入して、わたしたちは障害者用のトイレに連れ立って入った。早速ビニール袋を破り捨てて、アリシアの髪や服にタオルを押し当てる。アリシアの下着姿なんか見慣れたはずなのに。衣服の下に透けて見えるとドキドキするのは、なぜなのだろう。

「あーちゃん、あとは自分で拭ける?」

「やってくれると、嬉しいです」

「まったくもう、しょうがないんだから。はしゃぎすぎよ」

「マイク、その言い方ママそっくりです。ママみたい」

 わたしの手が、止まった。アリシアがきょとんとした表情で、わたしを見上げていた。

 ……ママ、と言われたことに、想像以上のショックを受けた。ママ。……ママ?

「マイク? どうしたんですか。顔色が真っ青です。具合、悪いんですか。ええと……その、お腹痛い、ですか?」

 心配そうに訊ねるアリシアに、けれどわたしは、なにも言えなかった。

 わたしは反射的に強くアリシアを抱きしめた。きゃっ、と言う小さな悲鳴が耳元で聞こえた。

 アリシアは押し黙るわたしの背中を優しく撫でながら、よくわからないけれど大丈夫、大丈夫ですからね、と。何度も何度も囁いた。

 彼女の体からは海水の……海の匂いがした。

「マイク、おまじないをしてあげます。ちょっと、屈んで下さい」

 わたしが震える手を引き剥がすようにして離すと、アリシアはわたしの目を覗き込んだ。視界がふるふると揺れていた。

「……あーちゃん、わたし」

 アリシアは小さく首を横に振り、まだ少し濡れている自分の前髪をかき分けて、そっと、わたしのおでこに口づけをした。

 驚いているわたしにアリシアは小さな声で、

「ママが教えてくれた、ナイショの……秘密のおまじない、です」

 少し恥ずかしそうに笑ってみせた。

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