6
夢を見ていた。
それはとても冷ややかで、硬い、氷のような夢だった。寝台に横たわるわたしの周りを白い人影が動き回っている。
わたしだけがスポットライトを浴びていて、周囲は薄暗い。白い人影は伸びたり縮んだりしながら何か奇妙な動作を繰り返していた。儀式のような、祈りのようなその様子が、わたしにはとても恐ろしいものに感じられた。煌々とした灯りの中で、無数の黒い蝶が舞っていた。心細かった。すると不安が結晶になったみたいに、涙がわたしの頬を伝って落ちた。
「大丈夫。大丈夫よ。全部夢だから。目が覚めたら、全部元どおりになるわ」
声がする。わたしの耳元で誰かが囁いている。そうか、夢なのか。そう思った瞬間、わたしの…………。
「……大丈夫? 気がついた?」
霞がかかったような気分のまま、そっと目を開けた。わたしの枕元には見慣れた制服姿の、見知らぬ少女が座っていた。ただ胸元についた臙脂の校章は、アリシアと同じものだから。彼女もあるいは二年生なのかもしれない。
わたしの不躾な視線を受けて、彼女が身じろぎした。腰掛けていた簡素な緑色の丸椅子が小さな音を立てた。
「ええと……どちら様ですか?」
問い質したわたしの声は乾いていた。硬く、強張っていた。
「あ、……ごめんなさい。わたし……
周りを見回すと、どうやらここは医務室か何かの一室らしい。もしかしたらわたしは貧血で倒れて運ばれたのだろうか。ただ、どうしてこの少女がわたしの枕元にいるのか。そこのところがよく理解できなかった。アリシアが席を外していることとこの人がいることの相関関係が、わたしにはわからなかった。
わたしはアリシアのクラスメイトを名乗る少女をじっと見つめた。モデルのような細身の体に、長く美しい黒髪が良く似合っていた。まるで精巧に作られた日本人形のようだ。こんな美人までもがアリシアの応援に来るのか、と思うと、なんだか少し複雑な気分になった。
「あなたもあーちゃんの応援に?」
「というか……
楓ちゃん? それはいったい誰のことだろう。わたしの訝しむ様子を見て、木隠さんは小さな、けれどもとてもやわらかな笑みを浮かべた。
「楓ちゃんはね、……わたしのルームメイトなの」
二年生の彼女のルームメイトなら、その楓ちゃんという人物もやっぱり二年生なのだろう。わたしにはアリシア以外に二年生の知り合いはいないから、その楓ちゃんという人のことも、当然知らなかった。
彼女がちらりと振り返り、視線をわたしのベッドの反対側に向けた。そこにはもう一台寝台があって、バスケ部のユニホーム姿の少女が横たわっていた。見た感じはアリシアよりも、さらに小さい。随分と小柄な女の子だった。
「彼女、試合前のパス練でボール取り損ねて……鼻血が、ね。一応脳震盪の恐れもあるからって……」
「
「……えっ。うそ、起きてたの? あ、楓ちゃん、まだ起き上がっちゃ……」
「うるさい」
鼻にティッシュを詰めたまま、女の子が、キッと木隠さんを睨んだ。その女の子——二年生の先輩なのだから、女の子というのも失礼かもしれないが——はガバッと起き上がると、憎々しげな声で、これも全部全部全部お姉ちゃんのせいだ、と何かの呪いのように呟きながら、木隠さんが止めるのも聞かずに医務室を出て行った。木隠さんもそのあとを慌てて追いかけて行ってしまったので、結局部屋はわたし以外、誰もいなくなった。
……いったい何だったのだろう。
わたしは再び横たわって白い天井を見上げた。そしてぼんやりと思った。これと同じような天井を、わたしはどこかで見たことがある、と。けれどもそれがどこだったのか、どうしても思い出せない。
思い出せないことに苛立ち、それを振り払うようにかぶりを振った。しかし頭がクラクラしただけだった。情けなくなっただけだった。さっきまで見ていた夢の残滓も、既にどこかへ消え去っていた。もう、あの蝶も見えない。
するとそのとき。
入り口の扉がゆっくりと開く音がした。わたしは木隠さんが戻ってきたのだろうかと思い、上半身を起こして扉を見つめた。
けれど、
「……マイク? よかった、気がついたのですね。本当によかった」
わたしをマイクと呼ぶ人間なんて、この世にただ一人しかいない。
「あーちゃん」
アリシアはベッドのそばに駆け寄ると、わたしをギュッと抱きしめた。アリシアの手は小さく震えていた。彼女の首筋からは、汗とデオドラント・スプレーの匂いがした。
「ごめんなさい。具合が悪いのに、せっかく来てくれたのに。マイクが応援してくれたのに。勝てなかった。勝てなかったです」
わたしの肩にアリシアの涙が染み込んでいく。熱い吐息がわたしの胸元を濡らしていく。謝らないでいいのに。謝る必要なんてないのに。わたしはけれども自分の気持ちを伝える術を知らなくて、ただ、彼女の背中を優しく優しく撫でていた。
「お願い。Fogive me.あたしを、許して……」
アリシアの言葉を聞いた瞬間、胸の奥がギュッと掴まれたように苦しくなった。どうしたらいいのかわからなくなった。だから。わたしはアリシアの肩を強く、激しく抱きしめた。こんなに華奢なのに。小さいのに。どこにあれほどのバイタリティーを秘めていたのだろう。どうして走り続けることができたのだろう。そう思うと無性に切なくて、再び涙が溢れてきた。
「わたしの方こそごめんなさい。具合が悪いのをあーちゃんに八つ当たりして……あーちゃんの一生懸命をわたし、どこかで馬鹿にしてた。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「ううん。そんなことない。そんなことないです。声が聞こえたの。最後に。あの瞬間、マイクの声だけしか、あたしには聞こえなかった」
アリシアが涙でグショグショの顔で、じっとわたしを見つめていた。わたしの視界も濡れて滲んでいた。どのくらいそうして見つめ合っていたのだろう。やがてそれは一つになった。
まるで世界が溶けて、流れてしまったみたいに。
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