5
お腹が痛い。
朝起きてすぐに鎮痛剤を飲んだのだが、まったく効いている様子がない。終業式も終わって夏休み本番なのに。どうしてわたしはベッド中で芋虫みたいに転がっていなきゃならないのだろう。
アリシアはそんなわたしをチラチラと横目で見ながら出かける準備をしている。今日は彼女が所属するバスケット・ボール部の試合があるのだ。確か……高校総体の地区大会とかどうとか言っていたような気がする。よく覚えていないけど。
「マイク、具合はどうです?」
床に置いたスポーツバッグをごそごそとさせながら、アリシアがわたしに訊ねた。わたしは無言で首を横に振った。
「そう。お薬飲んだのに」
「あーちゃん、バッシュは?」
「え? ……あ」
「あ、じゃないです。この前みたいに忘れても、今日は届けてあげられないですよ」
「応援も、来てくれないんですか」
ちらりと、
「……約束したのに」
上目遣いに見つめるアリシアにイラっとして、
「お腹痛いって言ってるでしょ? 行けると思ってるの?」
思わず声を荒げてしまった。アリシアの肩がビクッと震えた。
「……ごめんなさい、マイク」
「ううん、こっちこそ……ごめんなさい。体調が良くなったら、きっと行くから。それでいいですか」
「……うん」
アリシアに当たる必要なんてどこにもないのに。そんなの自分でも良くわかっているのに。罪悪感からアリシアの顔がまともに見られない。
「じゃあ、行ってきます。Take care yourself.じゃなくて、ええと……お大事に、です」
ぱたん、と扉の閉まる音がして。わたしは胸に溜まった嫌な空気を吐き出した。今まで興味がなくてまともに見学したこともなかったのだが、今日は初めてアリシアの応援に行くと、前々から約束していたのである。
ちらりとテーブルの上を見る。市販のお薬やペットボトルの水、パック入りのゼリー飲料が置いてある。……自分は忘れ物しそうだったくせに。
それともわたしのことにかまけていて、気もそぞろだったのだろうか。……そうじゃなくたって、ドジなのに。
「ああ、もうっ。バカ、アリシアのバカっ」
勢いをつけて無理やり起き上がった。お腹が圧迫されて、どろりとした血が溢れ出てくる。あれ以来生理が重いのは、……やっぱりわたしたちが仕出かしたことに対する罰なのだろう。
だからこそ思う。
もしも今度生まれ変わるなら、絶対に男がいい。受け取る側の性じゃなく。吐き出す側の性がいい。
「そうじゃなきゃ割に合わない」
わたしは奥歯を噛み締めて、ベッドから這い出すと、テーブルの上の鎮痛剤をまとめて何錠か口の中に放り込んだ。トイレに行って用を足し、鏡を覗き込む。そこには幽鬼のような自分の顔が映っていた。
最悪。
わたしはこの顔で、アリシアを怒鳴りつけたのか。
アリシアが部屋からいなくなると急に蝉の声が耳につくようになった。今頃欅の木にはたくさんの蝉がたかっているはずだ。夏なのだ。そう思った。
わたしが自分の……大切なものを失ったのも、夏だった。
だから。
「……夏なんて大っ嫌い」
わたしは吐き捨てるように、そう呟いた。
学園から真南に位置する市営体育館には、大勢の人が集まっていた。館内は冷房が効いていて、外の暑さがまるで嘘のようだった。
キョロキョロと辺りを見回す。
何校くらい参加しているのだろう。すれ違う選手はみんな背が高くて、少し腰が引けてしまう。わたしは邪魔にならないように階段で二階に上がり、観客席からコートを見下ろした。
……急に高いところから下を見たからだろうか。それとも貧血のせいだろうか。ひどく目眩がする。目の前を黒い蝶が飛んでいる。真っ黒い、とても蠱惑的な蝶々が。わたしは階段のわきにしゃがみこんで、しばらくじっとしていた。
「大丈夫か?」
どのくらいそうしていたのだろう。どこかで聞いた覚えのある声に、顔を上げると、そこにいたのは、
「……先生?」
用務の倉田先生だった。学校で見かけるのと同じ、青いツナギ姿でわたしの傍らに立っている。先生は少し驚いた顔をして、なんだうちの生徒か、と呟いた。
「顔色が悪いぞ。貧血じゃないのか?」
「……ええ。生理が重くて」
「そうか。大変だな」
倉田先生の手を借りて立ち上がる。前の方に空いている席があったので、そこに先生と並んで座ることにした。
「先生はどうして? バスケ部の顧問……じゃないですよね?」
「妹が試合に出るかもしれなくてな。それでこっそり見に来た」
「こっそり……?」
「あいつ、わたしのことを嫌っているんだよ」
倉田先生はそう言って、笑って見せた。唇の端を上げて笑うその独特の笑みは、どこかニヒルな印象を見ている者に与えるのだった。
わたしは先生の視線をたどった。
コートの中で選手がめまぐるしく動き、ボールを奪い合っている。わたしは見覚えのあるユニホームの中にアリシアの姿を見つけた。小柄な彼女がコートの中を走り回っていた。
わたしは思わず身を乗り出して、
「先生の妹さんも出てます?」
ちらりと振り返ると、
「駄目だな。鼻血出してぶっ倒れた」
倉田先生が首を横に振った。わたしはそれを聞いて背筋が凍りつくようだった。鼻血だなんて……相手のプレイはそんなにラフなのだろうか。
試合は第3クォーターが始まったばかりだった。よくよく見ると、対戦相手の身長はうちの学園の生徒よりも皆高い。しかもゾーン・ディフェンスを布いているから、アリシアたちは近寄ることすらままならない様子だった。
得点は22点のビハインド。そして少しの隙をついて相手が追加点を挙げる。これで24点差。このままではジリ貧なのは目に見えていた。どうしよう。どうしたらいいんだろう。
「負けちゃう……っ」
わたしの悲痛な呟きに、倉田先生はそうでもないぞ、と選手の一人を指差した。先生が指し示したのはアリシアだった。
「この試合、あの6番がうちの得点のほとんどを叩き出している。相手のゾーン・ディフェンスの外から。スリーで」
わたしはアリシアを注視した。2番がスティールして取り返したボールがアリシアに渡る。アリシアはスリーポイントラインの外から背の高い相手のブロックを避けるように、後ろに飛びつつシュートを放った。
ボールが糸を引くように、パシュッという音を立ててゴールに吸い込まれていく。
それを見て周囲からわあっと歓声が上がる。アリシアが応えて小さくガッツポーズをしたのが見えた。かっこよかった。胸がドキドキした。けれど彼女があまりにも遠くに見えて、わたしはみんなと同じように声を上げることができなかった。
「綺麗で見事なフェイダウェイだよ。でも、相手だって馬鹿じゃない」
倉田先生のその言葉の通りに、アリシアへのパスコースが次々と塞がれていく。徹底的にマークされている。それでもアリシアは敵の手をかい潜り、スリーを打ち続ける。いつものツインテールの髪の毛が、まるで熱帯魚の長い尾のように。コートの中できらめいていた。わたしはそれをただ美しいと思いながら見つめていた。
第3クォーターが終了したとき点差は11点にまで縮まっていた。アリシアは肩で息をしていた。あれだけ精力的に動き回っていたのだ。疲れていないはずがない。そう思うと緊張からなのか、自分の口の中がカラカラに乾いていく。
第4クォーターが始まった。
アリシアは敵のダブルチームで身動きがまったく取れなくなっていた。そうでなくてもアリシアは小柄で、フィジカルでは相手に敵わない。でも、……それでも。アリシアは敵を引きつけ、味方にシュートチャンスを与えるために、走り続けていた。
気づくと涙が溢れていた。わたしはいてもたってもいられなくて、席を離れ、階段を駆け下りた。心の中であーちゃん、あーちゃんと叫び続けていた。
試合会場に入る。
残り5秒。
点差は2点。
不意をついたアリシアの手に、ボールが渡る。
アリシアは一度ドリブルで切り返し、スリーポイントラインの外で、シュート体制に入る。
「撃てっ、あーちゃん!」
わたしは声の限りに叫んだ。
ボールが放たれた瞬間、試合終了のホイッスルが鳴る。
これで決まればブザービーターだっ。
わたしは両手を握りしめて祈った。刹那の時間が引き伸ばされたように、ゆっくりと流れていく。
けれど。
ボールはゴールの枠に当たって、あっけなく弾かれ、落ちていった。アリシアたちの負けだった。
……わたしはそれを見た瞬間目の前が真っ暗になって、コートの床に崩れ落ちた。
最後に見たのは、黒い翅の、蝶の姿だった。
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