牡丹の剣客⑤

 二人はすぐに、コーテス区画を抜けてヘルバルク流の道場へ移動した。陽は頂点に達する前だったが、まだ稽古に打ち込んでいる者もいた。

 脇戸を潜り、道場に踏み入り、近くにいた門徒に師範が用事で不在であることを教えてもらったところで、いつもの如くライルが仏頂面で近付いてきて、リントを見て足を止めた。


「エスト……この方は?」ライルがたずねた。

「友達。ちょっと試合がしたいんだけど、場所空けれる?」

「ああ……べつに、構わんが……おい待て」


 とライルに隅まで連れていかれて、問いただされる。


「道場内でゆかりのない者と試合をするだと? なに考えてるんだお前は」

「別に、殺しはしないわよ」エストは言った。

「そうじゃない!」ライルは叫んだ。

「手合わせしてやるって言われたから、ちょっと遊んでもらうだけよ。ね? ヘーキヘーキ」


 ナバルギアにおいて、道場内での揉め事に対し国が関与することは殆どない。

 最悪、内々で処理できるのなら、道場内で殺しが起きても問題にならないということだ。それは、どこの流派にも属さない者においても同じ事であった。

 それを知っていて、エストは彼女をここへ招いた。


「あの人、身寄りとかもなさそうだし、最悪死んでも大丈夫な人だから」エストはけろりとして言った。

「いや、どこから見てもあの方は……ああ、もう。好きにしろ。俺は知らんからな」ライルは肩を竦めた。


 エストはもう少しなにか言われるのかと思っていたのに、彼がいやに呆気なく引き下がったことを妖しく思ったが、気にしない事にした。

 今日、彼女と会った大きな目的は、彼女の過去を詳らかにすることではなく、彼女を斬り殺す為だった。昨晩あの路地に彼女が居なかった時は半ば諦めていたのに、ここまでとんとん拍子に事が運べるとは思わなかった。

 それに加えて、まさかの彼女のほうから勝負を持ち掛けてきてくれた。

 もしや本当に運命的な出会いだったのかもしれないと疑ったほどだ。

 喜びに打ち震えるエストは木剣を二振り預かり、空けて貰ったスペースの中で彼女と向かい合っていた。


「本当にいいの? アタシ手加減とかできないけど」エストは再度たずねた。

「……もんだいない」

「殺しちゃうかもしれない」

「……きにすることか?」リントは首を傾げた。


 それを聞いた瞬間から、エストは彼女のことが堪らなく好きになっていた。

 彼女を見ているだけで、耳まで赤くなるほど上気してしまう。目の前の女をこれから殺め、これまで積み上げてきたであろう生に泥を塗りたくるのかと思うと、それだけで動悸がおかしくなる。


 そうだ、わざわざこの道場に来た理由も、自分を子供扱いするライルの目の前で一線を越えることで、強烈なメッセージを発信する為なのだ。きっと道場は破門されるだろうが、どうでもよい事だった。

 エストは、自分の頭がこれまでになく冷えていることを自覚した。そして、頭に浮かべていたのは、彼女が所有していた真剣だった。

 彼女の剣は相当使いこまれた様子だった。もしも、あの様子がそのまま彼女の腕前に比例するのだとしたら、と考えてエストは胸中で首を振った。まったく無駄な思考だ。


 そうだとしても、今の廃人同然の彼女には関係のないことだ。人斬りの蔓延る霧の中で、あのファイスでさえ毒気を抜かれた程なのだから、おそらく剣などまともに振れやしないだろう。だが、それでもエストは念を入れることにした。


 ――木剣を放り渡すのと同時に、斬りかかる。


 これは名誉や誇りに拘らない剣士がよく使う手法だ。中空を舞う木剣に気を取られ、相手は攻撃への反応が遅れる。


 そしてこの手法の肝は、相手が無手であることに尽きる。


 剣を持たぬ状態で、己の武器となるものがこちらへ飛来する中、同時に攻撃が行われれば、心理は揺れる。

 対処しようと思考を巡らせると、瞬間的にだが、どうしても脳は混乱する。この戦術に対しては余程の訓練を積んでいない限り対処は困難なのだ。

 初めて試すことになるが、エストは躊躇いもなく実行に移した。

 彼女に笑みを向けて、片方の木剣を思いきり放り、同時にエストは駆け出した。


「――エスト!」ライルの憤慨する声がした。


 くるくると木剣が宙を舞う。その真下から、地を這う様にエストが迫る。ライルが止める間も無かった。

 素晴らしい踏み込みは怒涛の勢いであり、その速度は投げた木剣をも追い抜き、先んじて一撃を見舞わんとしていた。

 この連携は相手が攻撃より先に武器を手に取った場合、そのまま反撃されて失敗する事がある。しかし、エストは無意識のうちにその弱点を埋めていた。エストの脚速は投げた木剣よりも素早い。

 まさに完璧な連携であった。


 その間も、彼女はずっと放心していた。


「ヘルバルク流――!」


 握る木剣がエストの発現する闘気によって激しさを増す。ただの棒きれに過ぎないはずの剣は、敵を鎧ごと粉砕する戦斧めいた威力を纏わんとしていた。

 鎧砕きヘルバルクの基礎的な闘法の一つ、〝戦斧纏い〟だ。

 彼女のよだれの垂れる顎をめがけて、突き上げるようなエストの一撃が襲う。


 そしてそれと同時に、エストの世界が反転した。


「――えっ?」


 エストは自分が背中から倒れている事にすぐには気付けなかった。突如として視界が回転したかと思ったら、朦朧とした意識で天井を見上げていたのだ。

 そして視界に木製の剣先がチラついて、ハッとして跳ねるように立ち上がった。

 ひどく頭を打ったらしく、どれくらいの時間倒れていたのか、いかにして倒されたのかが朧気だった。もしもこれが真剣での勝負だったのなら、息の根を止める攻撃が躊躇なく降りおろされて、エストは死んでいたに違いない。


 そして、それは試合とて変わらない。寸止めであるにしてもトドメの合図となる一撃が決められるべきだ。しかし、それは行われなかった。

 理由は明白だった。


 彼女がそれを望んでいないという事だ。


 向き直ると、彼女が剣を握って立っているのが見えた。あれは自分が投げ渡した木剣だ。

 彼女は全身がほとんど脱力しており、だらりと剣を地に向けていて、隙だらけに見えた。これにプライドを刺激されたエストは憤り、一息に飛び掛かった。


「こんのぉ――!!」


 結果だけ見るとすれば、エストは実に勇敢に立ち向かったと言える。

 この物語の読者に認識してもらいたい事は、エストは実に類稀なる才能を持つ剣士である事だ。


 そこらの生半な剣士程度では相手にならない。剣豪の流れを汲む正統な剣客にも――少なくともだが――一対一の勝負でなら勝てる自信があった。と言っても、本格的な剣客とはまだ剣を交えた経験がなく、実際にやった場合どう転ぶのかなどわかる筈もない。


 ――だが、ああ!


 間違いなくエストの剣の才は確かなものだと言えるだろう。この秘め事多き彼女にも、これっぽっちも負けるつもりはなかったのだろう。

 そのエストが、生まれてこの方一度も経験し得なかったものに初めて直面していた。


 それは――絶対的理不尽に対する、絶望の念であった。


「エスト、もうわかっただろう。よしておけ」呆れ果てるようなライルの声。

「うるさい! うるさいうるさいうるさい!!」それにエストは頑なな言葉で返す。


 面白おかしく震える脚を叱りながらエストは立ち上がる。

 自分が一方的に勝負を始めてから何十分経ったか。それ以上に数えきれないほどの回数、エストは道場の床にもんどりうったか。疲労で剣先が揺れる木剣は一度も彼女には届いていない。何がどうしてこうなっているか、エストには皆目見当もつかなかった。

 自分は試行錯誤して最善を尽くしたつもりだ。思いつく手は何でも使った。

 なのに、あらゆる手を講じようと、剣が届く前に、いつの間にか倒されている。

 なにより一番屈辱的だったのは、彼女が戦いの最中さなかにも虚ろな目でぼんやりと虚空を見つめていたことだ。

 彼女はずっと、まるで興味がないかのように、エストを眼中に入れてすらいなかった。


「エスト」ライルが落ち着いた声で呼びかけた。

「……なによ!」振り返って彼を見ると、彼はまるで憐れむような目で、二人を交互に眺めていた。


「お前がこの道場にその方を連れてきた時、なにを考えていたかは見当がついていた。だがな、お前じゃ絶対に殺せない。その人にはな、絶対に勝てない理由があるんだ」


「『絶対に勝てない』っ!」エストは憤慨して叫んだ。「そんなつまんない言葉をアタシの前で言わないで! アタシは……アタシは、天才なんだから! 誰も剣の才でアタシに勝てはしない! アタシが勝てない相手なんか絶対にいるわけない!」


 ライルは溜息を吐いて言った。「少し落ち着け、言ってることが支離滅裂だぞ」

「黙れ! アタシをバカにするな!」

「誰もお前をバカになんかしちゃいない」

「してる! してるったらしてる! ムカつくのよどいつもこいつも! アタシが親不孝だからって心のどこかで見下してきてる! わからせてやる、絶対にいつか……!」


 気付けばエストは己の心の丈を吐き出していた。なぜだかわからないが、イライラして仕方がない。


 いつからだろうか、根拠のない憎悪のような何かを、身の回りの全てに対して向けるかのような感情を、胸に秘め始めたのは。

 それはもとより剣を握ってから通常の生き方を望まなくなったエストの自尊心を確実に助長させていた。

 さらに幸か不幸か、剣の才能を持ってしまっていた事が、エストの進む道筋をどうしようもなくさせてしまっていた。


 エストにとって、この世界は生きづらくてしょうがなかった。


「……う……か」その微かな声に、ライルとエストは振り向いた。ずうっと待ちぼうけるように突っ立っていたリントが言葉を発したのだ。


「……もう、おわりか」

「え、あ……」

「……もう、つかれた、のか」

「あ……あぁぁ……」


 呻くエストに対し、リントのなんと実直な言葉だろうか。

 生きるのがどうでもよいと言うリントの、その剣に対する熱量の凄まじさは、まるで、自分は剣の天才であると驕るエストの熱意の浅さを嘲笑うかのようであった。


「…………そうよ! 今日はもう疲れただけなんだから! また明日、もう一度やるわよ!」

「……そうか」


 だが、エストはそれと同じくらいの負けず嫌いでもあった。

 もはや敗北はどうしようもなく、紛れもない事実として現実に起こった。しかし起こってしまったものは仕方がない。

 彼女の虚ろな目を指差し、悔しさを顔に滲ませながらも、エストはその二文字を良しとした。

 今の所は、である。


「だから今日のとこは……ウチに来なさい!」




 リント・リンツの些細な世直し――音速の貴公子――へ続く

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リント・リンツの些細な世直し ラーメン上のマチク @elcantare

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