マーチ・アマリリスの肖像

月庭一花

 画布の向こうに夕日が見えた。

 カリカリと木炭を走らせる音がして、でも……逆光になって彼女の顔はよく見えなかった。春休みの気だるい午後に、自室で、こんな格好で……わたしはいったいなにをしているんだろう。

「……疲れた?」

 そう訊かれて、静かに首を振った。

「眩しいのと、あと……ちょっと恥ずかしいだけ」

 いくら同性とはいえ、いくら身内とはいえ、……こんなふうに自分の裸を観察されるのは恥ずかしい。ただ見られるのと、見つめられるのは大違いだった。わたしはお尻の下に敷いたバスタオルを汚してしまわないかとびくびくしていた。

「ねえ、なんでわたしなの?」

 ふと、疑問に思っていた事をわたしは訊いた。

「こう……もっと体にメリハリのある人とか、いっそプロの人だっているんでしょう?」

 胸だって大きくないし、体つきは子どものまんまだし、それに……。

 彼女は木炭をカタリ、とイーゼルのふちに転がして。

一花いちかは…………だから」

 と言った。

 わたしはそれを聞いて、

 カッと頭に血がのぼった。

 涙目で彼女を睨みつけると、

「その顔、とっても素敵」

 ノルちゃんは笑ったのだった。


 その電話は真夜中にかかってきた。電話を取ったのはわたしだった。三学期のテストも終わって、明日は土曜日でお休みだと思えば、……ついつい開放感から夜更かしをしてしまいたくなる。だからまだ、わたしは一時を過ぎても眠りについていなかった。

 ベッドに横になりながら読書灯を頼りに雑誌をめくっていたちょうどそのとき、不穏な電話の音は突如、招かれざる来訪者のノックのように、夜のしじまを引き裂いたのだった。

「……はい、どちら様ですか?」

 防犯の為に相手が名乗るまでこっちの名前を出してはいけない、と教えられていたから、わたしはまず相手に訊ねた。

「あっ、う……イス・ミシェ……リューシカ」

 女の子の声だ、と思ったけれど、その声には聞き覚えがなかったし、言っている言葉の意味も解らなかった。少なくともわたしのクラスの子ではなかった。

 震える声は泣いているようにも聞こえた。

「あの……もしもし? うちは月庭つきにわですけれど、もしかして間違い電話ですか? もしもし?」

 一向に要領を得なくて訊き返していると、

「うん、どうしたんだい?」

 父が、自室から起き出してきて、わたしとわたしが手にしている受話器を見た。

「あ、お父さん。なんか……よく解らない電話なんだけど」

 受話器を向けると、父はそれを取り、自分の耳に当てた。しばらくすると父は硬い表情になって、英語で受話器の向こう側と遣り取りをしていた。

 ……英語。という事は、さっきの女の子が外人だったのか、はたまた外国からの電話だった……という事なのだろうか。英語なんかにはまったく聞こえなかったのだけれど。

 受話器を置いたあとも呆然としている父に、わたしは心配になって声をかけた。

「大丈夫? お父さん、顔色悪いよ?」

「……雪人ゆきとが、死んだ」

「え?」

 雪人? 雪人といえば……確か外国に住んでいるという父の弟、つまりわたしにとって叔父に当たる人、だったと思うけど。お父さんの弟が……死んだ?

「今の電話は雪人の娘だったよ。一花の従妹いとこの……彼女を、リューシカを覚えているかい?」

「……ううん」わたしは言った。「知らない。覚えてないわ」

「そうか、小さい頃に一度会っただけだからね、覚えていないのも仕方ないか」

 そう言うと父は、ふうっと大きなため息をついた。

「交通事故だったそうだよ。夫婦揃って即死だったと言っていた。……リューシカだけ留守番をしていて、生き残ってしまったんだ」

 わたしはどんな言葉をかけたらいいのか解らずに、じっと黙っていた。

「これから事実確認をしなきゃいけない。そして多分、僕とエルは外国に……アイルランドに行く事になる。できる事なら雪人の骨を日本に連れて帰ってやりたい。一花が春休みになるまでには戻れると思うがひとりで大丈夫だろうか?」

 こくん、と頷くと、父はわたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「……いい子だね」


 もっとも、ひとりで長い期間中学一年生に留守を預けるのもどうなのだろうか、という心配もあり、両親が帰国するまでは母の歳の離れた妹がわたしの面倒を見てくれる手筈になっていた。死者との対面を果たすのにどれだけの時間がかかるのか解らなかったけれど、出発まではなんやかやと確認や手続きが必要との事で……結局両親が日本を発ったのは、あの電話から幾日か経った後であった。

 葦原あしはらノル。それが母の妹の、つまりはわたしの叔母の名前だった。母のエルという名前も風変わりではあるけれど、彼女の場合は名前ばかりでなく、正真正銘折り紙付きの変人だった。一浪して入った美大で油彩画を専攻している彼女は、公務員ばかりが揃う母の家系の言ってみれば異端児だった。美人なのにいつもよれよれの服を着ていてまったく身だしなみに構わないし、髪だって自分で切っているのか所々長さがちぐはぐになっていた。放浪癖もあって、すぐにどこかに消えてしまい、気が向くまで家には戻らない。

 まるで野良猫みたいな人。

 それがわたしの彼女に対する印象だった。

 ノルちゃんはよく、「姉さんの名前は受胎告知の天使からもらったものだそうよ。でもね、わたしの名前は運命を司る女神からもらったの。ノルニルという北の国の女神から」と言っていた。本当か嘘かは解らなかったけれど、そんなふうに嘯くノルちゃんがわたしは好きだった。ちっちゃくて可愛いね、とすり寄ってくるノルちゃんにわたしは心を許していた。わたしは猫派なのだ。とくに野良猫が好きなのだ。

 その日は朝、空港に向かう両親から夕方にはノルちゃんが来るから、と聞かされていたのだが、夜の八時を回っても……ノルちゃんからは連絡すらなかった。

 あまりに遅いので心配になって、ノルちゃんが友人と共同で借りているというアパートに電話をしてみると、

「……あれ、一花? ひさしぶり。どうしたの?」

 そんなとぼけた声が返ってきた。

「ノルちゃん。……今日来るって、お母さんが」

「え、……今日からだっけ? ご、ごめんね、すっかり忘れて」

「……もういいよ。せっかくハンバーグ焼こうと思って待ってたのに。ひとりで食べるからいい。じゃあね」

 わたしは頭にきて受話器を叩き付けた。電話が切れる前、受話器の向こうでなにか言っていたような気がするけれど、気にしない事にした。

 まったく。いい加減にもほどがあるんだから。せっかくノルちゃんと一緒に夕ご飯食べようと思って準備してたのに。

 ハンバーグの種だってちゃんとふたり分用意したし、みそ汁だって作ったし、ご飯だって炊けてるのに。わたしはなんだか馬鹿らしくなって、おかかのお握りを作ってほうじ茶を淹れて、それで夕ご飯を済ませてしまった。

 ……なんで両親はあんなだらしない人にわたしの事を任せようだなんて考えたのだろう。

 ひとりだともったいなので少し寒いけどシャワーだけ浴びてさっさとベッドに入って、ノルちゃんの事をぼんやりと考えた。ノルちゃんみたいないい加減な人に任せるくらいだったら、わたしひとりで充分お留守番できるのに。

 読書灯だけをつけてオスカー・ワイルドの『サロメ』を読んでいると、不意にチャイムが鳴った。

 ピンポーン、ピンポーンと何度も鳴らされてかまびすしい。時計を見るとすでに夜の十時を大きく回っていた。

 ドアチェーンをかけたまま玄関を開けると、そこに居たのは……。

「……どちら様でしょうか?」

 わたしの冷たい声に苦笑いしてみせたのは、よれよれの服を着た、小さなボストンバッグを提げたノルちゃんだった。

「一花って姉さんそっくりね。その不機嫌なときの態度、小さい頃の姉さんのまんまだわ」

「なにしにきたの?」

「……面倒を見にきたのよ」

「面倒をかけにきた、の間違いじゃないの?」

 わたしはチェーンを外してノルちゃんを迎え入れた。

「言っとくけど、もうわたしご飯食べちゃったからね。ハンバーグの種ならあるから焼くなら自分でやって。ご飯も炊けてるし。わたしもう寝るから。じゃあね」

 そう捨て置いてさっさとベッドに戻ろうとしたわたしを、ノルちゃんはいきなり後ろから抱きしめてきた。

「ちょ、なにすんのっ」

「相変わらずちっちゃくて可愛いね。今度絵のモデルになってもらおうかしら」

「ば、馬鹿な事言ってないで放してよっ。ノルちゃん変な匂いがする。放してっ」

 それはきっと油絵の具かテレピン油かなにかの匂いだったのだろう。自分の生活の中にない匂いに、わたしは約束をすっぽかされた事もあって、苛立ちの声をあげた。

 ぱっと手を離したノルちゃんを振り返ると、なんだか悲しそうな顔をしていて、わたしは胸がちょっとだけ痛くなった。

「……ごめんなさい。でも、急に抱きつくノルちゃんが悪いんだからね?」

「お風呂入ってくるからさ、せっかくだからご飯の用意して欲しいな。ね、一花お願い」

 わたしは猫派で、猫のようなノルちゃんにはどうしても弱かった。わたしはちょっと待ってて、と嘆息しながら言うと、再びキッチンに立った。自分の分は明日にとっておく事にして、ノルちゃんの分だけハンバーグを焼いた。中等部で料理部に所属していたりするのでこういった事だけは得意になった。子どもの頃からあまり体が丈夫じゃなくて、運動部に入るのはなんとなく気が引けていたのだが、今いる料理部はわたし自身にとても合っていた。

「あっ、冗談でしょ! 湯船にお湯がないじゃないっ」

 ノルちゃんの声が浴室から響いてきた。今日は元々お風呂のお湯なんて入れてないし、それにそもそもこんな時間にお湯が残ってるわけないじゃない。まったくもうっ。

「わたしだってシャワーしか浴びてないんだからノルちゃんも我慢してよっ!」

 わたしは浴室に向かって怒鳴りかえした。

 ……こんなふうにしてノルちゃんはわたしの家に泊まり込むようになり、不思議な共同生活が始まったのだった。


 数日経ったある日。父から国際電話がかかってきた。ノルちゃんは大学に行っていて、まだ戻っていなかった。

「……帰国する前に一花に伝えておかなければならないと思って電話したんだ」と父は静かな声で言った。「リューシカを引き取る事にした」

「えっ?」わたしは驚きのあまり大きな声を出してしまったのを悔いながら、父に訊ねた。「どういう事?」

「今、リューシカはとてもひどい状態で目が離せない。こっちには身寄りもないしね。お父さんはね、リューシカについて……知らなくていい事を知ってしまったんだよ。だから、僕が引き取る事にした。……一花には色々と我慢してもらわなきゃならなくなるかもしれない。本当に申し訳ないと思うが」

 わたしは一度深呼吸してから言った。

「大丈夫。きっとうまくやれるわ。だから……お父さん、早く帰ってきて」

「わかった。ありがとう、一花」

 そう言って父は電話を切った。後には耳に痛いくらいの沈黙が襲ってきた。わたしは意識をシャットダウンして、暗がりの中に自分の身を置いた。どのくらいそうしていたのだろう、呆然と受話器の辺りを見つめていると、

「どうしたの一花、電気も点けないで」

 大学から帰宅したノルちゃんがわたしに声をかけた。居間の明かりが灯り、現実が形をなしてわたしの眼の前に立ち現れた。

「電話が……どうかした?」

「お父さんから電話があったの。従妹のリューシカをうちで引き取るって」

 わたしは言った。

「それって、その子が義理の妹になるってことなのかな」

「……そうかもしれないね」

「そっか」

 ため息をつくと、ノルちゃんはわたしの頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。相変わらずノルちゃんからは不思議な匂いがした。

「ノルちゃん」わたしはその手をそっとどかしながら言った。「一緒にお風呂入ろう。やっぱりノルちゃんの匂い変だもの」

「うーん。わたしはテレピンの匂いとか好きなんだけどな、まあ、……一般受けする匂いじゃないか」そう言って彼女は苦笑してみせた。

 一緒にお風呂場で体を洗って、ノルちゃんに続いて湯船に入ろうとしたそのとき、

「一花」

 って声をかけられた。

 ノルちゃんの視線を追って自分の下半身に目を向けると、

 自分の内股に、

 一筋の血の流れを見つけてしまって。

 わたしは自分の顔が真っ赤になっていくのを感じていた。耳が焼け落ちそうなくらい熱かった。それは、わたしが初めて経験した月のものだった。

 そしてわたしは知らないあいだにぽろぽろと涙を流していた。初めてでどうしていいのか解らなかったし……大好きなノルちゃんに見られたのが恥ずかしくて、いたたまれなかったのだ。自分の体が大人になるという事が穢らわしく思えてならなかった。

 ノルちゃんはきっと、その気配を察してくれたのだろう。湯船から音を立てて立ち上がると、わたしをそっと浴室から連れ出してくれた。

「もしかして、初めて? 手当の仕方、知ってる?」

 小さく頷いてみせたがなんて答えたらいいのか戸惑っているわたしに、ノルちゃんは自分のナプキンを渡してくれ、懇切丁寧に処理の仕方を教えてくれた。知識として知ってはいたけれど、自分用のものだって持っていなかったわけじゃないけれど……わたしは黙っていた。

「……ありがとう、ノルちゃん」

 苦いものを噛み潰したような表情で呟くわたしの声に、ノルちゃんは小さく笑った。

「お腹、痛くない? なにか温かいものでも飲む?」

「ううん、いい」わたしは言った。「……夕ご飯の支度なんだけど」

「わたしがおごるからいいよ」とノルちゃんは言った。「なにか食べたいものがあったら遠慮なく言って。どこにでも連れて行ってあげる。……でも、そっか。ちっちゃな一花もとうとう女になっちゃったのね。じゃあ女同士でお祝いしましょうか」

 女同士、と言われて、わたしの心臓はどくどくと鼓動を早めた。それがどんな心のゆれによるものだったのか、わたし自身まだ解っていなかった。

「ノルちゃん」わたしは言った。「お祝いなんてしたくない。こんなのがずっと続いていくなんてやだ。……やだよ。わたし、女になんてなりたくなかった。大人になんてなりたくなかったよ」

「……そうだね。でも大丈夫だよ。わたしがずっとそばにいてあげる。一花の不安を取り除いてあげる」

「ありがとう、ノルちゃん。大好き」

 ノルちゃんはわたしをぎゅっと抱きしめてくれた。彼女がどんな表情をしているのかは解らなかった。けれど……わたしの背中に回された手には、強い力が込められていた。


 両親は春休みになっても帰ってこなかった。じっと受話器を見つめるのがわたしのくせになった。

 わたしはぼんやりとしたまま、その日も電話の受話器を見つめていた。

 お昼過ぎ、ノルちゃんが大学帰りに、DVDを借りて戻ってきた。

「一緒に観る?」

「ん? ビデオ?」

 なにをレンタルしてきたのかとタイトルを確認すると、『カサブランカ』と『椿三十郎』と……『制服の処女』というどれもこれもがモノクロの、古い映画であった。

「……なんでこんな古臭い、取り留めのないチョイスなのかな」

 わたしは小声で呟いた。

「どれか観たいのある?」

「じゃあ、……『制服の処女』って観た事ないから、それでいい」

 それは第二次世界大戦前にドイツで作られた少女と学校の女教師との淡い恋物語だった。主人公の少女も教師役の女優もとても美しい。居間のテレビの前でふたりソファーに並びながら、ノルちゃんはビールを、わたしは彼女に薄めに作ってもらったビールのジンジャーエール割り……シャンディガフというのだそうだ……を飲んでいた。わたしの隣でノルちゃんがショートホープライトをふかしていた。わたしはその紫煙に時々むせそうになっていた。ノルちゃんが買ってきたミックスナッツを一緒に食べた。ノルちゃんはアーモンドばかりを拾って食べていた。わたしはピスタチオの殻を剥くのに苦労していた。

 映画が終わって、少女の先生への愛は、結局どこに行くのだろう……と余計なことを思いながら余韻に浸っていると、不意にノルちゃんが言った。

「ねえ一花」

「ん?」

「ちゅーした事ある?」

 わたしは画面を見つめ続けるノルちゃんを凝視した。

「……初等部からわたしがずっと女子校なのはノルちゃんだって知ってるじゃない。あ、お父さんとなら」

 そう言いかけた、そのとき。

 唐突に、唇に煙草の匂いが重なった。

「……んっ」

 その声は、わたしの声だったのだろうかそれともノルちゃんの声だったのだろうか。

 ノルちゃんの唇が離れると、わたしは恐る恐る、自分のその場所を指で触れた。指先も唇も、微かに震えていた。

「……すごくいい顔」

 ノルちゃんは言った。

「わたしにあなたを描かせて欲しい」


 それまでだってノルちゃんはスケッチブックにわたしの顔を描いたりしていた。楽しそうに、鼻歌交じりで。猫や鳥、花の絵を書くときも大概そんな感じであったと記憶している。でも、その日の様子は違っていた。イーゼルを立てて画布を置き、木炭を握りしめるノルちゃんはまるで、それまでとは別人のように見えた。

 わたしはノルちゃん言われるまま、ベッドの上に座っていた。窓を背にしてノルちゃんはわたしを見つめていた。傾きかけた西日の中にノルちゃんの姿が浮かんでいた。

「脱いで」とノルちゃんは言った。「全部」

「……へ?」わたしは間の抜けた声で訊き返した。「もしかして、服……脱ぐの?」

「そうよ」

 絵を描くノルちゃんの目が怖かった。服を着ていても、その目で見つめられていると自分が裸になってしまったように感じていた。それなのに服を脱いでしまったら、わたしは魂の奥底まで全て、見透かされてしまうのではなかろうかと身を硬くした。

 ……でも、なぜだろう。恥ずかしいのに、いたたまれないのに、それでもわたしはノルちゃんの言葉に逆らえなかった。

 ブラウスのボタンをひとつずつ外して、スカートのホックを外して、スリップを脱いだ。

「パンツも」とノルちゃんは言った。

「……でも、わたしまだ」わたしは顔を真っ赤にしながら答えた。

「お尻の下にバスタオルを敷いておけばいいわ。もう終わりかけでしょ?」

 そう言われて、わたしはその言葉に渋々と従った。なぜノルちゃんの言いなりになっていたのか、そのときのわたしにはよく解らなかった。今でも解らない。あの日の、あの午後だけの特別な……魔法のようななにかだったのかもしれない。

 全裸になって、ベッドの上で膝を投げ出したような格好で座っていた。左手に体重をかけて、右手は左脚の上に置かれていた。まだ三月なのに。ノルちゃんに視られているせいか、それとも少しだけ口にしたアルコールのせいなのか、体が火照っていた。

「動かないでね」とノルちゃんは言った。観察者としてのノルちゃんの目は一層鋭さを増し、荒野で哀れな兎を狙う、飢えた鷹のようだと思った。

 ……しばらく、そんな時間が続いた。体の火照りはいつまで経っても治まらず、お腹の奥の方がとろけるような、うずくような、変な気持ちがしていた。

「……疲れた?」

 そう訊かれて、静かに首を振った。

「眩しいのと、あと……ちょっと恥ずかしいだけ」

 わたしは訊ねた。

「ねえ、なんでわたしなの? こう……もっと体にメリハリのある人とか、いっそプロの人だっているんでしょう?」

 胸だって大きくないし、体つきは子どものまんまだし、それに……それなのに、わたしは汚れてしまった。子どもでもない。大人にもなりたくない。こんな中途半端なわたしを描く必要が、あるのだろうか。

 ノルちゃんは木炭をカタリ、とイーゼルのふちに転がして。

「一花はわたしにとってのドリアン・グレイだから」

 と言った。暗に自分の幼すぎる願望を馬鹿にされたように思えて悔しかった。大人になりたくない、女になりたくないわたしを笑っているのだと思った。ノルちゃんのあまりの言いようにカッとなって、涙目で睨みつけると、

「その顔、とっても素敵」

 そう言ってノルちゃんは笑った。

「ずっと、一花のその顔が見たかった。その顔を描きたかったの」

「どうして? ……ノルちゃんはどっちなの?」わたしは震える声で訊かずにはいられなかった。「ノルちゃんはバジル・ホールワード? それともヘンリー・ウォットン?」

「両方」とノルちゃんは言った。「わたしはその両方よ。お酒も煙草も女の子同士の仕方だって……男としないで済むように全部わたしが教えてあげる。一番美しいあなたを描いてあげる。そしてあなたに永遠をあげる。あなたをどんなに汚しても、あなた自身が穢れてしまわないように、ずっと大人にならなくていいように、血を流さずにいられるように、わたしが絵に魔法を込めてあげる。……わたしは一花が好き。可愛らしいあなたが好き。わたしがあなたを助けてあげる、だから」

 ノルちゃんが夕暮れの中から立ち上がって、わたしの頬に触れた。その指先は、驚くほど冷たかった。指先はゆっくりと下がっていき、わたしの小さな胸のふくらみの先端で止まった。そしてわたしの魂とでも言うべきものが、ゆっくりとノルちゃんの手の中に収まっていった。

「帰って!」

 わたしは怖くなってその手を払いのけ、叫んだ。声が少しだけ、涙にかすれていた。

「もう、帰って。来ないで……そんな事言うノルちゃんなんか大っ嫌いっ」

 ノルちゃんは小さく苦笑して、「大っ嫌い、か」と呟いた。

「絵を楽しみにしていて。一花はいつまでもちっちゃくて、可愛い方がいいんだものね?」

 そして画材を片付けると静かにわたしの家を出ていった。ノルちゃんはもう、家には帰ってこなかった。わたしはひとりきりの家で、ずっと泣き続けていた。

 そして三日後、わたしの両親はリューシカを連れてアイルランドから戻ってきた。


 リューシカとの同居生活が始まった。リューシカは緩く波うつ暗灰色の髪が美しい、背の高い可愛らしい女の子だった。そばかすの残る頬に、儚げな笑みを浮かべるその姿は……まるで海の妖精のようだった。ノルちゃんが描くべきなのは、きっとこんな少女なのに、そう思うと少しだけ胸が痛かった。

 でも、美しいのは外見だけだった。取っ付きにくく、日本語が不慣れだというだけではなく、リューシカがわたしを避けているのは丸わかりであった。あるいは極度の人見知りだったのかもしれない。触れられる事を極端に嫌がり、わたしがリューシカの肩に手を置いただけで悲鳴を上げる始末だった。それから夜中に急に泣き出すのも嫌だった。彼女の泣き声だけでなく、その都度両親がおろおろする様子や、母がリューシカを抱きしめている姿を見て……わたしは彼女に嫉妬した。妹ができるというのはこういう事なのか、と、一人っ子として甘やかされて育ったわたしはあらためて痛感した。

 そして一年が経った。わたしは中等部の二年生になり、リューシカは……あんな時期に日本に来てどんなふうに父が手を回したのか知らないけれど……同じ女学校の一年生になった。そして互いに、三学期の最後の月を迎えていた。

 三月。あの日以来ずっと逢っていなかったノルちゃんから、卒業制作の展示会があるので見にきて欲しい、という手紙を受け取って、わたしはリューシカを誘って一緒に出かける事にした。正直……気が進まなかったのだけれど、わたしにはどうしても確かめなければならない事があった。

 この一年でリューシカとわたしの関係も変化した。一年という時間をかけて、やっとリューシカはわたしに慣れてくれたのだ。それでも不意に触るとびくっと肩を震わせる。しかし以前のように悲鳴を上げられるような事はなくなっていた。最初は登校しても保健室から出られなかったリューシカも、最近は時々笑顔を見せてくれるようになった。同じクラスに友達がいるのかどうかは知らない。けれど彼女の変化……あるいは恢復に、わたしの両親はほっと胸を撫で下ろしている様子だった。……ある一点を除いて。

 案内状を片手に、大学の入り組んだ建物をふたりでおっかなびっくり進んでいった。周りが全部大人に見えて、実際、中等部の制服を着て歩いている子どもなんてどこにもいなかった。リューシカは不安そうにわたしの手を握りしめていた。リューシカはあれから更に身長が伸びて美しくなっていた。わたしは成長が止まってしまって、身長も変わらず、胸も膨らまず、外見的には一年前のままだった。だからこうして手をつないでいると、どちらが歳上なのか解らないくらいである。そしてあの初潮の日以来、再び生理がくることもなかった。まるであの日の出血こそが、なにかの間違いであったかのように。

 ああ。リューシカが初潮を迎えた日の事を、わたしは今でもはっきりと覚えている。精神的なショックとひどい痛みから過呼吸を起こして病院に運ばれ、家に帰ってきてからもずっと泣き通していた。わたしの両親に抱きしめられながら震えるリューシカを見て、自分が初潮を迎えた日のことを思い起こして……なんであの日、父も母もわたしの傍にいてくれなかったんだろうと考えてしまって、切なくなった。

 それからもリューシカは生理が来るたびに学校を休み、部屋に籠ってずっと泣いていた。彼女がそんなふうになってしまう理由がわたしには解らなかった。あるいはお父さんが知ってしまった彼女についての知らなくていい事、というものに、もしかしたら関係があったのだろうか。

 やっとの思いでたどり着いた卒業制作の展示会の会場は、ある種のパーティーのようだった。大学生達は皆あでやかに着飾っていた。

 ……そして。

 ノルちゃんの絵はすぐに見つかった。学長賞受賞、という札が額縁に貼ってあったけれど、わたしにとってはそんなものどうでもよかった。

 リューシカはその絵を見て、真っ青な顔で自分の口を両手で覆っていた。慌てて十字を画いて、ラテン語らしき言葉でまるで魔除けのように、祈りの言葉を唱えていた。でも、そんな彼女の様子さえ、わたしにはどうでもよかった。

 わたしは『三月のアマリリス(March・Amaryllis)』と銘がうたれたその大きな絵に目が釘付けになっていた。

 それは雨と花とわたしの絵だった。

 五月から六月にかけて咲く真っ赤なアマリリスと九月に咲く薄い桃色の本アマリリス……ベラドンナ・リリィが画面の中で同居し、互いの存在をアピールするように咲き誇っていた。無数の花達は雨に濡れてその葉に、花弁に、真珠のような水滴を光らせていた。そして花に囲まれたその絵の中央には、等身大のわたしがモデルをしたときと同じ格好で座っていた。雨に濡れて、目に大粒の涙を湛えて、下唇を噛み締めながら、画面の向こう側をじっと睨みつけていた。首筋や胸の膨らみには薄く静脈の青色が浮かんでいた。右胸のほくろの位置も寸分の狂いはなかった。少し開いた脚のあいだには和毛が濡れて張り付いていて、内股は赤く汚れていた。それが破瓜によるものなのか、それともノルちゃんに見られたあの日の月のものなのか、わたしには判別がつけられなかった。わたしと違うのは、きっかり一年分、絵の中の少女が成長している事だった。

 スフマートの技法で描かれたそのあまりにも写実的な絵は、わたしそのものであって、わたしじゃなかった。わたし以外の何者でもない、わたしの亡霊だった。それはとても美しく……とても陵辱的な絵だった。白い肌を晒して画面の中に佇むわたしは手折られた花だった。手折られたまま成長し続ける幻の花だった。三月のアマリリス。それは……絵の中のわたし自身だった。

 アマリリスの花言葉はなんだっただろう。

 わたしはそんな事を考えながら、絵を見つめていた。

 きっともう、ここに佇立ちょりつしているわたしはただの抜け殻で、これからは絵の中のこの少女が、少しずつ、わたしの代わりに年をとっていくのだろう。

 リューシカが絵の前で座り込んでしまった。その目には憐れみと悲しみが湛えられていた。慌てた受付係の女性が駆けつけ、リューシカに声をかけた。けれども次の瞬間、その女性はわたしの顔を見てぎょっとした表情を浮かべ、声をなくした。わたしは気にしなかった。ただ、絵だけを見つめていた。

 わたしはこの絵に、ノルちゃんに負けたのだ、と思った。

 大人になんてなりたくなかった。女になんてなりたくなかった。永遠に子どものままでいたかった。そう思っていた。心の奥底でずっとそう思っていた。だから、ノルちゃんは絵にわたしの魂を込めたのだ。あの日、あの瞬間、わたしは自分の魂を差し出してしまったのだ。そしてノルちゃんも、ノルちゃんのやり方で永遠を手に入れた。なぜならわたしは自分のこの体を見る度に、きっとノルちゃんを思い出す。

 ただ悔しいことが一つだけ、ある。

 一年分成長した絵の中の少女は、わたしよりもずっと美しかった。


 後日、この絵が展示される前日に、ノルちゃんが自ら命を絶っていた事を知らされた。

 わたしはなにも感じなかった。ああやっぱり、と思っただけだった。ノルちゃんの永遠は完成したのだから、生きている必要なんて、どこにもないのだ。

 わたしはノルちゃんが残してくれた絵に向かって、そこで待っていて欲しいといつものように語りかけた。

 いつかこの絵の中のわたしの胸に、わたしが耐えきれなくなってナイフを突き立てるその日まで。


 待っていてね、ノルちゃん。

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