パスピエ
月庭一花
1
雪が降っていた。
この町に来てからずっと、淡い粉のような雪が降り続いている。そのせいなのか、駅前のバスの停留所はやけに閑散としていた。まばらな人通りと、白く凍りついた無人のタクシープール。人が通った場所だけは、シャーベット状になって汚れた雪がぐしゃぐしゃに踏み荒らされて、更に地面を汚している。なんだか……悪循環の見本みたい。
ため息をつく。
吐く息が白い。
わたしはぶるっと肩を震わせて、マフラーで口元を隠した。裸の耳が切れるように痛い。冷たい。そんな耳に差し込まれたイヤホンからは、『ベルガマスク組曲』の最終曲、
灰色の空から、それこそ灰のように、雪は降り続いていた。
ここは山あいの鄙びた町。個人営業の小さな薬局やスーパーマーケットがあるだけの町。かすむような山の稜線と、点在する宿から立ち昇る温泉の湯気。古い酒蔵と汚い土産物屋。観光資源の乏しい、それだけの町。
もう一度バスの時刻表を見る。次のバスは七十分後にならなければ、来ない。……でも、別にバスを待っているわけではなかった。なにかを待っているわけではなかった。ただ、座っているだけだった。
重い荷物を胸と、膝の上に抱えて。
「ねえ、……あなた、家出してきたの?」
不意に近くで声が聞こえて、わたしはそちらに顔を向けた。若い女の人が立っていた。
「さっきからずっと、深刻そうな顔で座っているけど。……寒くない?」
わたしに声をかけているのだろうか。ふとそう思って、周囲を見回した。バスの停留所にはわたし以外、誰もいなかった。
改めて目の前の、その女性を見つめた。
カシミアの品のいいコートに、雪の降り付いた、濃い水色の傘。ゆるくウエーブがかった髪の下に、色素の薄い、
綺麗な人だな、そう思った。そして既視感というのだろうか、どこかで会ったことがある人にも思えた。それがどこで、いつだったのか。全く記憶にはないのだけれど。
「あなた誰ですか? お会いしたこと、ありました?」
怪訝に思いつつ、わたしは訊ねてみた。その人はきょとんとした表情で少しだけ空を……というよりも傘の内側を見上げて、あなたとは初対面じゃないかしら、と言った。
「わたしになにか用ですか」
イヤホンを外しながら、もう一度訊ねる。
「うん。家出? してきたのなら……頼みがあるんだけど。いいかな」
家出。……家出?
さっきも言っていたけれど、この人はわたしを一体なんだと思っているのだろう。……まあ、察しはつくけれど。
わたしは無言で肩をすくめてみせる。話の先を促す。
「実は頼みっていうのはね、ホテル、っていうか旅館に、一緒に泊まって欲しいの」
「……は?」
「予約なしの女ひとりだとさ、急な客だからとかなんとか言われて……断られちゃって。それでつい、咄嗟にね、連れがいるからこれから連れてきますって嘘ついちゃったの。あ、お金はちゃんとわたしが払うから。……駄目かな? 悪い話じゃないと思うんだけど」
胡乱なものを見るような目つきで、わたしは彼女の話を聞いていた。それに気づいたのだろう。彼女もばつが悪そうな顔をした。
「一つ」
指を立てて、わたしは抑揚のない声で言う。
「あなたが嘘をついていないという保証がない。わたしなんか騙してどうしようっていうのかは、わからないけれど。普通見ず知らずの人と一緒にホテルに泊まったりしない」
二つ、とわたしは更に二本目の指を立てる。
「あなたが何者なのか、わたしは知らない。名前も名乗らないような人に、ついていく人なんていない」
最後、三つ目。そう言って立てたわたしの指は、三本になる。
「家出って、決めつけないでください。まあ、わたしの外見を見て未成年だとでも思ったんでしょうけど。チビで童顔だけど、これでも一応お酒だって飲める歳なんです。わかったら消えてください」
彼女は一瞬びっくりした目をしたけれど、次の瞬間、ころころと鈴のように笑った。今度はわたしが驚く番だった。やっぱりちょっと、頭のおかしい人……なんだろうか。
「ごめんね、それもそうね。ちっちゃいから、中学生か、高校一年生くらいに見えたの。だって、今は冬休みの最中でしょう?」
知らないよ、そんなこと。しかもよりにもよって、中学生?
「あのね、申し遅れました。わたし、
そう言って、彼女……志帆は、左手だけで器用に傘を閉じ、手袋をしたままの左手を、差し出してきた。
左手。……左手?
握手に左手を差し出す違和感。そして、方波見という風変わりな苗字に、わたしの中の幾つかの不明瞭な点が線になって繋がるのを感じた。……動かない右腕。方波見、志帆。
……そうだ。そうだった。思い出した。
きらびやかな、光の粒そのものと表現したいくらいのあのピアノの音。情熱的で、それでいて絹のような
「方波見志帆って……もしかして、ピアニストの?」
一瞬、志帆は目を見開く。
「元、だけどね」
そして悲しげに苦笑する。
「でも、嬉しい。わたしを覚えていてくれる人が、まだいたなんて。それより、ほら」
「え?」
「……握手。まだ?」
わたしは慌てて立ち上がり、志帆の左手に、自分の左手を重ねた。
きゅ、っと握りしめられて、それはまるで、心臓を掴まれたように、思えた。
「じゃあ、次は、あなたの名前」
「わたし?」
「うん」
「
「月庭なにさん?」
「……
一花さん。そう呟いて、志帆は微笑む。
「これでわたしたち、知らない者同士じゃなくなったね。どうかしら、あなたの三つの条件はパスできたかな」
わたしは鼻白みながら、ぎこちなく頷く。もっとも、この人がわたしを騙していないとは限らないけれど、……そんなことをして彼女になんの得があるとも思えない。
それに、少しだけ興味も湧いた。この奇妙な状況に、身を任せてみたくなった。騙すなら騙せばいい。どうなってもいい。
だって、わたしはもうどこにも行きたくなかったのだ。ひとりでどこかに行く気力は残っていなかったのだ。疲れて、疲れ果てて、……このまま雪の牢獄に閉じ込められてしまえばいいと、
フロントに並んで立つ。わたしは物珍しげにロビーを見回す。艶やかで、それでいて嫌味な感じはしなくて、天井の高い、実に上品な空間が広がっている。ロビーの中央にはグランドピアノが置かれている。隅の一角の茶の湯の席では、炉に据えられた釜からやわらかな湯気が立ち上っている。
この旅館は雑誌やテレビでも時々見かける、この辺り一帯では一番高級な宿、だったはず。一泊確か……部屋にもよるのだろうが、五万はくだらないはずだ。
「さっきと対応が違うわ」
小声で、志帆がわたしに言う。
「……離れの間、一泊、二名様でよろしいでしょうか」
その声が聞こえているのかいないのか、ぴしっとしたスーツのフロントマンが、確認する。その表情からは感情をうかがえない。職業的無関心。そんな言葉が浮かぶ。
「ええ」
志帆は頷き、左手でぎこちなくサインをする。やはり……あの噂は、本当だったらしい。
わたしは鍵を預かり、荷物を持ったベルボーイの後ろについていく。志帆もわたしの後ろについてくる。どこか楽しそうに、どこか……憂いを帯びた歩調で。
しばらく歩かされたそこは、本館とは渡り廊下で繋がった、本当の離れだった。周りは黒竹に覆われて、中の様子は見えないようになっている。驚いたことに、濡れ縁の先には専用の露天風呂まで用意されていた。室内からは雪に覆われた白い庭が見えた。
「すごい」
わたしの呟きに、志帆は満更でもない表情を浮かべた。いったい一泊いくらするのか、見当もつかなかった。
志帆はベルボーイにチップを渡して下がらせると、左手だけで服を脱ぎ始めた。下着姿になり、ちらり、とわたしを見る。
「浴衣に着替えたいの。手伝ってくれる?」
「うん」
わたしは上着を脱ぎ、部屋に用意されている浴衣を解いた。
「きゃっ」
浴衣を着せるために志帆の肌に触れると、彼女は小さな悲鳴をあげて、身を
「あ、ごめんね、一花さんの手、冷たくて」
「こっちこそ、ごめんなさい」
前身頃を合わせ、帯を締める。志帆は左手で右腕を抱え、軽く胸まで両腕を挙げた姿勢のまま、わたしを見下ろしていた。彼女の顔が近くて、少しだけ胸がざわつく。
志帆の着付けを終え、わたしは座卓についた。締め切られた部屋はいい塩梅に温められていて、力が抜ける。窓の外では相変わらず粉雪が舞っていた。掛け流しの温泉が湯船から溢れて落ちる音が、微かに聞こえている。
「どうして一花さんは……あんなところでじっと座っていたの?」
志帆は窓辺に立って、外の景色を眺めていた。雪が世界を覆っていた。全てを塗り潰すような、それは息苦しいほどの白だった。
わたしは彼女の背中を見つめていた。志帆のためにお茶の用意をしながら、けれども質問には答えずに、黙っていた。
志帆がわたしの向かいに座った。
「お茶。どうぞ」
「ありがと」
左手だけで上手に和菓子の包みを解いていくその様子を、わたしは見ていた。右手は膝の上にだらりと置かれている。
「わたし、あなたのリサイタルを聴きに行ったことがあるわ」
「そう」
湯飲みに口をつけながら、志帆が呟く。白い、感情のこもらない声で。わたしは意地の悪いことを言ってしまったかな、と。少しだけ反省する。
ぼんやりと考える。思い出そうとしてみる。彼女の右手が急に動かなくなってしまったというニュースを、わたしはどこで聞いたのだったか。なにで知ったのだったか。将来を嘱望されたピアニストだったのに。あんなに美しい和音を奏でられる人だったのに。
彼女は、志帆は、……そのことをどう思っているのだろう。
女の一人旅。旅館が厭うのは、首を括られると困るから……ではないのだろうか。そして志帆は、持ち前の明るさの中に、どこかそんな危うい気配を漂わせている。
「やだな。そんな顔をしないで」
わたしを見つめて、志帆が小さく笑う。湯飲みを座卓の上に戻す。
「……不便だけどね。もう気にしてない……って言ったら、やっぱり嘘になっちゃうけど。でも別に、死にに来たわけじゃないのよ。ただ、ふらりと、来てみたかっただけ。前にテレビで見てね、なんとなくここに泊まってみたかっただけなの」
わたしも自分の分の茶菓子の包みを解きながら、そうなんだ、と小声で言う。
「逆に、わたしには……あなたの方が自殺しそうに見えたよ」
「わたしが? それで、声をかけた?」
「ううん。家出少女なら丁度いいかな、って思っただけ」
少女。わたしは苦笑する。
「そして騙されたわたしは、手籠めにされちゃうのね」
「あはは、わたし、女の人とそういうことをする趣味はないってば」
一瞬。
心が冷える。自分でも表情が凍りつくのがわかる。いつもだったら笑って誤魔化すことだってできた。でも、今日は、無理だった。
「ええと、……なんか、いけないこと、言っちゃったかな」
「ううん」
気にしないで。わたしはアスファルトの上の、干からびた蛙みたいな声で、そう続けた。
「ねえ、今日はぱーっとやらない? お金ならあるの。料理のランクも上げてもらって」
「……あのさ、見も知らずの人に、そういうこと言うもんじゃないよ。わたしが悪い人で、あなたを殺してお金を奪っちゃうとか……考えないの?」
「それでもいいよ」
わたしは耳を疑う。息を飲む。
志帆は
「それでもいい。殺したいなら、殺せばいい。どうせわたしにはもう、なんの価値もない」
わたしはカッと頭に血が上って、部屋の隅にドスドスと歩いて行った。そこにある荷物を漁って、一升瓶を取り出した。これを手に入れるために、ただそれだけのために、わたしはこんな場所まで来たのだ。
「え? それ、なに?」
きょとんとした顔で、志帆がわたしと一升瓶を、交互に見る。
「この町の酒蔵でしか買うことのできない、特別なお酒よ。
わたしは座卓に一升瓶を叩きつけるように置き、志帆を睨んだ。
「それに、志帆とわたしは知らない者同士じゃないんでしょう? そう言ったのは志帆でしょう? 一緒に飲みましょう。朝まで」
志帆は一瞬ほうけたような顔をしたあとで、けらけらとお腹を抱えて笑った。
「なによ、見ず知らずとか言ったの、一花さんじゃない。そのお酒、恋する美人って書いてこびとと読むのね」
そして冗談めかして言った。
「そういえば〝こびと〟って……ちっちゃい人って意味もあったはずよね。まるで一花さんみたいなお酒じゃない?」
……ああ。
気づくとわたしの頬に、涙が伝っていた。はらはらと。それは大粒のガラス玉みたいにぽたりぽたりとこぼれて落ちて、座卓を濡らす。とめどなく流れ落ちる。
「一花さん?」
不思議そうに志帆がわたしを見ている。
——こびとって、小さなあなたみたいなお酒ね。
そう言って笑ってくれた彼女は、もう、いない。どこにも、いないのに。
「どうしたの? どうして泣いているの?」
「なんでもない。なんでもないわよ、馬鹿っ」
わたしはぐじぐじと涙をぬぐいながら、一升瓶の封を切った。
名前もよくわからないような凝ったお料理をすべて平らげ、わたしたちはくちたお腹をさすっていた。山あいの町なのに、舟盛りのお刺身は新鮮だった。猪の肉のなんとか焼き、というのも美味しかった。普段コンビニ弁当ばかりの舌と胃には、ことのほか刺激が強かった。
「もう、食べられない」
「わたしも」
顔を見合わせて、苦笑し合う。つい今しがた料理は片付けられ、布団も二枚、敷かれている。座卓は端に寄せられ、部屋は広々としている。畳の青い匂いがする。
掛け軸の中の二羽の
「一花さんって、小さいのに健啖家なのね」
「チビの大食いだって言いたいのね?」
「ううん」
志帆が優しく笑う。
「見ていて気持ちが良かった」
「美味しかったんだもの」
わたしも笑いながら言った。わたしたちは豪華な料理に舌鼓を打ち、それに釣られて杯を重ねた。しかしそれでも日本酒は、まだ瓶の中にたっぷりと残っていた。
「うん。美味しかった。……そして、楽しかった」
志帆の顔がほんのり赤みを帯びている。吐息は酒の甘い匂いを帯びている。
「声をかけたのがあなたでよかった。こんなに楽しかったのって、いつ以来だろう」
左手で猪口を弄びながら、志帆が囁くように、言う。
そう言われれば悪い気はしないけれど、釣り合いが取れていないように思えて、いたたまれない。
「ねえ、ここのお代、わたしにも少し出させてよ」
「いいよ。そんなの。美味しいお酒、飲ませてもらったから。それでチャラ……でいいよ」
指先が、こてん、と。猪口を倒す。
「このまま、死んじゃいたいな」
志帆の爪の先が、猪口を転がす。少しだけ底に残ったお酒が、座卓の上に軌跡を残す。
「そうできたら、幸せなのにな」
「やめて」
わたしの声は、尖っていた。突き刺さるみたいに。自分の心に、突き刺さるみたいに。
「……どうして?」
「夢見が悪いもの。死ぬなんて言わないで」
わたしは言った。
「……あなたの演奏が好きだったわ。ううん、今でも好きよ。あなたの奏でるドビュッシーはほかの誰よりも素敵だと思ったわ。優美な音色のモニク・アースのそれよりも、力強く堅実な演奏のワイセンベルクよりも、洒脱なフランソワのエスプリよりも……あなたのピアノが好きだった。だから」
「だから、なに?」
志帆の声は冷たい。氷のように。未だ降り止むことのない、窓の外の雪のように。
「わたしのピアニストとしての人生は、終わってしまったの。死んでしまったのよ? どうして右手が動かないのか、動かなくなってしまったのか、誰にもわからなかった。それこそありとあらゆる病院に通ったわ。精神的なものかもしれないと思ってカウンセリングも受けた。それでも駄目だった。全部駄目だったの。ねえ、あなたにわたしのなにがわかるの?」
わかるわけがない。志帆がどれほどの絶望を味わったのか。そんなの、わかるわけがなかった。
「あなたの知っているわたしは、ピアニストのわたし。あなたの語るわたしはピアノを弾いていた頃のわたし。わたしの奏でた音でしかわたしを知らないくせに。結局本当のわたしのことなんて、なにも知らないくせにっ」
志帆の激しい言葉を聞きながら、確かに、彼女の言う通りなのだろう……と思った。
でも。
「そうね。知らない。あなたのことなんて、なにも知らないわ。けれどね。……今でも時時、あなたの演奏を思い出すの。わたしも大切なものを失ってしまったんだなってことをね、ふっと思い出すの。あ、だからって誤解しないでね。同情しているわけでもないし、わたしだって傷ついているとか、傷を舐め合いましょうとか、そんなことを言うつもりは更更ないんだから」
この人はなにを言っているんだろう。そんな表情で、訝しそうに、志帆はわたしを見ている。
「あなたと喧嘩なんてしたくないの。本当にあなたの演奏が好きだったから。ううん、今も。目の前のあなたを好ましい人だと思うから。ただ、それだけよ」
息を継ぐ。気持ちを切り替える。
「……ねえ、お風呂に入りましょう。せっかくの源泉掛け流しなのだから。堪能しなきゃ」
わたしは立ち上がって、服を脱いでいった。下着姿になり、少しためらってから、それも取った。
暖房はついているはずなのに。肌が粟立つのは、なぜだろう。
「ご飯食べてすぐだから。胃がぽっこりしてる。……恥ずかしいね」
わたしは志帆を立たせると、ゆっくりと帯を解き、浴衣を脱がせていった。志帆はされるがままになっていた。正面から、抱くように背中に手を回して、カップ付きのキャミソールを脱がせた。
「下はどうする? 自分で脱ぐ?」
真っ赤な顔の志帆に、わたしは訊ねた。
「……任せる」
「じゃあ、遠慮なく」
裸の胸を、志帆は左手で隠している。肌は雪のように白い。わたしの指がショーツに触れると、彼女の体はピクンと震えた。
「指、冷たかった?」
志帆は唇を噛み締めたまま、なにも言わない。わたしはゆっくりと手を動かしていく。
「足を上げて。……手が冷たいのは、心が暖かい、証拠だと思って」
恥ずかしそうに頬を染め、顔をそらす志帆に、わたしは手を差し伸べた。
左手を。
「ほら、行きましょう?」
「……ん」
志帆はそっと。ためらいがちに。
わたしの左手の上に、自分の左手を重ねた。
「さっ、寒い。すごく寒いっ。早く、早く湯船に入んなきゃ」
志帆は唇を
「馬鹿、掛け湯くらいしなさいよ」
わたしが桶で湯を掬って彼女の背中にかけると、きゃっと小さな悲鳴が上がった。
瞬間的に背中が桜色に染まる。白い湯気が、羽衣のように志帆の体を覆う。志帆が恨みがましい目でわたしを見たけれど、わたしは気にも留めなかった。
湯船に肩まで浸かる。するとその分だけお湯が外に溢れた。ざぱり。そんな音を立てて。
「なんかもったいない」
「いいのよ。どうせ掛け流しなんだから」
二人の口から、うーっという呻き声が漏れる。お湯がやわらかい。とろりと肌に絡みついて、体の芯から温めてくれる。気持ちが良かった。
「料理も素敵だったけど。やっぱり温泉が一番ね。最高」
「そうね。わたしもそう思う」
志帆の右腕は湯の中に沈んでいる。ぴくりとも動かない。
「ねえ」
わたしは訊ねた。
「なに?」
とけてしまいそうな声で、志帆が答える。
「その右手は、なにかを感じているの? 温かさや、冷たさや、いろいろなことを」
「運動神経と感覚神経は別系統だって医者は言っていたかしら。だから、……っていうのも変だけど。わたしの右手の感覚は、失われてはいないの。ただ動かないだけよ」
なんでもなさそうに、志帆は言う。その内側にどんな思いを抱えているのか、外側からではうかがい知れない。
「触れても、いい?」
「……右手に?」
「うん」
少しだけ戸惑っていた志帆は、しばらくしてから小さな声で、いいよ、と言った。
わたしは志帆の右腕を胸に押し抱く。かすかに丸められた指先を、両手で包み込む。温泉に温められた、やわらかな、温かい指先。
右手に触れ、優しく愛でるわたしを、志帆がじっと見つめている。
「綺麗な指」
「……使い物にならない、飾りみたいな指よ」
「だとしても、綺麗であることに変わりはないわ」
それはとても綺麗な指だった。しっかりと爪の手入れもされていて、指先に至るまで、傷ひとつ見当たらない。
動かせないことに、動かないことに苛立った夜もあっただろう。八つ当たりしたい日だってあっただろうに。それは本当に綺麗な指だった。本物のピアニストの指だった。
わたしはふと思い立ち、湯船から出た。
体からもわもわと湯気があがる。肌が上気している。そんなわたしを、志帆は不思議そうに見ている。
「どうしたの? もうあがるの?」
「ううん。いいことを思いついたの」
「……いいこと?」
降る雪の冷たさが火照った体に心地いい。
わたしは裸のまま部屋に戻ると、一升瓶を抱えて、志帆の元に戻った。志帆は湯船のへりに腰掛けて、体を休めていた。
「まだ飲むの?」
志帆が呆れたように、言う。わたしは首を横に振る。
「違うわ。……こうするの」
栓を抜き、一升瓶を逆さにする。
日本酒がとくとくとお湯の中に溶けていく。
驚いて、二の句を継げない様子の志帆に、わたしは小さく笑いかける。
「いいの?」
「いいの」
お湯の中に滑り込むと、志帆もまた、同じように湯の中に入り、足を伸ばした。つま先がわたしのふとももに触れた。
温泉の匂いと檜の匂いに、甘い果実のような吟醸香が混ざり合う。不思議な気持ちがした。嬉しいような、悲しいような。自分でも自分の気持ちに、どんな名前をつけたらいいのかわからなかった。自分が今、どんな表情を浮かべているのか、わからなかった。
「一花さん。……おいで」
小さな声で、志帆が言う。
わたしはそっと寄って行って、志帆の首筋に顔を埋め、少しだけ泣いた。
志帆はいつまでも、小さな子どもにするように。左手でわたしの髪を撫でていた。
「このお酒を教えてくれた人はね。わたしの恋人だったの。でも死んでしまって、もうこの世にはいないの。本当は今日その人の命日で……彼女が昔ね、わたしに向かって一花みたいなお酒だねって、笑いながら……そう言ってくれたのよ」
「……そう」
わたしの右手が動いたら。一花さんを両手でちゃんと抱きしめてあげられるのに。
志帆の悲しい囁きが、耳朶をくすぐる。そんな声音で、そう言ってくれただけで、わたしはほんの少しだけ、報われた気がした。
……そうだった。笑っていたんだ。彼女は。最後まで……わたしに、笑ってくれたんだ。やっと、思い出せた。
雪が降っていた。
耳の奥に残る、彼女の奏でる嬰ヘ短調の調べに合わせて。粉のような淡雪がわたしたちの上に、舞うように。
いつまでも降り止まない雪は、まるで曲のモチーフそのままの、ベルガモの民族衣装を身に纏った華やかな踊り子たちみたいに思えた。空から舞い降り、湯の中に消えていくその姿は、ただただ美しかった。
不思議と心が軽やかだった。雪はいつの間にかわたしにとっての牢獄ではなくなっていた。空に手を伸ばすと、指先で雪の結晶が消えた。わたしは本当の意味で……恋人の死を受け入れることが、できたのかもしれない。
わたしと志帆は湯に浸かりながら、今、夜空を見上げている。
星のない夜空を。
いつまでも。
雪が、舞い踊っていた。
パスピエ 月庭一花 @alice02AA
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