4-2 〈ハンナギ〉

 焼き菓子の皿が載ったワゴンを押しながら、イズクは、昨晩のセロとのやりとりを思い出していた。

 魔術師も、食べなければ死んでしまう。魔術師にも、きっと名前がある――考えるほどに、イズクは妙な気分になった。あんなにおそろしく見える魔術師が、自分に似た生き物であるように思えてくるのだ。それが、イズクの思う魔術師というものを、かえってあいまいにさせるのだが。


(――他人が怖くなくなる秘訣を教えてやろうか。どんな奴なのか、知ることだ。知れば、怖くなくなる)


 セロがそう言っていたのを思い出したイズクは、覚えているかぎり、魔術師の姿を頭の中に描いた。

 灰色の髪に、くすんだ金色の瞳。りりしい顔立ち。足にはめられた枷。めったに体を洗わないのか、すえたような匂いをまとっている。好きな食べものは、人間でなければ、たぶん焼き菓子だろう――それしか食べていないようだから。ひどく痩せていて、いつも眠っているか、気だるそうにしているかだ。動きまわっている姿は、見たことがない。


 考えてみれば、イズクは、魔術師のことをほとんど知らない。セロに言われるまでは、知ろうとも思わなかった。食べられてしまえばすべて終わりになるのだからと諦めていたからでもあったし、ただおそろしかったからでもあった。

 だが、イズクと言葉を交わしたときの魔術師は、当然のようにイズクに問いを投げかけ、イズクの答えに返事までした。要領を得ないところもあったが、他の多くの人がそうするように、ごく普通に、イズクと会話をしたのだ。

 あのやり取りを思い出すと、魔術師に直接ものを尋ねるのも、そう難しくないように思えてくる。さすがに、〈僕を食べるつもりですか?〉なんてことは、聞けそうにないけれど。


 ――大丈夫。ああやって話すことができたのだから、今度だって話せるはず。それに、うまくやれば、食べられずにすむかもしれない。そうだ! いっそ、魔術師と仲良くなってしまうのはどうだろう? あの魔術師だって、仲良くなった相手を食べるなんてことはしないはずだ。


 そこまで考えたイズクの頭に、今朝の悪夢がよみがえってくる。

 悪夢の終わり、イズクを受け止めたのは、魔術師のベッドだった。倒れたイズクを、ベッドに座っていた魔術師が、表情なく見下ろしていて……。そこで、目が覚めたのだった。

 思い出すと、喉がしめつけられるような息苦しさに襲われる。けれどもそれは、魔術師のせいではなかった。魔術師よりも、孤児院の皆のよそよそしい目のほうが、イズクにとってははるかに恐ろしかった。

 僕は、お兄ちゃんなんだから――イズクは、何度も自分に言い聞かせた。魔術師の使用人になるべく先生たちに選ばれたこと、魔術師が怖くても我慢できること。すべて、年長であればこそだ。家族に頼りにされているからこそ、イズクはここにやってきたのだ。


 魔術師の部屋の扉は、イズクのノックに応じ、今日もひとりでに開く。

 魔術師と話すことで頭をいっぱいにしていたイズクは、いつものように眠っている魔術師を見て、わずかな失望をおぼえた。これまでは魔術師が起きないように祈っていたというのに、なんだかふしぎだ。

 イズクは、魔術師の方を気にしながら、焼き菓子の皿を取り替えた。昨日運んできた焼き菓子は、まるで減っていなかった。


(――〈食べない〉のか、〈食べられない〉のか、どっちだ?)


 イズクは、ごくりとつばを飲み……おそるおそる、魔術師に近づいた。

 ひどい匂いがする。あまりそばに寄ると、床にまで広がる長い灰色の髪が足首に絡みついてきそうだ。イズクは、足元の髪をよけつつ、魔術師のすがたをながめた。


 見たとおりの灰色の髪、痩せた体。こうして見ると、案外、背は高いのかもしれない。長い手足は、木の枝を削って作ったかのようだ。肌も髪も乾ききっていて、少しつついただけで砕けて粉々になってしまいそうに見える。

 首にかかっている小瓶の中身は、やはり、人間の指だった。薄緑色の液体の中に、第一関節から切り取られた指が浮かんでいる。幅の狭い爪は、女性のものだろうか。

 どうして、自分が食べた相手の指を、こうして大事にしているのだろう? 例えば、夕飯に食べた干し魚の尾っぽなんて、大切にするものだろうか? 記念に取っておくにしても、なんだかおかしな気がする。

 イズクは、魔術師をよく観察した。けれども、どんなに近づいてみても、見た目以上のことはわからないのだった。


 イズクが、もう一度魔術師の顔をよく見ようと、その髪に手を伸ばしたとき。灰髪をくぐって伸びてきた細い腕が、イズクの手首をつかみ、強く引いた。イズクは、抵抗する間もなくベッドに引きずり込まれ、うしろから抱きすくめられるような形で魔術師に捕らえられる。


「いい匂い……」


 かすれた声が、魔術師の吐息が、イズクの首筋をなでる。魔術師の腕が、がっちりとイズクをとらえていた。

 食べられる――直感的に、イズクはそう思った。逃げようにも、恐ろしさのあまり、指先ひとつ動かない。首筋に噛みつかれる感覚を想像すると、額の裏あたりがぴりぴりとしびれてくる。


 言葉を交わせたことで、イズクの魔術師への警戒心は薄らぎつつあったはずだ。けれども今のイズクには、助けを求める悲鳴ひとつ出すことができなかった。心臓ばかりが、こんなにも叫んでいる。

 魔術師の腕が、イズクの腹をなでる。どこがやわらかくておいしいのか、探っているのだろうか。


「おまえ……ああ、昨日のチビ。新しい使用人……」


 魔術師の声が、頭のうしろの方からぽつぽつと聞こえてくる。何を言っているのかは、よくわからなかった。なにしろ、頭が真っ白だったのだ。

 魔術師は、イズクの体のあちこちをなでさすった。やがて、その手がイズクの上衣の下にまで入り込んでくる。冷たい手だった。イズクは、魔術師の爪先に腹を割かれるのを思い浮かべ、身震いした。


「手紙――」


 意識せず、言葉が口をついて出る。

 手紙。そうだ、孤児院の皆が、きっとイズクを心配してくれている。今日にも、手紙の返事が届くかもしれない。死を目前にして、それが一番の心残りだった。

 今朝の、生々しい悪夢がよみがえる。あんなことはあり得ないのだとわかっていても、ちゃんと教えてほしかった。不安な心に、ただ一行でも、一言でも、先生や弟妹の優しい言葉があったなら……。


「もう数日で、家族から手紙が届くはずなんです。それだけ読めれば、もうじゅうぶんなんです。どうか、それまで食べないでいてくれませんか。ほんの数日なんです。絶対、絶対逃げやしませんから……!」


 イズクは、か細い声を上げた。半分は本心で、半分はこの場から逃れるための言い訳だった。

 本当は、なにひとつじゅうぶんではないのだ。こんなふうに死にたくはない。食いちぎられるのだっておそろしい。叶うことなら、この仕事――要するに、〈魔術師のごはん〉だ――からも逃げ出してしまいたかった。


 ――手紙がほしい。家族の皆に会いたい。孤児院に……〈家〉に、帰りたい!


 目の奥が熱くなる。イズクは、唇を噛みしめた。あふれ出した涙が、イズクの目尻から、こめかみのあたりへとつたい落ちていく。

 イズクは、体のこわばりが解けていくのを感じた。脱力した体を、諦めが支配する。イズクは、魔術師の腕の中で、すすり泣いた。

 イズクの態度におどろいたのだろうか。魔術師の手が、少しだけこわばった気がした。


「チビ、どうして泣く」


 魔術師の問いに、イズクは答えられなかった。嗚咽に邪魔されて、うまく声が出ないのだった。

 魔術師は、イズクの腕をつかんでいた方の手のひらで、イズクの頭をなでる。下手ななで方のせいで、イズクの髪はくしゃくしゃになってしまった。


「どこか痛いのか。ひもじいか。そこにある菓子、食べるか」


 魔術師の口調は淡々としていて、問いかけかどうかもあやしかった。だが、その言いぶりからは、なぜだか、イズクを気遣っているような気配が感じられる。

 イズクは、魔術師のそんな態度に――魔術師の態度をそんなふうに感じてしまう自分に、腹がたった。恐ろしくて、悲しくて、いらいらして……。


「どうせ、僕のことなんか……前の使用人みたいに、食べてしまうくせに! それで、僕の指を小瓶に入れて……」


 それ以上は、言葉にならなかった。イズクは、幼い弟妹のように、声を上げて泣いた。いろいろな気持ちが、心の中に渦を巻いている。とめどなく流れて、あふれてしまう。


 孤児院にいたころのイズクは、泣かない子どもだった。弟妹たちのために、泣いてはいけないと思っていた。皆が泣いても、自分ひとりだけはしっかりしていなければならないと思ってきた。だが、うずまき貝に来てからというもの、その気持ちはすっかり失われてしまった。ここに、家族は――イズクを支え、奮い立たせてくれる皆はいないのだ。

 魔術師は、ずいぶん長い間をおいてから、つぶやくように言う。

 

「おまえなんか、食べない。前のも、食べたりなんかしてない。……食べるのは、苦しい」


 魔術師の言葉に、イズクは小さくうなった。

 彼の言うことは、どれも言葉足らずで素っ気ない。彼自身、イズクに興味がないようで、それなのにイズクを気遣うような態度を見せたりもする。

 わけがわからなかった。魔術師の言ったことも、魔術師自身のことも、ぐちゃぐちゃになってしまった自分の気持ちも。


 魔術師はイズクを食べない、前の使用人も食べてはいないと言う。それなら小瓶の中の指は誰のものなのか、なぜものを食べないのか――魔術師に尋ねるべきことは他にもあった。イズクを食べるつもりがないのなら、なぜイズクをつかまえたりしたのか、ということも。


 このうち、三つ目の疑問については、すぐに解決された。鼻をすすったイズクの耳が、魔術師の小さなつぶやきを拾い上げたのだ。〈ぬくい〉、と。

 魔術師は、イズクを使って体を温めようとしていたのだ。いい匂いがしたというのも、イズクが朝、湯を浴びたからに違いない。朝の悪夢のせいで、寝汗で体が冷え、いやな心地だったから――。

 魔術師の手が、イズクの腹をゆるりとなでる。その手は、イズクの体温を移してもなお、ひんやりとしていた。


 感情の波が引き、胸の奥が凪いでくると、魔術師の呼吸が、心音が、そばに聞こえてくる。誰かがこんなにも近くにいるのは、ずいぶん久しぶりな気がした。

 あんなにも恐ろしく思っていた魔術師に抱かれているというのに、イズクは、心地よさを感じていた。それはきっと、彼がイズクを食べないと言ったからではない。

 魔術師に呼びかけようとしたイズクは、彼の名前を知らなかったことを思い出した。


「名前……。あなたの名前、なんていうんですか」


 返事はなかった。規則正しい呼吸の音だけが繰り返される。

 長い、長い沈黙のあと……ようやく、小さな返事が返ってくる。


「――ハンナギ」


 かすかな声だったが、すぐそばにいたイズクは聞き逃さなかった。

 やがて、背後から、浅い寝息が聞こえはじめる。魔術師――ハンナギは、眠っているというのに、イズクを強く抱きしめて離さない。泣きつかれたイズクは、目を閉じて、彼に身をゆだねた。

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光の都《ルミエーラ》の大罪人 ハシバ柾 @fall_magia

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