最終章 東風
思金神から下知を受けて間もなく。灯華達は社を明け渡すよう申し付けられ、稲荷大社には宇迦之御霊神に替わり、新たに
「綺麗ね」
京の都と隣の国との境界にある丘に立ち、下界に広がる京の都を一望しながら、灯華は眩しそうに目を細め感慨深げに呟いた。そこには、かつてのような死と悲しみで満ちていた頃の面影はなく、少しずつ生気を取り戻している京の都の姿があった。水田に張られた水は鏡のように太陽の光を反射させ、空の色を映し出す。
時折吹く初夏の空気をはらんだ風は、水田に植えられた細い早苗を緩やかに凪ぎ、田の水面を細波立たせ、山から吹き降りる風は、萌ゆる新緑を軽やかに揺らし、人々の頬を撫でては駆けてゆく。
これで見納めになるのだろうかと、名残惜しげにゆっくりと辺りを見渡していた時。風に紛れて、天へ届くほど高く澄んだ笛の音と、トン、タトン、と弾むような太鼓の音が聞こえてきた。思わずその音の行方を探すと、遥か遠くに見える田園風景の中で、複数の人達が動いているのが目に映る。次いで、風に乗って微かに届く歌声があった。
―
それは、灯華が初めて人里に下りた時に聞いた田植え唄。
―人が愛おしい。守りたい。慈しみたい。
賑やかに楽しそうに歌いながら、優しく早苗を植える彼らを見て抱いたこの感情は、永い時を経た今でも色褪せることはない。彼らの姿を暫し眺めるうち、チクリと小さな針で刺されたように突然胸が疼き、潔斎場で自分を縛る荒縄の痛みが脳裏をよぎる。あの時受けた痛みもまた、どれだけ時間が流れても消えることはない。
犯した罪を、背負った罰の責任を、忘れるなと心の奥に住む誰かが絶えず囁いている。
「忘れないわ」
誰にも聞こえないくらいに小さく呟いて、己に言い聞かせる。人に抱いた愛しさも、与えてしまった痛みも、共に抱きしめて生きていくと心に決めた。
燦々と日の光が降り注ぐ京の都に向け、灯華はおもむろに両腕を広げ、瞳を閉じる。
(もうこの地の神ではないけれど、せめて最後は、彼らのために祈りたい)
此の地の山里で生まれ育ち、初めて人に出会った。
人を愛しいと思い、憧れ、共に生きることを望んで神となった。
過ちを犯してもなお、自分を信仰する多くの人々の想いによって生かされた。
此の地で生きてきた記憶が瞼の裏に次々と蘇り、その一つ一つを余すことなく心に留め置いて、祈りの糧とする。
灯華の身体を取り巻くように風が生まれ、服や髪を
宇迦之御霊神は、穀物を司る神。
この身体は時に雨に宿り大地を潤し、風となって種子を運び、陽光に灯り穀物を照らし育てゆく。
たとえ姿は見せられずとも、天空を吹く風に乗って触れることはできよう。
たとえ声は交わせずとも、大地に降り落ちる雨の音を通して語りかけよう。
手の触れられない、声も届かないその距離で、人は神に祈り、神は人を想う。
互いに想い合いながら、これからも共に生きていく。
あやしきこの世界の中で。
あやしよにふる 天雨の巻 あんみつ @anmithu
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