明けゆく世界の片隅で


 静寂に包まれた薄闇が、はるか地平まで広がっていた。


 冷たい水のように澄んだ空気が、澪丸の肺を満たす。いまだ朦朧とする意識の中で、少年は目を覚ました。


 最初に目に入ったのは、自分の顔を優しく見つめる、茜の微笑みであった。その後ろには、明け方のような、ほのかに光のさす群青の空が見える。まだ星の残る広い蒼穹と、鬼の娘の顔を交互に見つめて、澪丸はようやく、自分が茜の膝の上で仰向けに寝かされていることを悟った。


「おはよう、お師匠」

「……ああ」


 短いやり取りの後に、体を起こす。ひどく疲れが残っていたが、それは不思議と心地よいものだった。例えるならば、波乱に満ちた夢から覚めたときの感覚のようで。


「俺は、どれくらい気を失っていた?」

「だいぶん、ながいこと。日が暮れたのも、もうずいぶんと前で……そろそろ、夜があけると思う」

「そうか……ありがとう」

「ん?」

「いや、その間ずっと、その……なんだ、俺を見守っていてくれたことに対して、だ」


 「膝枕ひざまくら」という言葉を使うのが気恥ずかしくて、澪丸は別の言葉を選ぶ。少年の頬が、少しばかり朱を帯びた。


 彼の心中を悟ったのか、はたまた赤面したこと自体が面白かったのか、茜は屈託のない笑みを浮かべた。まるで子供を暖かく見守るようなその表情に、澪丸は抗議する。


「……なんだ。なにが、おかしいというんだ」

「ふふ。お師匠ったら、やっぱり、すごくうぶ・・なのね」

「なっ……!?」


 おそらく自分よりも歳が下の茜にそう言われて、澪丸は言葉に詰まる。しかし反論する材料も持ち合わせていなかったので、代わりに、開き直ったようにこう言った。


「俺は、魔神を殺すために、剣術ばかり磨いてきた人間だからな。それ以外のことに疎くても、仕方のないことだろう」


 言い訳をするように告げたあと、「だが」と言葉の終わりに付け加える。そうして澪丸は、一転して真剣な表情で、はるか群青の空を見上げた。


「……これからの俺は、違う。魔神も、魔族も殺す必要がなくなった今、俺は『千魔斬滅』と呼ばれた剣術使いではなく――ただの澪丸として、これからを生きていかなければならないだろう」


 夜の名残りのように淡く瞬く星を見据えて、少年は語る。

 

「戦いに身を置く中では知り得なかったものが、これからきっと、俺の前に立ち現れる。そんな未知に対して、俺は……おまえと共に、驚きも喜びも分かち合っていきたい。――その、なんだ。もちろん、色恋沙汰についてもだ」


 茜の目を見つめながらそんなことを言うのはさすがに気恥ずかしかったので、澪丸は空を見上げたままそう語るのであった。


 幸いにも、茜はそれ以上、澪丸をからかったりするようなことはなく。ただ、明け方の心地よい風だけが、ふたりの間に吹き抜けていった。



 ――と。


 そのとき、小石の上で何かを引きずるような音が、澪丸の耳に入る。


 そちらを向くと、「蛇の女」が、ぼろぼろに擦り切れた着物と体で、動かなくなった片足を地面に擦り付けながら歩いてくるのが見えた。澪丸は一瞬だけ警戒するように構えたが、それを制止するように、彼女が口を開く。


「……痛み入ったよ。私の、あるいは『明神』の負けだ」


 相変わらず低い声ではあったが、その声色に嘘や皮肉は含まれていなかった。


「きみが世界にとって善か悪かは、私にだってわからない。けれど、きみがここで私に打ち勝った以上……尊重されるべきはきみの意志だと、私はそう思うよ」

「――やけに、諦めが良いのだな。おまえはもっと、蛇のように執念深いものだと思っていたが」


 澪丸の問いに、女は乱れきった長い白髪をかきあげてから、長いため息を吐く。


「うん……正直に言って。いろいろと、考えが変わったのだよ」

「なに?」

「そもそも、『明神の化身』とは、『魔神殺し』を為すためだけに生み出された存在だ。明神が、自らが消失したあとにも人間の世を救おうとして生み出したのが、私なんだよ」

「…………」

「だが、私は私が救うべき『人間』というものを知らなかった。この時代は明神暦でいえば三〇〇年にも近いが、『時渡り』を繰り返してここまで辿り着いたがために、私は肝心の『人間』というものが何たるかを知らないままだったんだ。私の中で、彼らはただ、短き生の中で儚く散っていく、弱きものに過ぎなかった」


 蛇の女が浮かべるのは、どこか憂うような、それでいて吹っ切れたような、不思議な表情だった。


「けれど、私はきみを見て、そしてきみに敗れて、ようやく知ることができた。人間はかくも、強く……自らの意志で、力で、己の道を切り拓いていける存在であると。そして、だとすれば――『明神』の介入など、もはや必要ないだろう?」


 そうして彼女は、薄く笑った。


 それは、少なくとも見かけの上では、彼女がこれまで幾度となく浮かべてきた、不敵な笑みと変わらなかった。


「うまくやれよ、『魔神殺し』。きみが下した決断の行く末を、私は遠くから見守ることにするよ。きみが本当に、その娘と常磐ときわに添い遂げることができたときには……まぁ、きみの墓に、酒でも注いでやるさ。だからせめて、酒の味がわかるほどには、長く生き永らえることだね」


 そこまでを告げたとき、ふいに、蛇の女の体が、蛍の光のような粒子となって、風に溶け出した。


 彼女が去ろうとしていることを感じ取って、澪丸は思い出したように口を開く。


「――そうだ。『明神の洞窟』! おまえは、その場所のことを知っているだろう!?」


 慌てたような少年の口調に、蛇の女は虚をつかれたように澪丸を見た。


「ああ。かつて、『明神』が体を休めたことによって、その力の一部が『残り香』として残った洞窟のことを、人間はそう呼ぶのだったね。――きみがこの世界に点在するそれらの、いったいどれを指しているのかは知らないが……それが、どうしたというんだい?」


 澪丸は、かつて凍てつく冬の世界へと「時渡り」したときのことを女へと語る。あの暗い洞窟の中で、この蛇の女が、澪丸を「三〇〇年前」へと戻したという事実を。



 少年の言葉を聞き終えたとき、女は、心底うんざりしたような目で澪丸を睨んだ。その蛇のような視線が、少年の胸に刺さる。


「それは……おそらく、『未来』の私だね。少なくとも、いまの私に心当たりはない。――だとすると、ああ、きみはとてつもなく面倒くさい案件を持ち込んだものだな。数百年の過去へと時渡りできる『勾玉』は、いまの私でも理論くらいは持っている。けれど、『鬼の娘が河原で待ち続けて死ぬ』未来に行くという、時間軸すらも超越するような『勾玉』など、どれだけ頭を捻ってもつくれるかどうか……。いや、ここにおいて重要なのは、その難易度ではなく、少なくともそれが作れてしまうことが確定していることであって、だとするとどれだけ困難で面倒くさくても、私がそれを作るのを諦める理由にはならないということで…………」


 ぶつぶつと呟く蛇の女は、やがてなにかを決断したように「うん」と頷いてから、一転、晴れやかな顔で澪丸のほうを向いた。


「仕方ない、引き受けてやるよ。そのかわり、きみの墓には、酒の代わりに泥水をぶっかけてやることにしよう。そのほうが、きみと私の関係にはふさわしいだろう?」



 その言葉に澪丸が何かを返すまえに、蛇の女は、その体のすべてを淡い粒子へと変えて、少年の前から消え去った。あとにはもう、影も形も残されていない。


「――――、」



 虚空を呆然と見つめる澪丸は、伸ばしかけていた手を引っ込めると、心の中でただ、静かに思う。


(「明神」と、その化身。数千年に渡って世を治めていた「神」の存在など、雲を掴むような話だが……それらがなければ、俺がこの場所にいなかったのもまた事実だろう)


 この旅の中で幾度となく見てきた、あの翠色の光が少年の脳裏に浮かぶ。


(運命、あるいは因縁というものか。俺はどうにも、死ぬまでにまた、あの女と相見える気がしてならない……)


 それは一種の予感に過ぎなかったが、澪丸の心の奥、研ぎ澄まされた勘と呼ぶべきものが、少年へとそう告げていた。何年後か、何十年後か。もうこの日の戦いを忘れてしまいそうになったときに――きっとあの女は、今日と同じ姿で、不敵な笑みを浮かべて、己の前に現れる。澪丸には、そんな気がしてならなかった。



 と、そのとき。


 蛇の女と入れ替わるようにして、ふたつの気配が、地の向こうからこちらへと迫る。今度は警戒するまでもない。遠目からでもわかるあの影は、雅々奈と碗太郎だ。


 巨犬の背に乗った女は、全身の傷も、その痛みも忘れたように鬼気迫る表情で、澪丸を見つけるなり大声を張り上げた。


「おい、おまる野郎! 大変だ!」

「……なんだ」


 なにやら彼女と巨犬はやたらに興奮しているようで、互いに鼻息を荒げている。普通であれば緊張感が生まれる場面かもしれなかったが、この一人と一匹のこと、どうせ大したことではないのだろうと澪丸は高を括る。


「おい、反応悪いな! 聞けよ!」

『わんわん、わおうっ!!』

「……なんだ」


 もう一度同じ言葉を告げた澪丸の反応がそれでも薄かったので、雅々奈はついに待ちきれなくなったように、懐からなにかを取り出した。


 それは、人の拳よりは少しばかり小さい、濃い橙色だいだいいろの果実――つまりは柿であった。


「この島を探検してる最中に、見つけたんだ! この島に生えてる柿、めちゃくちゃうめぇぞ!! もう三個も食っちまった!」

『わわわわわおうっ!!』

「鬼の集落のものを盗んできたんじゃないだろうな……」


 あれだけの死闘のあとでよく遊びまわる気になったな、という少年の言葉は、喉の奥にしまい込まれる。その代わりに澪丸は、その果実と、誇らしげに語る彼女の顔を見て、ひとつため息を漏らした。


 その反応に憤慨したのは、雅々奈である。


「あぁん!? なんだよ、せっかく分けてやろうと思ったのによー! ノリの悪いやつだぜ!」


 怒ったようにそう吐き捨ててから、雅々奈は手にした柿をまるごと飲み込んだ。もう片方の手で持っていたものは、碗太郎の口に放り込まれる。


(こいつらも、なにひとつ変わらんな……)


 至福の表情を浮かべる一人と一匹を見て、澪丸の心の内に呆れるやら安心するやらよく分からない感情が生まれる。その気持ちの名前は澪丸には分からなかったが、少なくとも、彼女たちにつられるようにして、少年の顔にも笑みが浮かんだのは確かなことであった。




 ――ふと、東の空がしらんで、はるか海の向こう、わずかに見える本土の山際から太陽がのぞく。


 それと共に、辺りを覆っていた薄闇は、まるで水に溶けるようにしてその影を失っていった。代わりに立ち現れたのは、この世のすべての生命を呼び醒ますような、あたたかく強い陽の光。


 騒いでいた雅々奈と碗太郎も、その光景に言葉を失ったように、ただそちらを見つめていた。海原に照りかえす白い光が、彼女たちの瞳に、瞬くように映りこんでいた。



 夜明け。


 ここまで美しく広大なそれを、澪丸は見たことがなかった。長い夜が終わって、これから新しい世界が始まる、そんな象徴。なによりも美しく、なによりも希望に溢れた、黎明れいめいの光。



「――ねぇ、お師匠。これから、どうする?」


 少年と同じくその光景に見惚れていた茜が、ふいに口を開いた。彼女は澪丸のほうへと向き直って、小さく首をかしげる。


 澪丸もまた、鬼の娘のほうを向いて、これまで見せたことがなかったような晴れやかな表情を浮かべて、ただはっきりと語った。


「どうだって、できるさ。何処へだって、行ける」



 藍と紅の瞳が、朝焼けの中で交差する。


 それは、始まりゆく世界の中で、なお存在を示すように輝いていた。



「――まだ誰も知らぬ『未来』が、いま、ここから生まれていくのだから」






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魔神殺しよトキワたれ 比良坂わらび @wabisabiwarabi

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