魔神殺しよ常磐たれ
「
八本の腕を持った、
わずかの後、突き破られた壁の内側から、ふたつの影が姿を現す。金棒を持った女と、人の身の丈の倍はあろうかという大きさを持った白い巨犬。彼女たちは動きを止めた大猩々の魔族を見やってから、興奮に満ちた言葉を漏らした。
「なんか、いろいろやべー喧嘩だったけど……とりあえず、雅々奈ちゃんたちの勝ちだぜ! はっはっはっはぁ!!」
『わおぉん!!』
彼女たち――雅々奈と碗太郎の体にもまた、数々の
『……わん?』
と、そのとき、白い巨犬が倒れ伏す大猩々の向こう、楼閣から少し離れたところにある影をとらえて、首をかしげる。相棒のその行動を目にして、雅々奈もまた、遠くに立つ「彼」を見やった。
「……んん? なんだ、ありゃ?」
「彼」は、立ち上る
「おまる、野郎……?」
土煙の中に映し出される影に、雅々奈は刀使いの少年を思い浮かべる。しかし、「彼」から発せられる「気配」は、雅々奈の知るものとは違っていた。
それはある意味で、恐ろしさを増したようでもあり。
そしてある意味で、神々しさを増したようなものでもあった。
あまりにも不可思議なその感覚に、雅々奈もまた、碗太郎と同じように首をひねる。だが、下手に考えてもたいした答えが出るはずもないということは彼女にもわかっていたので、雅々奈はそこで考えるのをやめた。
――やがて、ひとりと一匹が茫然と見守る中で、ゆっくりと土煙が晴れていく。
しだいに姿を現した、「彼」の全貌をとらえて……雅々奈と碗太郎はともに、呆けたように口を開けるのみであった。
*
感じたことのない、熱い感覚が体を支配していた。
全身の血が、煮え立ったかのように熱を帯びる。呼吸をひとつするたびに、手足の先まで力が
(……俺は)
ゆっくりと、閉じていた目を開く。最初に視界に映ったのは、己の体からこぼれ出る、青い光の粒子であった。まるで蛍の光のように飛び交うその小さな粒は、あるときはぶつかって混ざり合い、あるときは分裂してその数を増やす。まるで青い星々が自分を中心として巡っているかのような、神秘的なまでのその光景に、少年は思わず息をのむ。
「……お師匠?」
そこで飛んできた声で、ようやく、腕の中に抱いた娘の存在を悟る。彼女はただひたすらに目を丸くして、己が生きていることを確かめるように心臓に手を当てたあと、不可思議な粒子を体から噴き出す少年のほうを茫然と見つめた。
その紅玉のような瞳を見つめ返したあと――少年はふと、しだいに晴れていく土煙の向こうに、はるか天に向かって伸びる朱い楼閣の姿をとらえた。
首を目いっぱいに伸ばして、その頂上を見る。そこには、射し込む陽の光を受けて翠色に輝く、巨大な岩が「埋まっていた」。あまりにも
そして、また――それらが夢でないということは、高所からの落下に己の体が耐え、さらにどうにかして鬼の娘まで守ったということも、錯覚ではないということである。もっと言えば、いま、じしんの体に起こる不可思議な現象もまた、
『馬鹿な……!? 「
そのとき、低く響くような声が、天から降り注いだ。首を傾けてそちらを向くと、黒雲の隙間から降り注ぐ光の中に、巨大な「龍」がその体を漂わせている。わずかに「蛇の女」の気配を残す、その「
『きみは……紛れもない、「人間」であるはず。魔族にのみ作用する「羅血」の力で、きみが
叫ぶような、声。
苦悶に近い表情を浮かべる「龍」に対し、しかし澪丸はどこまでも冷静に、いまの状況を分析する。
(茜との口づけで、その血が俺の体に入ったことは間違いないようだが……問題は、あの「化身」が言うように、なぜ茜の血が持つ「力」が作用しているか、だ。もしや、俺に元から、魔族の血が流れていたということか……?)
考えるが、心当たりはない。澪丸はただの人間であるはずの両親から生まれてきたはずであり、そこに魔族の血が混じっているなどとは――――
「……まさか」
そのとき、体の内外に
それは、伊波と呼ばれる村で、澪丸が「厭土」に敗れたときのことである。澪丸は宝刀「王水」を漆黒の鬼に奪われ、その刃で体を貫かれた。そのときに、あの黒き鬼の血が――否、もっと言えば、刀に染み付いた、澪丸がこれまで斬り伏せてきた千を超える魔族の血が、澪丸の体の中に入ったのだとすれば……少年の体の中に、「魔族の血が混じっている」という状況も、考えられなくはないのである。
思えば、あのとき腹を何回も貫かれたはずであるのに、澪丸は死の淵から生き返った。到底、人間の力では為し得ないはずのその回復も、ある意味では魔族の持つ生命力が澪丸の体に作用したと説明づけることができるだろう。
(…………数奇な、ものだな)
体の底から湧き上がる力を確かめるようにして、澪丸は思う。
(俺は魔族を恨み、魔族を殺すために力を振るってきた。――それが、魔族の血によって生かされ……茜という魔族を守るために、こうして戦おうとしているのだから)
腕の中の娘へと強いまなざしを向けてから、澪丸はその体をゆっくりと地面へ下ろす。
そうして、しばらく離れた場所に、まるで封印された剣のように刺さる「王水」の姿を認め、少年はそこまで歩み寄った。
深い眠りから呼び覚ますように、瑠璃の宝刀を勢いよく地面から抜き放つ。降り注ぐ陽光を受けて鈍く光るその刀身を、しばし眺めて……なにかを思いついたように、少年は背後の茜へと言葉を投げかけた。
「茜。おまえの血を、もう少しだけ分けてはくれないか」
きょとん、という言葉が似合うほどに茫然とする鬼の娘へと再び歩み寄ると、澪丸はその頬にできた擦り傷に手を当てた。そうして一滴だけ青い血をすくうと、瑠璃の宝刀の峰の部分へとそれをこすりつける。
すると――まるで怪しげな薬を混ぜあわせたときのように、刀身の色がまたたくまに変わってゆき……宝刀「王水」が、まるで満天の夜空の光を一点に集めたかのような、ひときわ鮮やかな光を放った。
『そうか……きみの、刀! それは、「
天から降り注ぐ、龍の声。
『明神といえどその正体を理解できない、不可思議な鉱石。一説では、「
自らの失策に歯噛みするように、「明神の化身」は唸る。
そうして、はるか地上を睨んだ「龍」は、またしても天空から巨大な隕石を呼び寄せる。大気を裂くようにして飛来する翠の巨石は、その周囲に揺らめく炎をまといながら、恐るべき勢いで澪丸たちへと降り注ぐ。
まともにぶつかれば、大地にすり鉢状の穴を開けかねない、その規格外の巨石が、澪丸へと迫って――
その瞬間、追い討ちをかけるようにして、世界そのものの「時が止まった」。
光さす空も、広がる海原も、すべてが灰色に染まり、音が消える。動くものはただ、天を支配するように漂う「明神の化身」と、降り注ぐ翠の岩だけであった。
『は……ははは! これで終わりだ! きみも、魔神の母親も!!』
龍の顎が開かれて、低い
『地獄で後悔するがいい! 恋慕の情などという、一時の気の迷いで……英雄となる機会を逃しただけでなく、人の世に仇なす悪因となったことを!!』
その叫びが終わると同時に、限界まで勢いを増した巨石が、はるか大地へと衝突して――――
ずぱん!! という、いっそ心地よいほどに明朗な音とともに、翠の隕石が「細切れになった」。
『なっ……!?』
眼下で起きた出来事が信じられず、「明神の化身」は驚愕の声を漏らす。続けてその視界に入ったのは、切断されて極限まで小さくなった巨石の破片、その
彼の身体から、そして手にした刀から、青い光の粒子が迸る。無限に湧き出す水のように、その勢いは衰えることを知らなかった。
「……いまの俺には、あの黒き鬼の血が流れている」
藍色の瞳に、いっそう眩しく激しい光を湛えて、少年が口を開いた。
「すなわち……
その宣言とともに、彼は空を斬るように流麗な一閃を放った。
それだけで、灰色の世界が割れるようにして崩れて――天が、海が、大地が、本来の色彩を取り戻す。
唖然とする「明神の化身」は、しばし言葉を失って、ただ吹きつける風にその身をさらす。かつて世界を支配していた存在、その力の一部を持つはずの「彼女」をもってしても、今の少年には及ばないという事実だけが、ただそこに厳然として横たわっていた。
『な……んだ』
震える声が、光の満ちる天へとこだまする。
『きみは、なんだ? 人間か、魔族か? それとも、神に近い次元にまで進化した、まったく新しい「なにか」なのか?』
それは、問いかけのような恐怖であった。過去にも、そして未来にも存在するはずのなかった「もの」が、いままさに眼下で己へと牙を剥いているのだ。時を越えて、すべての事象を知ることができる「明神の化身」にとって、澪丸という少年はまさしく未知の脅威であった。
「人間だ、魔族だなどという括りは、俺にとってはどうでもいいさ」
かつて出会った頃、その括りによって鬼の娘を遠ざけた少年は、いま、なにひとつ嘘偽りのないその言葉を語る。
「俺は、俺だ。それ以外の、何者でもあるはずがない」
『く……あああああああああッ!!』
その答えを耳にするまでもなく、「明神の化身」はさらなる力を振るい、天空から新たな巨石を呼び寄せる。今度は、ひとつやふたつではなく――ゆうに十を超える数の「隕石」が、「鬼ヶ島」そのものに押し寄せた。
降り注ぐ岩の雨、その軌道を見切るように目を細めた澪丸は、茜を脇に抱えると、恐るべき疾さで宝刀を振るう。それだけで、巨石は彼らの頭上で細切れとなり、少年たちを避けるようにして石の雨を降らせた。
(なるほど……これが、「羅血」とやらの力か。無限にも思えるほどの活力が、体の底から湧き出てくる)
視界に映る周囲のすべてが、遅く引き伸ばされたかのような感覚。その中で、澪丸は改めて、茜の血が持つ「力」の恐ろしいまでの効力に舌を巻いた。
絶え間なく襲い来る巨石を躱し、斬り捨て、少年はやがてそのすべてを捌ききった。そうして、はるか頭上、天にその長大な体を唸らせる「龍」を睨む。
(いくら巨石が降ろうと、いまの俺ならば対処できるだろうが……奴そのものをなんとかしなければ、埒が明かん)
「おまる野郎ぉーっ!!」
と、その時、澪丸の横合いから、怒声にも近い叫び声が飛んでくる。
そちらを向くと、体じゅうに傷を負った雅々奈と碗太郎が、楼閣の横に空いた穴から飛び出てくるところであった。
「おまえたち……生きていたか!」
「あったりめーだろ、雅々奈ちゃんを誰だと思ってんだ! 雅々奈ちゃんだぞ!」
『わわんっ!!』
彼女たちは満身創痍ではあったものの、その目には強い命の光が溢れていた。そんな一人と一匹を見て、澪丸の心の内に、安堵のようなあたたかい波紋が生まれる。
「そっちこそ、なんだかやべーことになってんな! ――ほら、これ! 要るんだろ!?」
こちらまで走り寄ってきた碗太郎の背から降りた雅々奈は、器用に折れていないほうの足で澪丸へと近づくと、手にした細長いものを前に差し出す。
簡素な意匠が施された、瑠璃色の鞘。それはまさしく、宝刀「王水」のそれに相違なかった。
「おまえ……どうして!?」
「なんか天井がぶち破られたあとに、これが落ちてきたんだ。そのときはさすがに拾ってる余裕はなかったけど、ごりら野郎を倒したあと、おめえが
奥義「禍瑠璃天鞘」によって漆黒の鬼の心臓に刺さった鞘が、同じ技によって貫通した朱色の楼閣の中を落ちていく――そんな光景が、澪丸の脳裏に浮かぶ。
渡された鞘を受け取って、澪丸は随分と久しぶりに感じるその重みを確かめるように鞘を強く握りしめた。
「ともかく、助かった。――茜! もう一度だけ、血を分けてくれ!」
今度は鬼の娘のほうへと向きを変えて、澪丸は宝刀そのものと同じように、その鞘にも「羅血」を擦りつけた。すると、またしても瑠璃色が渦を巻いて、鮮やかな光がその表面に迸る。
「なんだ!? 鬼っ子の血がついて、色が変わったぞ!?」
「説明している暇はないし、俺もよく理解しているわけではないが……ともかく、これで鞘そのものの強度が上がったはずだ」
澪丸の説明に、雅々奈と碗太郎が目を丸める。確かに、にわかには信じがたい出来事であろうが――
「すっげぇ! なんか分かんねーけど、雅々奈ちゃんたちも唾つけとくぜ! もっとぴかぴか光るかもしんねー!」
『わおんっ!』
そう告げるや否や、雅々奈は指先を舌につけたあと、澪丸が手にする鞘にそれを擦りつける。碗太郎は碗太郎で、大きな桃色の舌をべろりと出して、鞘にべっとりと唾液をつけた。
「おまえたち……」
その行動に絶句する澪丸であったが、当の彼女たちは鞘に何も変化が起きないことを本気で悔しがっているようだった。「なんでだよ!?」と雅々奈が叫んでいたが、そんな彼女に背を向けて、澪丸は再び天空を揺蕩う「龍」へと視線を移した。
『「羅血」……その力は、あってはいけないものだ! 理を破壊し、この世を混沌へ陥れる! ここで絶やさずして、どうして人の世を守れようか!!』
『魔神は……魔神だけは、絶対に殺さなければならないんだ!!』
叫び、巨大な龍はその体をうねらせて地上へと猛進を始める。まるで流星のように、翠の鱗に覆われた体から残像が生まれた。
大気を引き裂いて降下する「明神の化身」は、その顎を開き、澪丸と茜を噛み砕かんと迫る。
「……俺が、一時の気の迷いで、茜と添い遂げる道を選んだと……おまえは、そう語ったな」
襲い来る神の威容を目の当たりにしてもなお、澪丸は臆さなかった。それどころか、なおいっそう泰然とした構えで、飛来する龍を見据える。
刀を、静かに鞘へと納めて。
最後にして最終の「奥義」を繰り出すために――少年は、その身を極限まで捻る。
「それが果たして、一時の気の迷いであったか……あるいは俺の想いが、永劫に続く、
竜巻のようにその身をうねらせて降下する、龍。
やがて、両者の距離が限界まで肉薄した瞬間――
それは「明神の化身」が開いていた顎の中に吸い込まれると、喉の奥へと消えていく。
続けて。
あれほどの勢いで体を降下させていた巨大な龍の、その動きが止まり――まるで何かに引き寄せられるようにして、翠の巨体は上昇を始めた。
体と同じく、翡翠のような玉石でできた目玉をめいっぱいに剥いて、「明神の化身」はそれに抗おうとするが――その長大な体は、ぐんぐんと、天へと引き寄せられていく。
『ぐ……アアアアアアアアアアアアッ!?』
己の体を引き上げる「異物」を取り除こうと龍はもがき、それでも莫大なそれの推進力の前では、いかなる努力も無駄であった。恐るべき勢いを持った「鞘」が、龍の体をただ天空へと無限に引き上げていく。
やがて――はるか空の上、黒雲の割れ目に達したところで、ついに、「明神の化身」の体に亀裂が入った。内側から突き破らんとする「鞘」の威力に、その体が耐えられなくなったのである。
『は、はは……! 青いな、「魔神殺し」……!!』
崩壊していく己の体を認めて、「明神の化身」が言葉を発した。
やがて、最後に――砕け散る間際、「彼女」が放った一言が、はるか地上の澪丸へと届いた。
『……だが。真の意味で未来を変えられるのは、絶対なる力を持った神などではなく……きっと、きみのような――――』
その先は、聞こえなかった。
ひときわ大きな破砕音とともに、龍の体が天空で爆散する。散らばった翠の破片が、陽光を反射して煌めいた。
「…………、」
空中で行き場を失い、ついに力を使い果たしたように落下を始める瑠璃色の鞘を見つめながら、澪丸はただ無言で立ち尽くす。
やがて、少年の体から立ち昇る光の粒子が、その勢いを弱めて――ついにそのすべてが虚空に溶けるようにして消え去ったとき、澪丸は眠るようにしてその場に倒れ伏した。
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