契り


 為すすべもなく、澪丸の体がはるか地上へと吸い寄せられていく。ごうごうと唸る風の音が、澪丸の鼓膜を破らんばかりに耳元で鳴っていた。


 命ある者ならば等しく持ち合わせる、「死への恐怖」が澪丸を襲う。しかし、心臓が凍りつきそうな感覚の中で、少年はそれでも、隣でまた同じように中空を落ちる娘へと手を伸ばした。


「――茜!」


 巨石が降った余波によって、頭を打ちつけたのか――彼女は、力なく手足を投げ出すようにして気を失っていた。その小さな体が、空気の波にのまれるようにして天空を落ちる。


 澪丸はもう一度その名前を叫び、手を伸ばすが、その指先は虚しく空を切るばかりであった。歯噛みして、それでも懸命に、何度でも手を伸ばしつづける。


(おまえは、おまえだけは、絶対に死なせない……!)


 必死の形相で腕を伸ばして、それでも届かないそのさまは、まるで川に溺れた者が岸を求めてもがく様子に似ていた。


 だが――どれだけ無様な姿を晒そうとも、澪丸は手を伸ばしつづけることをやめなかった。自らもまた命の危機に瀕しているにも関わらず、少年はただ、鬼の娘を助けるため、ひたすらに足掻く。



 やがて、その想いが通じたように……あるいは、風向きの気まぐれによって、鬼の娘の体が澪丸のほうへわずかに近づいた。その機を逃さず、澪丸はあらん限りの力を振り絞って、両腕を伸ばす。


 ようやく掴み、抱き寄せた娘の体は、気を失っているにも関わらず、ひどく軽かった。しかし、そのわずかな重みは、澪丸にとって、どんなものよりも大切であった。少年はほんの一時だけ、この状況を忘れたように――まぶたを閉じた彼女の顔へと、穏やかな笑みを向ける。


「――――、」


 そのとき、ふいに茜の目が開いた。細やかな睫毛まつげの奥に、紅玉のような瞳がのぞく。


「お、師匠……?」

「茜! 目を覚ましたか……!」


 腕の中の彼女の体が、思い出したようにあたたかい熱を帯びる。その温もりを、一片たりとも逃さないように強く抱きしめて、澪丸は告げた。


「俺が、下敷きになる。それでどうにかなる高さではないが……なにがあっても、俺はおまえを死なせはしない。絶対に……絶対にだ!」


 悲壮なる覚悟を決めた少年の言葉に、しかし、鬼の娘はなにも返さなかった。


 そのかわり、どこか満たされたように顔を綻ほころばせて、茜は薄い唇を開いた。


「ああ……やっぱり。お師匠は、お師匠ね」

「茜……?」


 突然に告げられた彼女の言葉に、澪丸は戸惑うように目を細めた。


「強くて、優しくて、それでいてすごく不器用で。じぶんが傷ついたとしても、だれかのために必死でたたかう」


 それはまるで、歌うような言葉だった。小柄な娘の、細い喉から漏れる声は、落下の風圧で生まれる騒音をすり抜けるようにして、少年の耳にまで届く。


「いつだって、そうだった。お師匠は、わたしを守ろうとしてくれた。そんな、お師匠にだったら……ころされてもいいって、わたしは本気で思っていた」


 澪丸が、魔神の母親として彼女の首をはねようとしたその時を思い出すように、彼女は告げる。


 そうして、ほんの少しだけ真剣な表情をつくってから、茜は続く言葉を語った。



「……でもね。さっき、ひとつだけ言い忘れたことがあるの。――ううん、わたしがあえて、言わなかっただけなんだけれど」


 すでに、地上はすぐそこまで迫ってきている。楼閣の周囲は、無造作に岩が転がる荒地であった。たとえ運が良くても、体がもとの形をとどめるというだけで――即死は免れないだろう。運が悪ければ、まるで踏み潰された虫のように、醜悪に血を撒き散らして死ぬ。


 そんな状況にあって、茜はただ、まっすぐに澪丸を見据えていた。落下の恐れも、死への怖れも、そこには微塵も見られなかった。



 息を、深く吸って。


 咲き誇る花のような笑顔を見せてから、彼女は告げた。



「――お師匠。わたしは、お師匠のことが好き。これまでも、そしてこれからも。たとえ天地がひっくり返っても……なにもかもが変わってしまったとしても。この気持ちだけは、きっといつまでも変わらない、誰にも変えることができない、たいせつな『思い』よ」



 ――常磐ときわたる、思い。



 なにもかもが変わりゆく、荒れ狂う時の流れの中に……それはまるで、たったひとつ輝く、紅い宝石のようにそこにあった。決して変わることのない、決して褪せることのない、愛という瞬きだけが、終わりゆく世界で光を放っていた。



「――そうか」


 澪丸はただ、それだけを告げる。

 

 気の利いた返しができるほど、少年は粋な人間ではなかった。けれど、野暮に走るほど無粋でもなかったので、ひとつだけ笑ってから、静かにその唇を鬼の娘へと重ねた。



 永遠よりも永いその刹那、曇天を割るようにして射し込む光が、ふたりを照らす。




 だが、決して、時は止まってはくれず――慈悲なき運命にのまれるようにして、彼らの体はついに、地上へと打ちつけられた。




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