紅く、藍は燃えさかりて
――あらためて……助けてくれて、ありがとう。わたしの名前は、
もしも、自分が「時渡り」をした先が、あの桜並木でなければ。
あるいは、自分が彼女を見殺しにしていたとすれば。
この結末は変わっていたのかもしれないと、澪丸は思う。
――そうだ。あなたのこと、これからは『お師匠』って呼ぶわ。強いから、お師匠。とても単純。
けれど、もしそうなっていたとすれば。彼女はきっと、人間を恨んだままに死んでいったことだろう。あるいは、茜と出会わなかったことによって、鬼を恨んだままの澪丸が――ただ敵意のままに、「魔神の母親」である彼女を殺すことになっていたのかもしれない。
どのみち悲劇は避けられなかったわけだ、と、澪丸はほんの少しだけ諦めたように笑う。
――わたしは、たすけてもらったひとがお師匠で、よかったとおもっているわ。
記憶の中の、彼女は……まるで地獄に咲いた一輪の花のようで。力を持たぬにも関わらず、苦境にあってなお強く咲き誇るその姿は――血に塗れ、魔神への復讐のために生きてきた澪丸にとって、なによりも強く、あざやかに映った。
その、花を。
澪丸は、自らの手で
それが。
それこそが。
――「魔神殺し」を為す、唯一の道なのだから。
*
乾いた音をたてて、瑠璃の宝刀が焼けた絨毯の上に転がった。
刀を手放した自らの両手を凝視しながら、澪丸は膝から崩れ落ちる。先の戦いで受けた傷から、思い出したように鮮血が滲み出した。
「……できない」
ぽつりと漏れたのは、心からの声であった。
「俺には……できない。たとえ『魔神』の母親であろうと、おまえを殺すことなど……俺に、できるはずもない……!」
苦悶に顔をゆがませて、澪丸は拳を強く握る。うつむく少年の頬に、一筋の暖かい
黒い雲に覆われた空が、重く澪丸の肩へとのしかかる。吹き荒れる湿った風が、破れた旅装束を揺らした。
(なにか……手は、ないのか? 茜を殺さず、魔神を殺す……そんな、
悩み、思考を巡らせるが、答えは出ない。ただ、無為に、時間だけが澪丸をあざ笑うように過ぎ去っていった。
――そのとき。
「……ふふ」
かすかな、ほころぶような、笑い声が聞こえた。
目を丸くして、澪丸がそちらを向くと――茜が、澪丸と同じように、涙を流しながら、それでも嬉しそうに笑みを浮かべていた。その真意が汲み取れず、少年は
すると、茜のほうから、澪丸へと言葉が投げられた。
「うれしいなって、おもったの」
彼女は涙を袖でぬぐいながら、喉の奥から絞り出すような声を漏らす。
「わたしをころさなければ、世界が滅びてしまうとしても。お師匠が、それでもわたしをたいせつにおもっていてくれたことが……わたしは、なによりもうれしい」
花弁が散り、それでもなお美しさを失わぬ花のように。
終わりを迎えつつある世界の中で、彼女はそれでも強く咲き誇っていた。
「――――、」
その姿を目の当たりにして、澪丸はただ、なにも言うことができなかった。少年が名前を知らぬ、けれどなによりも大切な感情が、その心に渦巻く。それは、冷えた体を芯から温めるような、心地よい波紋を澪丸の胸の内に呼び起こした。
溶けるように穏やかな、それでいて燃えさかる炎よりも激しいその感情に、澪丸はしばらく体をゆだねて――そこでようやく、少年はそのぬくもりの名前を知る。
そうして、澪丸は、満たされたように、薄く笑った。
(……ああ、そうか)
涙に濡れた藍色の瞳で、はるか太陽を見通すように、曇天を仰ぎ見る。
心に浮かんだ、ひとつの「答え」を……その選択の重みを、噛みしめるように。
(難しい話なんかでは、なかった。俺がすべきことは、たったひとつ――――)
「……話は、終わったかい?」
そのとき、声が聞こえて、蛇の女が階下から姿を現した。地を這うような低い声は、冷徹な響きをもって澪丸へと届く。
彼女は床に転がった宝刀と、まだ息のある茜を交互に見比べてから、長い、長いため息をついた。
「……正直に言って。きみはこの娘を殺すだろうと、私は思っていた」
それは、わざとらしく、
彼女は長い髪をかきわけてから、最後の確認をするように、澪丸へと問いかける。
「きみは、この娘を……『魔神の母親』を、殺さないことに決めたのだね?」
「……ああ」
床に落ちた宝刀を拾い上げてから、澪丸は蛇の女へと向き直る。その
そのかわりに灯った、激しく揺らめく青い炎のような意志が、まっすぐに蛇の女を射貫く。
「俺は、茜を殺さない。……だが、それは、人間の滅亡を甘んじて受け入れるということじゃない」
少年の言葉に、蛇の女は目を見開いた。今度ばかりは作為的なものではなく、彼女は本心から驚いているように見えた。
虚をつかれたことに対し、少しばかり苛立ちを覚えたのか、蛇の女は語気を強くして告げる。
「……
「道理なら、あるさ」
体を痺れさせるような怒気がこもったその声にも、澪丸は動じなかった。
そして、彼にしては珍しく、一片のためらいも――あるいは恥じらいすらも感じさせない、からりとした快活な口調で、語った。
「
澪丸のほか、ふたり――蛇の女と茜の反応をあらわすのに、それ以上にふさわしい言葉は見つからなかった。
少し遅れて、茜の顔が、その瞳と同じほどまで紅潮した。口の端から声が漏れるが、それは意味のある言葉になる前に途切れ、空気に溶けるようにして消えていく。
蛇の女は、茫然とした表情でしばらく澪丸のほうを眺めていたが――やがて我にかえったように瞬きを数回すると、天に向けて声高く笑い声を飛ばした。
「は……はははははははははは! おもしろい、ことを言う……!」
彼女は、平時の落ち着いた物腰を崩して、心の底からおかしそうに、笑う。
「それが、きみの『答え』かね!? さすがは、生まれて十年やそこらの若造だ! 青臭い……じつに、青臭い! いかに最強の剣術使いといえど、心の内は、
そうしてひとしきり笑い終えてから、冷静になったように、蛇の女は乱れた長髪を指先でかきあげる。
彼女の、虹彩が縦に長く伸びた、蛇のような瞳が澪丸を睨んだ。
「……わかったよ。よおく、理解した。――きみが、『魔神殺し』足り得ないということをね」
その瞬間に生まれた、蛇の女の殺気が膨れ上がる気配を、澪丸は逃さなかった。
彼女が、首にかけた無数の「常磐たる勾玉」のうちのひとつに手を伸ばす前に、数歩の距離を詰めて宝刀を振りぬく。
間髪入れずに、刃の切っ先を女の喉元につきつける。
「……『きみがその娘を殺さないというなら、私こそが「魔神殺し」となろう』……という、なかなかに
刃を喉に突き立てられているというのに、蛇の女はこともなげにそう語る。
その動きに警戒しながらも、澪丸は彼女へと告げた。
「おまえの持つ、『時を操る力』は……使われてしまえば、こちらには為すすべがない。問答無用で先手をとらなければならないことくらい、俺だって理解しているさ」
覇気を込めた口調でそう言いながらも、澪丸はこの後に自らがとるべき行動に対し、答えを出せずにいた。
――この女は人喰いの魔族でもなければ、人間の存在を脅かすような「災厄」でもない。むしろ、彼女は人の世を救おうとしている存在である。
たとえ茜を殺そうとしているとはいえ、そのような者を斬り捨ててしまっても良いものか と、澪丸は
だからこそ、判断が遅れた。
「ああ。面倒くさいのは、嫌いなんだが……このままでは、どうやら私はきみに勝てないようだ」
嘆くような声が、澪丸の耳に届く。
それと同時に、蛇の女の体が、翠色の粒子のようなもので覆われ――澪丸が弾かれたようにして刀の先を女の首に打ち込んだときには、すでに、その体は実体なき光と化していた。
刃がすり抜ける感触に、澪丸は目を見開く。続いて横薙ぎに一閃を放つが、それもまた光の粒を振り払うだけで、女にはなにひとつ傷を与えられなかった。
「できることならば、この姿を誰かに見せることは避けたかった。――だって、面倒くさいだろう? いまこの姿を顕すことによって、後世に『神話』なんかを残されてしまっては」
そのまま、翠の粒子は、かたちを変えながら宙を舞い、はるか天空へと上昇していく。蛇のような目をした女の姿は、とうに掻き消えて――その光は、
瞬間、渦を巻く粒子の上、あれほど厚く層を為していた曇天の空の、どす黒い雲が割れる。その隙間から、溢れんばかりの、純白の陽の光が降り注いだ。
やがて、煌びやかに輝く粒子の数々が収束し、実体を為したあと……後光が射し込むなか、あまりにも神々しい、その光景に浮かび上がったのは――
全身を翠の玉石のような鱗で覆われた、「
牙が並ぶ
天空に浮かび、たゆたうように体を唸らせる、それは――まるで澪丸が幼い頃に見た、絵巻物の中の存在がこの世に顕現したかのようであった。驚きを通り越して、
『私は、「明神」の力のうち、数十分の一ほどしか持ち合わせぬ、「化身」に過ぎない存在ではあるが――』
見惚れる暇すらも、与えられず。
天に響き渡る、澄んだ鈴のような声と共に……澪丸たちを見下ろす「龍」の頭上、黒雲の割れ目から、巨大な「なにか」が飛来する。
それは、家屋ほどの大きさを持った、翠に輝く巨石であった。まるで流星のように鮮やかな翠の残像を残し、恐るべきはやさで迫り来るその隕石を目にして、澪丸の体が硬直する。
『――きみたちを、地獄に送ることくらいはできるさ』
迎撃する余地すら与えられず、天から降り注いだ巨石が、剥き出しになった楼閣の最上階へと激突する。
鼓膜が破れるような轟音が響いて、その巨石から逃れようとした澪丸の体が宙へと放り出される。直撃は免れたものの、その余波にのまれた少年の体は、すでに壁が破壊されていた楼閣の縁の外へ飛び出して――おびただしい量の瓦礫と共に、はるか地上へと落ちていく。
心臓が縮むような感覚の中、少年が足掻くように手を伸ばした先には――同じく宙へと吹き飛ばされた、鬼の娘の姿があった。
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