紅く、藍は燃えさかりて


 ――あらためて……助けてくれて、ありがとう。わたしの名前は、あかね。この赤いツノにちなんで、母さんがつけてくれたの。――あなたの名前は?



 もしも、自分が「時渡り」をした先が、あの桜並木でなければ。

 あるいは、自分が彼女を見殺しにしていたとすれば。


 この結末は変わっていたのかもしれないと、澪丸は思う。



 ――そうだ。あなたのこと、これからは『お師匠』って呼ぶわ。強いから、お師匠。とても単純。



 けれど、もしそうなっていたとすれば。彼女はきっと、人間を恨んだままに死んでいったことだろう。あるいは、茜と出会わなかったことによって、鬼を恨んだままの澪丸が――ただ敵意のままに、「魔神の母親」である彼女を殺すことになっていたのかもしれない。



 どのみち悲劇は避けられなかったわけだ、と、澪丸はほんの少しだけ諦めたように笑う。




 ――わたしは、たすけてもらったひとがお師匠で、よかったとおもっているわ。



 記憶の中の、彼女は……まるで地獄に咲いた一輪の花のようで。力を持たぬにも関わらず、苦境にあってなお強く咲き誇るその姿は――血に塗れ、魔神への復讐のために生きてきた澪丸にとって、なによりも強く、あざやかに映った。



 その、花を。


 澪丸は、自らの手で手折たおらなければならない。



 それが。



 それこそが。




 ――「魔神殺し」を為す、唯一の道なのだから。






 乾いた音をたてて、瑠璃の宝刀が焼けた絨毯の上に転がった。


 刀を手放した自らの両手を凝視しながら、澪丸は膝から崩れ落ちる。先の戦いで受けた傷から、思い出したように鮮血が滲み出した。


「……できない」


 ぽつりと漏れたのは、心からの声であった。


「俺には……できない。たとえ『魔神』の母親であろうと、おまえを殺すことなど……俺に、できるはずもない……!」


 苦悶に顔をゆがませて、澪丸は拳を強く握る。うつむく少年の頬に、一筋の暖かいしずくが垂れた。


 黒い雲に覆われた空が、重く澪丸の肩へとのしかかる。吹き荒れる湿った風が、破れた旅装束を揺らした。



(なにか……手は、ないのか? 茜を殺さず、魔神を殺す……そんな、絵空事えそらごとのような未来を叶える、そんな手は……!?)


 悩み、思考を巡らせるが、答えは出ない。ただ、無為に、時間だけが澪丸をあざ笑うように過ぎ去っていった。



 ――そのとき。



「……ふふ」


 かすかな、ほころぶような、笑い声が聞こえた。


 目を丸くして、澪丸がそちらを向くと――茜が、澪丸と同じように、涙を流しながら、それでも嬉しそうに笑みを浮かべていた。その真意が汲み取れず、少年は唖然あぜんとして固まる。


 すると、茜のほうから、澪丸へと言葉が投げられた。


「うれしいなって、おもったの」


 彼女は涙を袖でぬぐいながら、喉の奥から絞り出すような声を漏らす。


「わたしをころさなければ、世界が滅びてしまうとしても。お師匠が、それでもわたしをたいせつにおもっていてくれたことが……わたしは、なによりもうれしい」


 花弁が散り、それでもなお美しさを失わぬ花のように。

 終わりを迎えつつある世界の中で、彼女はそれでも強く咲き誇っていた。


「――――、」


 その姿を目の当たりにして、澪丸はただ、なにも言うことができなかった。少年が名前を知らぬ、けれどなによりも大切な感情が、その心に渦巻く。それは、冷えた体を芯から温めるような、心地よい波紋を澪丸の胸の内に呼び起こした。


 溶けるように穏やかな、それでいて燃えさかる炎よりも激しいその感情に、澪丸はしばらく体をゆだねて――そこでようやく、少年はそのぬくもりの名前を知る。


 そうして、澪丸は、満たされたように、薄く笑った。



(……ああ、そうか)


 涙に濡れた藍色の瞳で、はるか太陽を見通すように、曇天を仰ぎ見る。


 心に浮かんだ、ひとつの「答え」を……その選択の重みを、噛みしめるように。



(難しい話なんかでは、なかった。俺がすべきことは、たったひとつ――――)




「……話は、終わったかい?」


 そのとき、声が聞こえて、蛇の女が階下から姿を現した。地を這うような低い声は、冷徹な響きをもって澪丸へと届く。


 彼女は床に転がった宝刀と、まだ息のある茜を交互に見比べてから、長い、長いため息をついた。


「……正直に言って。きみはこの娘を殺すだろうと、私は思っていた」


 それは、わざとらしく、芝居しばいがかった口調であった。あまりにも興醒きょうざめした気分を、覆い隠そうとするかのように。


 彼女は長い髪をかきわけてから、最後の確認をするように、澪丸へと問いかける。


「きみは、この娘を……『魔神の母親』を、殺さないことに決めたのだね?」

「……ああ」


 床に落ちた宝刀を拾い上げてから、澪丸は蛇の女へと向き直る。そのまなこからは、もう、涙の跡も――そして迷う感情も、消え失せていた。


 そのかわりに灯った、激しく揺らめく青い炎のような意志が、まっすぐに蛇の女を射貫く。


「俺は、茜を殺さない。……だが、それは、人間の滅亡を甘んじて受け入れるということじゃない」


 少年の言葉に、蛇の女は目を見開いた。今度ばかりは作為的なものではなく、彼女は本心から驚いているように見えた。


 虚をつかれたことに対し、少しばかり苛立ちを覚えたのか、蛇の女は語気を強くして告げる。


「……頓智とんちをしようっていうのなら、いますぐに失せてもらえるかな。その娘が、『魔神』やそれを超えうる『災厄』を産み出すと……私は言ったはずだ。それを殺さずして人間の滅亡を避けられる道理が、どこにあるというんだい?」

「道理なら、あるさ」


 体を痺れさせるような怒気がこもったその声にも、澪丸は動じなかった。


 そして、彼にしては珍しく、一片のためらいも――あるいは恥じらいすらも感じさせない、からりとした快活な口調で、語った。




俺が・・茜を妻とすればいい・・・・・・・・・。強大な魔族と結ばれたとき、こいつが『災厄』を産み出すというなら――俺がこいつを、生涯にわたって愛すればいいだけの話だ」




 唖然あぜん


 澪丸のほか、ふたり――蛇の女と茜の反応をあらわすのに、それ以上にふさわしい言葉は見つからなかった。


 少し遅れて、茜の顔が、その瞳と同じほどまで紅潮した。口の端から声が漏れるが、それは意味のある言葉になる前に途切れ、空気に溶けるようにして消えていく。



 蛇の女は、茫然とした表情でしばらく澪丸のほうを眺めていたが――やがて我にかえったように瞬きを数回すると、天に向けて声高く笑い声を飛ばした。


「は……はははははははははは! おもしろい、ことを言う……!」


 彼女は、平時の落ち着いた物腰を崩して、心の底からおかしそうに、笑う。


「それが、きみの『答え』かね!? さすがは、生まれて十年やそこらの若造だ! 青臭い……じつに、青臭い! いかに最強の剣術使いといえど、心の内は、恋慕れんぼに燃える少年というわけか!!」


 そうしてひとしきり笑い終えてから、冷静になったように、蛇の女は乱れた長髪を指先でかきあげる。


 彼女の、虹彩が縦に長く伸びた、蛇のような瞳が澪丸を睨んだ。



「……わかったよ。よおく、理解した。――きみが、『魔神殺し』足り得ないということをね」



 その瞬間に生まれた、蛇の女の殺気が膨れ上がる気配を、澪丸は逃さなかった。


 彼女が、首にかけた無数の「常磐たる勾玉」のうちのひとつに手を伸ばす前に、数歩の距離を詰めて宝刀を振りぬく。みねで打った女の指先が、弾かれたように天へと伸びた。


 間髪入れずに、刃の切っ先を女の喉元につきつける。


「……『きみがその娘を殺さないというなら、私こそが「魔神殺し」となろう』……という、なかなかにすました・・・・台詞せりふを、考えていたのだけれどね。それを言う前に動くのは、いささか反則ではないだろうか?」


 刃を喉に突き立てられているというのに、蛇の女はこともなげにそう語る。


 その動きに警戒しながらも、澪丸は彼女へと告げた。


「おまえの持つ、『時を操る力』は……使われてしまえば、こちらには為すすべがない。問答無用で先手をとらなければならないことくらい、俺だって理解しているさ」


 覇気を込めた口調でそう言いながらも、澪丸はこの後に自らがとるべき行動に対し、答えを出せずにいた。


 ――この女は人喰いの魔族でもなければ、人間の存在を脅かすような「災厄」でもない。むしろ、彼女は人の世を救おうとしている存在である。


 たとえ茜を殺そうとしているとはいえ、そのような者を斬り捨ててしまっても良いものか と、澪丸は逡巡しゅんじゅんする。明確な「悪」とばかり戦ってきた澪丸にとって、それは例を見ない「迷い」であり――


 だからこそ、判断が遅れた。



「ああ。面倒くさいのは、嫌いなんだが……このままでは、どうやら私はきみに勝てないようだ」


 嘆くような声が、澪丸の耳に届く。


 それと同時に、蛇の女の体が、翠色の粒子のようなもので覆われ――澪丸が弾かれたようにして刀の先を女の首に打ち込んだときには、すでに、その体は実体なき光と化していた。


 刃がすり抜ける感触に、澪丸は目を見開く。続いて横薙ぎに一閃を放つが、それもまた光の粒を振り払うだけで、女にはなにひとつ傷を与えられなかった。



「できることならば、この姿を誰かに見せることは避けたかった。――だって、面倒くさいだろう? いまこの姿を顕すことによって、後世に『神話』なんかを残されてしまっては」


 そのまま、翠の粒子は、かたちを変えながら宙を舞い、はるか天空へと上昇していく。蛇のような目をした女の姿は、とうに掻き消えて――その光は、おおきく、そして長く変じていった。



 瞬間、渦を巻く粒子の上、あれほど厚く層を為していた曇天の空の、どす黒い雲が割れる。その隙間から、溢れんばかりの、純白の陽の光が降り注いだ。


 やがて、煌びやかに輝く粒子の数々が収束し、実体を為したあと……後光が射し込むなか、あまりにも神々しい、その光景に浮かび上がったのは――




 全身を翠の玉石のような鱗で覆われた、「りゅう」であった。



 牙が並ぶあぎとと、その横合いから長く生えた白いひげ。しなやかな長駆は、光の射す広大な空へと伸びていた。


 天空に浮かび、たゆたうように体を唸らせる、それは――まるで澪丸が幼い頃に見た、絵巻物の中の存在がこの世に顕現したかのようであった。驚きを通り越して、畏怖いふとすら呼べるような感情が生まれ、少年は息をのむ。



『私は、「明神」の力のうち、数十分の一ほどしか持ち合わせぬ、「化身」に過ぎない存在ではあるが――』


 見惚れる暇すらも、与えられず。


 天に響き渡る、澄んだ鈴のような声と共に……澪丸たちを見下ろす「龍」の頭上、黒雲の割れ目から、巨大な「なにか」が飛来する。



 それは、家屋ほどの大きさを持った、翠に輝く巨石であった。まるで流星のように鮮やかな翠の残像を残し、恐るべきはやさで迫り来るその隕石を目にして、澪丸の体が硬直する。



『――きみたちを、地獄に送ることくらいはできるさ』


 迎撃する余地すら与えられず、天から降り注いだ巨石が、剥き出しになった楼閣の最上階へと激突する。




 鼓膜が破れるような轟音が響いて、その巨石から逃れようとした澪丸の体が宙へと放り出される。直撃は免れたものの、その余波にのまれた少年の体は、すでに壁が破壊されていた楼閣の縁の外へ飛び出して――おびただしい量の瓦礫と共に、はるか地上へと落ちていく。



 心臓が縮むような感覚の中、少年が足掻くように手を伸ばした先には――同じく宙へと吹き飛ばされた、鬼の娘の姿があった。



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