藍と紅の行く先


 激しい戦いによってその外壁を失い、剥き出しになった「朱天楼」の頂上からは、「鬼ヶ島」の外、はるか水平線まで見渡せる絶景が広がっていた。


 雨は止んだとはいえ、いまだ低く垂れこめるような黒雲が天を覆う。吹きさらす強い風が、向かい合って立つ澪丸と茜の間を通り抜けた。


「なにから、話すべきか……俺には、わからない」


 旅装束の少年は、戸惑いと焦りを含んだ口調で告げる。その藍色の瞳は、迷いに揺れながら、目の前の娘を見つめていた。


 対する鬼の娘は、事情が分からないなりに、いまこの状況が尋常ではないことを悟っているらしく……ただ静かに、少年が語りだすのを待っている。惑う澪丸とは対照的に、彼女の態度はどこまでも毅然としていた。


 澪丸はそんな彼女の「覚悟」を読み取って、ついに意を決したように口を開く。


「……信じられない、話かもしれないが――」


 絞り出すような、声。




「――俺は、三〇〇年後の、未来から来た人間だ」



 返事は、なかった。


 茜はただ、その言葉の意味をのみ込むようにして口を固く引き結んで――数回、瞬きをした。そして、少年に続きを促すように、軽く頷く。


 澪丸はそんな彼女の反応が予想外だったもので、面食らったように目を見開き――それでも続きを告げないわけにはいかなかったので、ぽつり、ぽつりと、鉛のように重い口を開いて、言葉を発する。


「俺が生まれた三〇〇年後の世界には、ある一体の鬼がいた。それこそが、魔神『厭天王』……ここに至るまでに、俺が探し続けてきた魔族だ」


 流れるように、黒雲が頭上を通り越していく。目まぐるしく、雲のかたちが変化していた。


「魔神は、魔族の軍勢を率いて、人間の町を、村を、滅ぼしていった。数千、数万もの人々が、その侵攻によって命を落としたんだ。俺の生まれた村も、俺が六歳のころ、魔神軍によって蹂躙され……父さんや母さんも、殺されてしまった」


 その言葉に、茜はわずかに目を見開いた。だが、澪丸は彼女がなにかを告げる前に、喉の奥から言葉を紡ぐ。


「俺は、かの魔神を必ず殺すと誓った。そのために、血反吐を吐く思いで剣術を身につけて……数えきれないほどの魔族を、斬り伏せてきた。……その中には、鬼と呼ばれる種族のものも、当然含まれている」

「――――、」

「たとえおまえと出会った『今』であろうとも、俺はそのことを微塵も後悔していない。殺さなければ、殺されていた。鬼を、魔族を殺すことでしか、俺は生きている意味を見出せなかった」


 だからこそ。


 澪丸は、あの大路おおじにて投げられた、「この戦いが終わったらどうするか」という問いに答えられなかったのだ。


 魔神を殺した先の「未来」など、想像もできなかったから。


「だが――結局、俺は……俺たち人間は、負けた。最後の抵抗も虚しく、人間は滅亡したんだ。そのときに、時を渡る力を持った勾玉の力が発現して……俺は、まだ一体の鬼に過ぎなかったころの魔神を殺すため、この時代に来ることを願った。世界の滅びを止めるため、俺は過去に降り立ったんだ。そして――おまえと、出会った」


 苦悶に顔をゆがめて、澪丸は刀の柄に手をかける。何千回、何万回と繰り返してきたその動作は、あまりにも滑らかで、そして流麗だった。


「そこから先は、おまえの知っている通りだ。俺は、人売りに連れられていたおまえを助け出した。そして……おまえと、ここまで、かけがえのない旅をした」


 鞘から、宝刀を引き抜く。瑠璃色に染まるその刃が、光を受けて鈍く光った。


「だが」


 絞り出すような、声。


「俺が探し続けた『魔神』は、この時代にはいなかった。否――この時代には、まだ生まれていなかった。ほかでもないおまえが、まだ幼く……子を産んでいなかったからだ」


 刀を持たぬ左手で、被っていた編み笠の紐を緩める。鬼の王との戦いで損傷してもなお少年から離れなかったその編み笠は、澪丸じしんの手によって、楼閣の床に打ち捨てられた。


 ――それはまるで、決別の意志を示すかのようで。




 そうして、澪丸は、瑠璃の宝刀を上段に構える。


 「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」、三の型――群青堕ぐんじょうおとし


 かつて最初に出会ったときに、この鬼の娘へ向けたものと同じ技。


「おまえは、のちに世界を滅ぼすことになる『魔神』の生みの親だ。この世を破滅へと導く因子だ。だから、俺は――おまえを、殺さなければならない」

 

 鬼の娘を見下ろしたまま、澪丸は語る。

 その声色に、もはや悲壮感はなかった。ただ、数えきれぬほどの人々の思いを、「未来」を守ると決めたその覚悟だけが、澪丸の顔に立ち出でていた。


 その形相は――まさしく、修羅。


 魔神を殺すと誓った少年は、ついに、自らの心を悪鬼そのものに変えたのである。


「おまえを殺さなければ、俺の両親が死ぬ。師匠が死ぬ。数えきれないほどの人の命が、容易く奪われることになる」

「…………」

「それだけは、避けなければならない。魔神は――魔神だけは、絶対に、殺さなければならないんだ」


 尋常でないほどの殺気を向けられてもなお、茜は悲鳴ひとつあげなかった。


 それどころか、よりいっそう強いまなざしで澪丸を見据えて、決然とした表情を浮かべる。


 その、あまりにも純粋な、覚悟のような意志の輝きが、修羅と化したはずの澪丸の胸を打った。


「――みらいの話だとか、わたしの子どもの話だとか。いきなり言われても、わたしにはわからないけれど……お師匠が本当に、心の底からそれをのぞんでいるのなら、わたしはそれでいい」


 鬼の娘の薄い唇から、たしかな言葉が紡がれる。


 あまりにも自然に告げられたその言葉に、澪丸は固い表情を崩さないまま、彼女へと問いかけた。


「……信じられるというのか? こんな、あまりにも眉唾な話を」

「お師匠は、冗談なんてめったに言わないから。もし言おうとしたとしても、もっとつまらなくて、とるに足りないような言葉になるはずだわ」


 真剣な顔を浮かべたまま、茜は辛辣な言葉を投げた。澪丸がどう返していいか迷っている間に、彼女は続けて語る。


「お師匠が、ただのひとじゃないってことは……うっすらとだけど、わかってた。人間の町の中にいても、なんだかじぶんが場違いなところにいるような、そんな顔をしていたもの。まさか、未来からきたひとだとは思わなかったけれど」

「――たとえその話を、信じられたとしても。俺がおまえを殺すと言っていることに……おまえは、納得しているというのか?」


 絞り出すように、澪丸はふたたび問う。少年の額から汗が流れ落ち、板張りの床に染みをつくった。


 茜はなおもまっすぐに、その紅玉のような瞳を澪丸へと向けて、語る。


「わたしだって、死ぬのはこわい。けれど、お師匠がそうしなければ、お師匠の大切なひとが死ぬんだったら……わたしは、そうしてまで生きようとはおもわない」


 そして、鬼の娘は、ふいに毅然とした表情を崩して――はかなげに、笑った。


 目を丸くする澪丸に対し、彼女は頰を膨らませたあと、なんの気負いもなさそうに語る。


「――ねぇ、お師匠。ほんとうはね、わたしはちょっと怒っているの。お師匠がわたしよりもほかのひとたちのことを選んで、わたしを殺そうとしていることを」

「……ッ!」

「でもね、それはたんなる、わたしのわがまま。じぶんがお師匠にとって、いちばん大事な存在じゃなかったことは……きっと、わたしじしんの問題なの。だから、お師匠が気に病むことじゃないわ」


 まるで不貞腐れる子供のような――あまりにもこの場に釣り合わない調子で、茜はそう言った。


 それから、彼女は少しだけ居住まいを正して、続く言葉を紡ぐ。


「……楽しかった。お師匠とかガガちゃん、碗ちゃんといっしょに旅をするのは。辛いことも、いろいろあったけど……わたしは、みんなに、お師匠に出会えて幸せでした」

「――あか、ね」

「せめて、お師匠がわたしのことをずっと覚えていてくれるなら――わたしは、それだけでいいわ。だって、ほんとうは、わたしたちは巡り会うことがなかったんだもの。それ以上の贅沢は言わない」


 やがて、彼女は、澪丸へと首を差し出すようにこうべをたれる。


 それはまるで、なにかに祈るかのような所作であった。


「でも。それでも、せめて、あと少しだけ願ってもいいのだとしたら。――いままでたくさん辛い思いをしてきたお師匠が、このさきずっと幸せでありますように。平和がおとずれた世界で、笑って過ごせますように。それだけを思って、わたしはこの命をお師匠に託すわ」



 その言葉に込められた、彼女の意志を悟って――澪丸は、覚悟を決めるように瑠璃の宝刀を握りなおした。胸の奥から込み上げる熱い感覚が、涙となって外に出るまえに、少年はふたたび技の構えをとる。


 紡がれたのは、震えを押し殺したような……すべての迷いと、悲しみを断ち斬ろうとするかのような、そんな言葉だった。



「許せ、とは言わん」


「――せめてもの償いに」


「おまえを殺したあと、俺もこの刃で、じしんの喉をかき斬ろう」


「おまえはそれを望まないかもしれないが……それが、俺なりのけじめだ」


「……ともに死したとしても」


「俺とおまえが出会ったことは」


「ともに歩んだことは」


「誰にも否定できない、真実として在りつづける」


「時の流れが、すべてを押し流そうとしても」


「その事実は、人知れず瞬く星のように、歴史の片隅に記憶されるだろう」


「……」


「…………」


「俺たちは」


「俺たちは、きっと、浄土には行けまい」


「魔族とはいえ、数々の命をほふってきた俺と」


「世を滅ぼす悪因である、おまえ」


「辿り着く先は、きっと、地獄だ」


「……」


「…………」


「……けれど」


「もしも、地獄という名の救い・・があるとすれば――」


「そこでまた、きっと、俺たちは出会う」


「たとえ運命で決められていなくとも」


「俺はきっと、おまえに会いに行く」


「――だから」


「ほんの少しだけ、待っていてくれ」


「…………」


「……………………」


「しばしの、別れだ」


「ありがとう」





「――――茜」






 曇天の下、世界のすべてを見晴らすことができるかのような舞台の上で。


 数百年に及ぶ因果の鎖を断ち斬るかのように、瑠璃の刃が振り下ろされた。




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