あるいは一匹の蝶の羽ばたきのごとく
今度こそ、澪丸の時が止まった。
目の前の世界が、見る間に色褪せていく。呼吸は浅くなり、心臓の鼓動が早鐘を打った。――それほどまでに、蛇の女の言葉は、澪丸に重くのしかかった。
否定の言葉を告げるために口を開こうとするが、うまく舌が回らない。少年の口から漏れるのは、ただ、声にならぬ
「……まぁ、きみにとっては辛い事実だろう。だからこそ私は、『厭土』との戦いの前に、きみに真実を告げるような真似をしなかった。そんなことをしてしまえば、きみの士気に関わるからね」
あくまでも落ち着き払い、冷笑を浮かべながら、蛇の女は語る。そうして彼女は、ふいに宙へと手をかざした。その指先に、まるで蛍が群がるように、鮮やかな翠色の光が集まる。
やがて形を為したのは、人の頭ほどの大きさのある水晶玉であった。丹念に磨き上げられたかのように透き通る、美しいその球体は、曇天の下で異彩を放つほどに怪しく光り輝く。
「とはいっても、にわかには信じがたいことだろう。だから――
女が両手で持つ水晶玉の内部に、渦のような流れが起きる。澪丸はただ、茫然としたまま、それを眺めることしかできなかった。
そして、渦がおさまったとき、その球体に映し出されたのは――――
*
桜並木がつづく、穏やかな山中。しかし、その
薄桃色の着物をまとい、編み笠を被った娘。その手は太い縄で縛られており、彼女はなにかに耐えるようにして口をかたく引き結んでいる。
そして、娘を縛る縄を持つのは、その両隣に立つ、黒羽織の男たちであった。眉間に皺が寄った、見るからに
しかし、それでも、娘は悲鳴のひとつもあげずに、ただ耐えるようにして歯を食いしばっている。まるで、心まで屈することはしないという、毅然とした意志を示すかのように。
――やがて、しばらくの後、ふいに娘は顔を上げた。編み笠の下に隠れていた、紅玉のような瞳が、とある一本の木の陰に向く。
なにかの気配を感じ取ったのか、はたまた偶然であったのかは分からないが、とにかく、彼女はそこに目を向けたのだ。ほんの少しだけ、助けを求めるような「揺らめき」をその目に
だが。
そこには、誰もいなかった。
ただ、なんの変哲もない雑草だけがそこに生えていて、人間はおろか、獣の一匹すらもそこに
しばらくの間、茫然とそこを眺めてから――娘はまた顔を伏せ、またしても自分を蹴りつける男たちの悪意に耐えるようにして、紅い瞳を濁らせるのであった。
*
薄暗い部屋であった。
擦り切れた畳の上に、先ほどの娘が、裸も同然の格好で倒れ伏している。その体は痩せこけて、骨と皮ばかりになっていた。
そのような姿になってもなお、暗闇の中に存在を際立たせるのは、彼女の額から伸びる一本の赤い角であった。尋常の者ならざる証であるその角を、彼女は恨めしそうに撫でたあと、嘆息するように息を吐く。かつては紅玉のように輝いていたその瞳は、もはや血の池のように黒く濁っていた。自らを虐げる者への怒り、そして憎悪が、そこには
ふと、部屋の扉が開いて、わずかに光が差し込む。
逆光の中に浮かび上がるのは、彼女がここに連れられてきてからこれまでに幾度となく彼女を
娘はしかし、その姿を見ても声ひとつあげない。それは、かつてのように辛さに耐えようとしているからではなかった。
諦め。
およそ一年にわたるこの生活の中で、幾度となく脱走を試み、じしんを嬲る男に抵抗をつづけてみても、なにも事態が好転することはなかった。繰り返される暴力は、ついに彼女を彼女でなくした。
醜い男が、下卑た笑みを浮かべながら、娘へと歩み寄る。その、豚のような腕が、彼女の肌に触れようとして――――
轟音と共に、部屋の天井が崩落した。
否。
部屋の天井を突き破って、ひとつの影が、彼女の前へと姿を現したのだ。
暗黒よりもなお深い色の角を持った、鬼。
足元に転がる
次の瞬間には、男はもう、ただの肉片と化していた。細切れになった彼の体から飛び散る赤い血が、ただでさえ汚れていた部屋の壁に新たな染みをつくる。
驚愕に目を開く娘は、そこで、多くの人間の悲鳴と、なにか
人間を蹂躙し、ひたすらに殺していくその魔族たちの働きぶりに満足したように、漆黒の鬼は笑っていた。そして――その美しい顔が、娘へと向けられる。
苛烈なる鬼に、心を惹かれたように――娘もまた、そこで笑った。
*
天に向かって伸びる、朱色の楼閣。
世界のすべてをも見張らせるようなその塔の最上階で、鬼の娘は、その手に赤子を抱いていた。
――玉のような、子供であった。額には黒と赤の角がそれぞれ一本ずつ生えそろい、饅頭のようにつややかな頬は丸く膨れている。苛烈なる鬼と、この娘の両方の面影を持ったその赤子は、母の腕の中で、安らかに寝息をたてていた。
ふと、窓の外、はるか海の向こうにぽつりと見える本土のほうに目をやってから、娘は思案したように目を細める。痩せこけていた彼女の体はすっかり元通りになっていたが、その瞳は、いまだかすかに濁ったままであった。本土に住まう、害虫のような
*
どこまでも広がる平原に、甲冑をまとった人間たちと、さまざまなかたちをした魔族たちがせめぎあう。ある武者が魔族の心臓を貫いたかと思えば、次の瞬間には背後から迫っていた別の魔族に首を飛ばされる。血のにおいの中で屍が積み重なってゆき、それはさながら地獄のようなありさまであった。
魔族の陣営、その最奥に構えるのは、美貌を持った、若き鬼の少年であった。漆黒の鬼の苛烈なる風貌と、母である鬼が持つ慈愛、そのふたつを兼ね備えたかのような若き鬼は、傷ついて陣営の奥まで運ばれてきた仲間――これもまた鬼の兵士であった――の前まで歩み寄ると、手にした短刀で指の先を軽く切る。
そうして、滲み出た青い血を、負傷した鬼の口へ運ぶと――ふいに、その鬼の目が見開いて、それまで力なく投げ出されていた手足が、唸りをあげるように波打った。
鬼の兵士の、姿そのものが変わっていく。人間に近しい見た目をしていた彼の体は、瞬く間に力強く膨れ上がり、指先からは長い爪が伸びる。どこか頼りなさそうだったその顔は、血に飢える獣のように恐ろしいものへと変貌した。
そのさまを、満足そうに眺めて――若き鬼の頭領は、幕で囲まれた陣営の外、まさに殺し合いが行われているその
*
そこで、水晶に映し出された光景がふつと途絶える。その余韻のように、小さく渦のようなものが玉の中を巡ったあと、それもまた溶けるようにして消えていった。
野ざらしになった楼閣の頂上にて、澪丸はただ、固まったままなにも考えることができなかった。いま、自分が水晶の中で見た光景を信じるか、信じないか――そんな選択が思い浮かぶほどの余裕すら、少年にはなかった。
「……これが、『厭天王』の生まれた経緯だよ。鬼の王と、『羅血の鬼』――すなわち魔族の力を増大させる血を持った鬼、その混血によって生まれたのが、かの魔神というわけだ」
茫然とする少年へと、蛇の女が語りかける。地を這うような、低い声であった。
「これまで数十万、数百万と魔族が生まれてきた中で、なぜ魔神が魔神たりえたのか。その答えは、まさにそこにあると言っていい。両親から受け継いだ、数々の特異な形質が、『厭天王』を唯一無二の『災厄』にしたんだ」
澪丸の脳裏に浮かぶのは、先ほど水晶の中に見た、鬼の兵士の姿であった。かたちを変えたあとの彼の姿は、まさに、澪丸が「三〇〇年後」にて戦ってきた、恐ろしい「鬼」そのものだったのである。この時代の、人間に近い姿をした鬼が、なぜ「未来」では姿を変えたのか――その答えを、澪丸は目の当たりにした。
「……まあ。これは所詮、きみが『厭土』を殺すまえの、『本来の歴史』を再現したものに過ぎない。これが事実であると、あるいはまやかしであると判断する材料を、いまのきみは持ちあわせていないだろうし――
どこかおどけるような調子で、蛇の女はそう言った。
そして、一転、彼女は居住まいを正してから、澪丸の目をまっすぐに見据える。
「けれど、もしもきみが、真の意味で『魔神殺し』を為し遂げたいと望むのであれば――」
「――その娘を、殺せ。そのほかに、人間の未来を救う道はないよ」
それきり、沈黙が訪れた。
蛇の女も、茜も、そして澪丸も……三者がそれぞれに違った表情を浮かべながら、口を堅く閉ざす。ただ、吹き抜ける風だけが、静寂に包まれた世界で音を発していた。
絡まり合い、暗く閉ざされる思考の中で、澪丸は考えを巡らせる。
この女の言った通り、いま水晶の中に映し出された光景が「真実」であるとは限らない。すべてが、蛇の女による、なんらかの策略である可能性も決して低くはないのだ。
だが……それでも澪丸の脳裏によぎるのは、「三〇〇年後」において、炎上する都の中央で、魔神が語ったひとつの言葉であった。
――永キニ渡リ続イタ、魔族ト人間トノ
聞くだけで脳の奥が痺れ、背筋に悪寒が走るような声。
――人間ハ、理解ノデキヌ他者ヲ
その言葉の真意は、澪丸にはわからない。だが、つい先刻まで戦っていた「厭土」という鬼は、自らの親について、こう語っていたのだ。
――馬鹿者だった……! やはり、我の両親は
「厭天王」と「厭土」の言葉には、その点において相違がある。ならば少なくとも、「厭土は魔神ではない」こと……そしてあの漆黒の鬼が、「魔神の父親」であることは、確かなのであろう。
そしてまた、「魔神の母親が茜である」ということも……否定することは、できなかった。
信じたくは、なくとも。伊波村の一件から、彼女が「魔族の力を増大させる血」を持つことは事実であり……そして、もしも澪丸と出会わなかった彼女が、人間を滅ぼすために各地を巡っているという「厭土」と出会い、結ばれるという未来も、あり得ないものではなかったからである。
――否。
それは、「あり得ないものではない」というような話ではなく……おそらくは、きっと、澪丸という不確定な因子が干渉しなければ本来起こっていた、必然の流れであるのだろう。
茜の紅玉のような瞳が、人間への憎悪で泥に塗れたように濁ることも。
自然の、必然の――歴史で、あった。
「……迷うのも、無理はないさ」
そこでようやく、蛇の女が口を開いた。彼女は澪丸を射貫くように鋭い視線を向けたあと、低く地を這うような声色で告げる。
「きみにだって、思うところもあるだろう。私も、鬼じゃない……
そう告げて、彼女は
まるで感情の込められていない、どこまでも冷徹な声で――階段を下りる蛇の女の背中越しに、最後通告のような言葉が投げられた。
「きみがなによりも望んだ『魔神殺し』が、真の意味で為されるときだ。二度とないその瞬間は、どこまでも感動的に……そして劇的であるべきだという私の配慮を、くれぐれも無駄にはしてくれるなよ?」
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