あるいは一匹の蝶の羽ばたきのごとく


 今度こそ、澪丸の時が止まった。


 目の前の世界が、見る間に色褪せていく。呼吸は浅くなり、心臓の鼓動が早鐘を打った。――それほどまでに、蛇の女の言葉は、澪丸に重くのしかかった。


 否定の言葉を告げるために口を開こうとするが、うまく舌が回らない。少年の口から漏れるのは、ただ、声にならぬうめきのみであった。



「……まぁ、きみにとっては辛い事実だろう。だからこそ私は、『厭土』との戦いの前に、きみに真実を告げるような真似をしなかった。そんなことをしてしまえば、きみの士気に関わるからね」


 あくまでも落ち着き払い、冷笑を浮かべながら、蛇の女は語る。そうして彼女は、ふいに宙へと手をかざした。その指先に、まるで蛍が群がるように、鮮やかな翠色の光が集まる。


 やがて形を為したのは、人の頭ほどの大きさのある水晶玉であった。丹念に磨き上げられたかのように透き通る、美しいその球体は、曇天の下で異彩を放つほどに怪しく光り輝く。


「とはいっても、にわかには信じがたいことだろう。だから――見せる・・・ことにするよ。本来の歴史とは、どのようなものであったのかを。きみが『未来』で生まれるまでに、なにが起こり……そして、なにが起こらなかったかを」


 女が両手で持つ水晶玉の内部に、渦のような流れが起きる。澪丸はただ、茫然としたまま、それを眺めることしかできなかった。


 そして、渦がおさまったとき、その球体に映し出されたのは――――



 桜並木がつづく、穏やかな山中。しかし、その長閑のどかな風景にはあまりにも不釣り合いな一行が、山道を進んでいた。


 薄桃色の着物をまとい、編み笠を被った娘。その手は太い縄で縛られており、彼女はなにかに耐えるようにして口をかたく引き結んでいる。

 そして、娘を縛る縄を持つのは、その両隣に立つ、黒羽織の男たちであった。眉間に皺が寄った、見るからに堅気かたぎではないその男たちは、ときおり鬱憤うっぷんを晴らすように娘を蹴りつける。汚い泥の跡が、娘の着物にこびりついた。


 しかし、それでも、娘は悲鳴のひとつもあげずに、ただ耐えるようにして歯を食いしばっている。まるで、心まで屈することはしないという、毅然とした意志を示すかのように。



 ――やがて、しばらくの後、ふいに娘は顔を上げた。編み笠の下に隠れていた、紅玉のような瞳が、とある一本の木の陰に向く。


 なにかの気配を感じ取ったのか、はたまた偶然であったのかは分からないが、とにかく、彼女はそこに目を向けたのだ。ほんの少しだけ、助けを求めるような「揺らめき」をその目にたたえて。



 だが。



 そこには、誰もいなかった。


 ただ、なんの変哲もない雑草だけがそこに生えていて、人間はおろか、獣の一匹すらもそこにはしなかった。


 しばらくの間、茫然とそこを眺めてから――娘はまた顔を伏せ、またしても自分を蹴りつける男たちの悪意に耐えるようにして、紅い瞳を濁らせるのであった。




 薄暗い部屋であった。


 擦り切れた畳の上に、先ほどの娘が、裸も同然の格好で倒れ伏している。その体は痩せこけて、骨と皮ばかりになっていた。


 そのような姿になってもなお、暗闇の中に存在を際立たせるのは、彼女の額から伸びる一本の赤い角であった。尋常の者ならざる証であるその角を、彼女は恨めしそうに撫でたあと、嘆息するように息を吐く。かつては紅玉のように輝いていたその瞳は、もはや血の池のように黒く濁っていた。自らを虐げる者への怒り、そして憎悪が、そこにはくらく宿っていた。


 

 ふと、部屋の扉が開いて、わずかに光が差し込む。

 逆光の中に浮かび上がるのは、彼女がここに連れられてきてからこれまでに幾度となく彼女をなぶってきた、人間の男であった。脂ぎった顔に、成金趣味の服をまとう、それは醜い男であった。


 娘はしかし、その姿を見ても声ひとつあげない。それは、かつてのように辛さに耐えようとしているからではなかった。


 諦め。


 およそ一年にわたるこの生活の中で、幾度となく脱走を試み、じしんを嬲る男に抵抗をつづけてみても、なにも事態が好転することはなかった。繰り返される暴力は、ついに彼女を彼女でなくした。




 醜い男が、下卑た笑みを浮かべながら、娘へと歩み寄る。その、豚のような腕が、彼女の肌に触れようとして――――



 轟音と共に、部屋の天井が崩落した。


 否。


 部屋の天井を突き破って、ひとつの影が、彼女の前へと姿を現したのだ。



 暗黒よりもなお深い色の角を持った、鬼。山嵐ヤマアラシのように逆立った髪が、彼の怒りを体現するように天へと伸びる。その体は鎧のような皮膚で覆われ、その爪はどんな名刀の刃よりも鋭い。


 足元に転がる瓦礫がれきを鬱陶しそうに蹴り飛ばしてから、漆黒の鬼は部屋の中の娘と男を交互に見て――苛烈な笑みを浮かべた。



 次の瞬間には、男はもう、ただの肉片と化していた。細切れになった彼の体から飛び散る赤い血が、ただでさえ汚れていた部屋の壁に新たな染みをつくる。


 驚愕に目を開く娘は、そこで、多くの人間の悲鳴と、なにかおおきなもの・・が地を鳴らして外を歩く音を聞いた。破れた天井を見上げると、夜空の中に、建物の屋根より高い背を持った無数の魔族たちが闊歩かっぽするさまが目に入る。


 人間を蹂躙し、ひたすらに殺していくその魔族たちの働きぶりに満足したように、漆黒の鬼は笑っていた。そして――その美しい顔が、娘へと向けられる。



 苛烈なる鬼に、心を惹かれたように――娘もまた、そこで笑った。





 天に向かって伸びる、朱色の楼閣。


 世界のすべてをも見張らせるようなその塔の最上階で、鬼の娘は、その手に赤子を抱いていた。


 ――玉のような、子供であった。額には黒と赤の角がそれぞれ一本ずつ生えそろい、饅頭のようにつややかな頬は丸く膨れている。苛烈なる鬼と、この娘の両方の面影を持ったその赤子は、母の腕の中で、安らかに寝息をたてていた。



 ふと、窓の外、はるか海の向こうにぽつりと見える本土のほうに目をやってから、娘は思案したように目を細める。痩せこけていた彼女の体はすっかり元通りになっていたが、その瞳は、いまだかすかに濁ったままであった。本土に住まう、害虫のようなその種族・・・・から、大切な子供を守るように――鬼の娘は、強く、赤子を抱き寄せるのであった。






 合戦かっせんのような光景であった。


 どこまでも広がる平原に、甲冑をまとった人間たちと、さまざまなかたちをした魔族たちがせめぎあう。ある武者が魔族の心臓を貫いたかと思えば、次の瞬間には背後から迫っていた別の魔族に首を飛ばされる。血のにおいの中で屍が積み重なってゆき、それはさながら地獄のようなありさまであった。



 魔族の陣営、その最奥に構えるのは、美貌を持った、若き鬼の少年であった。漆黒の鬼の苛烈なる風貌と、母である鬼が持つ慈愛、そのふたつを兼ね備えたかのような若き鬼は、傷ついて陣営の奥まで運ばれてきた仲間――これもまた鬼の兵士であった――の前まで歩み寄ると、手にした短刀で指の先を軽く切る。


 そうして、滲み出た青い血を、負傷した鬼の口へ運ぶと――ふいに、その鬼の目が見開いて、それまで力なく投げ出されていた手足が、唸りをあげるように波打った。


 鬼の兵士の、姿そのものが変わっていく。人間に近しい見た目をしていた彼の体は、瞬く間に力強く膨れ上がり、指先からは長い爪が伸びる。どこか頼りなさそうだったその顔は、血に飢える獣のように恐ろしいものへと変貌した。



 そのさまを、満足そうに眺めて――若き鬼の頭領は、幕で囲まれた陣営の外、まさに殺し合いが行われているその戦場いくさばへと躍り出る。部下の制止を振り切って、彼は敵を葬り、喰らい尽くすべく、火中にその身を躍らせた――――――――






 そこで、水晶に映し出された光景がふつと途絶える。その余韻のように、小さく渦のようなものが玉の中を巡ったあと、それもまた溶けるようにして消えていった。


 野ざらしになった楼閣の頂上にて、澪丸はただ、固まったままなにも考えることができなかった。いま、自分が水晶の中で見た光景を信じるか、信じないか――そんな選択が思い浮かぶほどの余裕すら、少年にはなかった。


「……これが、『厭天王』の生まれた経緯だよ。鬼の王と、『羅血の鬼』――すなわち魔族の力を増大させる血を持った鬼、その混血によって生まれたのが、かの魔神というわけだ」


 茫然とする少年へと、蛇の女が語りかける。地を這うような、低い声であった。


「これまで数十万、数百万と魔族が生まれてきた中で、なぜ魔神が魔神たりえたのか。その答えは、まさにそこにあると言っていい。両親から受け継いだ、数々の特異な形質が、『厭天王』を唯一無二の『災厄』にしたんだ」


 澪丸の脳裏に浮かぶのは、先ほど水晶の中に見た、鬼の兵士の姿であった。かたちを変えたあとの彼の姿は、まさに、澪丸が「三〇〇年後」にて戦ってきた、恐ろしい「鬼」そのものだったのである。この時代の、人間に近い姿をした鬼が、なぜ「未来」では姿を変えたのか――その答えを、澪丸は目の当たりにした。


「……まあ。これは所詮、きみが『厭土』を殺すまえの、『本来の歴史』を再現したものに過ぎない。これが事実であると、あるいはまやかしであると判断する材料を、いまのきみは持ちあわせていないだろうし――陳腐ちんぷな言葉になってしまうが、信じるか信じないかは、きみ次第というわけだ」


 どこかおどけるような調子で、蛇の女はそう言った。

 そして、一転、彼女は居住まいを正してから、澪丸の目をまっすぐに見据える。


「けれど、もしもきみが、真の意味で『魔神殺し』を為し遂げたいと望むのであれば――」


 まどう少年へと、躊躇なく、釘をさすように。



「――その娘を、殺せ。そのほかに、人間の未来を救う道はないよ」



 それきり、沈黙が訪れた。


 蛇の女も、茜も、そして澪丸も……三者がそれぞれに違った表情を浮かべながら、口を堅く閉ざす。ただ、吹き抜ける風だけが、静寂に包まれた世界で音を発していた。



 絡まり合い、暗く閉ざされる思考の中で、澪丸は考えを巡らせる。


 この女の言った通り、いま水晶の中に映し出された光景が「真実」であるとは限らない。すべてが、蛇の女による、なんらかの策略である可能性も決して低くはないのだ。


 だが……それでも澪丸の脳裏によぎるのは、「三〇〇年後」において、炎上する都の中央で、魔神が語ったひとつの言葉であった。



 ――永キニ渡リ続イタ、魔族ト人間トノイクサハ、今日ヲモッテ終焉ヲ迎エル。思エバ、我ガ父母ガ人間ニイダイテイタ、怒リト憎シミガ、我ヲ今日ノ勝利ニ導イタノダ。


 聞くだけで脳の奥が痺れ、背筋に悪寒が走るような声。


 ――人間ハ、理解ノデキヌ他者ヲ退シリゾケ、攻撃スル。我ト我ノ父母モ、人間ニヨッテ傷ツケラレ、血ヲ流シタ。……ダカラ、幼キ日ノ我ハ、心ニ誓ッタノダ。必ズ、必ズ人間ヲ滅ボス、ト。



 その言葉の真意は、澪丸にはわからない。だが、つい先刻まで戦っていた「厭土」という鬼は、自らの親について、こう語っていたのだ。


 ――馬鹿者だった……! やはり、我の両親はうつけ・・・であった! このような忌まわしい種族に歩み寄り、そこから恩恵を得ようとするなど……!



 「厭天王」と「厭土」の言葉には、その点において相違がある。ならば少なくとも、「厭土は魔神ではない」こと……そしてあの漆黒の鬼が、「魔神の父親」であることは、確かなのであろう。


 そしてまた、「魔神の母親が茜である」ということも……否定することは、できなかった。


 信じたくは、なくとも。伊波村の一件から、彼女が「魔族の力を増大させる血」を持つことは事実であり……そして、もしも澪丸と出会わなかった彼女が、人間を滅ぼすために各地を巡っているという「厭土」と出会い、結ばれるという未来も、あり得ないものではなかったからである。


 ――否。


 それは、「あり得ないものではない」というような話ではなく……おそらくは、きっと、澪丸という不確定な因子が干渉しなければ本来起こっていた、必然の流れであるのだろう。



 茜の紅玉のような瞳が、人間への憎悪で泥に塗れたように濁ることも。


 自然の、必然の――歴史で、あった。




「……迷うのも、無理はないさ」


 そこでようやく、蛇の女が口を開いた。彼女は澪丸を射貫くように鋭い視線を向けたあと、低く地を這うような声色で告げる。


「きみにだって、思うところもあるだろう。私も、鬼じゃない……最後の時間・・・・・くらいは、ふたりきりにしてあげるよ」


 そう告げて、彼女はきびすを返し、床まで垂れた白い長髪を引きずりながら、階下へと続く階段へと歩む。


 まるで感情の込められていない、どこまでも冷徹な声で――階段を下りる蛇の女の背中越しに、最後通告のような言葉が投げられた。



「きみがなによりも望んだ『魔神殺し』が、真の意味で為されるときだ。二度とないその瞬間は、どこまでも感動的に……そして劇的であるべきだという私の配慮を、くれぐれも無駄にはしてくれるなよ?」





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