真実
張りつめていた緊張の糸を、
「……これで、終わりだ。俺が望んだ『魔神殺し』は、たったいま、この鬼の消滅をもって成し遂げられた」
言葉にした瞬間、途方もないほどの虚脱感、そして言いようもないほどの心地よい疲れが、澪丸の体に生まれる。それはゆるやかな川の流れのように全身を巡って、やがて溶けるようにして体の奥底に沈んでいった。
――終わった。
あれほど激しい戦いをしておきながら、どこか現実味のないような、そんな感覚がした。断ち斬った「過去」が、時に流されて遠く離れていくように。
雷と雨は止んだものの、天は相変わらず黒雲に覆われていた。それでも、自分の前に晴れやかな「未来」が広がっていることを確かに感じ取って、澪丸は珍しく、快活に笑ってみせた。
「……ふふ。お師匠も、そんな顔ができたのね」
少年の前に立つ茜も、つられたように小さく笑う。その顔には、やはり、死闘を見届けていたときのような緊張感はなく……澪丸は久方ぶりに、彼女のそんな表情を見たような気がした。
「意外か? ……まあ、こんな笑い方など、もう十年もしていなかったからな。俺は魔神を恨むあまり、笑い方すらも忘れてしまっていたのかもしれない」
「お師匠、今度はすごく
「……む。俺がいつ、気取ったことを言ったりしたというのだ」
「わりと、いつも。いままで言う機会がなかったけれど、わたし、けっこうそう思うことが多かった」
「うん……? そう、なのか……?」
首をひねるが、心当たりはない。
それよりも、澪丸はただ、またこうして茜と他愛もない話ができるという、それだけの事実がなによりも嬉しかった。心の内から暖かい感情が溢れてくるようで、体に受けた傷の痛みなど、それだけですべて忘れてしまいそうであった。
これから先、彼女となにをして、どんな道を歩んでいくのか。それはまだ分からなかったし、いますぐに決めてしまうべきことでもない。
ただ――「掴んだ」。
恐怖と怨恨、そして滅亡に塗りつぶされたものではなく。
希望と期待、そして可能性に満ちた「未来」というものを。
それは、どこまでも暗く閉ざされた未来が宿命づけられた世界を、それでもなお抗おうと懸命に生きてきた澪丸にとって、なによりも価値のあることであった。胸に満ちる達成感を噛みしめるように、少年はまた、笑う。
と、そのとき。
「――すばらしい。人間を、そして世界そのものを救う、まさしく偉業とよぶべき勝利。きみならば成し遂げられると思っていたよ」
階段が
「……特別製の勾玉が、本来想定されていたほどの効力を発揮しなかったにも関わらず、きみはあの鬼に打ち勝った。すべては、きみの『魔神殺し』に対する執念が為したわざだ」
心の底から感心したような声をあげる「蛇の女」に対して、澪丸は問いかける。
「想定されていたほどの効力を発揮しなかった、とは……? 俺は幾度となく、あの勾玉によって救われたぞ」
「うん、『時渡り』による実質的な生き返りは、ちゃんとできたみたいだけれどね。本当のことを言うと、あんなにぎりぎり、死ぬ間際に生き返るようにはつくっていなかったんだ。せめて死の数分前にまで『巻き戻る』ように設定していたはずだけれど……」
蛇の女は、冷静沈着な表情のまま小首をかしげる。しばらく考えるようなそぶりを見せる彼女へと、澪丸は深々と頭を下げて礼を言った。
「なにはともあれ、俺はあの勾玉があったからこそ、『魔神』に打ち勝ち――かけがえのない未来を、掴むことができた。あれがなければ、俺はいまごろ、無様に
感謝の意を述べる澪丸に対し、蛇の女は、あくまでも落ち着いた口調で返す。
「……うん、そのことなんだけれどね。喜んでいるところに水をさすようで悪いんだが、私はきみに、ひとつ嘘をついていたことを謝らなければならないんだ」
「……?」
ほんのわずかに歯切れの悪そうな彼女の言葉に、今度は澪丸が首をかしげる。
そうして蛇の女は、自らの悪癖に対する反省もなしに、またしても澪丸を揺さぶる「その言葉」を突然に言い放った。
「きみが倒した、『厭土』という鬼は。じつを言うと、『魔神』ではないのだよ」
その言葉を理解するのに、どれほどの時間を必要としただろうか。
否――たとえ言葉そのものを捉えたとしても、蛇の女が言わんとしていることが、そして彼女の真意が、澪丸には理解できなかった。
すべてが固まってしまったような世界で、無限にも思える時間が、ただ無為に流れる。時折吹き抜ける冷たい風が、その場にいる全員の服を揺らした。
「……どういう、ことだ」
かろうじて絞り出した言葉は、乾いたようにひび割れていた。
「あの黒い鬼が、『魔神』ではない、だと……? そんなはずはない。やつは、人を喰らえば喰らうほどに力が増していた。
その言葉は、しだいに
だが、それでもなお、この得体の知れない「化身」は動じなかった。それどころか、怪しげな顔に冷笑すら浮かべて、彼女は語る。
「きみがそう感じるのも無理はない。なんせ、『
「なに……!?」
澪丸の理解が追いつかないままに、蛇の女はつづけて語る。
「たんに、形質が受け継がれたという、それだけの話なんだよ。いや、それこそが、魔神の最もやっかいな部分ではあるのだが……ともかく。人を喰らえば強くなるという力も、多くの魔族を引き従えるという統率力も、そしてきみが感じた『気配』と呼ぶべきものも、魔神は父である『厭土』からすべて受け継いだ。魔神が世界を滅ぼすときには、もうすでに『厭土』は寿命で死んでいたから、きみがその存在を知るはずもなく……この事実に気づけなかったのは、きみの落ち度ではないがね」
「――――、」
そこでようやく、「厭土は魔神ではない」という蛇の女の言葉の意味を理解して――それを信じたわけではなかったが――澪丸は弾かれたように、彼女へと食いかかった。
「ならば……ならば、『厭天王』はどこにいる!? 『鬼ヶ島』……あるいは、この楼閣のどこかに潜んでいるのか!?」
「いや。この時代には、まだ生まれていないよ」
殺気立ち、宝刀の柄を握る澪丸を制止するように、女は語る。
「魔神『厭天王』がこの世に生まれ
おそらくは「未来視」と呼ばれる力で得たであろうその情報に対し、澪丸は顔をしかめる。そして、頭に浮かんだ疑問を、ろくに考えもせずに、蛇の女に投げつけた。
「ならば……なにも、問題はないだろう? 魔神はまだ生まれておらず、その父親である鬼も、俺がこの手によって葬った。魔神による人間の滅亡は、それで回避されたはずだ」
たとえ「厭土が魔神ではない」ということが事実だったとしても、澪丸はこの女がそれについて嘘をついた理由がわからなかった。もしかすると、「これから戦うべき相手が宿敵である魔神ではない」ために、澪丸の士気が下がることを恐れたのかもしれないが――そんな気遣いをするような情がこの女にあるとは、とてもではないが思えなかった。
あるとすれば、策略。または陰謀。
彼女が澪丸にあえて事実を隠し、そして今わざわざそれを打ち明けたということは――
「……これで終わりでは、ないということだな」
「察しが良くて助かるよ」
重々しく告げた澪丸に対し、蛇の女はあっさりと告げた。
刀の柄を握る澪丸の手に、力が入った。先刻までの戦いで受けた傷がうずきだす。少年の目が、冷たく、しかし煮えたぎるような
澪丸は、思う。
この女の口車に乗ることは、本意ではなかったが――少なくとも、彼女が「魔神殺し」のために動いていることは事実であろう。彼女からは、澪丸や「未来」の人間と同じ、魔神を恨むもの特有の気配が漂っていた。
「……今度こそ。
ぎらりと、少年の藍の目が光る。
それは研ぎ澄まされた刃よりもずっと鋭い、まさしく修羅の形相であった。
「うん、済まないね。嘘をついたことは、重ね重ねではあるが謝罪しよう。すまなかった。――これからは、真実のみを語ることにするよ」
白々しくそう言ってみせた蛇の女は、白く長い髪をかきあげて、告げる。
「『魔神殺し』は、いまだ為されていない。きみの言う通り、まだ、きみにはすべきことがある」
「…………」
「それすなわち――魔神の母親を、殺せ」
確たる口調で、蛇の女は言った。
「父親が死んだことによって、たしかに、『未来』において魔神が生まれる可能性は低くなった。だが――それが、
「それに類する、脅威……?」
「そう。いままでは、『厭土』と、『魔神の母親』が
蛇の女が首から下げる、いくつもの「常磐たる勾玉」が、天から差し込む鈍い光を反射した。
「いまこの時代において、『厭土』に匹敵するほどの強大な力を持った魔族は、世界中におよそ六体ほど存在する。そのうちのどれかが、『魔神の母親』が持つ
「魔神」よりも恐ろしい怪物。
澪丸は、そんなものなど想像もできなかった。ある意味で、どんな空想よりも荒唐無稽な、そんな存在のことを――蛇の女は、真剣に語る。
「『魔神』は、この世に生まれてから三〇〇年で世界を滅ぼした。だが――『その存在』は、一〇〇年、あるいはもっと短い時間で、それを成し遂げてしまう可能性がある。……
ごうごうと、嵐のような風が吹きつける。戦いと落雷によって、天井と壁を失った「朱天楼」の頂上は、まさに世界を見晴らすことのできる舞台と化していた。
彼女の言葉が大仰なものかどうかは、澪丸には判断ができなかった。魔神をこえる災厄など、その一片すらも思い描くことができない反面――この時代に生きる人間が想像もできないほどの巨大な災厄を、澪丸は知っていたからである。
ただ、それでも、魔神のいない世界を望むにあたって、その母親を殺すことが必至であることは、澪丸にも理解できた。はやる気持ちを抑えるように、少年は口を開く。
「――その、『魔神の母親』というのは……いま、どこにいるというのだ? どうせその情報も、『未来視』によって知っているのだろう? 場所と、その見た目……強さ、特徴、その他の情報を俺に渡せ。いますぐにでも、斬り伏せに行こう」
抑えきれない殺気を湛えた目で、澪丸は蛇の女を睨む。
だが、彼女は、あえてとぼけるようにして肩をすくめたあと、低い声で告げた。
「うん? そんなことは、私よりもずっと、きみのほうが知っていると思うけれど」
そして、蛇の女は、澪丸から視線を剥がして、その隣へと目を向けた。無意識のうちに、つられるようにして、澪丸もまたそちらを見やる。
――そこにいたのは、話の流れが理解できないといったふうに眉をひそめる、ひとりの娘。まだ幼さが残る顔立ちに疑問符を浮かべて、彼女もまた、澪丸のほうを見返した。
刹那。
たとえ耳を塞いだとしてもなお脳裏に響くような、死刑宣告のように――少年へと、低く、あるいは絶望的な声が届く。
「――そこにいる、鬼の娘こそが。魔神『厭天王』の、生みの親だよ」
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