終の死闘、始の一閃


 燃えさかる炎の中に浮かびあがるのは、この世のものとは思えぬ異形の影。熱気と瘴気がぶつかり合い、その者の輪郭を揺らしていた。


 彼を象徴していた苛烈な笑みは、その顔から消え失せている。ただ、憎悪と怨恨えんこんくらく輝くふたつの紅い瞳だけが、炎よりも激しく燃えさかっていた。



 魔神――厭天王えんてんおう



 その者は、ついに、澪丸の知る「三〇〇年後」に負けるとも劣らない段階にまで、「成長」をとげたのであった。


(大きさこそ、「未来」とは比べるまでもないが……この気配、そして威圧感は、まさしく俺の知る「魔神」そのものだ……!)


 その者の放つ異様なまでの気配に圧されるようにして、澪丸は一歩後ずさる。火の手が迫っているというのに、少年の体には滝のような冷や汗が流れていた。


 記憶の中にある、岩山のような黒い影と、目の前の鬼の姿が重なる。誰をもってしても、なにをもってしても、傷ひとつつけることのかなわなかった災厄が――いま、ふたたび澪丸の前に権限したのであった。


(……勝てる、のか。殺せるのか。世の勇士たちが束になっても太刀打ちできなかった、この魔神に……)


 宝刀を握る手が震えだす。常人であれば、浴びせられる威圧感のみで心臓の動きを止められてしまうであろう状況にあって、澪丸はそれでも必死に襲い来る恐怖に立ち向かおうとした。



 ――そのとき。


 ふいに、漆黒の鬼が鎧のような皮膚で覆われた手を開き、澪丸のほうへと翳す。いくら長い爪を持っているといえども、その先が少年へと届くような距離ではなかった。


 その行動に、澪丸が警戒をしながらも様子を伺ったとき――



 空気を震わせる黒い波動が、魔神の手の平から発せられた。それは音の速さで澪丸の胸に命中すると、少年の体を弾き飛ばす。またしても赤い絨毯の上を転がった澪丸は、宝刀を床に突き刺し、なんとか姿勢を整える。


 見た目に反して、そこまでの威力はなかった。胸に受けた衝撃で喉の奥から粘り気のある血がせり上がってくるが、それを吐き捨てたあと、少年はふたたび魔神を見据える。


「――大仰おおぎょうに姿を変えたわりに、たいした威力ではないな」


 気丈に笑みを浮かべた澪丸であったが、漆黒の魔神はなにも答えなかった。その鬼は、ただ黙って、澪丸の胸元へ視線を向けている。


(……?)


 不可解なその動作に、少年が自らの胸へと目線を落としたとき――



 びきり! という破砕音が生まれた。


 それと同時に、淡い翠色の光が、澪丸のふところの中から生まれる。それは蛍のように懐から漏れ出したあと、溶けるようにして宙へと霧散した。

 

 澪丸は目を見開き、刀を持たぬ左手で懐を探る。そこから出てきたのは、まるで灰のように崩れた、色褪せた石ころであった。かつてその石から発せられていた眩いばかりの輝きは、もう、どこにも見ることができない。


『何カガ、不可解ダト思ッテイタ』


 そこでようやく、炎の向こうから声が飛んできた。それは平坦な、しかしそれゆえに恐ろしい声色であった。


『忌マワシキカミチカラヲ、使ッテイタノダロウ? ダガ……ソンナモノハ、我ノ前ニハ無意味デアルト、貴様モ知ッテイルハズダ』


 ――魔神に、カミの力は通用しない。


 それは、あの「おんじき様」がこの鬼に一撃で葬られたことから、澪丸もよく理解していた。それゆえに、蛇の女の、無敵にも思える「時を止める力」もこの鬼には効かず、彼女は撤退を余儀なくされたのだ。


 蛇の女が澪丸に「とっておき」の勾玉を託したのは、ある意味でその裏をかいた計画だったともいえる。魔神に神の力は通用しなくとも、澪丸はその限りではない。少年が「時渡り」をするにあたっては、さすがのこの鬼も干渉できないのだから。



 その思惑は、たしかに正しかった。


 ――この勾玉を、壊されない限りは。


(……時間を、かけすぎたか。感づかれたのも無理はない……!)


 落ち度は、澪丸にあった。幾度となく与えられた「生き返り」の機会を使ってもこの鬼を殺せず、挙げ句の果てにはさらなる成長まで促してしまったのだから。



 どちらにせよ――もう、後はない。


 死すればそこで終わりの、本当の殺し合いが始まるのだ。



(――――、)


 その事実が頭の端によぎって、澪丸は動きを止める。


 命をかけたやり取りは、これまでに幾度となく、それこそ数えきれないくらいに繰り返してきた。ここまでの敵を相手にしたのは、未来の「魔神」そのものを除けば初めてであったが……死の危険など、澪丸にとっては日常そのものだった。戦いに敗れ、野にしかばねをさらす覚悟も、よわいが十をこえる前に完了している。


 それでもなお、澪丸の体を、意思を、鈍らせるのは――ここで死ねば、これまでに重ねた覚悟、そして繰り返してきた戦いのすべてが、無になるという事実であった。


 ここで死ねば、魔神を殺せないままに終わる。


 幼き日、魔神に故郷を奪われたあのときから、これまでに積み重ねてきたすべてが――水の泡となり、塵と消える。


 それは、恐怖とはまた別種の「恐れ」であった。魔神の首を前にして、すべての「過去」が、澪丸の肩にのしかかっているのだ。


 宝刀を握る手が、ひとりでに震える。喉の奥にこびりついた血が乾き、飲み込んだ唾とともに、その残骸が胃の中に落ちていった。



 動けない。


 殺すべき宿敵を前にして、澪丸はただ、石のように固まってしまっていた。




 ――その、ときである。



「お師匠」



 声が、聞こえた。


 それは、澪丸の横合い、燃えさかる炎に紛れるようにして佇む者の口から発せられた言葉であった。


 敵から意識を逸らさないままに、澪丸はゆっくりと、声の主のほうを見やる。



 そこにいたのは、ひとりの娘。普段とは違った豪奢な着物に身を包んでいるものの――その表情は、眼差しは、澪丸の知るものとなにひとつ変わらない彼女のものであった。揺らめく炎をうけて、紅い玉石のように輝く瞳の奥には、澪丸を鼓舞するかのように強い光が浮かんでいる。


 彼女はそれ以上、なにも言わなかった。否――言う必要が、なかった。澪丸の勝利を疑わぬ、まっすぐで凛とした気配だけが、茜の体から迸っていたから。



(……なるほど)


 その姿を視界の端にとらえて、澪丸はふと、笑った。


 この死地にあって、最も命の危険があるのは、紛れもなく彼女である。戦うすべも、身を守るすべも持たない彼女は、いつ澪丸と漆黒の鬼の戦いに巻き込まれて死んでもおかしくはなかった。


 ――それでも彼女は、澪丸の戦いを見届けるために、渦中に身を置いているのだ。この戦いが、彼にとって何にも代えがたいものであると、言われずとも理解していたから……たとえ戦場が炎に包まれようとも、逃げ出しはしなかった。


 足手まといになる可能性があるとしても。


 それでも、必ず、自分がこの少年を支え、鼓舞する役目が回ってくると確信していたから。



(――助けられた。おまえがいなければ、きっと、俺はここで折れていただろう)



 臓腑の内から、体の底から、心の奥から。


 あたたかく、そしてなによりも強い力が、とめどなく溢れてくる。



 震えは、止まっていた。そのかわりに、抑えきれない高鳴りが、澪丸の体を突き動かす。



 そうして少年は、何よりも強く、確かに、構えをとった。



 「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」。


 それは、いかなる魔族をも斬り伏せる、天下最強の剣術。



 ――鬼の王とて、その例外には入らない。




「俺の、これまでのすべてを――」



 そうして、ただ強く、告げる。

 自らの意志を、声高く世界に響かせるように。



「俺たちの、これからに繋げていくために!!」



 床を蹴った澪丸の体が、流星のように残像を残して突き進む。燃えさかる炎が風圧を受けて揺らめいて、まるで少年に道をあけるようにそのかたちを変えた。


 迎え撃つ鬼の王は、奈落の底へと続くような眼窩の奥、赤く冷たい怨恨のまなこを見開いて、右手の絶爪を閃かせた。彼が抱く人間への憎悪、そのすべてを乗せたかのように激烈な一撃が、宝刀「王水」の刀身と衝突する。


 鍔迫つばぜり合いは、起こらなかった。


 ぶつかり合った場所を起点として、両者の体が弾き飛ばされる。澪丸は激しく宙を舞ったあと、赤い絨毯の上に着地して、体に走る衝撃を和らげた。間髪入れずに飛びかかってきた漆黒の鬼の爪が少年の脳天を狙うと、澪丸は横に転げて辛うじてそれを避ける。


 ざんっ!! という異様な音が響いて、鬼の爪を受けた床が縦に切り裂かれる。その跡は床に留まらず、まるで亀裂のように奥へと走ったあと、部屋の壁を伝って、天井に達そうとするあたりでようやくその勢いを失った。少し遅れて、裂けた壁が外側へと倒れ、その残骸がはるか地上へと落下していく。


 その崩落を待たずに、またしても両者の獲物が閃いた。瑠璃色と黒の残像が交差したかと思うと、鮮やかな太陽のような色をした火花がこぼれ落ちる。絶え間なく衝撃音が響き、そのたびに大気が震えた。



 それは、おそらく――これまでに人間の歴史にも、魔族の歴史にも類を見ない、あまりにも激しい戦いであった。死闘と呼んでもまだ足りない、絶命する猶予すら与えられないほど目まぐるしく局面の変わる攻防。澪丸が鬼の首を狙ったかと思えば、下から爪が閃いて、その刀身を打ち上げる。漆黒の鬼が隙のできた澪丸の脇腹を狙ったかと思えば、華麗な体捌きで鋭い爪は躱された。


 技と力がせめぎ合い、ぶつかり、そしてしのぎを削る、刹那の瞬きすらも許されない規格外の殺し合いは、永遠に続くのではないかと思えるほどに、終わる気配を見せない。壁が崩れ、床が割れて、互いの体からどれだけの血が流れても、両者は一歩も譲ることはなかった。



 だが。


 やがて――わずかに、澪丸の体の動きが鈍りはじめる。技において優位に立っていた澪丸であったが、種族の持つ生命力という点において、鬼である「厭土」には敵わなかった。互いに与えた傷、そして流した血の量が同じであるとすれば、人間である澪丸が先に力尽きるのは必然の流れであると言えよう。少年の視界が徐々に揺れはじめて、放つ技の精度も下がっていく。


 鬼の王は、そのわずかな隙ですらも見逃さなかった。澪丸が繰り出した技に威力がないと踏み切ると、あえて硬い皮膚でそれを受け止める。


 わずかに動揺し、動きの止まった澪丸の腹へと――鬼の王は、恐るべき速さで突き上げるような膝蹴りを繰り出した。爪による攻撃を予想していた澪丸の体は、想定外の方向から生まれた衝撃に対し、あまりにも無力に、天高く打ち上げられる。


 落雷によって崩壊した天井を通り越し、曇り空が広がる中空へと。回転する澪丸の視界は、天と地が瞬く間に入れ替わり、立ち代わり――それでもなお上昇をつづける。やがて、天空の一点でその動きが止まり、少年の体が落下を始めようとしたとき、はるか眼下で鬼の王が爪を構えている姿が目に入った。


 このまま落ちれば、あの先端に串刺しにされる。それは火を見るより明らかであった。逃れようとしたところで、このように宙へ打ち上げられた状態では、まともに身動きもとれず、為すすべがない――――



 はずであった。




 ――この少年が。


 「鬼界天鞘流」という、この世において最も強く……そして最も奇怪な「奥義」を持つ流派の使い手でなければ。



「……お」


 短く吸った息で、体に力を巡らせる。手にした宝刀を、腰の鞘へと静かに収める。


 そうして、少年は――はるか地上、海原、そして水平線をも見渡せる、世界の中心のようなその場所で、地の果てまでも轟くような咆哮を放った。




「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――ッッ!!!」




 「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」、奥義――禍瑠璃天鞘まがるりてんしょう



 天の上で、あらん限りの力を振り絞り――刀身を、そして自らの身体を発射台とすべく、少年は全身を軋ませた。


 鮮血が吹き出し、筋が千切れ、骨があらぬ方向へとねじ曲がる。それでもなお、燃え滾るような決然たる意志をもって、澪丸は力を溜めつづけた。


 狙うは、はるか眼下にて構える「魔神」――厭天王。この世をも終わらせるほどの力を秘めたその鬼を貫き、この世に平穏をもたらすべく――――



 その、瑠璃に輝く「鞘」が、青い彗星のように閃いた。



 ご……おおおおおおおおッ!! と――細い鞘が、まるで隕石のような音をたてて飛翔する。あまりにも真っ直ぐに、あまりにも激しく空気を裂いて、その一撃は楼閣の頂上へと落ちていった。


 やがて、その青い軌道の先が、漆黒の鬼へと肉薄する。避けられないと判断したのか、あるいは澪丸の全力の一撃を受け止めてなお彼に勝利しようと考えたのか――「魔神」は、それを両手の爪を交差させて受け止める。




 ――音は、生まれなかった。


 そのかわり、鞘を受け止める鬼の足元、楼閣の床に亀裂が入った。それは瞬く間に広がると、やがて耐えられなくなったように床が崩落する。漆黒の鬼の体が階下へと落ちていき――しかしそれでも勢いは止まらずに、下の階の床までも貫いて、魔神は受け止めた鞘と共に落下をつづけた。


 幾層もの床を破る、轟音が響く。一度、二度、三度……もはや数えきれなくなるほどの破壊音がようやく止んだときには、朱色の楼閣の中央を貫くようにして、巨大な穴が穿うがたれていた。それはまるで、赤黒く闇が口を開ける、黄泉よみへと続く洞穴のようであった。



 わずかの後――その、奈落よりも深い、混沌とした大穴の中に、ふたつの赤い点が瞬く。「それ」は激しく瘴気を撒き散らしながら、血よりも深い色をしたまなこを見開いて、地の底から恐るべき勢いで這い上がってきていた。


『人間……人間……ニンゲンンンッ!!』

 

 もはや理性があるかどうかすら分からない、その「怪物」は、おぞましい声をあげて澪丸へと猛進する。その心臓には瑠璃色の鞘がまるで杭のように突き刺さっていたが、それでも「それ」が動きを止める気配は一向にない。


 落下をつづけながら、澪丸は静かに、残った宝刀そのものを両手で握りしめる。そうして、中空でわずかに体を捻り、体勢を整えると、まるで天に向けてその刀身をかざすように、「王水」を高く振り上げた。


 「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」、三の型――群青堕ぐんじょうおとし


 魔族の首を斬り落とすために編み出されたその技の狙いを、憎悪の影へと確かに定めて――――



 少年は、最後の一撃を振り下ろした。



 天空から落ちてきた澪丸の刃と、地の底から這い上がってきた「魔神」の爪が、楼閣の最上階にてふたたび交差する。空いた大穴の中央で、上からの力と下からの力が衝突し、それはさながら翼を持つ者同士が戦うように、両者は宙で互いの武器をぶつけ合った。


 そして――今度も、鍔迫り合いは起こらなかった。


 だが、それはまたしても相打ったからではない。澪丸が振るう瑠璃の刃が、ついに、鬼の持つ絶爪……そのすべてを断ち斬ったからである。


『ナ……!?』


 落下の勢いをそのままに、宝刀「王水」の切っ先が、鬼の首をとらえた。鎧よりも硬い皮膚に覆われたその場所に、しかし澪丸の刃は確実に斬り込んでいく。


『グ……ウウウウウオオオオオオオオオオオオオオオ!?』


 濁った青い血を撒き散らしながら、鬼の王が叫びをあげる。それは痛みと、驚愕と、恐れが混じったような声であった。


『ナゼ……ナゼ!! 人間ゴトキガ、我ノ命ヲ脅カセルトイウノダ!? 我ハ、王……コノ世ヲ喰ライ尽クス、絶対ナル者デアルトイウノニ……!?』

「知りたいか」


 刃を振り下ろすその腕にさらなる力を加えながらも、澪丸は厳然とした声で返す。


 自らの覚悟を、積み重ねてきた研鑽けんさんを、仇敵に思い知らせるように。



「おまえが、『魔神』で……俺が、『魔神殺し』だからだ」



 瞬間。


 まるで、竹を割るかのごとき清々しさすら想像させて――瑠璃の刃が、漆黒の鬼の首を両断した。切り離された鬼の頭と胴体から、滝のように青い血が吹き出す。


 それと同時に、澪丸の技を後押ししていた落下の力はすべて使い果たされ――新たに生まれた、ゆるやかな自然の重力に従って、少年の体は楼閣の中央に空いた大穴へと吸い込まれていく。近くに足場はなく、澪丸の体は為すすべもなく落ちていった。


 それと共に、かつて「魔神」であった死体も、ゆっくりと落下を始めて――――




 否。



 ――落ちていくのは、その胴体のみであった。切り離された頭部は、切断面から激しく吹き散らす血を推進力として、なおも抗うように飛翔をつづける。


『ハ……ハハハハハハハハハハハハハハ!!!』


 そのとき、聞こえるはずのない声が、澪丸の耳に届いた。


『我ノ勝チダ、人間……!!』


 首だけになってなおも死なぬ、その恐るべき怪物は、楼閣の最上階、そこのある一点を目指して飛ぶ。


 ――そこにいたのは、豪奢な着物に身を包んだ、ひとりの鬼の娘であった。


『羅血ノ、鬼……!!』


 ぎらついた漆黒の鬼の眼が、彼女の脇腹の傷をとらえる。まるで、そこから微かに滲む青い血が、極上のみつであるかのように。


『ソノ血ヲ、我ニササゲヨ!! 我ノ再生ト、サラナル進化ノタメニ!!』


 鬼の娘は、「魔神」の恐るべき意図を察したように目を見開いたあと、身を守るように体を縮めた。しかし、その程度の動きで、空から襲いかかる鋭い牙から逃れられるはずもなく――




 ぎぃん・・・! と。


 硬いものがぶつかる音・・・・・・・・・・が、炎の揺らめく楼閣に響いた。



「……首を斬り落としただけで殺せるなんて、思ってもいないさ」


 「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」、二の型――空色兜そらいろかぶと


 刀の柄を右手で、切っ先の裏を左手で支えることによって「空からの襲撃」を防御するその技は、かつて青と赤の体毛を持った巨鳥の爪を防いでみせたときのように、少年を――そして鬼の娘を、魔族の脅威から守る。


「おまえは、人間の世を滅ぼす『魔神』だ。それしきでくたばるはずがない」

『ナッ……!?』


 毅然と語る、その少年がなぜ奈落へ落ちることを免れたのか――鬼の王は、知り得なかった。

 だから、せめてもの手向たむけとして、澪丸はどこまでも低い声で、彼へと語る。


「簡単なことだ。共に落ちていくおまえの胴体を踏み台にして、穴の淵まで跳躍した。人間である俺でも、それくらいはできるさ」

『グ……オオオオオ!!』


 怒りに呻く声が響く中、少年は刃で受け止めていた鬼の首を天へと放る。呆然として、顎の力すらも抜けた鬼の首は、牙で刀身を咥えつづける余力もなく、あまりにもあっけなく宙を舞った。



 澪丸は集中を高めるようにひとつ呼吸をしてから、無為に構える。余計な力も、不要な雑念すらも抜け落ちて、少年の体から研ぎ澄まされた刃のような気配が生まれた。


「『鬼界天鞘流』の開祖、水主みずし 凛鬼りんきは、自らの子を殺した鬼への復讐のために、修羅の道を歩んででも魔族殺しの剣術を身につけたという。そのごうと、流派の名に『鬼』という字がつくのは、いついかなる時もその感情を忘れぬようにと、そういった決意のあらわれであるそうだ」


 炎が揺らめく楼閣の中で、少年の影が静かに踊る。


「ゆえに、始まりの技である、この『一の型』にも……同じ字が刻まれている。開祖である水主みずしが生み出し、幾代もの継承者が磨き上げてきた、この型は――まさに、すべてを終わらせる、絶技と呼ぶにふさわしい」


 宝刀「王水」の切っ先が、紅蓮の炎を受けて、なによりも青く冴え渡った。



 「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」、一の型――蒼鬼殺あおおにごろし



 暗闇に覆われた天をたったひとつ駆ける流星のように、青い残像が生まれる。それは、あまりにも単純な――そしてそれゆえに、何万回もの反復が繰り返された、基礎にして奥義をも超えうる力を持った一閃であった。


 半月を描いて振り抜かれた宝刀の刃が、首だけになった鬼の脳天をとらえる。それと同時に、地獄の底から天上の果てまで響くような、恐ろしい断末魔の叫びが生まれた。


『ガ……アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!』


 刃の切っ先が鬼の頭に食い込んでいくたびに、びし! という奇妙な破砕音が生まれる。それは、傷を受けた鬼の頭から発せられているのではなく――澪丸の周囲の、なにもない虚空から聞こえてくるものであった。



 びし、びし、びし!!



 澪丸は、理屈もなく、ただ脳裏の奥で無意識のうちにうちに理解していた。


 これが――世界が変わる音・・・・・・・であると。人間の滅びゆく運命が、数百年にわたって繋げられてきた怨嗟の鎖が、ともに断ち斬られようとしている前兆であると。



 びし、びし、びきり、びきり――!!



魔神まじん……厭天王えんてんおう


 しだいにその数と激しさを増し、もはや喧騒と呼べるまでになった破砕音の中で、静かに、澪丸はその名を呼ぶ。


 血塗られた過去と、滅びゆく未来への決別の意味を込めて。



「おまえは、俺が――殺す!!」




 ばきん・・・!!



 世界そのものが砕けるような音が最後に轟いて、爆風が吹き荒れる。


 楼閣を燃やしていた炎は、その余波を受けて、まるで息を吹きかけられた小さな蝋燭の火のように、たちどころに消え失せた。残るのは、ただ、焦げくさいようなにおいのみである。



 両断された鬼の頭は、ついにその絶叫を止めると、まるで灰になったかのようにぼろぼろと崩れ……吹き荒れる風に乗って、はるか天へと昇っていった。



 憎悪に生き、怨恨に死んでいった「鬼の王」の残骸――その行く先を、澪丸は目を細めて見送る。そして、そのすべてが一片も見えなくなったところで、少年はただ、断ち斬った「過去」に惜別の念を送るように、ゆっくりと目を閉じた。



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