6 皇帝はお熱いのがお好き
五の宮へ戻ると、傭兵団にも食事が行き渡っているようだ。にぎやかな笑い声がするので声をかけず、ヴェンツェルはあてがわれた個室の扉を閉めた。
ヴェンツェルのためだけに風呂を沸かしてくれていて、砂漠の国でこれだけの水を使うのはかなりの贅沢のはずだった。今から部屋を変えてくれとはちょっと言い出せない。
壺型の陶製の浴槽は一人用で大きくはないが、胸まで浸かると思わず声が出る。ヨハンから打たれた傷がしみたのだ。
ヨハンが敵として現れる。それはヴェンツェルが最も恐れていたことだった。
「いつかあるかもとは思ってたけど、まさか二年ぶりに外に出て、しょっぱなぶち当たるとはね」
しかも雇い主は皇帝への反感を隠そうともしない二帝ときた。
「よりによって一番仲悪いところに雇われやがって」
しかもあいつは、何でもない顔していた。動揺して狼狽しているのはこっちだけ。
「なんだよ……、勝手に出て行ったのはあいつの方だけどさ」
傭兵団での人間関係や、ドケチヴェンツェルとの給金未払いのトラブルがあったわけではない。ヴェンツェルが傭兵の世界で成り上がるまでという、最初から期限付きの契約だったのだ。
『雷帝クヌード』を倒し、『煉海の王アドルフ』を葬り、一介の
そんな生活にヨハンが耐えられるはずがないと分かっていたのに。いや、ヨハンだけではない。セバスチャンも、ユリアンも、フィストも本当は我慢しているはずだ。
「あいつにとっちゃ、私は期待外れの
傭兵団よりも好いた男を選ぶような団長なのだ。だから次は領土のために迷いなく戦う二帝を雇い主に選んだ。その選択には頷ける。
そしてフェルディナントはこれを知っていたのだろうか。知っていてなお帝国に行かせたとしたら——
「それはやっぱり、もう厄介払いしたいってことだよな」
ヘルジェン王国という国がラム大陸の東端にある。国土はさほど広くはないが、資源に恵まれた経済大国だ。ラム大陸の覇権を狙う帝国にとっては脅威となる存在だが、長らくこれに勝てなかった。そこでヘルジェンの隣のブレア国を属国にし、ブレアを盾に戦を展開したのである。ヴェンツェル団はブレア国に雇われていた。
そして最終決戦となったバルフ平原の戦いで、ヴェンツェルは独断で宗主の帝国を裏切り、帝国とヘルジェン双方へ攻撃をかけた。戦の勝利は帝国でもヘルジェンでもなくブレア国に転がり込み、その隙にフェルディナントは帝国を無視する形で、単独でヘルジェンと和平を結んだのだ。
全ての元凶であるヴェンツェルの身柄引き渡しを求めた帝国に対し、フェルディナントはのらりくらりと追求をかわしながら二年以上匿ってくれていた。
しかし、さすがにもううんざりなのだろう。これ以上は、帝国皇帝となった義父との溝も修復できなくなってしまう。
フェルディナントの足を引っ張るようなことはしたくない。だから帝国に送り込まれたからといって憎む気持ちはないが、言ってくれればいいのにと思う。
「……陛下は言わないか」
いつも契約書を一方的に送りつけてくるのがフェルディナントだった。王族のくせに駆け引きが得意じゃなくて、古参の忠臣にまで裏切られて、いつも崖際に立たされて、それでも小さな光を信じ続けていて。
『そなたでなければ意味がない』
そう抱きしめられた。以来、二年間会っていない。
二年の間、時に火掻き棒で体の中をかき回されたように、時に胸が千切れそうになり、それでもこの叶わぬ想いが変わることはなかった。いい加減やめたいと自分でも思っているのにだ。
不意に目頭が熱くなり、ヴェンツェルは頭まで湯に潜る。
息を止め耳と目を塞いで感傷を遠ざけようとした。感覚を遮断して、繭の中にいるように。ここから出たら全て忘れて羽化できるように。
だから人が入って来たのに全く気づかなかった。
いきなり強い力で頭と体を上から押さえつけられ、一瞬パニックに陥る。
かなり強い。男の力だ。もがいて引き剥がそうと爪を立てても動じない。次第に息が苦しくなる。
ヴェンツェルは逆に頭をもっと深く沈めた。勢い余って男の腕も一緒に潜る。その瞬間に体を捻転させ男の腕を抱き込むと、水しぶきを上げて膝蹴りを繰り出す。当てずっぽうだが衝撃があり、押さえつける力が緩んだ。
その隙に立ち上がる。思い切り息を吸いながら男の髪を強烈に掴んで、湯舟に押し込む。
しかしその衣にハッとして、ヴェンツェルは手を離した。
「皇帝ってのは人の風呂を黙ってのぞく権限があるのかい」
「流石、見事だ。……本当に女なのだな」
浴室の端に置かれたタオルを取ると、ヴェンツェルは一枚投げ渡した。動きの一つ一つをつぶさに観察される視線を感じながら手早く体を拭いて、帝国式の服を身に着ける。
「用件は」
前合わせの襟を直し、帯を締めていく。
「
濡れた髪を拭く皇帝。冠は外してきて正解だ。
「それで。お払い箱なら早いうちに言ってくれ」
浴室から出ようとするヴェンツェルの進路をふさいで、皇帝は出入り口の扉に寄りかかる。
「朕の最も近くで命を守れ。朕が死にそうなときは、代わりに汝が死ね」
「一体誰に狙われてる?」
「兄弟全員だ」
「やっぱ全員覚えなきゃダメか」
ヴェンツェルは頭を抱えた。
「先代皇帝が次期皇帝に指名したのがなぜか五男のアンタって時点で、上四人は敵だと思ってたけどさ」
「無論、一帝は長男の自分が後継と疑いもしなかったはずだしな。征服領土の大きさでは二帝が一番だし、三帝も四帝も自分を差し置いてなぜ弟がと疑念を抱いているだろう」
「アンタが先代へ何かしたとか疑われているわけか」
「それどころか、朕が先代を脅して遺言を書かせた後に暗殺したと六帝は堂々とのたまわっていたし、大人しくしている七帝も八帝も腹の底は分からぬ」
「信じられる者は誰もいないのかい」
「だからフェルディナントに、最も信頼する護衛を特使として送れと命じた。下手な身内よりも金で動く傭兵の方がよほど信頼できるのは、どの兄弟も同じだ」
なるほど、それでヨハンといいリュートといい、傭兵が多いのか。すんなりと腑に落ちるが、人の上に立つ者が果たしてそれでいいのかとも思う。
「状況は分かったけど、勘違いするんじゃないよ」
ヴェンツェルは一歩前に出て、皇帝を真正面から見据えた。
「傭兵は命じられて動くんじゃない。私の雇い主はあんたじゃなくてフェルディナント陛下だ。陛下との契約履行の為にあんたの命を守ってやるだけだよ。身代わりに私に死んで欲しいなら、それなりのものを用意してから交渉するんだね」
皇帝の鷹のような目がヴェンツェルを捕らえる。巨大な帝国の頂点に君臨する男だ。帝国に仕える者なら、震え上がるような視線なのだろう。もとよりヴェンツェルを戦犯にし、殺したがっている男である。
「朕を欺いておいてよく言う」
「傭兵は契約に従うまでだ。それ以上でも以下でもない。フェルディナント陛下があんたを必要とする限りは、あんたの為にも命を張ってやるさ。そこをどいてくれ」
皇帝が半歩体を浮かせたので、引き戸を全開にし、お先にご退室どうぞと手を向ける。外には二名の護衛が静かに控えていた。
「明日からの皇円座に
それは三年に一度、全統治帝が皇帝の元に集い行われる会議だ。今回、寧禅が皇帝になって初めての皇円座となる。
フェルディナントから別紙で取り交わした特使契約には、皇帝の信頼を得て皇円座での警護をするようにと書かれていた。ヴェンツェルは唇を吊り上げる。
「一つ聞くけど、
「他に無いだろうな」
華麗な黄金の宮殿は、とんでもない魔窟だ。
——やっぱり20万
皇帝と護衛が出て行くと全身で脱力だった。
「もう、全然風呂に入った気がしないんだけど!」
鋼鉄のヴェンツェル 乃木ちひろ @chihircenciel
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