『おはよう』
暗闇にのみ込まれた俺を、ミスト状の何かが触れている感覚がある。それが酷く寒い。いつかの旅行で、瀑布の側で飛沫をマイナスイオンだと喜んでいたのを思い出したが、今はとても歓迎出来そうになかった。
「はぁ」と 声を出せば響く、つまり空気はあるから生きていられるのだが、地面に足がついていないので、足掻いても、何も出来ず、もう随分と感覚が麻痺してしまった。
どれぐらい時間が経ったのだろうか。
暗闇に慣れてくると、夢の導入のように、網膜に記憶が浮かんでは反省を繰り返す。妹のことを考え、何だか泣けてきそうになるが、目頭に力を込めて我慢し、雑念を追い出して、努めて眠ることにした。
意識が覚醒すると、地面に寝そべっていた。
久しい重力の感触が、戻っていたのだ。相変わらずの暗闇だが、床を手で確かめながら、立ち上り、どうしようかと逡巡する。……進んでみるか。這うように進めば、数歩も行かず壁に頭をぶつけた。ふにっ、と、それは弾力のある質感で、怪我は無かったが、俺は大いに驚いた。
落ち着いてから、色々と確かめて分かったが、ここは恐らくは半球状の空間で、天井の際限は不明だか、円の中心から真っ直ぐ歩いて五歩程度の広さの空間であることが分かった。
意味合いとして、心の衛生を保つ為に“ここから出る”という目的を持って行動をしていたが、行き詰まってしまった。
「どうなってんだよ……俺、頭ん中グシャグシャだ」
自制心の糸が、プツリ、と切れて、思い切り叫んでみた。
弾力に富む壁を気が済むまで何度も、何度も蹴った。
何も起きない、無駄な行為に思えたが、その攻撃性を示すシグナルは、しっかりと外の世界に伝わっていた。
それが起きた時、俺は言葉を失った。
ユリの蕾が花開くように、天井の一点から光の線が放射線状に走り、空が広がっていく。瞳孔の激しい痛みに、勝る喜びで光を見つめ、全方位の壁が展開図のように地面に広がったらしい。
『早上好』
車輪が二つあり、自走するロボットが目の前に現れると、軽妙な電子音の後にスピーカーから音声が流れ始めた。
『good morning』
『Buenos dias』
『नमस्कार』
色んな言語で語りかけられている、恐らく同じ意味の言葉を。ロボットを観察すると、この機械はカメラでこちらを視ているようだ。
意図を汲んで、俺は「おはよう」と語りかけた。するとまた、軽妙な電子音の後に『おはよう』と返ってきたのだった。
「あなたは、誰ですか?」
俺は、モノアイ越しでこちらを観ているだろう誰かに向けて話しかけてみたつもりだった。
『はい。私はナビ。あなたの暮らしをサポートする目的で待機していたこの世界の案内人です』
返答に、タイムラグが無い。
「……ここは何て言う場所?」
『はい。第四エデンのゲート前です。これから、あなたには第四エデンに入国していただきます』
「第四エデン?」
辺りを見渡す。照明のある天井、足元には薄くて黒い殻のような何か、その下に鈍色の光沢を放つ床、そして卵型の大きなオブジェ(?)があるだけの、窮屈な部屋だ。
だが、先程から謎の違和感が、喉に刺さった骨のように気になってしまう。
『はい。とても素晴らしい国です。広大で、豊かで、あなたはそこにある全てを自由に出来るでしょう』
「……それは、つまり、無法地帯ってこと?」
『はい。いいえ、あなたは誤解している。第四エデンではあなたの意思決定が、尊重されるのです。住人にはルールがありますが、あなたの意思決定が最優先なのです』
自分の苦笑いが引きつっているのが分かる。ロボットの言う馬鹿げた話が一つだが、もう一つ、笑えないことに気がついたのだ。
このロボットが、この部屋のことを『第四エデンのゲート前』だと言っていたのが不自然だったが、それ以前に、この部屋には致命的な欠陥が一つ。“どこにも扉がない”ことに気がついたのだ。
「入国の方法を教えてくれる?」
『はい。まずはこちらのカプセルの中に入り、私のいくつかの質問に答えていただくことで、初回だけはしばらくの休眠の後に、あなたを
「なるほど」
夢をみる廃人になれ、ということか。まともな神経なら、とても信じられる話じゃない。
まるで誰かが考えそうなSFだ。……そう、“誰か”がこれを考えているはずだ。
「この床に広がっている、この黒い物は分かる?俺はこの中にいたんだけど」
『はい。いいえ、知りません』
「じゃあ、この黒い物が何かを知っていそうな人は知ってる?」
『──はい。あなたが第四エデンへ入国後に、あなたが呼称するところの黒い物を、■■■へ運■■■■■禁則事項禁則事項禁則事項──早上好 good morning』
「……おはよう」
『おはよう』
第三者の介入と初期化。これは、言外の圧力だろう。……お前はあくまで、享受しろと言うんだな?
思えばずっと、何かに苛立っていた。
もしかしたら俺はもう死んでいて、用意された
だが、決してそうはしない。あの時風呂場には俺ともう一人、妹がいた。俺と同じように、このおかしな事象に巻き込まれていないと考える程、楽観的にはなれないし、会えるなら、会いたい。
モノアイ越しの仮想敵を睨み、俺は作られたチュートリアルへの、反抗の意思を固めたのだった。
世界の黄昏(仮) マス桜 @kawanonagare
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