第四章
正保三(一六四六)年に柳生宗矩が亡くなり、柳生家は十兵衛が継いだ。
だが、十兵衛は江戸にあらわれることはなく、将軍の兵法指南は弟の宗冬がおこなっていた。
それから四年が経った慶安三(一六五〇)年。四十二になった忠常は柳生を訪れた。
丁重なもてなしで十兵衛の自室に案内された。十兵衛は着物と羽織の姿で
忠常が部屋に入ると、十兵衛はしずかに振り向いた。左目には眼帯にした刀の鍔をあてていた。月代はのばして髪は茶筅髷に結っている。かつて陽によく焼けていた肌は、いまは青白く見えた。
「江戸からご足労いただきかたじけない」
二十年ぶりに聞いた十兵衛の声はしずかで澄んでいる。
「なんの。拙者が勝手におしかけたのでござる」
忠常は土産の酒瓶を差し出した。
「親父どのが亡くなってから酒は絶っております。臓腑を
「左様でござったか。上等なものゆえ家中のものに与えてくだされ」
「かたじけない」
「左目はいかがされた」
「若きころは暴れまわっておりましたので。その折に怪我をしました」
十兵衛ははにかんだように微笑んだ。
その笑顔をみて忠常は不思議な感覚をおぼえた。
意を決して柳生を訪れてみれば、あっけないほど容易に十兵衛と会うことができ、こうして言葉をかわしている。
あの御前試合からの二十年。忠常自身の強情が十兵衛との再会を遠ざけていただけかもしれないと思った。
「十兵衛どの。二十年まえの御前試合をおぼえておいでか」
「むろん。拙者は忠常どのが怖かった」
「怖い」
「いかにも」
「だが十兵衛どのは拙者に勝った」
「怖さゆえにでござる。真剣勝負では相手を怖いと思う心が命を生きながらえるのです」
「そういうものでござるか」
あの柳生十兵衛が小野忠常を恐れていた。忠常はその言葉を聞くことができただけで救われたような気がした。
「なぜ、島原へは来られなかった」
「親父どのより、忠常どのを斬れ、と命じられてござった」
「なんと」
「忠常どのも、親父どのより拙者を斬るように頼まれたのでしょう」
「いかにも。つまり」
「親父どのが謀ったのでござる。あわよくば、おのれより強い者同士を相討ちさせる」
「宗矩どのらしい」
二人は笑いあった。
「そのようなかたちで忠常どのとは斬り合いたくはなかった」
「このたびは拙者が柳生に参った」
「いかにも」
「これぞ頃合い」
「で、ござろう」
それから一刻(約二時間)ほど、忠常と十兵衛は語り合った。二十年来の旧知であるかのように
「そろそろ行きましょうか」
十兵衛が立ちあがった。床の間の
--
十兵衛の愛刀。十兵衛はそれを腰に差した。
「しばらく筆より重いものは持っておりませぬので」
十兵衛ははにかむように微笑んだ。
忠常も瓶割刀を持って立ちあがった。
忠常と十兵衛は屋敷の門を出た。家中の老人が門の外を掃除していた。
「十兵衛さま。どちらまで」
十兵衛は少し考えた様子で立ち止まった。
「鷹狩じゃ」
忠常と十兵衛は屋敷をあとにした。
◆◇◆◇◆◇
忠常と十兵衛は川原にでた。川のせせらぎが心地よく耳を打つ。
「このあたりでござろうか」
「うむ」
忠常は数歩はなれて十兵衛と向かい合った。
「小野派一刀流、小野次郎衛門忠常」
「柳生新陰流、柳生十兵衛三厳」
ふたり同時に左手で鯉口を切った。
忠常の心は研ぎ澄まされていた。川の音も耳から消え、目の前に立つ十兵衛だけを見ていた。
その時、忠常の目に映る十兵衛の姿がしだいに透きとおっていった。背後の水の流れにとけこむように。
--斬れない。
忠常は怖くなった。どのように斬りかかっても十兵衛を斬ることはできないと悟った。
--十兵衛どの。拙者の。
必死に声を絞り出そうとする心に反して、忠常の手は瓶割刀の柄に走り--。
--これが夢想剣。
瓶割刀の白刃が鞘から
「忠常どの。強くなられましたな」
十兵衛は口から血をこぼして倒れた。
「十兵衛どの」
忠常は十兵衛を抱き起こした。十兵衛はやすらかな顔で息絶えていた。
十兵衛は臓腑を患っていると言っていた。この真剣勝負は身体にこたえたであろう。
「十兵衛どの。そなたの勝ちでござる」
忠常は十兵衛を静かに横たえた。
「無刀取り。見事なり」
忠常は瞑目して片手で拝んだ。
柳生十兵衛を斬る 伊賀谷 @igadani
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