はいざら

張文經

はいざら

 禁煙をするために灰皿を捨てた。

 本気? あいつはそう言った。

 本気。そう返したらあいつはケタケタと笑って、またすぐ諦めるんじゃないの、と返した。

 いや、もう今回は本気も本気だから。それに私は君みたいな根っからの自堕落人間とは違うんだからさ。

 そう? まあ頑張ればいいじゃん。

 うん、まあ、今回はね、できるから。


 最初にタバコを吸い始めたキッカケはなんだったか、うまく思い出せない。これは嘘だ。大学入学に合わせて、一人暮らしを始めた時に、なんとなく、寂しさを紛らわすようにして始めた。これも、嘘だ。そのとき付き合っていた人から、もらいタバコをしていたのが始まりだ。

 その人のことはうまく思い出せないし、思い出す必要もないけど、別れた後、もうタバコ吸うことないんだな、と思うと無性に吸いたくなって、始めた。

 

 そんなことを思い出しながら、三日目には、タバコをもう吸い始めていた。誇張じゃなくて、本当にどうしようもなくなって吸ってしまった。ライターも捨ててしまったけど、そうだ、あのマッチを使えばいいんじゃん。おいおい、やっぱダメじゃん。あいつが布団のなかからそれを見て、笑っていた。

 私は聞こえなかったふりをして、ベランダに出る。

 もう春か。小学生が何人かの塊になって、下の道を歩いていく。かすれながら、雲が、青のなかに伸びている。ここらへんは確か近くに飛行場があってさ、だから飛行機雲が多いんだ。一緒に住み始めたときに、あいつが言ってたのを思い出した。


 肺に煙を吸い込む。

 私は、たぶん、心のどこかで、自分のことを綺麗だと思っているんだろう。肺をイメージするとき、それはいつも、白い、氷でできた、花瓶のようで、星のように、光が反射していて。きっと、私は、心の底では、ずっとそうだ。どんなにくだらない生き方をしていても、どんなに汚いことをしていても。

 本当に? うん。だから私は、君がどんなに自分勝手してもね、あまり傷つかないんだよね。私は生きていく、氷の瓶の表面に、たくさんの人の笑顔や、言葉が写って、あるいは欲が写って、私はそれを反射している。

 煙を吸い込む。黒くそれが入っていって、氷に、小さなヒビをつけていく。ヒビに染み込んでいく。黄色ぽく、ヤニがついていく。


 吸い始めてすぐに、灰皿がないことを思い出した。

 実は、わかっていて吸い始めたのかもしれない。いつも通り、計画性がないね。うるさいな。でも、私にはとっておきの思い付きがあるの。

 そう言って私はタバコを持ったまま部屋のなかに入る。

 部屋の隅に、山のように積み重なった、紙の、上から一枚をとる。

 おいおい、やめろって。冗談じゃない。

 えーでも、灰皿いるじゃん。

 いや、そんな普通の紙灰皿にならないだろ。それに、わざわざそれを使わないでもいいじゃん。

 ううん、これじゃないとね。それに工夫すれば、紙でもいけるんだよ。私はニヤニヤ笑いながら、ベランダに戻る。ご丁寧に半分に折られている紙を開く。

「あの空の、あの日の

 あの時の、あの川の光を

 とじこめた結晶です

 わたしは 」

 はは、全然意味わかんない。音読しても、あいつは、拗ねたように、何も言わない。私は、思いっきりの嫌がらせで、鉛筆で書いた文字の上に、タバコの灰をこぼしていく。最後には、短くタバコの先端を押し付けてやった。「とじこめた  です」そうやって、詩はわからなくなった。

「わたしは

 あの光を入れているのです

 川面が躍らせた群れの一匹を

 あのひとが捕まえたのです 」

 これってどういうこと? 全然わかんないんだけど。あいつが答えないので、なんだかしらけてしまって、私はその紙を灰と一緒に、くしゃくしゃに丸めた。あの川の光。いつの間にか、西の方が夕焼けていた。


 その紙の束のなかみを、あいつは見せようとしない。実は私も、それほど見たいと思ったことはなかった。たぶん、失敗作を、捨てられずに、ああやって積み重ねているんだろう。

 あいつの文字は、思ったより鋭角で、筆圧が強くて、でももしかすると、ちゃんと文字を見たのは始めてだったかもしれない。


 それから、禁煙の計画はすっかり頓挫してしまった。

 私は毎日、夕方になると、マッチと、タバコと、あいつの詩をもって、ベランダに出る。そうやってなんども繰り返す。あいつの詩を読んで、それから、読めなくしていく。 

 あいつは時々、詩の解説のようなものをしてくれる。いや、本当は、それは嘘だ。あいつは、解説なんてしていなくて、いつも黙って聞いているだけ。


「待つ人と待たれる人は

 いつからか

 同じ人になった

 息をするたびに

 影の花を散らした 」

 

 あいつの詩はいつも、「待つ」とか、「いつか」とか、それとか昔のことを言っていて、そしていつも私にはわからなかった。詩を読めば読むほど、あいつは私から遠くなる気がした。

 だから、やめとけばいいのに。あいつは、二人で眠りにつくときに、そういった。やめないよ。君が困ってるのが、わかるからさ。そう? まあ、好きなようにしなよ。

 私はあいつにぼんやり触れながら、最近、してないな、と思った。当たり前だ。やはり、いつでも行為は苦手で、やはり私は綺麗でいたいのだろうと思う。それに、どんなに触れていても、あいつのことはわからなくなるだけだった。そして正直、やったらやったで悪くないと思ってしまうのも、嫌だ。

 悪い習慣なら、私には、タバコがある。ある意味、私とあいつは、紙の上でしているのかもしれない。なにそれ、気持ち悪い。あいつが言う。ごめん。君も潔癖だもんね。 


 待っていたのかもしれない。ずっと。

 そう思った時には、もう、残った紙は数枚になっていて、初めから、そうしたかったみたいに、私は着々と彼の詩でタバコを吸い続けていた。キッカケもなしに、時間だけ進んで。 

「ただ、すわっている

 誰も殺さなかったために

 見えなくなりそうな

 たくさん、に囲まれて 」

 誰も殺さなかったから、君は見えなくなりそうだよ。私も、見えなくなりそうだ。きっと、私はいつでも自分というものを捨てることができて、でも、よくわからない習慣のまま、待っている。いつの間にか、ベランダの下の道に、桜が咲いていた。あれを、綺麗ねえ、なんて言って通りすぎる人たちみたいに、私は君の詩に触れてる。


「いまのぼくはたくさんの昔に

 つつまれてある

 もういはしない君によびかけて

 応えない空気のふるえから

 ぼくは掬われていく 」


 最後の一枚を、私は開くことができなかった。それで、しばらく、タバコも吸わずに、その一枚を、部屋の片隅に置いたままにしていた。眠るときに、久しぶりに現れた君は、私の太ももを撫でて、少し物足りなさそうだった。

 ごめん、いまはできないみたいだ。私は正直にそう言って、それはタバコとか、詩とかについて、言ったつもりだったんだけど、君は生理きたの? って言って小さく笑った。ばか。そう返して、私は眠ることにした。大丈夫だよ。それから、君は私の前には現れなかった。最後の会話にしてはちょっと、ひどすぎる。

 部屋の隅には、まだ最後の紙が閉じられたまま置いてあって、いつか、それは開かれるのかもしれない。もしかすると、開かれないのかもしれない。そのまま、私は進んでいくのかもしれない。

 待つ人、待たれる人、いつからか同じ人になって。

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はいざら 張文經 @yumikei

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