三月 蠢く闇 下
「君達を襲い、朱雀を飲み込んだスライム。その正体は――芥川の鬼だよ」
先輩は楽しげに、それでいてしっかりとそう言った。
「芥川の……何です?」
「芥川の鬼。あれ?知らない?”白玉か 何ぞと人の問ひしとき 露と答へて消え なましものを”って奴。ほら、伊勢物語の」
「あ、いえ。それは分かるんですが……」
確か男が愛した女を連れて逃げた時に雨が降り出して、荒屋に逃げたら鬼に女を食べられた……とか言う話の筈。でも確かあれは。
「藤原業平が女に逃げられたのを、それっぽく言っただけ……じゃないでしたっけ」
そう言うと、先輩は肯定の相槌を打った。
「そ〜そ〜。でもさ、考えてみたら同じじゃない?一口で獲物を喰らい、そして雨を避けて荒屋に隠れる……って」
確かに。要素だけピックアップすればそうだ。と言う事はつまり。
「都市伝説系妖怪って事ですか」
「まぁ、大昔のね。それが生き残ってて、何かの拍子で出て来たとかさ。ほら、地震もあったし」
うむむ。流石は先輩だ。
「で、どうやって倒せば」
「それは分かんない」
それはそう。
「兎に角、君達が倒せない相手じゃあないよ。朱雀ちゃんと翼ちゃんの仮説が正しければ、弱点は水な訳だし。じゃ、頑張ってね〜」
「はい、ありがとうございました!」
先輩はそう言って通話を切った。
「んで、どうだった?」
ボクがスマホを仕舞うと、神楽が聞いてきた。取り敢えず芥川の鬼であると言うと、鮫島さん達の方が眉を顰めた。
「鬼……ですか」
「よりによって朱雀が居ない時に……」
鬼……の説明は前に朱雀がしたから、詳しい説明はしない。まぁ要は、とんでも無く強い妖怪である。今回の場合は大昔の妖怪なので、便宜上"鬼"としているかも知れないけれど……
少なからず、あれだけの火力を持って撃破出来無かった代物だ。やはり撃破のヒントになるのは、朱雀や先輩も言っていた"水"だと思う。だが。
「雨程度じゃ逃げちゃうよね……」
「消防車……を用意する訳にも行かないか」
どれだけの水が必要で、且つ最低限の威力も分からない。それさえ分かれば、対策は幾らでも取れるのに……
「皆様、時間も時間で御座います。誠にささやかではありますが、御食事を御用意させて頂きました」
ああでもないこうでもないとアイデアを出していると、鞍馬さんはそう言って障子を開けた。出汁の良い匂いが漂って来て、誰かのお腹の鳴る音が。
……飯を食わねば戦えない。と言う訳でご飯の時間である。
「う〜ん……この出汁巻き、滅茶苦茶旨い……んでこの刺し身は、鱚と細魚でしょうか」
「なんて言うか……料亭で出て来る様な、そんなレベルですねこれ……」
食事が始まると、黒島家の料理を始めて食べる沼牛さんと永家さんの反応が楽しい。食べ慣れているボク達は何だか誇らしくなる。
「翼〜、醤油取って」
「あ、うん」
ボクが鯛の焼霜作りを食べていると、反対側の席に座る神楽が言って来た。渡そうと思って手を伸ばす――が、神楽が受け取ったと思って手を離してしまい、ひっくり返して溢してしまった。白いクロスにじわじわと、茶色の海が広がる。
「わ、ゴメン!」
「大丈夫大丈夫。"ワンモアタイム"」
神楽はそう言い、指を鳴らす。と、まるで逆再生の様に醤油差しの中に溢れた醤油が戻って行った。
それを見た瞬間。ボクの脳内で、とある閃きが。醤油差しを掴み上げ、空いた皿に撒いた。
「ちょ、翼!何して」
「良いから、もう一回やって!」
「え、えぇ……?」
渋々と言った表情で再び能力を使う神楽。それを見て、ボクの閃きは答えに変わる。
「……見付けた、芥川の鬼を倒す方法を」
「お腹空いた……」
ウチは思わずそう呟いた。お腹が空いて目が覚めたのだ。時計はしない主義なので時間は分からないが、多分今は食事時だろう。
取り敢えず飴を口に入れるが、これだけで足りる訳が無い。嗚呼、今直ぐにでも肉が食べたい。魚が食べたい。空腹がこれ程辛いとは……
あの二人は今頃、我が黒島家が誇る最高の板前の料理を堪能しているのだろう。今日は何が出ているのだろう。季節の刺し身だろうか。或いは肉料理だろうか。うぅ……考えただけでお腹が更に空く。
そんな風に鳴り止まぬお腹を擦っていると、暗闇にほんの少しだけ光る物を見付けた。赤く小さく光る何か。ウチはハムスターの回し車の様に水球を動かし、それに近付く。
「…………これって……まさか」
頼りにならない程小さな明かり。でもそれで、ウチの中で疑惑が確信へ変わった。しかしそうなると――不味い。
「コイツに、水で攻撃するのは不味い!」
「と言う訳で、作戦は以上になります。大丈夫ですかね」
ボクがそう言うと、全員が頷いた。朱雀や先輩、今回に関しては神楽のお陰でもある。
気になる天候は、じき晴れるとの事。有り難い。あの二人の話を信じるなら、雨の間は芥川の鬼も動かないだろう。と言う訳で、今の内に体力を回復させて貰う。つまる所寝るのだ。
「特妖課の皆様は、母屋の客間にお部屋を御用意させて頂きましたので、此方に……」
黒島家の女中さんに連れられ、鮫島さん達特妖課組は母屋に。ボク達は散々泊まりに来てるので、押入れから自分用の布団を出して寝る準備をした。パジャマとか着替は常に置いてあるので、朱雀が居ない以外は何時もと同じだ。
そう。朱雀が居ない。この部屋の主が。お風呂に行っても、本棚の朱雀の枠を漁っても。普段なら聞こえる筈の声が聞こえず、普段なら見える筈の綺麗な黒髪も見えない。生きているのは分かっていても、やはり寂しいものは寂しいのだ。
「……この部屋、広いんだね」
さっきより確実に小さくなりつつある雨音をバックに、ボクは小さく呟いた。桜が散り始める頃ではあるけれど、未だに夜は寒い。いや、普段は体温が高い朱雀が側に居るから、寒く無いだけかも知れないけれど。
「そだね」
神楽はボクの横でそう呟いて、少しだけ身を寄せてくれる。ボクも寂しいが、神楽もここ暫く朱雀と暮らしているのだ。その寂しさは同じだろう。
朱雀が側にいる。それはボクの、ボク達の日常だった。けれど。決して当たり前なんかじゃなくて。それは居なくなって始めて分かった事だった。きっと朱雀も、この寂しさが嫌なんだろう。だからボク達の為に、自分すら厭わない。そんな朱雀に、ボクは何をしてあげられるのか。
そう思った時。不意に充電中のスマホが振動した。着信だ。ディスプレイを見れば、また国枝先輩である。何か新しく気付いたのかな?
「あ、ゴメン寝てた?」
「いえ、そろそろ寝る所でしたが……どうしました?」
ボクが聞くと、国枝先輩は少し声を潜めて話し始める。
「……翼ちゃん、今日そっちに滋賀県警の特妖課を名乗る人って行かなかった?」
滋賀県警……あ。そう言えば二人居た。
「はい。沼牛さんと永家さんですが……」
「そっか……そっかぁ……」
国枝先輩はそう言って、暫く押し黙った。少し聞こえた何かが擦れる音は、髪を掻き毟った音だろうか。
「……えっとねぇ、翼ちゃん。驚かないで欲しいんだけど……」
「は、はい」
「滋賀県警にはね……」
「特妖課は無いんだよ」
翼との通話を終えた国枝は、自室のソファに枝垂れかかって窓の外を見た。雨粒が洛中の光を反射し、明かりの無い室内に小さな模様を描き出す。
「あ〜あ、言っちゃったなぁ……」
ソファの前にあるテーブルには、無造作にタロットが広げてあった。それは占いをしていたと言うより、バラ撒いたと形容するのが正しいだろう。そして、国枝が手でクルクルと回すのは。
「"塔"、か……」
正位置でも逆位置でも最悪のカードと呼ばれる、塔のカードだった。国枝はそれを回しながら、ニンマリと笑顔を浮かべる。
「さぁて、伊勢崎さん。私は言っちゃったよ〜?どう動くかなぁ?」
その言葉は、悪戯をした子供の様に楽しげだった。
「……んぅ……ん?」
目を開くと、初音ちゃんがボクを揺らしながら覗いていた。ボクの目が覚めたのを確認した初音ちゃんは、満足気に頷いて神楽を起こしに向かう。
「翼様、神楽様。雨が止みそうで御座います。そろそろ御支度を」
まだ暗い室内に、襖越しの鞍馬さんの声がした。確かに雨音は聞こえなくなり、寝起きの神楽の鳴き声が聞こえるだけ。
「分かりました、今支度します」
ボクは眼鏡を掛け、枕の下のG-17を出しながら答えた。隣でも、神楽がクーガーとPx4にマガジンを叩き込んでいる。この作戦は、雨が止む直前に動く事が重要だ。だからこんな時間ではあるが、わざわざ起しに来て貰ったのである。
取り敢えず着替えて渡り廊下を使って本宅へ。既に身支度を整えた鮫島さん達が、玄関でボク達を待っていた。
「おはよう御座います。お二人共、準備は宜しいですね?」
「あ、はい」
一瞬、永家さんと目が合う。でも永家さんはにこやかな表情で頭を下げて来たので、ボクもそれに倣った。
「では行きましょう」
鮫島さんはそう言って、玄関を開けて前に停めてあるパトカーに。ボク達は鞍馬さんの車へ乗りながら、昨日先輩に言われた事を思い出していた。
「特妖課が……無い……?」
「んま、正確には"まだ"無いって事だよ。確かに、全国の警察署に特妖課を設立する動きは広がってる」
元々特妖課が設置されていたのは、全国でも妖怪案件の多い北海道・青森・岩手・宮城・東京・神奈川・京都・大阪の八箇所だけ。でも、数年前から対妖怪犯罪の対策・妖怪保護の観点から全国の各警察署に設置すると言う流れが起きていた。
「でもね、翼ちゃんなら警察の内情に詳しいだろうから分かると思うけど……縦割りとか人員確保の観点から、そんなに進んでないのよねぇ」
実際、特妖課は他の課の数倍の仕事を受け持つ。それはそうだ。妖怪による犯罪の捜査から妖怪保護の仕事、時には隠れ里や居留地でのパトロールや遺失物に至るまで、他の課だと複数に分けられているものを全部引っ括めて管轄しているのだから。
京都府警特妖課は六つの班と五つの係に分かれている大所帯であり、人員の足りない地方警察署でこのレベルを維持しろと言うのも無理な話だ。
「だから滋賀県警には妖怪対策班はいるけれど、特妖課はまだ未設置……と言う訳だよ」
「え、じゃああの二人は……」
「さぁねぇ」
ボクが聞くと、先輩はそう返した。それはそうか。
「でも、だ。君達は朱雀ちゃんと常に共に居て、しかも妖怪退治なり何なりに参加している。だから……気になる人達は居るんじゃあないかな?」
「まさか……」
一体誰がボク達を気にしているのだろう。と言うより。
「……なんで先輩はそんな事を……」
「ふっふ〜ん、翼ちゃん。良い事を教えてあげる。良い女にはね、秘密の二〜三はあるものだよ。兎に角、あの二人には注意した方が良いね。悪い人って事は無いだろうけど、身分詐称の上に正体不明だし」
それじゃあね。先輩はそう言って通話を切った。
「……結局、どうすれば良いのかな」
ボクが呟くと、神楽は小さく唸る。そして悩んだ表情のまま、ボクの方を向いて言った。
「多分……今は協力しておくべきだと思うんだ。ほら、アタシ達だけでなんとか出来るとは思えないし。それに……少なくとも今は戦力が欲しい」
それはそうだ。確かに朱雀が居なければ、ボク達はただの可愛いJKだ。それもそれでどうかと思うけれど、それ以上に限界と言うものもある。
そんな事を考えていると、車は再び円山公園へ。薄っすら明るくなりつつある空の下、警察官達は公園周囲の警備を固めている。ここで、ボク達が決めるんだ。ボクは無線を取って、鮫島さん達のパトカーに繋ぐ。
「鮫島さん。付近の住民に無期限の自宅待機を徹底させて下さい」
「了解しました。では、以降は作戦通りに」
その言葉の後、無線は切れた。そしてボク達も銃のスライドを引き、弾が入っているかの最終チェックをする。そして、ほぼ止みかけの雨の下。ボク達は動き始めた。
作戦開始だ。
雨が止み、"それ"は動き出した。ゆっくりと動き、雨水が溜まっている所を避けて山を降りて行く。空は白み始めてはいるが、未だ厚い雲が覆っている。その下で、次の獲物を探す様に歩みを進める"それ"は、強力な妖力を感知した。
と、その妖力がある方。その地面が濡れていない事に気付いた"それ"は、跳ねる様にそちらへ向かう。半日以上、マトモな餌を食べていないのだ。妖力に誘われるままに、"それ"は山を抜けて円山公園へ。
そして、小さな橋を抜けた瞬間。急に"それ"を冷たい水の様な感覚が襲った。それは、結界へ突入した感覚で――
「ワン・モア・タイムッ!!」
そんな声と共に、突然雨が降り始める。慌てて逃げようとする"それ"だったが、見えない壁――結界に阻まれて叶わない。そして水嵩は徐々に増して行き……
「いや〜、まさかこれが役に立つとはね」
茂みに隠れていた神楽がそう言って、少し古びた掛け軸を取り出す。BATTLEFIELDの範囲外でも分かる高濃度の妖力を放つそれは、大掃除の時に蔵から出て来た妖怪を封じていた掛け軸だった。
「妖怪を長い事容れてたから、かなり妖力溜まってて丁度良いかなって」
「ナイスなアイデアだったよ、それ。それ以上に凄いね……本当に天候もやり直せるんだ」
ボクが言うと、神楽は少し照れくさそうな表情をする。
「えへへ……いやほら、限定エリアだけだよ」
作戦はこうだ。先ずは神楽のワンモアタイムで乾いた道を作り、その先でこの軸を持って待機。芥川の鬼がキルポイントに入ったと同時に、ボクがBATTLEFIELDを発動して結界に閉じ込める。そして、トドメでワンモアタイムをもう一度。雨を結界内に振らせて、芥川の鬼を溶かすのだ。
正直こんなに上手く行くとは思わなくて、予備で鮫島さん達に他のエリアで追い込みを掛けて貰うつもりだったのだけど……その必要は無かった様だ。
「んで……結界内はどう?翼」
「ん、一寸待って」
結界内の様子を、BATTLEFIELDのレーダーを出してチェック。滅茶苦茶妖力が満ちてるが……逆に言えばこれは溶けたからだろう。
「んじゃ、解除するね」
「はいよ〜」
神楽がセーフティを外したのを確認して、ボクは結界を解除した。何もなかった橋の上に真っ黒な液が広がって、下の池にも広がって行く。
「うわ……グロ……」
「取り敢えず朱雀探さないと――」
ボクがそう言って近付く――その瞬間。真っ黒なその液体が動いた。
「翼ッ!!」
神楽が両手の銃を撃つ。その弾丸はボクに向かって伸びていた液体に弾かれ、明後日の方へ。
「マジで?まだ生きてる!」
「退避退避退避!!」
慌ててボクは逃げる。そんな……水が弱点なんじゃ……?!
徐々に黒い液体は集まり、再び一つの塊へ。しかも段々形が変わって行き……
「お、鬼……!」
丸い球体だったそれに、亀裂が入って四肢へと変わる。体育座りの様な姿勢が開き、身体を起こした"それ"は……鬼と呼ぶに相応しい姿に成っていた。
黒光りするその角の下、そこに一つの大きな目が現れる。その目がボク達を睥睨して……口をニヤリと歪めて吠えた。
「――――ァッ!!」
ヤバいヤバいヤバい。マジでヤバい。今ボク達の武装は拳銃のみ。頼みの綱の朱雀は奴の中だし、鮫島さん達は他の所に。倒す火力も無ければ、倒す算段も無い。
「と、兎に角撃たないと!」
「チッ!クソが!!」
ボクも神楽も必死で撃つ。けれどそれが鬼の身体を傷付ける事は無く。無力。それが今のボク達だ。どうすれば……
その、瞬間。
「――え?」
鬼の身体、人間だと臍の辺り。そこに刃が生えた。それは鬼にとっても予想外らしく、目を見開いてその刃を見ている。
刃はくるりと回転し、体表に穴を開けた。溢れ出す真っ黒な液体と共に、真っ白な球体が出て来る。それは人間位の大きさで……
「……朱雀…………?」
空を覆っていた雲が、ゆっくりと開けて行く。強い朝日がその球体を照らし、黄金へ輝かせる。まるで神話か何かの様な光景だ。
突然、その球体は真ん中から二つに割れた。中に居たのは――
「二人共、良くやった」
「す、朱雀!!」
ボクの眼の前で飲まれた朱雀だった。太陽に照らされた朱雀は、何処か金色に輝いて見える。朱雀は眼の前の巨大な鬼を見、手を上に掲げる。
「来い!虎鶫!!」
そう朱雀が叫ぶと同時に、鬼を貫いて光の刃が朱雀の手に。何処かに行っていた虎鶫が、再び朱雀の手の中に帰って来たのだ。
「――ァッ!!」
「五月蝿い」
鬼は叫びながら、朱雀に拳をぶつける。トラック程の大きさのそれを、朱雀は虎鶫であっさりと受け止めた。そして弾き返し、よろけた所に追い打ちの斬撃を。
「アンタ達がコイツを水攻めにするのは分かってた。だから、その水で膨れるなら――」
効いている。朱雀の攻撃が鬼に効いている。虎鶫の樋が朱雀の瞳と同じ、深紅に輝いて。それが煌めく度に鬼にダメージが入る。
「その水を使って、脱出すれば良い。それだけ」
その目を開き、倒れた身体を引きずる鬼。その表情は怯えていた。眼の前に居る、自分の何倍も小さな存在に怯えて居るのだ。
「巨大化は負けフラグって……知らないの?」
朱雀はそう言って、手を伸ばして胸の前でクロス。ゆっくりと開いて……
「アクアブレイズ光線!!」
虎鶫を振り下ろした。迸る紫の斬撃……もとい光線が鬼を完全に二つに切り裂く。爆発するその鬼を背景に、朱雀は振り返ってサムズアップした。
「お帰り……!朱雀!!」
ボクが抱きつくと、朱雀は少しふらつく。慌てて神楽と二人で支えると、盛大なお腹のなる音が朝の円山公園へ響いた。
「…………お腹空いた」
「来たわよ、朱雀」
寺町通にあるスマート珈琲。そこでウチは待って居ると、時間通りに伊勢崎は現れた。隣には「さなだ」と書かれたネームプレートの付いたWACが。いや、常装冬服に付いている徽章からすると……WAVEか。
「新しい彼女?」
「残念。秘書……って言うか見習い?みたいなものよ。真琴、好きにしてて良いわ」
そう言って伊勢崎はウチの前の席に座る。真琴と呼ばれたそのWAVEは、嬉しそうにカウンターの方へ。早速の様に大量に注文していた。
「んで……何の用?」
「あのスライム、アンタが逃したでしょ」
ウチが言った瞬間、伊勢崎は瞳を楽しげに開いた。矢張りビンゴらしい。
「推理、聞かせて貰えるかしら?」
そう言う伊勢崎の前に、あのスライムの中から回収出来た……壊れた無線機を出した。赤いランプが弱々しく光り、時折思い出した様に緑のランプが点滅する。
「これ、まだ
無線機のマイクの所に付いていた、小さな白いテープが。そこには『中央193特』と打たれている。
「中央参謀本部付第193特別任務編成隊……アンタの部隊でしょ」
「交戦しただけ……かもしれないでしょ?」
確かに、それだけなら。だが、証拠はまだある。
「それから、沼牛と永家だっけ……?その二人が怪しいって翼が言うから、調べたら……まだ滋賀県警に特妖課は無いし、特妖課が無ければ特殊弾の訓練もしない」
対妖怪用特殊弾頭は危険物。故に使用出来るのは、特妖課か――
「自衛官、訓練で使うでしょ?」
「じゃあ、正体は?」
「芥川の鬼……なんかじゃあない。あれは――」
あの体表の色。そして、姿を変えた。それは間違い無く。
「……名前を付けるなら、ショゴス。クトゥルフ神話のショゴス」
「……本当、流石ねぇ。天才にも程があるわ」
伊勢崎はそう呟いて、楽しげに微笑んだ。今の所全て正解らしい。伊勢崎は煙草に火を付けかけて、届いた珈琲を一口飲んで聞いて来る。
「んで、私が逃したなら……その理由は?」
「分からないから聞いてる」
一瞬、呆気に取られた顔をした伊勢崎。そして直ぐに笑いだした。
「あら、随分素直ね。そう言う所大好きよ。でも……それなら秘密かしらね、まだ」
そう言って席を立つ伊勢崎に、ウチは一言声を掛ける。この言葉に、絶対反応する筈だ。
「――1999年」
「……え?」
「1999年7月22日。これに関係あるんでしょ」
新宿大爆発。その日付を言った瞬間、伊勢崎は動きを止めた。矢張り、矢張りこれがヒントか。
「……何処で聞いたのか知らないけれど……大正解よ、朱雀」
再び席に着く伊勢崎。今度は楽しげなそれでは無く、寧ろ真剣な……真面目な顔をしていた。
「…………そうね、今教えられる範囲で教えてしまうわ」
伊勢崎はそう言って、少し考える様に顎を触る。そして慎重に話し始めた。
「あのスライム……貴女がショゴスと言ったアレは、兵器のアーキテクトよ」
「アーキテクト……?」
素材だと言うのか。確かにショゴスは、ありとあらゆるものに変化出来るとは聞いていたが……
「その考えは少し違うわ」
伊勢崎はウチの考えを見透かした様にそう言って、再び珈琲に口を付ける。ウチも飲むが、妙な緊張からか味がしない。
「あれは、変化出来るんじゃないの。ショゴスはね、最初からどんな形でもあるのよ。ま、実例を見せた方が速いわね」
そう伊勢崎は言って、懐から黒い液体の入った小さな瓶を取り出す。そして蓋を開け、手の上にそれを出した。
「これは貴女も戦ったショゴス。正確には、制御可能なサイズにしたショゴスよ。ほら、手を出して」
小さく蠢くそのショゴスを、伊勢崎はウチの手に入れた。表面の玉虫色の艶とは裏腹に、意外にもサラサラとした大福の様な手触りである。
「貴女の欲しい物……そうね、日曜の朝やってるアレのアイテムとかを想像して頂戴」
アレ……成程、なら簡単だ。そう思った瞬間、ショゴスの形が変わり始める。
ただの液体だったショゴスは、手の上で丸いメダルの形に固まる。そしてゆっくりと透ける様に色も変わり、遂にはあのメダルに……しかもプロップサイズのメダルになっていた。
「……凄い」
「それ、あげるわ。安心して頂戴、そこまで変形したショゴスは元に戻らないから。じゃ、真相を説明しましょうか」
そう言い、伊勢崎はコートから写真を取り出す。荒い画像だが……黒い魔女の様な女が写っていた。
「この写真。これはショゴスを逃した犯人よ」
逃した犯人。つまり
「確かに、ショゴスは私達が開発した。とある兵器を作る為にね。でも……先の震災で、東北にあったショゴスの開発研究所が被災したの。だから、回収して滋賀県の第二施設に送った。そうしたら……そこを襲撃されたのよ。守備隊……この無線機の持ち主達は、あっさり壊滅したわ」
襲撃。襲撃と言ったか。伊勢崎達のチームはかなりの精鋭の筈。それが壊滅した……この写真の魔女は、それ程の存在なのか。
「図書館の魔女……私達はそう呼んでるわ。最も本人はシェヘラザードと名乗って、何処かでアラビアンナイトと言う占い屋をしているらしいけれど」
「……何だって?」
アラビアンナイト。その占い屋をウチ達も探していた。その理由は……
「…………最近、洛中で起こる事件の裏にその占い屋の名前が良く上がる」
「だから、私達も探してるし零課も探してるの」
つまり。その占い屋はクロだと言う事か。ウチがそう言うと、伊勢崎は頷いて珈琲を飲み干した。そしてコートを整え、カウンターに居るWAVEに合図した。今度こそ、本当に帰るつもりらしい。
「兎に角、1999年に何が起きたのか……それはまだ教える訳にはいかないけれど」
伊勢崎は立ち上がり、写真の女……シェヘラザードを指差した。
「もし貴女がコイツと出会っても、絶対に交戦しないで頂戴」
「今の貴女では、決して勝てないから」
「あぁ、いらっしゃい……」
何処か蠱惑的な、甘くスパイシーな香りの充満している怪しげな見た目の店内。少女がそこへ恐る恐る入ると同時に、そう声が掛かった。
ビクリと肩を震わせる少女の視線の先には、レースに覆われた箱の様なカウンターが。その奥には、真っ黒な服を着た女性が薄っすらと見える。
「怯えないでね、お嬢さん。私は迷える貴女の味方よ?ほら、此方へいらっしゃい……」
そんな優しげな声に釣られる様に、少女はレースの中へ。キャンドルが幻想的に揺らめくその奥に見えるのは……
「私の名前はシェヘラザード。恋する貴女の為に……素敵なおまじないを教えてあげるわ」
京都騒乱日記 春夏秋冬編 日向寺皐月 @S_Hyugaji
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