仮死

桜々中雪生

仮死

 瞼の上から照らす朝陽が眩しくて、真白は小さく呻いて目を開けた。

 ──あぁ、今日も生きている。

 白く霞んだ思考が、今日という名の明日が来てしまったことを認識する。浅い眠りのだるさを残した身体をのそりと起こし、寝癖だらけの頭をわしわしと掻き回しながら洗面所へ向かった。鏡には、いつもと変わらない自分の顔。小さな目と鼻、薄い唇、血の気もなくけた頬。酷い顔、と嘲笑して、乱雑に顔を洗う。濡れた顔を拭くのもほどほどに、申し訳程度に歯を磨いて、よれたスーツを身に纏って、適当に顔に化粧をはたく。


 睡眠なんて、死と同じだ。ひとり暮らしのこの部屋で、誰が、私が眠りに就いている間、生きていることを証明できるのだろう。誰も生を証明できない間の私は、人間は、形骸かたちも色も思考も失い、何者でもないモノになる。いや、存在そのものの輪郭が薄れ、何もなくなるのだ。そして決まった時間に再び思考が現れ、形骸を取り戻し、色をその目に移す。また、ヒトに戻ってしまう。イキモノは、一年、三百六十五日を、一生を、活動という生、眠りという死に二分して、その分割の中で命を終える。私もその例に漏れない。毎日まいにち、同じことの繰り返し。朝になったら目を覚まして、起きて、働いて、帰って、寝て。日常は輪廻している。それなのに、生命いのちは中古のまま、くすんで、錆びついて、動きは鈍い。安らぎや楽しみは枯渇して、退屈だけが蔓延はびこっている。


 取り留めもなく、そんなことを考える。

 雑な思考の終了とともに化粧を終えても、顔は見栄えの良くないままだ。思春期の女の子らしく、いっときは可愛らしい顔に憧れたこともあったけれど、真白自身には叶えられない羨望だと気づいてしまってからは、気合の入れた化粧もおしゃれもやめた。整形すれば……と考えたこともあったけれど、大金をはたいてまで、顔面を変えてやろうなどという野心は持ち合わせていなかったから、すぐにそんな思考は捨て去った。どうやったって見てくれはみすぼらしいままなのだ、努力したところで報われない。そうやって、高望みはせずに現実を見て生きてきた。これからもそれは変わらないだろう。真白の思考が具現化したようなどんよりした部屋の空気に、さっきまで晴れていた天気が雨になったことを知らされる。ちっ、と小さな舌打ちをして、手元のタブレットで電車の運行を確認した。どうやら雨だけでなく人身事故の影響もあって大きく遅延しているらしい。ちっ。再び舌打ち。タオルと雨合羽を用意して、玄関へ向かう。その間にも雨脚はどんどん強まる気配がする。地面をぷつぷつ跳ねていた雨粒の音が耳障りなばらばらした音に変わった。窓を閉め切った部屋の中にさえ、ぬるりとした雨の匂いが充満していく。パンプスを履き、ドアノブに手を掛けたところで、ふと、動作を止めた。どうして私はこの鬱陶しい土砂降りの中、仕事へ行こうとしているんだろう。鬱陶しさは面倒くさい。電車だって遅れている。何もかもを億劫にさせる。どうせいつもと変わらないのなら、今日くらい違うことをしてもいいんじゃないか。今日くらいは、仮初めの死に無様に寄り掛かってみても……。その考えは、あっという間に真白の脳を支配した。


 ──いいや。生きていたって死んでいるようなものだし。仮病で休むことくらい、大したことじゃないわ。


 そう考えるが早いか、真白は十年以上買い替えていない携帯電話で上司にぱちぱちと欠勤のメールを打ち、ざっと確認してすぐに送信した。別段確認するほどのものでもなかったが。「今日は休みます。」たった七文字だけの簡素な文章だった。

 すぐに携帯電話が震え始め、上司からの電話の着信を告げる。当たり前だ。理由も何もない、ただ休むと言うだけのメール。受理される方が可笑しい。しかし真白は、電話に出るどころか電源を落とし、部屋の隅へ放り投げた。真白自身も、スーツを無造作に脱ぎ捨てると、ぼすりと音を立てて布団に倒れ込む。自分の匂いの染み付いた枕は、身体の一部みたいだった。煩わしいものを取り払い、頭は清々しいほどに空っぽになった。

 ──ああ、とても気分がいい。今日はこのまま死ねるかしら。


「おやすみ」

 誰にともなく呟いて、真白はつかの間の死に縋りつく。いつか本当の死に巡り逢うまで。

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仮死 桜々中雪生 @small_drum

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