花ほころびし、三月某日。[4]

 静けさに満ちたモノベ邸の、整えられた庭園。うららかな日が差すそこで、一人の男が小さく背を丸め、土いじりをしている。いつでも、土と草花と、汗のにおいにまみれて、おだやかに微笑んでいた男。なぜだかはわからないが、不思議と場を和ませるような空気をもつ男だった。それは、キョウヤが男を信頼していたからなのか、それとも、男自身の人柄が成せるものだったのか。キョウヤにも、そして、おそらくは当の男本人にも、きっとわかりなどはしない。けれど、今となっては、その背には何か暗く重いものを負っているように思える。キョウヤは、道中で幾度となく思った言葉を繰り返した。どうして、

「どうして、おまえなんだ。タキ」

 投げかけた問いの向こう。園丁のタキは、振り返らない。キョウヤは、赤い千代紙で折られた花を握りしめた。花がひしゃげ、こぶしがきしむ。だのに、今はそのこぶしよりも、ずっと胸のあたりが痛くてたまらない。

「あんなに――あんなにも、チヨコをかわいがってくれていたじゃあないか」

 草木を愛で、庭を整え、あるときには、チヨコの部屋に飾るためだけの花まで庭のすみで育てていた。キョウヤは、よく覚えている。チヨコが、まだモノベ邸に来て間もないころ。息せき切らしたタキが、汗も拭わず駆けてきて、そうっと、壊れものを扱うように手を開いたときのことを。その笑顔を。珍しい花の種が手に入ったんです、チヨコ様に見せてさしあげたいので庭の一角を使わせていただけたらと――

「それはそうですよ」常と変わらぬ、園丁の声が返った。「あの人は、チヨコは俺の姪なんですから」

「姪?」トシヒコがいぶかる声を聞いてか、タキは振り返る。「ええ、そうです。俺は数年前に死んだトキワカヨコ――旧姓、タキカヨコの弟ですから」

 トシヒコは無論、キョウヤにとっても、その話は初耳であった。たまゆら、言葉をなくしてタキを見つめる。一方で、タキは場にそぐわぬような笑みを顔にたたえている。いっそ、背筋が薄ら寒くなるほどに、おだやかな笑みであった。

「覚えてらっしゃいますか」と、タキが首を傾ける。「六年前の二月十四日。例年どおりであれば、俺の故郷が一面の銀世界になるころのことです」

 忘れるはずもない。タキが言うのは、チヨコが生まれた日であり、キョウヤがトキワカヨコと初めて出会った日でもあった。

「あの日、キョウヤ様は道端で産気づいた姉を、ご自分が乗ってらした馬車に乗せてくださったそうじゃないですか。キョウヤ様がいなかったら、姉さんはおろか、チヨコだって無事に生まれてはいなかった」

 そうでしょう、と。タキは笑う。日だまりの中にたたずみ、ひとつひとつ、言葉を噛みしめるように口にする。俺はね、と。ずっと感謝していたんですよ、と。家を飛び出して以来、姉とはすっかり顔を合わせられなくなっていましたから、と。キョウヤ様が姉さんやチヨコの話を聞かせてくださったときは泣きたいくらいでしたよ、と。「なのに」くしゃりと、タキの顔が歪んだ。

「なんでなんです。どうしてなんです。どうしたって、あなたたちが姉さんたちを殺してしまうんです?」

「タキ」

「俺はもう、苦しくて苦しくて、たまらなかったですよ。キョウヤ様は姉さんの恩人で、チヨコは姉さんの娘だっていうのに」

 今にも、泣きだしそうな顔だった。声が、ふるえていた。

「サガラにチヨコが引き取られて、ここへ来たときだってそうでした。俺は、チヨコと血のつながった親族です。それなのに、叔父であると告げることも叶わない。だって、そうでしょう? 華族が庶民の子を養子に取ったなんて話、聞いたことがない。帝国議会が裏で手を回してるとしか思えなかった」

 そして、それは事実であった。超異能力の存在を秘匿すべく、事件の真相を闇へと葬り、チヨコの身分までをも、ねつ造してのけた。

「帝国議会が、貴族院の連中が悪いのだと、そう思おうとしました。でも、キョウヤ様、あなたは帝国の狗になってしまった」

 超異能力特務隊だなんて、そんなものに属して、姉さんを殺した忌々しい力を、大義名分のもとに振りかざせるようにまでなってしまった――

「それで、キョウヤの命を狙ったのか」トシヒコが言えば、タキは「いいえ」と、首を横に振った。「キョウヤ様だけではありませんよ」

 タキの顔に、ほの暗い笑みが浮かぶ。

「姉さんのところへ送るのなら、キョウヤ様だけじゃあ足りないでしょう」

「まさか、おまえ」

 トシヒコが、気色ばんだ。瞬く間にタキとの距離を詰め、懐から短刀を抜き放つ。陽光を照り返し、目をくらませるような閃光がひらめいた。

「待ってくれ、トシヒコ!」

 声をあげたキョウヤを、トシヒコの視線が一瞥する。しかし、タキは微動だにする素振りもなかった。喉もとに刃を突きつけられてもなお、その表情は恐れを映さない。キョウヤはトシヒコを手で制して、タキを見据えた。

「タキ。おまえ、チヨコを手にかけようとしたのか」

「ええ」静かな声で、タキが答えた。「眠るように息を引き取る、そういう毒を仕込みました」

「チヨコは、死んだのか」

「ええ」タキは目をつむり、ふてぶてしく繰り返した。「死にましたよ。眠るように」

 トシヒコの握る短刀の切っ先が、わずか、ふるえた。薄く切れた皮膚の下から、赤い血がにじむ。キョウヤは、けれど、トシヒコの腕をつかんだ。

「頼む、トシヒコ。それをおろしてくれ」

「だが、こいつは」

「頼む」

 まっすぐに、トシヒコの目を見つめて懇願する。しばしの沈黙をおき、トシヒコは乱暴に腕をおろした。逆手に持った短刀の柄を、きつく握る。腑に落ちない。全身でそう表していた。キョウヤはタキに向き直ると、その名前を呼んだ。

「おまえ、嘘をついているね」

 一瞬、タキは呆けたような顔をした。かと思えば、次には鼻でせせら笑う。

「何を根拠に。それとも、願望か何かですか」

「それはおまえのほうだろう、タキ」キョウヤは首を振り、タキを見つめた。「おまえ、チヨコを殺そうとして、でも、できなかったのだろう?」

 殺したいほどに憎い姉の仇。けれど、それと同時に、タキにとってのチヨコは姪であり、姉の忘れ形見でもある。殺すことができなくとも無理はない。

「おまえは、きっと気づいてはいないのだろうけれどね、おまえは嘘をつくとき、目をつむる癖があるんだ」

 覚えているかい、おまえがこっそり育てていた花畑をおチヨに見つけられてしまったとき、おまえ、ずっと目をつむっていたんだ、まったくいつの間に咲いたんでしょうね、俺にはさっぱりですよと――

 長らく、タキは目を丸くしていた。毒気を抜かれたような、まっさらな顔だった。どこか、あどけなささえ感じさせる。無防備に開かれていた唇から、吐息がこぼれた。

「それだけ、ですか。たった、それだけ」

「いいや」と、キョウヤはかぶりを振る。「それが、おまえの癖だと言う根拠なら、ほかにもある。おまえは、うちに仕えて長いからね」

 とたん、タキが笑いだす。たまらず、といったようすであった。

「敵いませんね。キョウヤ様はチヨコと違って精神感応の素質が低いと踏んでいたんですが、それ以上に人をよく見ていらっしゃった」

 伏し目がちに自嘲の笑みを浮かべながら、タキは言った。

「ええ、そうです。すべて、キョウヤ様のおっしゃるとおりです。俺には、チヨコを殺せなかった」

 二匹で戯れる蝶に目を奪われていたチヨコのかたわらで、タキは器に茶を注いだ。そうして、隠し持っていた毒を流し入れようとしたとき、チヨコは振り返ることもなく言ったのだ。短い間だったけれど、チヨは幸せだったの、だから、なんにも気にしなくていいのよ――

「チヨコは、俺のことに気づいていたんです。いつからか、俺の存在に気づいて、ここしばらくは、殺される覚悟をもって庭へ出てきていたんです」

 笑うタキの声は、しかして、涙にぬれていた。

「そのうえ、チヨコが自分の名前を呼べない理由まで聞かされて、一体どうして、あの子を殺せるっていうんです? あんなに無邪気に笑っていながら、本当はずっとひとりで苦しんでいたなんて。そんなこと、俺は知りもしなかったのに」

 事件は、キョウヤたちがモノベ邸へ着くころには、もうすでに終わりへと向かっていたのである。


  ※


 事件の解決とともに、園丁のタキはモノベ邸から姿を消した。トシヒコから聞いた話では、現在その身柄は帝国議会によって拘束されており、近々、何らかの処罰がくだされるようであった。おもには、超異能力によって電車を暴走させた件を咎められるのだろう。今回の事件で死傷者などは出ていないが、タキは処罰を受けることに抵抗するような素振りは一切ないという。

 キョウヤは思う。おそらく、タキは、キョウヤやチヨコを殺そうとした自分を、許すことができなかったのだろう。だからこそ、チヨコを殺したなどと、うそぶいたのだ。キョウヤたちが自分を殺し、裁いてくれるようにと。事実、トシヒコは、半ばタキを殺すつもりでいたはずだ。

 けれど、キョウヤは思うのだ。それは、とても悲しいことだと。

 超異能力の存在などは知らずとも、タキには明日を誓い合った妻がいて、チヨコという姪もいる。園丁のころに見せていたおだやかな性格を思えば、友人もそれなりにいるに違いない。帝国議会によって、その死がいかに隠蔽されようと、タキがこの世を去れば、それを嘆き悲しむ者は必ずいる。そして、それは人々の胸に深い傷をつけ、癒えてもなお消えぬしこりを残す――タキ自身が、そうであったように。例え、当人が自らの死をどう思おうとも、それは変えがたいことなのだ。

「おチヨ」

 世話をしてくれる者を失った庭園に、ぽつりとしゃがみこんだ小さな背中へと声をかける。タキがいなくなってからというもの、チヨコは見よう見まねで庭の植物を世話するようになった。無論、チヨコの知識や技術、体力では庭園を維持することなどできはしないのだが、体調が許す限り、毎日のように庭の草木に水をやっている。土まみれの手で汗を拭いながら、チヨコが振り返った。まばゆい日差しにきらめく緑の中、不思議そうな顔をしてたたずんでいる。

「もう、こんなことはないようにしておくれよ」

 タキは言っていた。チヨコは殺される覚悟をもって庭へ出ていたのだと。それを聞いたとき、キョウヤはどれほど肝を冷やしたことだろう。もとより身体が弱く、チヨコはキョウヤよりも、ずっと死を身近に感じているのかもしれない。それだからこそ、タキが殺意をもって近づいてきても、チヨコは逃げようとしなかったのかもしれない。いずれにせよ、生きている以上、死は避けることのできないものだ。けれど、だけれど、

「僕は、おチヨがいなくなるのは嫌なんだ」

 今の生活だけに満足せず、もっとたくさんの幸せを感じてほしい。もっと、さまざまなことを経験し、泣いて、笑って、生き抜いてほしい。そうして、できることなら、もっと自分と同じ時間を過ごしてほしい。

 目を伏せて、か細く胸のうちを吐露するキョウヤを、チヨコは、はたしてどう思ったのだろう。泥だらけになったチヨコが、キョウヤの前に立つ。そっと伸ばされた手は、しかし、汚れることを気にしてか、すぐに引っこめられてしまった。

「ごめんなさい」

 泣きそうな声で、チヨコが呟く。うつむいて声をふるわせる姿は、本当に小さく、儚げだった。たまらず、キョウヤはチヨコをかき抱く。一度はふれることをためらったチヨコも、今度はキョウヤの服にしがみついた。そうして、チヨコは涙ながらに「ごめんなさい」と繰り返す。答える代わりに、キョウヤはふるえるチヨコの身体を、ただただ、きつく抱きしめた。あるいは、タキが思いとどまっていなければ、今、キョウヤの腕の中にチヨコはいない。そう思うと、ぞっとしてたまらなかった。

 結論からいえば、キョウヤの選択は任務を果たすうえでは悪手であった。トシヒコの異能で瞬時にモノベ邸へと移動していれば、電車が暴走することはなかったであろうし、タキがチヨコと接触することさえ避けられたかもしれない。しかし、ハルオミがこれを責めることはなかった。それどころか、これでよかったのだと、そう笑っていた。これが、もっとも望ましい結末であったのだと。

 ふいに、門のほうが騒がしくなる。近づいてくる足音にキョウヤが顔をあげると、人影が一つ、歩いてくる。それはトシヒコで、キョウヤと目が合うなり目配せをよこしてきた。さらに、トシヒコの後ろにはもう二つの影が見える。キョウヤはチヨコの肩を揺すり、後ろを見るようにうながした。そうして、振り返ったチヨコの目は、大きく見開かれる。

「タキさん!」

 ぱっと駆けだしたチヨコを、ひとつの人影が、タキが抱きとめる。

「ああ」と、タキはうめくように声をもらした。「こんなに泥だらけになってしまわれて。俺がいない間、庭の面倒を見てくださっていたというのは、本当だったんですね」

「だって」と、チヨコは泣きじゃくった。「タキさんのお庭だもの。チヨの、大好きなお庭だもの」

 タキが、目頭を押さえる。「ありがとうございます、チヨコ様」

 ひしと抱き合う二人を見つめ、キョウヤは目を細める。すると、もう一つの影が紫煙をくゆらせて、かたわらに立った。

「残念だったなあ、キョウヤ。きみのかわいいおチヨは、タキに取られてしまったようだ」

 そう茶化すハルオミを、けれども、キョウヤは振り返らない。隣に並ぶトシヒコの気配を感じながら、言った。

「タキのことで、ハルオミさんが口添えをしてくれたと聞きました」

「トシヒコから聞いたのか」

 たまゆら、ハルオミの目がトシヒコへと向いたが、トシヒコは素知らぬ顔をしている。こういうときのトシヒコは、頑として口を割らない。ハルオミも、それは重々に承知しているのであろう。軽く肩をすくめて、視線を戻した。

「なに、大したことは言っちゃあいない」

「これから、タキはどうなるのです?」

「悪いようにはならないさ――そら、タキの襟もとをよく見てみるといい」

 あごでうながされ、キョウヤはチヨコと抱き合うタキの襟を見る。そして、そこに陽光を照り返してかがやく徽章があることに気づいた。「あれは」と、声がこぼれる。

「だから言ったろう? これが、もっとも望ましい結末だったのさ」

 くつくつと、ハルオミが満足そうに喉を鳴らす。それは一体、誰にとって、もっとも望ましい結末であったのだろうか。ふと、キョウヤは口を開いた。

「あなたは、チヨコをどう思っているんです」

 急なキョウヤの問いかけに、しかし、ハルオミが動じたようすはなかった。ゆったりと、タバコの煙を吐き出す。

「なんだい、やぶからぼうに」

「チヨコは、あなたから線を引かれていると思っています。嫌われているのではないかと、そう言っていた」

 もとより、ハルオミはチヨコを監視する立場でもある。いつだって、ハルオミはチヨコを救ってくれてはいたが、思い返せば、彼の個人らしい感情を聞いたことはなかった。

「嫌ってはいないさ。厄介だとは思うけれどね」

 返ったのは曖昧な答えではあったが、チヨコとタキを見つめるハルオミのまなざしは、ひどくおだやかであるように思う。

「いつまでも、ああしていてほしいものだよ」

 ぽつりと呟かれた言葉は、どうしてか、ひどく耳に残った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

イナルモノ 由良辺みこと @Yurabe_Mikoto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ