花ほころびし、三月某日。[3]
ハルオミからくだされた任務を説明するくだりで、キョウヤは自身とチヨコの過去をかいつまんでトシヒコに話した。常から淡々としており、情にほだされるようなことなどなさそうなトシヒコであったが、チヨコの過去には同情したのだろう。痛ましいといった顔をして、「そうだったのか」と、小さくこぼした。
「俺はカザマではなく、母様のもとで育てられた。幼くして母親の愛情を失うのは、さぞつらいことなのだろうな」
キョウヤは、面食らった。こんなふうに、トシヒコが自らのことを語ることなど、これまではなかった。なぜならば、トシヒコは自分の素性を知られることを好まない。少なくとも、キョウヤはそう感じていたのだ。だのに、一体どうしてしまったというのか。思わずといった具合でトシヒコを見れば、キョウヤの心中を察したのだろう、トシヒコは薄い微笑を浮かべた。
「キョウヤ。俺は、おまえには話してもいいと、そう思っている」
おまえだって俺に話してくれたろう。そう言われてしまえば、キョウヤもそれ以上を追求する気にはなれない。トシヒコはキョウヤを見てから、ふと前を向いた。
「俺は、
カザマ家は、古くは陰陽寮に属していた超異能力者の家系なのだと、トシヒコは言った。彼ら一族がいうには、超異能力は基本的には血によって受け継がれるものであるらしい。それゆえ、より強い力を求める家は、進んで超異能力者の血を取り入れる。カザマは、その最たる例だった。
当主は、めとる妻には身分と超異能力とを求めるが、同時に幾人もの妾を作る。無論、この際に妾となるのは異能を発現させた女であり、トシヒコの母親もまた、その一人であった。
妾となる女たちの多くは、
生活に必要な金はカザマ家から送られていたとしても、若くして、母となった少女の苦労はいかほどのものであったのか。三年前、病によって他界したという話を聞いた限りでも、想像するに難くない。トシヒコの苦労もまた、同じである。言及こそしなかったが、トシヒコはカザマを快くは思っていないのだろう。語る表情は、苦みばしったものであった。
しかし、母親を亡くしたトシヒコが、カザマ家に引き取られることなく、ハルオミのもとへとやって来たのには、それとは別に理由があったという。母親の葬儀が終わったころ、トシヒコのもとを訪れた妙な帽子の男。ふかしてこそいなかったものの、きつくタバコのにおいを漂わせていた。やあ、はじめまして、僕は生前のお母上から、きみのことを頼まれている者なのだけれどね、きみ、聞いていないかい、ノグチハルオミというのだけれど――
「ますます、あの人のことがわからないな」
「ハルオミさんのことか」
「ああ」
モノベ邸へ戻るための電車を待ちながら、キョウヤはうなずいた。「おチヨが言っていたんだ。ハルオミさんはみえない、みせてくれないのだと」
チヨコのその真意をキョウヤは知りえないが、たしかに、ハルオミは自身について多くを語ろうとはしない。問い詰めたところで嫌な顔はせずとも、のらりくらりとかわされるのである。それでありながら、ハルオミはキョウヤたちのことをよく――あるいは当人以上に、本当によく――知っているのだ。疑問は積もれど、減ることは決してない。
「あの人は俺たちとは違うからな。多様な“札”を持っている」
トシヒコが淡々とした調子で言った。「おそらく、まだ俺たちの知らない“札”が多くあるはずだ」
この“札”というのは、超異能力の隠語である。特務隊への所属が決まってからは、外でたびたび使うようになった。これは、時折ハルオミがする札遊びにちなんだもので、性質が異なる超異能力を組み合わせて使うことを“役”と呼び、チヨコやトシヒコがもつような固有の超異能力に関しては“鬼札”という隠語が使われる。ちなみに、キョウヤはいくらか納得していないのだが、“親”――隊長であるハルオミ――から、くだされる任務は“札遊び”と称される。
「知らされていない“役”も多いのだろうな。僕たちはすっかりあの人の“鬼札”を知ったつもりでいたけれど、もしかすると本当は別の」
そこまでキョウヤが言いかけたところで、路面電車特有の鐘の音がした。振り返れば、道の向こうから電車が走ってくる。電車が停車すると、トシヒコがつづりの乗車券を車掌に手渡した。
「二人分でお願いします」
自分の乗車券を取り出そうとしていたキョウヤは、おどろいて手を止めた。
「トシヒコ、僕は自分で」
「いや、これくらいはさせてくれ」
と、トシヒコが言う。「おまえは、俺が“鬼札”を使わずにすむようにしてくれた」
モノベ邸へとんぼ返りすることとなった際、ハルオミはトシヒコが盗んだ空間移動能力を使うようにと言った。けれど、キョウヤは首を縦には振らなかった。先日の騒動のとき、他人の超異能力を使ったトシヒコが身動きも取れぬほどに消耗していたことを、キョウヤはよく覚えていたのである。
「相手の実力は未知数です。トシヒコが欠けた状態で、チヨコを守り抜けるかはわからない」
キョウヤ、と。トシヒコは珍しく呆けたような声をこぼした。しかし、なおもキョウヤが、ここで戦力を削るのは得策ではないという考えを続けると、ハルオミはどこか――うれしそうな――そんな顔をしたのである。
「それなら、来たときと同じように電車を使ってくれ」
探偵社を後にする間際、ハルオミは言った。頼んだよ、キョウヤ――
チヨコの警護について頼まれたのか、それとも、別のことであったのか。キョウヤには、まるでわからない。ただ、キョウヤの言葉が、トシヒコの身を案じたものであったということは、当人にもハルオミにも、すっかり見透かされてしまっていたようだった。
「本当は、あの人の――チヨコのことが心配でたまらないんだろう」
電車の窓際に寄ったキョウヤの隣へと、トシヒコが並び立つ。キョウヤはふてくされながら、「そりゃあそうさ」と、窓の外を睨んだ。「けれど、おまえのことだって心配なんだ」
「“札遊び”のほうが重要だとは思わなかったのか」
「友や仲間をないがしろにする“札遊び”なんて願いさげだ」
吐き捨てるようにして、キョウヤは返す。くつくつと、トシヒコが喉で笑った。
「ああ、そうだ。そのとおりだな、キョウヤ。俺はおまえが友でいてくれて、心底よかったと、そう思う」
屈託のない笑みを浮かべたトシヒコが、みがかれた車窓に映っている。キョウヤは妙に照れくさくなって、そっぽを向いた。「お互い様だろ」
モノベ邸の最寄り駅が近くなる。キョウヤたちが乗降口へ向かおうとすると、ふいに、電車の速度があがった。キョウヤもトシヒコも、思わず、たたらを踏んだ。けれど、車掌も、ほかの乗客も、何事もなかったようなようすでたたずんでいる。それどころか、電車はさらに速度をあげて、ついにはキョウヤたちが降りる駅をとおりすぎてしまった。
「どういうことだ」
キョウヤは眉をひそめた。同じく怪訝な顔をしたトシヒコが、車掌へと駆け寄る。
「先ほどの駅で降りなければならなかったのですが」
ところが、車掌はトシヒコとキョウヤを見やって、至極不思議そうな顔をした。
「お客様、この辺りに駅はございません」
「次の駅は」
「もうしばらくはございません」
一つの可能性が、キョウヤの脳裏に浮かんだ。そしてそれは、トシヒコも同じであった。
「では、すぐ降ります。すぐ電車を止めてください」
反して、車掌は心底困ったというふうであった。「そういうわけにはまいりません」と、首を横に振る。トシヒコは、なおも説得を続けたが、車掌の態度は変わらない。「できない」の一点張りであった。
「だめだ」と、トシヒコが呟いた。「すっかりあちらの」
そのときであった。鈴を転がしたような、それでいてよく知った声が、キョウヤの耳を打った。
「キョウヤ」
「……おチヨ?」
いつの間にか、電車の中にはチヨコの姿があった。キョウヤは弾かれたようにチヨコへと駆け寄った。床に膝をつき、細い肩を両手でつかむ。
「おチヨ、きみ、どうしてこんなところに――そんな、一人で。家の者には、ちゃんと言ってあるのかい? ここまで、なんともなかったかい?」
けれど、チヨコは答えない。どこか、うつろなまなざしをして、ぽつりと言う。
「キョウヤがいけないの」
肩をつかんでいた腕が、振り払われる。思いのほか、それは強い力だった。キョウヤの手が、宙をさまよう。
「おチヨ?」
唖然とするキョウヤを、しかして、チヨコは感情のない瞳で見つめた。キョウヤの手を、まるで避けるかのようにして、その身を引く。そうして、チヨコはうつろに言うのだ。
「ととさまも、かかさまも、みんなキョウヤのせいで死んだの。みんなみんな、キョウヤがいけないの」
キョウヤは、瞠目するよりほかなかった。暗く、よどんで底の見えない眼が、キョウヤをとらえて放さない。いつしか、呼吸さえもが止まっていた。「だから」と、静かな声音のチヨコが言う。キョウヤは死ぬのよ、チヨコと一緒に、キョウヤはここで死ぬの――
大きく、電車が揺れた。いつにない速さで、窓の景色が流れてゆく。前方に、通常運行している別の電車が見えた。トシヒコが、舌打ちをする。
「まずい。このままだと衝突する」
伸ばされたトシヒコの手が、キョウヤの肩をつかんだ。
「キョウヤ、気をしっかりもて! それはチヨコじゃあない、そうだろう。俺たちはみんな、幻覚を見せられているだけだ!」
肩を強く揺さぶられ、キョウヤはふらついて床に手をついた。胸のポケットから、数枚の黄色い花弁が散り落ちる。ゆるりと、チヨコの目が動いた。「あなたは、邪魔」
細い指先が、トシヒコをとらえる。刹那、渦を巻いた異能の風がトシヒコへ襲いかかった。トシヒコは即座に顔の前で腕を交差させ、攻撃に耐えようとした。けれど、かまいたちと化したそれは、トシヒコの目と鼻の先で、不可視の力に相殺される。トシヒコではない。ほかの乗客でも、ましてや、チヨコでもない。キョウヤである。
「わかってるさ。チヨコじゃあないことくらい」
胸に咲く菜の花に手をそえ、キョウヤは言った。
「おチヨは言ったんだ。僕やトシヒコ、ハルオミさんと一緒にいられて、幸せだと――そう言って、この花をくれたんだ」
ぷんとした菜の花のにおいが、あどけなく無邪気な笑みが、軽やかに弾む声が、よみがえる。それらは、決して今キョウヤの前に立つチヨコの姿とは、重ならない。キョウヤはただ目を細め、目の前にたたずむチヨコの幻覚を抱きしめた。この超異能力の使い手は、きっと相当な実力者であるのだろう。幻覚であるはずだというのに、それはたしかな質量とぬくもりをもっていた。ふとしたら、本物なのではないかとさえ思ってしまう。かすかに漂う土と草のかおりが、不思議とチヨコの生家を思い起こさせた。チヨコの幻影が、身じろぎをする。キョウヤは腕の力を強めた。
「トシヒコ。今のうちに、運転手を止めてくれ」
「わかっている」
キョウヤたちの脇をすり抜け、トシヒコが素早く運転席へと乗りこんでいく。もがき逃れようとするチヨコの肩に顔をうずめ、キョウヤは呟くように言った。
「おチヨは自分のことを、チヨコとは呼ばないんだ。亡くなったお母上の、カヨコという名を思い出すからと、決して自分の名前を最後まで口にしないんだ。夫妻がチヨコに遺せた、たったひとつの形見だというのに」
キョウヤの腕の中、見せかけのチヨコが動きを止めた。にわかに、異能の気配が薄れていく。ぬくもりが失われ、その姿は陽炎のように揺らいだ。ばらばらと、床に無数のシロツメクサが散らばる。同時に、電車が急停車した。シロツメクサの山が雪崩れ、白い花の中から鮮やかな赤色が顔を見せる――
催眠が解け、正気に戻った乗員や乗客たちが騒ぎだしている。前方にある車両との衝突を、かろうじて回避した電車から、乗客が我先にと降りていく。落ち着くようにと車掌が声を張りあげる中、キョウヤは花に埋もれていたそれを拾いあげた。そうして、この事件の首謀者を悟ったのである。
「キョウヤ、俺たちも降りるぞ。チヨコが危ない」
「ああ」
かろうじて短く答え、キョウヤはトシヒコとともに電車を降りる。急ぎ道を戻りながら、キョウヤは歯を食いしばった。
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