花ほころびし、三月某日。[2]
トシヒコとした約束の刻限が近くなるころには、モノベ邸のいたるところに菜の花が飾られ、開け放った窓から吹きこむ風は、より一層の春の装いでもって邸内を賑やかした。
「キョウヤは、これから探偵社へゆくのでしょ。これ、トシヒコとハルオミにも、おすそわけね」
千代紙で包まれた小さな花束をチヨコから受け取り、キョウヤは「ああ、そうだね」と、うなずいた。
「僕だけがもらったと知ったら、トシヒコの奴もすねるだろう」
「そうかな。そうだといいな」
ころころと笑い、けれど、そこでふいにチヨコは遠い目をする。
「ハルオミはチヨのこと、嫌いなのかな」
これにはキョウヤも、目を丸くした。
「おチヨ、一体どうしたってそんなことを言うんだ。たしかにハルオミさんは、きみを脅かしたこともあったが、詫びにと良い薬をくれたろう」
手荒ではあるが、チヨコの異能が暴走するたびに止めてくれているのも、ほとんどハルオミだ。チヨコにとっては、恩人といっても過言ではない。それが、どうしてチヨコを嫌っているという話になるのか。
すると、チヨコはさびしそうな横顔を見せたまま、キョウヤに言った。ハルオミはみえないの、みせてくれないの、チヨとの間に線を引いているの――
キョウヤはチヨコの言っていることをはかりかねたが、電車の時間が迫っている。託された花束を片手に、キョウヤはチヨコの頭を撫でてやることくらいしかできなかった。
制服のまま、あでやかな千代紙と菜の花の花束を持って、電車へと乗りこむ。小ぶりな花束が珍しいのか、その彩が目を引くのか、乗客のいくらかがキョウヤへと視線を寄こした。キョウヤは努めて、なんでもない顔をして車内の手すりにつかまった。
「贈りものかしら」
近くの席に腰かけていた女が、微笑んで声をかけてくる。「ええ。まあ、そうです」キョウヤが笑って返せば、ますます女は笑みを深くした。
「喜んでいただけるといいわね」
「そうですね。僕からの贈りものではないのですが」
「あら、そうなの? では、妹さんからの贈りものかしら」
「妹?」
相変わらず、にこにことしている女を前に、キョウヤはわずか、眉をひそめた。キョウヤに、妹はいない。チヨコとは兄妹のようだと言われることは多々あるが、それはキョウヤとチヨコを知っている人物からだけである。見ず知らずの人間に言われたことはない。そもそも、どうして妹であるのか。千代紙と菜の花の花束が、幼い女子が作るものに見えたのだろうか。そうでなければ、
「チヨコは、元気でいるかしら」
「あなたは何者です」
にわか、キョウヤの声は低くなった。反して、女の表情は変わらない。それどころか、見おろすキョウヤの瞳を、ひたと見つめる。
「わたくしの顔をお忘れになりましたか、キョウヤお坊ちゃま」
呼ばれ慣れない、けれど、覚えのある呼び名だった。キョウヤは瞠目して、女を見る。一体どうして、ひと目で気がつかなかったのか。その顔に、キョウヤはたしかに見覚えがあった。
「トキワ、さん」
キョウヤは、ひどく困惑した。そんなはずはない。そんなことがあるはずはない。幾度も頭の中で、そう繰り返した。だのに、すぐそこの座席には存在しえない人物がいる。だって、なぜなら、彼女は、
「ツキハギ町――ツキハギ町です」
車内に、車掌の声が響く。はっとして、キョウヤは顔をあげた。遠目ではあるが、窓の向こうに通い慣れた探偵社が見える。
だが、はたして、このままここで下車していいのか。戸惑い、ためらい、キョウヤは視線を戻す。思わず、目をみはった。
キョウヤがつかまる手すりの、すぐかたわら。先刻まで、一人の女が座っていたはずの座席には、誰の姿もなかった。一秒とかかるか、かからないか。そんな一瞬。ただそれだけの間、キョウヤが目を離した隙に、女は忽然と消えていた。ぽかりと空いたその場所に、シロツメクサが一輪だけ、置き去りにされている。
「今、こちらに女性が座っていませんでしたか」
空席の隣に座っていた、見も知らぬ男へ問いかける。すると、男は妙な顔をして言うのだ。何を言っているんだ坊主、そこはもうずっと前から席が空いているだろう――
キョウヤは、すっかり狐につままれたような気分になって、電車を降りた。千代紙で包装された菜の花と、未だみずみずしいシロツメクサを手に、探偵社へと向かう。走りだした電車に追い抜かれる際、キョウヤは車内に目を凝らしたが、先ほどの男があくびをする姿が見えただけで、女の座っていた席は空いたままになっていた。
探偵社の階段をのぼり、所長室へと入る。タバコのそれにまじって、コーヒーのにおいが鼻腔をくすぐった。
「モノベキョウヤ、ただいま到着しました」
「ご苦労だね」
所長室のソファに腰かけたハルオミが言う。トシヒコは、そのかたわらでコーヒーを淹れていたようだった。手を止めるなり、部屋の柱時計を見る。
「定刻どおりだな」
「これまで、僕が遅れたことがあったかい」
キョウヤは平静を装って、軽口をたたいてみせた。薄く笑ったトシヒコが「いや、なかった」と、首を横に振る。
「それにしても、今日はいたく着飾っているようだが、何か祝いでもあったか」
「まさか。おチヨが園丁からもらった花さ。二人にも渡すよう頼まれていてね」
そう言って、キョウヤは両の手のひらに収まるほどの花束をコーヒーカップの脇へと置いた。「おや」と、ハルオミが意外そうな声をもらす。
「僕にもかい?」
「もちろんですよ。チヨコは、あなたにだって懐いている」
「そうなのか。それならば、ありがたくちょうだいしなければならないな」
湯気の立つコーヒーをすすりながら、ハルオミはひょうひょうとした態度だった。菜の花をしげしげといったようすで眺め、トシヒコの名前を呼ぶ。
「たしか、僕の部屋にとっくりがあったろう。きみ、生けておいてくれないか。これだけ短くては、合う花瓶がないだろうから」
「わかりました」
トシヒコは顔色ひとつ変えず、花を手にして席を外した。その背を見送り、キョウヤはしばしの間、逡巡していた。ズボンのポケットに手を入れて、先ほど拾ったシロツメクサにふれる。おもむろに、ハルオミが言った。
「それで、きみは僕に何か話すことがあるんじゃあないのかい」
シロツメクサをいじっていた手が止まった。
「何か、知っているのですか」
「いや。僕はまだ何も知らない」
ハルオミは、ゆるくかぶりを振った。
「ただ、きみがここへ入ってきたときから、どうにも覚えがない異能の気配を感じるものでね」
そのポケットに入っているものを見せてくれないか。言外にうながされ、キョウヤはそれを取り出した。ハルオミの目が、すうっと細くなる。
「なるほど。精神感応から得た情報で、幻覚を見せている。催眠系の超異能力か」
花を指先でつまみ、ハルオミは呟くように言った。発動には何かしらの触媒を必要とするようだが、異能の痕跡を隠そうとしたようすはない――
「それにしてもキョウヤ、きみも、ずいぶんな幻覚を見せられたものじゃあないか。トキワの人間とは」
「わかるのですか」
キョウヤはおどろいて、ハルオミを見た。超異能力者が力の痕跡を隠していなかったとはいえ、たったのひと目で、そこまでわかってしまうのか。キョウヤが見せられた、その幻覚さえまでも。
たちまち、ハルオミから心外だといわんばかりの声があがった。
「おいおい。僕を、きみたちと一緒にしないでおくれよ。感応能力の素質はあるほうだと、きみも知っているだろう」
そうは言うが、キョウヤにとってハルオミは未知なのである。ハルオミが、その超異能力で、どれほどのことを、どの程度までできるのか。それを、キョウヤは知らされてはいない。あくまで、ハルオミが実際に発動させた力を目にしてから、知ることしかないのだ。チヨコの言葉が、よみがえる。ハルオミはみえないの、みせてくれないの――
けれど、キョウヤが何かを言うよりも先、ハルオミは肩をすくめた。「まあいいさ」と、視線をシロツメクサへ戻す。
「力を隠すことを知らないのか、あるいは挑発か。いずれにせよ、今回の件は、きみとチヨコを狙っている可能性が高い」
なぜならば、相手は触媒なしに超異能力を使うことができない。それでいながら、相手は自らキョウヤに接触を試み、二人にとって忘れがたい人物の幻影を見せてきた。
「チヨコの超異能力は特に異質だ。悪用を考える者がいたとしても、不思議じゃあない。くれぐれも、気をつけてくれ」
一瞬、キョウヤは押し黙った。
「それは、隊長としての言葉ですか」
「そうだ。超異能力特務隊長、ノグチハルオミとしての」
ハルオミの声が、いつになく鋭さを帯びている。常の陽気さは、どこにもない。制服の襟につけた徽章が、ぐっと重みを増す。
「モノベキョウヤに命じる。これより、カザマトシヒコとともに、サガラチヨコの警護にあたれ。関与する超異能力者の身柄が確保されるまで、警護対象から離れてはならない」
「了解しました」
キョウヤにとっては、うなずくよりほかはない。同じ命を受けたトシヒコにもこれを伝えるべく、キョウヤはすぐにきびすを返した。けれど、そこでハルオミから呼び止められる。
「きみは、この花の花言葉を知っているかい」
花言葉といえば、それぞれの花に割り当てられた意味のことであっただろうか。道ゆく女学生が、そのような話をするのを聞いた覚えがあった。だが、キョウヤは男子である。女子が好みそうな、そういった類のことなどはとんと知らない。「いえ」短く答えて振り返れば、ハルオミは白い花を見つめたまま、「そうか」と呟いた。
「それなら、教えておいてあげよう」
先刻までの鋭さは失せ、その声は普段と変わらぬ調子だった。
「シロツメクサ、その花言葉のひとつは幸福。そして、もうひとつは復讐だ」
この花が触媒として選ばれた理由があるのかはわからない、けれども意味があるのだとしたらそこには大きな悪意があるかもしれない、きっとチヨコを守ってやっておくれ――
トキワは、チヨコがサガラ家へと引き取られる前にもっていた姓だ。電車でキョウヤが見た女の幻覚は、かつて焼け死んだチヨコの母親であった。それらを思うと、ハルオミが口にした復讐という言葉は、キョウヤに何か薄ら寒いものを感じさせる。胸ポケットの菜の花が、ひとひら、その黄色い花弁を散らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます