霧舎巧を読みまくった男共
光田寿
霧舎巧を読みまくった男共
* *
ゴメンね、素直じゃなくって♪――セーラームーンOP『ムーンライト伝説』より。
* *
男が二人の男たちに呼び出された時、彼の頭の中には、既に嫌な予感が充満していた。作家、
二人の男たちの一人、リーダ格の彼が住む、郊外のマンションの一室。ドアを開けた瞬間、熱風がムワリと吹き込んできた。
――なんでよりにもよってこんな熱い部屋で……。
額と背中とわきの下は汗で濡れている。不快感は増すばかりだ。
部屋の中に入ると、さらに不快感は増した。男たちがいる部屋は酷く汚れていたのだ。絨毯の上には、何かをこぼしたシミがあり、妙に酸っぱい臭いもする。都会に乱立する高層ビルの如く、本棚がそびえ立っている。そのため壁はほとんど見えないが、これだけ密閉された空間だと、おそらくアオカビだらけだろう。
本棚には文庫本、ノベルス、ハードカバー本がでたらめに並べられている。几帳面な人間が見たら、失神しそうな乱雑ぶりである。また、本たちを隠すように新聞紙が棚の上から貼られ、全体を覆っていた。本の日焼け対策らしいが、逆に貧乏性を際立たせている。
自分より良い給料を貰っているのだから、凝った模様の入ったトレーシングペーパーでも買えば良いのに。男はつい口に出しそうになるが黙る。
部屋の中央にある、ちゃぶ台も古臭い。そのちゃぶ台の中央には一台のICレコーダーが置かれている。本当にはじめる気か。彼は情けなくなってきた。この状況に。そして目の前にいる彼らに対しても。
男たちは尻をもぞつかせながら、ちゃぶ台の向こう側に座っている。二人共、髪を揺らしながら、汗をびっしょりかいて。合計三人の人間が、ムンムンとした一室に押し込められている。本当に情けなくなる。
「よっしゃぁ! ほいたら、始めよか!」
リーダー格の男が、唾を飛ばさんばかりの勢いで熱っぽく叫び、ICレコーダーのボタンを押した。
* *
ザザ――――ザザッ(雑音)
?『ザ……ザザッよっしゃ……ザッ……ほいたら始め……ザザザッ……か! ……ザザ――ッ(再び雑音)』
A『ザザ―ッはい! 我わ……ザッ(雑音)霧舎巧アンチ同盟第一回例会……ザザッ(雑音)めたいと思います! 我々は正々堂々と、霧舎巧の作品を批判することをここに誓います!(高めの声が聞こえる)』
B、C『『誓いますっ!』』
A『どうも! 霧舎巧アンチ同盟会長のAです。Bさん、Cさん、イニシャルトークで失礼ですが、本日はよろしゅうお願いします』
B『いえいえ、どうもBです。霧舎のアンチクショウにはねぇ、いやぁ~ほんっと、言ってやりたいことが山ほどありますからのぉ。しかし、Aさん、この部屋も霧舎の本でいっぱいですなぁ。床にまで置いて』
A『今日はお二人に少しでもクローズドサークルの恐怖を味わってもらうため、電話、その他の通信機器も使えなくしております』
C『すごいですね(笑い声)あ、本だけでは無く、霧舎学園の特別付録まであるのですね。これはレア物だ。おっと、そうだ。今回の会のためにメロンパンを持ってきましたので、皆様どうぞ』
B『あ……あぁ、コイツはどうも』
A『これはまた(笑い声)正しい食べ方もわかっていないのに、(笑い声)、まぁ、二人共よろしゅうお願いしますわ』
C『いえいえ、そうめんや長いオニギリと迷ったのですが(笑い声)』
A『ほいたら、会長の私からいきましょうか。まず霧舎巧の作品をそれぞれ紹介してゆき、次にその作品の悪いとこ、ほいて、まぁ、批評に移りたいわけですけんども』
B『僕はその流れでええと想うとります』
C『まぁ、良い部分もあれば誉めるという形で、批判から入るのも有りだと思いますね』
A『はい、ほいたらね、霧舎さん。第一作め。メフィスト賞を取った『ドッペルゲンガー宮』。あかずの扉研究会シリーズの一作目ですわな。こっからいきましょう!』
B『よっしゃ、ほれやったら僕がストーリー展開を紹介しましょう。任せといてください。まず、ゴシック風の建物、宗谷岬の
A『まぁ、正直な話ね、これは絶対、皆さんが触れるところやと思うんですけど、とにかく登場キャラクターがウっザい! ほんっっまウザいんですわ! なんなんでしょうね! これは』
B『ほれなんですわ。わかるわかる!』
C『実に漫画的なんですよね』
A『ほうです! 漫画的! 言い得て妙。でもね、ええんです。かつて新本格が台頭してきた当初は、人間が描けてへんちゅう批判がありましたなぁ』
B『ありましたありました。懐かしいです。それ以前には、巨匠、
C『確かに霧舎巧の作品を読んでいると――後から話題に出るでしょうが、霧者学園シリーズなどは表紙絵があるからかもしれませんが、どうも、脳内でアニメのキャラクター絵に変換されてしまうのです。これは
B『全くです。例えば新本格もね、さきほどCさんが言われた1.5世代辺りから、あきらかに奇抜な名探偵共が登場してきましたわなぁ。でも彼らは登場人物でした。でもっ……でも、きゃツの作品はなんちゅぅか、登場キャラクターなんじゃ。なんじゃぁ、このウッザイキャラクター共はぁ』
A『ビ、Bさん落ち着いて。いや、まぁわかります。作者自身がラヴコメ要素を意識していますからね。ただ、作者のラブコメ感がズレているのはありますわ。狙いとしては、ベタで古臭い八十年代のラブコメの展開を描きつつ、そこに独自のキャラ立ちをさせてゆく。ただ、ただしかぁしですよ! あのね、まず『ドッペルゲンガー宮』が書かれた九十八年。この時には、それこそライトノベルや少女漫画でも、古臭くも進化したラブコメはあったんですよ。ねぇ! キャラを立たせるならその辺りを勉強してこいよと! わ、わ、私は何も
C『Aさん、少し落ち着いてください。少し熱くなりすぎです。もはや批判を通り越して単なる愚痴ですよ。しかし霧舎巧自身が、キャラは萌えるものではなく立てるものと、霧者学園シリーズの『七月』のあとがきで公言しておりましたしね』
B『そ、そそそそ、それは違う。い、い、いいですか。『萌え』は静止画でもできますが、『立て』はそこに物語が付く。人間の基本を描かず、特徴あるキャラクターを作ろうとするその姿勢。『カクヨム』辺りで、投稿しているアマチュアじゃぁないんですよ。天然素材のキャラ要素が無くなった分、保存料と合成着色料ばかりたっぷりつけた、糞みたいな安易なキャラクターを増やしたら、そ、それこそがポ、ポストモダニズムへの誹謗中傷です。自分の世界の確立とか自分との戦いなどは、ゼロ年代以降かなり多くなった。または書くこと自体が即ち生きるちゅぅことや、キャラクターを書かずにはいられないなどというものは、他人に読ませたいという事への最優先事項なんです。そ、そ、そ、それをこの野郎は……ッ勘違いしとるんです。今だったらなんですか? 異世界転生ファンタジーが受けているでしょう。『カクヨム』のランキングじゃぁ、ほとんどが異世界転生物ばかりじゃ。そのちょっと前までは妹物、そのそのそのそのちょっと前までは中二病物。よよよ良いですか? キャラクターとは古典を読んでこその、広義の登場人物でありこやつのは、ン、ンググ』
C『だから落ち着いてください!』
A『そ、そうですね。Bさんも一度落ち着きましょうや。ハァ……ハァ……ゼェ……』
B『たてるものは何もないのだよキリシャってね。、いや、わかりにくいロスマクネタで、すんません。ヒィ……ヒィ……えーと、何の話題でした?』
C『『ドッペルゲンガー宮』です。謎としては面白いですね。『そして誰もいなくなった』オマージュのクローズドサークル物なのですが、電話は繋がる。電話の向こうの仲間たちに呼び出され、いざ、探偵役たちがその館に行くとそこには誰もいない。ただ、電話の向こう側では一人、また一人と殺される連続殺人が起きている』
A『そ、そうです。こ、こ、この謎は巧いと思いますが、やはり解決編がね。大技トリックとロジックが分離している印象があるんですよ。作者自身、
C『トリックは巧いと思いますが、そのあとの推理がただの説明になっているのがね』
B『そうですなぁ。これはアクロバットでも無い。論理の命がけダイブですわ。ロープがぶち切れて落ちとります。こっちの理性もぶち切れそうですけどなぁ!』
C『推理が単なる説明で終わっているというのには同意ですね。しかもそこに漫画的キャラクターがツッコミを入れている。この辺りもわかりにくい要素が増していますね』
B『ほうですほうです。こういう登場人物全員でディスカッションする推理はアントニイ・バークリーの時代、クリスチアナ・ブランド辺りでもあるんですよ。コリン・デクスターのモース刑事も一人多重推理やっとりますがね。でも、あれらはロジックでの酔わしかたが巧い。こんちくしょうの場合はこれ、なんちゅぅか、下手なんです。え、えぇ。下手。古典にもまだまだ』
C『……Bさんもう少し落ち着いて。確かに詰め込みすぎな部分はあると思います。つづいて『カレイドスコープ島』の説明にいきましょう』
B『はいはい、あかずの扉シリーズの二作目やったかいな? えーと、八丈島沖の月島と竹取島の二つの島。因縁と因習が渦巻く中、あかずの扉メンバーは……という内容やね。霧舎版『獄門島』とも言われていますな』
A『これも二つの島の中、一つの家に3つの勢力と、いかにも横溝正史の田舎物の世界観ですわな』
C『この作品では『ドッペルゲンガー宮』のような大掛かりなトリックが無い分、作者がロジックで勝負しているなという感想をもちました。ただ、文章のせいか、あるいはキャラクターのせいか、どちらの島にどのような人物がいるのか全くわからなくなる部分はありましたね! これが非常に勿体無い!』
B『ほうですよ。横溝の田舎モンのすごいところは、アッレだけ複雑な人間関係を、アッレだけわかりやすい文章で、アッレだけわかりやすく読者に提示したところにあるんやけん、こっちもそれくらいしろと。『獄門島』『八つ墓村』『女王蜂』『悪魔の手毬歌』……あぁ、古典はいいなぁ』
C『Bさん、話がそれていますよ。今は霧舎巧の話ですから』
B『ん、あぁ、こりゃぁまた失敬』
A『では…次にいきましょうか』
B『えーと次は『ラグナログ洞』ですね。『ラグナログ洞』は中央アルプスの影郎沼が舞台ですな。そこでクローズドサークルが起こると』
A『私はね、この作品に関しては好きなシーンがあるのですよ。まず
C『あぁ、そこはまぁまぁでしたね。その分類が容疑者全員の行動に関わってくるというのも面白い趣向でした。ただやはりとある人物のせいで事件がややこしくなるというのは……』
B『全くですよ。キャラクターに関していえば、もう少し保守的になれと』
A『えー、録音時間が後少しなので次にいきましょう。『マリオネット園』ですね』
B『んーと『マリオネット園』のストーリーは閉鎖されたテーマパーク、そこの首吊塔……操りテーマですわな。まぁ、この人にそんな巧妙な操り物が書けるとは思えませんが。ガハハ』
C『これはですね、少し気になる部分があるのですよ。えーと、ノベルス版ですと85ページですね。島田荘司の
B『それのどこに問題があるんですか?』
C『これはこのあとに話そうかと思ったのですが『霧舎巧傑作短編集』の中に、御手洗もののパスティーシュが一篇入っているのです。この一篇、動物園での密室物なのですが、ここで霧舎巧の世界観とリンクしている設定が見受けられるのです。そうなるとおかしいでしょう。この世界観なら『占星術』の作者は
A『あっ!』
C『私は最初、石岡和己が島田荘司のペンネームで書いていると考えました。ただ、これもまた矛盾してきます。『マリオネット園』では、ご丁寧に「作者は占星術師の肩書を持っている」とまで書いているのですから。作者自身が世界観を把握できていない証拠です』
A『わ、私は認めへん! あの短編集の極悪な御手洗潔なんか絶対に認めてやらんで! 御手洗潔はあんなこと言わへん! 『聖典』の御手洗ちゃうわぁ! パチモンや!』
C『あと、この他作品とのリンク問題について一つ。これもあとで語られるはずですが、『名探偵はもういない』で、アメリカにクイーン親子は実在しているということになっています。しかし『新本格もどき』の「三、四、五角館の殺人」にて、中の二人であるフレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーの名前が堂々と登場しているのです。ね? おかしいのですよ』
A『エ……エラリーにまで手ぇつけよってからに! 霧舎ぁ……ッ』
B『本家クイーンにも『恐怖の研究』いうのもあるけんどもね』
A『フーフーー(荒い息遣い)あ、あれは中の人が、ち、違っ……』
B『あっ、す、すいません』
C『えーと、次は、私立霧舎学園ミステリ白書シリーズいきますか?』
A『あぁ、ちょっと待ってください。少し興奮したんで、お花摘みにいってきますわ』
ガラガラ(引き戸を開く音)
C『あぁ、どうぞどうぞ』
B、C『…………(無音)』
A『すいません、長くなってしもうて。BさんもCさんもトイレ行きとぉなったら言うてください。場所は、あの引き戸の奥ですから。このアパート、どこもかしこも引き戸ばっかりやから、神聖な批評の録音に音が入ってしもうたん違いますかね?』
C『いえ、大丈夫でしょう。それでは霧者学園シリーズに』
B『これはもう、あかん。もう表紙見るだけで吐き気がしますわなぁ。今時の絵で本当失せる。これだから昨今の現代本格は駄目になったと言われるんですよ』
A『まぁ、ライバルが『金田一少年の事件簿』ですからね。漫画から果たしてここまでたどり着いてくれるかどうか……。あれ? Cさんどうされました?』
C『霧者学園シリーズ! これに関しては一言二言、否、三言飛ばして四言ほど言いたい! いいですか! これですよ、これ! キャラクターがイタイのは! 今時、遅刻遅刻~で壁でバターン! 今日は転校生を紹介する、で、あぁ~アンタあの時の! なぁんだお前ら知り合いなのか、じゃあ、隣の席だな……ぬわぁにが隣の席じゃ! こんな古臭いラブコメは駄目です。本当! あーイタイイタイ、作者に言いたい! 貴方の噛んだ小指が痛い! 痛いはずだよ画鋲が刺さった! ガッビョーーンと飛んだ
B『シ、Cさん。落ち着いて!』
A『いや、もっとや! もっとかましたれ!』
B『よ、よし! ほいたら、僕も……ザザッ(雑音)』
『ガシャン! (何かが倒れる音)ザザッ……(雑音)ザザザッ……バリッ(音割れ)』
?『グァッ』
――ザザッ……(雑音)……バリッジジジジジジジ……(音割れ)
?『な、なにをっ! (声が聞き取りにくい)』
ドサ!バリンッ! (物が壊れる音)
?『アッハッハッハッハッハ! これでどう……(音がひん曲がっている)……ザザザザッ(雑音)……ザザァ(再び雑音)』
?『ぐぞぉぉぉおお!(音がひん曲がっている)』
ザザッザザァァァ―――――――――――――――――――――ガシャッ(録音切れる)
* *
「さて、ここまで聞いてみてどうだった? 琴葉ちゃん」
琴葉は押し黙っていた。押し黙ることしかできなかったのだ。とあるマンションの一室。琴葉は目の前の先輩を見据える。こんな形で解決に入るのか?
少し深呼吸をすると琴葉は、一気に捲し立てた。この先輩の前では、そうする事が唯一の解答なのだから。
「すっごくイラつきました! 何で霧舎さんがここまで言われなくちゃいけないんですか? ユイ先輩」
その反応を見て目の前の先輩が微笑む。
「うん、確かにそうね。でもね、この中の一人に、シャボン玉のように心が壊れてしまった犯人がいるの。たった一人だけ……その人は、開けてはいけない心の中の、あかずの扉を開けちゃったのよ。絶対に開けてはいけないその扉を」
それを自分たちだけで解決しなくてはならない。琴葉は先輩の言葉に、何かしらの痛みを感じた。
「そう……ですね」
どこか勇気づけられた思いを胸に、この先輩と共に謎を解く決心をした。
「実をいうとね、わたしは鳴海さんに色々聞いてきちゃったんだけど……琴葉ちゃんもでしょ?」
「あっ、えーと。は、はい、あたしは
顔を赤らめた姿を琴葉の横の先輩はフフフと笑う。
「ほらほら、惚気るのは後で。まずはこの中の二人を殺した犯人を絞り込みましょう」
この先輩がついているだけで、頼もしく思える。その頼もしさが空回りでなければ良いのだが。
「わたしはね、この事件、全ては密室の謎にあると想像するのよ。鳴海先輩曰く、これは、開口部のある密室なんですって」
開口部のある密室。足跡の無い開かれた密室とはまた違う。確かにこの事件に関してはそう表現するしかなかった。とあるアパートの一室。開き戸、窓の全てが鍵のかかっていない状態。その中で三人の死体が発見された。二人が背中を刺され刺殺、もう一人が餓死という奇妙な状況で。最後に餓死をした人物が二人を殺したものと思われるが、何故こうなったのか。状況も動機もわからない。
そこで登場するのが、さきほどのA、B、C、三人の声が録音されていたICレコーダーである。現場に残っていたICレコーダーの中には、霧舎巧アンチ同盟という三人組の、霧舎巧に対する罵詈雑言が吹き込まれていた。
「なんで犯人は、二人の人間を殺しておいて、自らも餓死という形で死ななければならなかったんでしょう? 通信機器は無いけど、出入り口は開いた状態だったのに」
琴葉は少し黙り、悩んだ後に何かが閃いたようだ。その言葉を先輩のために紡ぎ出さねばならない。
「あっ、そうか! 逆なんだ。餓死せざるをえない状況に追い込まれちゃったんだ!」
「さすが棚彦君の彼女。その通りよ。最後、アンチのある人物が細工をした何かによって犯人は自らも部屋から出られなくなってしまった」
「アンチの細工? それは……どういうことでしょう? ユイ先輩」
先輩はニコリと笑うと、自信満々である物を琴葉の目の前に取り出した。
「ウフ、それはね、これよ!」
琴葉は絶句した。目の前に出されたものは、
「な、な、な、なんで! えーと。あ、あ、あたしのポスターが! これが関係あるんですかぁ?」
「そう、冗談のようだけど、この手掛かりこそが、開口部のある密室を解く鍵なのよ。事件現場の状況をもう一度思い出してみて。Aさんが言っているでしょう。このアパートはどこも引き戸だって」
録音の中でAがトイレに行くシーンが、琴葉の脳内で再生される。先輩も頭の中で考えをめぐらせているらしく、揃って黙り込む。
「でも、それとそのクリアケースにどういう関係が?」
「引き戸の手前側のドアに、ビニール製のクリアケースの片方を貼って、壁側にもう片方を貼るの。さて、そうやって引き戸を横にスライドして開けようとすると、どうなると思う?」
「……ビニール製なので、内側のドアをスライドしたときに、扉と扉の間に挟まれて折り目がついてしまう。え、もしかして」
琴葉の頭の中で一つの解答が浮かんだようだ。あまりにも馬鹿馬鹿しい解答が。おまけにお腹が痛くなってきているのがわかる。
「折り目がついてしまうから、犯人はもったいないと思って外に出られなかった?」
琴葉が言うと、先輩はまたニコリと笑い、問題を上手に解けた生徒を見守るような顔になりつづけた。
「うん、それが正解。この限定版特製クリアケースこそが、犯人である霧舎巧信者の踏み絵となっていたのよ」
さっき以上に混乱してくる。この先輩は何をいっているのだろう? なんとか声を搾り出す。
「で、でも、ここにいる容疑者は三人とも、霧舎巧のアンチじゃないんですか?」
「三人のアンチの中に、一人の信者が紛れ込んでいたら? 熱狂的な霧舎巧信者が。そう考えると全て辻褄があうわ。信者は限定グッズに折り目が付くことを非常に嫌がった。だから鍵がかかっていなくてもドアを開けることが出来なかった。故にほかの二人を殺した後、自分もそこに留まり餓死するしかなかったの。ドアは開いているのに、そのドアを開ける行為イコール自らが踏み絵を踏んでしまう行為になってしまうからよ!」
傷ついた被害者が犯人に怯え、部屋に逃げ込み鍵をかけ死亡する。そんな状況下で密室状態となることはある。だが、この事件は全くの逆だ。出口はあるのに、被害者のせいで犯人が閉じ込められた。
「じゃあ、その信者は一体誰なんですか?」
「そう、ここからよ琴葉ちゃん。いい? 覚悟して。このICレコーダーに録音された話し声だけをヒントに、
琴葉は黙っていた。目の前の先輩はあまりにも興奮しすぎている。その証拠に前のめりになっただけで、髪の毛がふわふわ揺れる。琴葉のお腹がまた痛くなったのが分かった。
「まずはAさんだけど」
「声の高い関西弁の方ですね。アンチ霧舎巧の会の会長でもある人」
「私の考えではAさんは犯人では無いわね。おそらく犯人に重症を負わされて、真っ先に、開き戸にクリアケースを貼った人。それがこの人よね。あの録音の最後の部分はあまりよく聞き取れなかったけど、うん、多分この人が犯人を逃がさないようにあぁいう事をしたんだと思う」
自信たっぷりだが根拠はあるのだろうか? どうも、先の推理からこの先輩のいうことは常軌を逸した内容になってきている。頭の片隅にその事を考えていたが、あえて口には出さなかった。先輩は真剣な顔でつづける。
「疑っているわね、琴葉ちゃん。でもね、一応の根拠はあるのよ。Aさんは途中でお花摘みに立っているわ」
「トイレに立つって事ですよね……あっ!」
「気づいたようね。トイレに行くことを、お花を摘みにいってきますという表現を使うのは」
「Aさんは……女の人」
Aは女性だった。霧舎巧を読んだ女。それが何を意味するのか、そしてこの奇妙な事件とどのように関わってくるのか、この時の琴葉にはまだ分からないままということになっている。
「そうよ。ほかにもAさんが女性とわかる部分があるわ。『霧舎巧傑作短編集』の御手洗潔の話題になった時、御手洗潔はあんな極悪じゃないと言っているし、あかずの扉シリーズの中でも男性キャラの鳴海さんを『この人は格好よいですわ』としゃべっているでしょう? これが関西弁では無く、女性言葉としたらどう?」
それだけで女性と判断するのはどうかと思うが、Aの人一倍甲高い声が脳内で再生される。
「でもちょっと待ってください、ユイ先輩。Aさんが女の人だとして、なんで信者では無いのですか?」
「当たり前よ。女性だったら、羽月琴葉のことには絶対、萌えないでしょう! 多分、あなたの事なんか大っ嫌いだと思うのよ。からあなたのクリアケースをあんなぞんざいな扱いができたの!」
この先輩は一度精神科で診てもらった方が良いのではないか? 当初は頼りがいがある先輩に思えたが、ここまでくると、推理も何もあったものでは無い。羽月琴葉に萌えないから。こんなロジックがまかり通って良いわけがない。が、これ以上突っ込むとややこしくなるので、一応やり過ごしておく。また、先ほどから足がチクチクとしてかゆい。
「わ、わかりました。ユイ先輩。Aさんは犯人では無い。残りは二人ですね。どちらなんでしょう」
話を合わすしか無い。噛み合っているとは思えないが……。それでも、この先輩に付き合わなければならないのだ。それが指名、否、使命なのだから。
「次はBね。最初に言っておくわね。彼も犯人では無いわ」
「また自信満々ですね。でも、この人、あかずの扉シリーズを過去の本格ミステリと比べたり、霧舎作品のキャラクターに対しても辛辣な事を言っていますし、信者じゃないのはなんとなくわかりますけど」
「いいえ、違うわ。わたしはね。このBに対してだけは怒りたいのよ。殺されても仕方ない奴だと思った。断言してもいい。このBはね、霧舎作品を一作も読んだことが無いわ!」
「えっ! ちょっと待ってくださいよ。霧舎巧を読まなかった男ですか?」
「そう、彼は読まなかったのよ。まず彼は、あかずの扉シリーズの話題の時、主なストーリー展開を話すわよね。でも彼、その舞台となった場所しか話していないのよ。そこで致命的なミスを一つ犯しているわ。『ドッペルゲンガー宮』の流氷館の場所。これは島田荘司先生の『斜め屋敷の犯罪』で登場する流氷館のオマージュでもあるんだけど……同じ館名だからこそ間違えちゃったのね。島田先生の流氷館は確かに宗谷岬にあるけど、『ドッペルゲンガー宮』の流氷館は千葉県のはずれにあるのよ」
「あっ!」
琴葉は記憶を検索している。ICレコーダーに録音されたいたあの記録を。
(B「ゴシック風の建物。宗谷岬の『流氷館』……ここいらは明らかに島田荘司のオマージュですわな」
「えーと、八丈島沖の月島と竹取島の二つの島」
「『ラグナロク洞』は中央アルプスの影郎沼が舞台ですな」
「んーと『マリオネット園』は閉鎖されたテーマパーク。そこの首吊塔」)
先輩の髪の毛が大きく揺れている。琴葉の顔をまじまじと見つめ奇妙な微笑みを浮かべていた。
確かにBは講談社ノベルスの裏表紙に書いてある「あらすじ」を言っているだけだ。『カレイドスコープ島』は八丈島、『ラグナロク洞』は中央アルプス。ノベルス版で舞台の地名が表記されているのはこの二作だけ。『ドッペルゲンガー宮』と『マリオネット園』は地名の表記も無い。
「Bの部分だけを聴くと、更に面白い事がわかるわよ。彼はAさんやCさんが発した意見に対してだけしか自分の意見を言っていないのよ。それも、その意見に対して、古典作品を持ち出し『ここのテーマが似通っている』『ここの部分はあちらの方が良い』とかね。霧舎作品自体については自らの発言は一言もしてないの。キャラクターに関する言説も同じね。どこかの評論で聞いたような意見ばかりだわ。おそらくただ叫びたいだけの、アンチ気取りでしょうね。中身も読まなかったのは、キャラクターがうざい、霧舎学園の表紙が今時の絵で失せる……からでしょうね。古典本格の名前をよく出しているけど、古典原理主義者であるが故に今時の、絵で失せる作品は読まなかったんじゃないかしら? こんなのは批判とも言えない、いいえ、悪口にもなっていないわ。読んでいないのに、アンチを気取るなんて、ただの愚か者よ!」
そのような人物に心当たりがあるのか、目の前の先輩は怒りを露わにした。琴葉自身も不機嫌になっていた。例えアンチでも良い。きちんと作品を読み、分析し、自分の意見を混ぜる。主観的な事になってもよい。それが作品に対する一つの愛では無いのか。どんなに屈折していても、作品を愛してあげることが一番なのだから。
作品を愛するということはどういう事だろう。新書で買う事が愛に繋がるのか?読む事が愛に繋がるのか? 書評する事が愛に繋がるのか? 自分でもまだ考えが定まっていない。琴葉は胸とお腹がまた少し痛くなっている。そして最後に残った一人。犯人は――。
「最後、もうここまで限定されるとわかるわよね。霧舎巧を読んだ女ことAさん、霧舎巧を読まなかった男B、二人を殺し、Aさんの奇計によって部屋に閉じ込められた犯人。たった一人だけの信者……それはCさんよ!」
霧舎学園シリーズについて過激な発言をしていたCが……。
録音された内容を思い起こしてみると、確かに彼は誉める部分はきちんと褒めていた。トリック、ロジックの破綻部、一番最初メロンパンを買ってきていたのはその表れかもしれない。琴葉が押し黙っていると、先輩は更に続ける。
「多分、多分だけどね琴葉ちゃん。Aさんは批評会の途中でCさんが霧舎巧信者ってことに気づいたんじゃないかしら。この会合で彼に何かされると、いいえ、彼が何か企んでいると気づいてしまった。だから、途中お花を摘みにトイレに立った時、トイレの窓や、その他出入り出来そうなところ、助けを呼べそうな開口部を全て、霧舎作品のグッズでふさいだのかもしれない。色々あるわよね。霧舎学園シリーズ8月についている見開き琴葉ちゃんのポスターや、九月の修学旅行編のシール。窓に貼るだけで開けると破れちゃうもの」
最初は馬鹿馬鹿しく思っていた、開口部のある密室の謎がここまで重いものだったなんて。
* *
想像してしまう。Aの狂気と執念を。
目の前には既に殺されたBの死体が横たわっている。自分は今何をされた?
――そうや、背中を刺されたんや。メッタ刺しかいな、糞、痛い……やっぱりCの奴! 殺してやりたい……。仕返ししてやる。絶対に許さへん。
足がもつれよろめく。壁際の花瓶が床に落ちて割れる。ダイヤモンド・ダストの如く、破片が周囲に散乱する。床に詰まれてあった本が崩れる音が耳に響く。
本の合間から『羽月琴葉特製クリアケース』が見える。
――これや! ちくしょう……ちくしょう! お前の大事なもん使こうて、こっから一生出られんようにしたる。絶対に逃がして返したらん……っ!
そんな犯人、いいえ、信者への報復を。
* *
想像してしまう。Cの苦しみを。
私はファンだ。いや、信者といっても良いだろう。しかし、彼女や彼に合わせなくてはならない。誰も得をしない、こんな例会の約束などするのではなかった。先ほどの意見を聞いていると、もしかするとBは、作品など読んでいないのではないか? だとすると許せない。Aはどうだろう? 詳しいが、彼女は悪い部分しか言っていない。
Aがトイレに立ったとき、文房具棚にあったペーパーナイフをそっと手に取り隠しておいた。それで……二人を刺した。何度も何度も。呆然としていた。手にはまだ嫌な感触が残っている。ふと見ると、Aが動いている。扉に……アレは!
「やめろ! それだけはやめてくれ!」
「アッハハハハハハハハ! これでどうや! ほかの窓も、出入り口もアンタが助けを呼べるところは一切ないでぇ! アンタもう、こっから一生出られへんやろ! 絶対に許してやらんからなぁ!」
「くそぉ……、なんてことを……。琴葉……ちゃん」
開けない。一生開けられない扉になってしまった。助けてくれ……助けてくれ……。私をこの――開いている扉向こう側へ出さしてくれ!
* *
胸とお腹が痛くなってきた。琴葉は……琴葉は……。
「ぶわぁはっははっはっはっは!」
大声で笑った。
「ちょ、ちょ、ほんっま先輩勘弁してくださいよ!」
そういうと、羽月琴葉をもどいていた男――
背は低いが、体重はそろそろ三桁になろうとしている。これだけ汗をかくと、少しは痩せたのではないか? などと思っているようだが、今年で四十五歳になるサラリーマンにこの女装はきついだろう。
「もう限界。もう限界ですわ、先輩! 腹が苦しゅうて、苦しゅうて」
「いやぁ~、付き合わせてしもうてすまんのぉ。琴葉の大ちゃん! ほんなん言うても、霧舎作品のキャラクターの「もどき」をやってみたかったんやもの!」
大五郎の目の前に座っており、
「し、しかし先輩、ほんまもうこれっきりにしましょうや。霧舎巧もどき! こっちは暑ぅて、おまけにこんな歳で、けったいな女装までさせられて、たまりませんわ。棚彦のくだりなんか、恥ずかしいて、顔真っ赤になりましたわ。しかも知り合った人にこんな制服まで特注で作らせて……。でもね、キャラクターをもどくならもどくで、しっかり成りきってもらわんと。途中、何度かヅラがふわふわして、落ちそうでしたよ。それとこれは重要な事だから言っておくと、あかずの扉シリーズの由井広美の一人称は『わたし』じゃなくて『あたし』です!」
この先輩は本当に霧舎を読み込んでいるのだろうか?
周囲の貧乏臭い本棚。日焼けた新聞紙が貼られ、その隙間から見える乱雑に置かれた本たち。その中には霧舎作品もある。あかずの扉シリーズはノベルス、文庫で三冊ずつ買っている。名探偵シリーズはハードカバーで四冊、ノベルスで二冊ずつ。布教用らしい。その先輩が汗を拭いながら
「ほんなん言われてもな、途中でキャラ忘れてしまうねん~。というか『あたし』やったら羽月琴葉と被るやんか。どんだけ書き分けできてないねん! でもなぁ、せっかく霧舎巧に関する事件、しかも妙な密室殺人が起こったんやから、やっぱりここはもどかんとあかんやろうて」
「あのねぇ先輩、ぶっちゃけた話がこの事件、もう警察の捜査で解決してますからね。Cが餓死したこともわかっていますし。法医学とDNA鑑定なめたらあきませんよ。私らが推理する要素完全に皆無ですやん! それやのに、わざわざ、警察からこんな証拠物件のICレコーダーまで借りてきてくれて……。ほんま、後輩に感謝せんとあきませんよ」
「ほんまやでぇ……。ねぇ、光田ちゃん!」
そういうと、二人の男たちは――俺の方を見た。
『新本格もどき』のヒロインである
だが、先輩たちの頼みだ。俺は答えてやる。
「……いえいえ、今回は先輩方お二人の『もどき』がどれくらい完璧か、一観測者として参加させてもらいましたが、中々のもどきっぷりでしたよ」
俺は吹き出しそうになるのを抑え、目の前の男たちを褒め称えた。もちろん本音では無い。ちなみにICレコーダーは、この事件に関わった警視庁の知人、ある警視正から借りたものだ。天下の日本警察が一般人にこんなものを流して良いのかと思ったが、こちらは弱みを握っているため奴はなんとも言えなかった。
だが、面白そうという理由で、もどきにつきあったのは良いが予想以上の収穫を得られた。しかし――
「しかし、まぁ……アレでしたね」
俺は声を潜めた。
「あぁ……アレやな……」
唯野純一は、俺に合わせて声を潜める。
「えぇ……そうですね……」
琴葉大五郎もそれに合わせた。
「我々が霧舎作品のキャラクターをもどくのはちょいと無理があったんちゃいますかね……」
「ほやなぁ……」
「はい……」
我々、霧舎巧を読みまくった男共は声を揃えてこういった。
「「「ウザさが足りひん……」」」
<了>
【参考引用文献】
○ウィリアム ブリテン『ジョン・ディクスン・カーを読んだ男』 (論創社)
○浦賀和宏著「イエロー・マジック・オーケストラを聴いた男たち」(講談社ノベルス)
○霧舎巧全著作。
【注意】
あえて二次創作にはしませんでした。
霧舎巧を読みまくった男共 光田寿 @mitsuda
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