優雅な偏食家
銀文鳥
第1話
「そのタルト・タタンの美味しさと言ったら。心地よい林檎の歯ごたえとキャラメリゼの官能的な香りが、紅色の鮮やかな世界を広げたようで……」
僕は彼の紡ぐ言葉に耳を傾けている。口の中から、自然と唾が湧いてきた。
「素晴らしいものを召し上がられたのですね」
僕が微笑むと、彼は惜しむように言う。
「その場にいれば、君にも食べさせたかった」
「いえ、召使いには勿体ないです」
彼は僕の雇い主の息子で、長い睫毛を伏せていると優美さが際立つが、僕にとっては菓子について楽しそうに話す、気さくな人間だった。
彼には仕事終わりの僕を引き止めて自室で紅茶を振る舞う習慣があり、最初は断るわけにもいかず恐々と彼の相手をしていたが、今では馴染みの習慣になっている。
「これを一緒に食べたかったんだ」
彼は手元からかさりと音を立てて小さな紙袋を取り出した。リボンと、菓子店のタグが付いている。
「手を出して」
彼が紙袋を揺すると、僕の手のひらに軽くて羽のように白い菓子が転がり込んだ。形は口金で絞ってあるのか、膨らんだ蕾のようだ。
「これは……」
「メレンゲクッキー、卵白を泡だてて焼いたものだ」
そっとつまんで口に入れると、さくさくとした食感と溶けるような甘みが口に広がった。
「美味しい。甘い
「石鹸の泡か、いい表現だ。君は風呂に入る時、泡が美味しそうに見えるんだな」
彼は愉快そうに笑い、綺麗なえくぼが浮かんだ。
「恥ずかしいです」
「いや、褒めてるのさ。君の言葉は実直でいい」
彼は暫くメレンゲ菓子を食べてから、美しい茶器を手に紅茶をすすり、ぽつりと話す。
「僕は、幻を食べてるみたいに感じる。まるで初めからなかったように、あっけなく口の中で溶けてしまう。
その言葉を聞いて、僕は彼自身を連想する。彼は体質の事もあって、成人まで生きられるかどうか……とお抱えの医者が言っていたのを聞いたことがある。
「でも、口の中に甘みは残ります。たとえ僅かでも」
「……そうだね、それがこの菓子の良さだ」
軽く首を傾けて笑ったその瞳が、ガラスのように虚ろだったのが記憶に残っている。
彼に野菜や肉を食べさせる試みは、全て失敗している。
乳母の乳から離れ、15年経った今まで、甘いもの以外は口にしていない。
彼は果物と砂糖とチョコレートと乳製品が好きで、けれどたくさん食べようとすると胃腸が受け付けないので、華奢な肢体をしていた。この偏食では、きっと永くは生きられないと誰もが知っていた。
——しかし、ここまで早く彼の命に
雪が降った日に学校から帰った彼は、顔色が
お抱えの医者も飛んできてあちこち診たが、重苦しく首を振った。
体調が恢復することは難しい。食べたいものが食べられるのも、僅かな期間だろう、と。
事実上の余命宣告を受けたご主人様は、酷いショックを受けた。しかし、医者の確かな腕前と苦労を知っているので、遣る瀬無さから召使いやメイドに当たり散らすようになった。
息子には話すなと僕たちは厳命を受けたけれど、ご主人様が彼の口に無理矢理肉を突っ込んで、食べないとお前は死ぬんだと泣きながら脅してからは、敷かれていた緘口令も水泡に帰した。
「……悪いね、もう紅茶もご一緒出来ないなんて」
僕はベッドで起き上がっている彼の着替えを手伝いながら、言葉を選ぶ。
「貴方様が……いえ、貴方様と歓談する機会が減ったのは残念です」
——彼が紅茶を飲めなくなったことに対して何か言って、今更どうにもなるものか。
それこそ傲慢で出すぎた真似だと、僕は項垂れる。
「仕方ないんだけど、ね」
彼はそれから、乳母が彼のために作ってくれたプディングが美味しかったことを話した。
「幼い頃、菓子屋で使われている牛乳には水銀が混ざってると噂が流れて、乳母は至極慌てたらしい。農家に手紙をわざわざ出して確認した牛乳を使ってくれた。蒸したてのプディングは柔くて、気泡がたくさん入っていて、口に運ぶと優しい味が舌にじんわり伝わって、暖かい布団に包まれたみたいに嬉しかった……」
彼の胸元に浮いている肋骨が、あばら家の壊れた屋根から突き出した剥き出しの材木のようで、痛々しい。
「君にも食べさせたかったな」
「……僕も、実は食べたんですよ。蒸し立てではなかったのですが」
こっそり、小さな器に入って、ぷるぷると震えるプディング。
「そうか……君の母君は、本当に素晴らしい人だったよ」
「僕も、そう思っています」
そう言って僕たちは微笑みを交わした。
それから間も無く、彼は何も口にできなくなった。ベッドに力なく横たわり、砂糖水をスプーンに数杯舐めるだけ。医者が暫くはずっと一緒にいたが、やがて何かあれば——つまり昏睡になった時だろう——すぐに呼ぶように、と言い残して普段の仕事に戻った。
僕が甘い匂いを連れて部屋に入ると、彼の目が瞬いた。
「お医者様には、許可を取りました。少しでも気分が安らげばと」
「これは……」
「プディングを作りたかったのですが、お前には無理だと言われてしまって……口に合えばいいのですが」
僕が厨房の料理人に無理を言って作ったのは、不恰好なメレンゲクッキーだった。
「はは、君らしい……」
そう笑う彼は、僕が持ってきた菓子とは違う、不思議な甘い匂いがする。
これが死の匂いなら、神とはなんと意地悪なのだろう。
僕の手から受け取ったメレンゲクッキーを、彼はなんとか口に運んでくれた。
「少し、香ばしすぎるね。でも、君の優しさ、実直さが伝わる……美味しい、メレンゲだ」
彼は言葉を一息に言えず、途切れ途切れに話す。
僕は、返す言葉を紡げない。
「僕はもっと生きたかったし、色んな菓子を君と食べたかったと、本当に、思ってたんだ」
彼のまぶたが閉じて、長い睫毛が、白い顔が、窓からの光に照らされて際立つ。
「だからこうして、君の作った菓子が食べられて、僕は嬉しい」
「僕も、ですよ」
僕は力なく置かれた彼の白い手を取り、敬愛の口づけをする。
彼の手からほんのりとした甘みが伝わり、いつまでも残った。
優雅な偏食家 銀文鳥 @silverbunchou
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