和して集えば嘉辰令月

ねこたば

第1話

明治維新。

大正デモクラシー。

敗戦。

オリンピック開催。

大阪万博。

バブル崩壊。

ボランティア元年。

東日本大震災。

インターネット革命。


時代は流転する。

世界の空気はどんどんと変化し、世界の舵輪は驚くべき速さで回っている。


その中でみんな、気がつけば何か大切なものを指の隙間から零し、あるいは新しいものが懐に飛び込んでいる。

喪ったものだけではない。

望むこともなく、いつのまにか手にしていたものもある。


「けれど、俺は喪うものばかり数えていた」


小高い山の上。

青い葉を付け始めた木から桜が舞い散る墓地で一人、手を合わせながら青年が呟く。


「俺は……今年で二十歳になったよ」


彼の眼前には一つの墓石。

他に人影は見当たらない。

平成十年生まれの彼はただ一人墓石向かって語り続ける。


「1900年代生まれの人だけの成人式はこれが最後らしいよ。平成最後にそんな偶然って、面白いよね」


彼はそう言って笑う。


「正直……二十歳なんて遠い未来のことだと思ってた。でも、あっという間だったよ。……特に、ひいおばあちゃん達がいなくなってからの10年はね」


明治最終年に生まれた彼の曽祖母は10年前に亡くなった。

二度の世界大戦を生き、8人もの子を育てて多くのの孫に囲まれ、そして彼に名前をつけた彼女は98の天命を全うした。

そんな曽祖母はいつも幼い日の彼に同じことを繰り返し言っていた。

元気に生きているだけで良いんだよ、と。


「当時の俺はその言葉の意味をよく理解してなかった。でもね、ひいばあちゃんが亡くなってからおばあちゃんに聞いたんだ。ひいばあちゃんは大変な人生を送ってきたんだって」


曽祖母は大阪の裕福な家に生まれたらしい。

日本の全てが上向きで活力のあった大正を少女として駆け抜けてそして空襲で全てを失った。

土地も盗まれ財貨も全て焼け友人を失い、それでも命だけは手放さなかった。

戦後は無一文となりながらも戦争から復員した祖父と共に必死で祖母達を育て上げたという。

そんな曽祖母が祖母によく言っていた言葉が、「日々是嘉辰令月也」。

生きていればそれだけで毎日が素晴らしい日なんだよ、ということ。


「そんな話を聞いたら……ひいばあちゃんの言葉が本当に切実なもので、大切な願いなんだなって思ったよ」


そんな話を彼が知ったのは中学生になってから。

よわいたったのとおのひ孫にそんな辛い話を聞かせたくなかったのか、或いは理解できないと口を噤んでいたのか。

ただ、病に伏せる祖母の手を取っていた時に初めてそんな話を聞かされた。


「明治がどんな時代だったのか、それ以前の幕末、慶応の時代はどんなだったのか……。明治は長かったから、きっとひいばあちゃんの両親も明治生まれだろう。江戸時代のことなんて知らなかったかな」


一括りに明治といっても半世紀近くもの長きに渡る時間。

その時代に生まれ子を成した人は少なくないだろう。

ただ、曽祖母の両親がそうだったのかを知る機会はもうない。


慶応、明治、そして大正。

150年から100年も前の出来事は、数字や言葉だけ見たらとても遠い過去でしかなくて、「日本史」の一部でしかなくて。

けれど確かに一緒に話をし、ご飯を食べ、笑い、そして感じた明治生まれの曽祖母の肌の温もりは彼にとっては決して過去の遺物などではなく今でもはっきりと思い出せるもの。

曽祖母やその両親が生きた時代だと思えば、それは例え単なる文字や数字の羅列が同じ意味を示していたとしても、決して教科書の一行などではない、今に確かに繋がる生のものとして彼の胸の中で鼓動を打っている。


「けれど……やっぱり……やっぱり、ひいばあちゃんの言葉をもっとしっかり聞いておけばよかった……」


伝え聞くものではない、本物の歴史はもう聞けない。

ただそれはやっぱり伝え聞くだけの過去の話。

そう思いながら、彼はふと気がつく。


「そうか……もう、伝え聞くことも出来ないんだ……」


100年も前の曽祖母の話。

それを伝えてくれた祖母も今はもういない。


昭和15年、戦争の真っ只中に生まれ戦後の新時代の先頭を走り抜けた祖母は、次の時代を前にして去年亡くなっている。


『おばあちゃんは幸せ者だよ。いい時代に生まれて、孫にも恵まれた……。ありがとう』


戦後の小学生第一号世代だ。

きっと楽なことばかりではなかっただろう。

曽祖母を語る祖母を見ていればその事は手に取るようにわかった。

けれども、『悪いことばかりではなかった』という祖母の言葉もまた、真実だと彼は思っていた。


『小学校の頃、映画を観る時間があったのよ。そこで初めて観た総天然色、つまりカラーの映画が衝撃でねぇ……今でも忘れられないのよ』

『洗濯機なんて二層式もない時代なのよ。だから毎日七時間くらいかけて洗濯物の水を切ってから干してってしてたのよ。大変だったわ』

『電話なんて、庶民が持つものじゃなかったのよ。まさか私が持てるなんて思ってなかったわ』


今とは違う時代。

平成生まれの彼には想像だにできない不便な時代。

けれどもそれを悲観ではなく、とても、とても楽しそうに話す祖母の姿が、目を瞑れば今でも彼のまぶたの裏に浮かび上がる。


そんな、見ることの叶わぬ過去の話を聞くのが彼は好きだった。


「俺の生きる時間も、いつかは過去になるんだろうか」


自分の感じたこと。

自分が思ったこと。

自分が生で見たこと。


きっと百年先にはそんなものは虚空の彼方に昇り消え去っている。

曽祖母や祖母と交わした会話も二人が語ってくれた過去も、彼が死んでしまえば後には何も残らない。


時代が巡るとはそういうことなのだ。


「時代が変わろうとしてるんだな……」


亡くなった人を想う彼のその言葉は、聞く人によっては不謹慎な言葉だろう。

けれど、そんな風に言葉尻だけを取り批判する他人はこの丘の上には誰もいない。

誰にも届かない、彼の決意を秘めた言葉がただ桜とともに舞うだけ。


「これからは俺が頑張らないと」


大改革を成し遂げて「世界に日本あり」と示し、いよいよ大国へとのし上らんとした大正という新時代。

瓦礫と灰の中から再び日本という国が立ち上がろうとしていた戦後という新時代。

そして、災害を耐え忍び安定した社会の元で享受してきた平和な生活を、次の世代へ繋げんとする令和れいわという新時代。


時代が巡ろうとしている。


その中で、彼は伝えていかなければならないと思っていた。

決して二度と再び知ることの叶わない、曽祖母や祖母が見て語ってくれたかつての景色を。

これから生まれ育つ子供たちが体験することの叶わない、平成という時代のことを。


「時は流れて、今もいつかは過去になる」


その切なさと虚無感を抱えていても、それでも時間は流れていく。

過去は過ぎ去る時間の流れの中でただ彼らを見送ってくれるだけ。


だからこそ、思う。


「過去のことを語り継ぎたい。曽祖母や祖母の語ってくれたことを次の世代に繋ぎたい」


いつのまにか地面を見ていた彼はふっと顔を上げる。

どこまでも高く、どこまで青い空。

山の緑地みどりじにポツリポツリと染め抜かれた桜色。

その向こう側に空よりも深く、藍の染みる大きな湖。


「あ、そっか……」


暮石の前で過去を振り返っていて、気がついた。


「喪った人々、残る想い出……」


だけではない。


「新しい出会い、繋ぎたい想い」


だけでもない。


「きっと……きっと変わらないものもある」


目の前に広がる景色は、何年も前から見慣れている変わらない景色でもある。


変わらないものもあるのだ。


変化は嫌だと、彼は思っていた。

愛したものを喪い別れ、そして自分は残された世界で歩み続けなければならない。

変化したものは決して元には戻らず、愛しき思い出はただ思い出としてだけ残る。

時の流れの中で岩礁のように留まり続けるそれらに、自分だけ流れの中に置いていかれ、ただ流れていくだけのような気がしていた。


だから、今も彼は過去のことばかりを数えていた。

喪った曽祖母と祖母、そして二度とやってくることのない彼女らとの時間と思い出。

振り返ってばかりいた。


「でも、いま分かったよ」


でも、その中にはどこか懐かしい景色もまたある。

決してそれは同じではない。

けれどそれはいつまで経っても、どんな時代であっても変わらないもの。


そして、その変わらない景色の中で変わっていくものこそが「人の営み」なのだと、彼は気がついた。


「変化は嫌いだった。変わらないままが良かった。ひいばあちゃんやおばあちゃんとずっと一緒にいたかった」


彼はそう思っていた。


「けど、ひいばあちゃんたちが必死で生きたから今があるんだよな」


人が、来らずの後の時代を思い必死に生きた証が変化であるからこそ、その過去は輝いている。

彼の愛した過去を美しく彩るものは、その時代を生きた人達の未来への意思とそれ故の変化なのだ。

彼はそう思い始めていた。


「そういえば……」


ふと思い出す。

巡る時の流れの中で、失うものばかりではなく新たに手にしたものもあった、と。


美和みわが生まれたよ、おばあちゃん」


祖母が亡くなってから半年、平成最後の3月に新しい命が産まれていた。


「兄貴の子供だよ。おばあちゃんが楽しみにしてた、ひ孫」


彼は知っている。

長い間病床に伏せていた祖母が、始めてのひ孫の誕生を心待ちにしていたことを。

『美和』という名前を考えたのも祖母だった。


もう、二人が逢うことは叶わない。

だからこそ、思う。


「これからは俺が頑張らないと」


再び、その言葉が彼の口をついて出た。

けれど、その意味は全く違う。


「これからは俺が、俺たちが必死に生きる番だよ」


時間はあっという間に過ぎる。

祖母のことを、そして曽祖母のことを知らない美和はあっという間に大きくなるだろう。


物心のついた彼女に、何を伝えることができるだろうか。

祖母や曽祖母の、そして自分自身の生きた時代を伝えることが出来るだろうか


そして、どんな未来を用意してあげられるだろうか。


「きっと……」


平成以前の、彼自身の知ることのできない時代の曽祖母や祖母の記憶を繋ぎたい。

自分の生きた平成という時代を令和に生きる次世代に伝えたい。

自分の生きた平成という時代を、令和という新時代にはより良い社会に変えていきたい。


きっとそんな想いはいつの時代も、誰の胸の中にもあったものだろう。

それは決して過去にだけ囚われていては気づくことの叶わない想いだ。


「これから大変だな」


彼が曽祖母や祖母の背中に、その生きた時代に憧れたように、変化を恐れず未来を求める姿は次世代の目には眩しく映る。

その強烈な生き様はそれを見る次世代の行く道を自然と示す。


そして、これからはそんな背中を彼が見せていかなければならない。


新しく生まれた命を思い出し、そして平成に眠った偉大な背中を思いおこしながら彼は覚悟を決める。


「そろそろ……時間かな?」


ポケットの中に入れたスマホがバイブ音を立てた。

恐らく、母からの連絡だろう。

彼は腕時計を見て呟く。


「親族が集まるんだから遅れちゃダメだな」


今日は親族が一堂に会する日。

遅れるわけには行かない。


「……じゃ、僕は帰るよ」


喪った大切な人たちと、今も息づく確かな想い出。

彼の知らない平成よりも前の時代を生き抜いてきた先祖達に今一度思いを馳せ、墓石に背を向ける。


令和のりかず


時が止まる。


彼の名が、呼ばれた。


聞きたいと切望し、けれども二度と聞くことの叶わないその声に体がびくりと跳ね上がって足が止まる。


「……うん」


返す声が震える。


間違いない。

間違えるはずもない。

今の声は、彼が幼い日に確かに聞いた愛しい声。

今ではもう、思い出すことさえ難しくなっていた遠い昔に聞いた声。

彼にその名を与えた人の声。


「ひいばあちゃん……」


振り返りたい気持ちを必死で抑える。

振り返ってしまったら、曽祖母が本当にそこにいるかどうかの答えが出てしまう。

でも、答えは知りたくない。


「分かってる……」


曽祖母はもういない、声をかけてくれるはずなんかない。

そんなことは彼にもわかっている、分かっているけれど……。


それでも一抹の夢を見ていたい。


もしかしたら、そこに来てくれているのかもしれないという一抹の夢を。


「うぅ……」


想い出が溢れようとしてくる。

とっくの昔に諦め、この10年という時間の中に置き去りにしてきた「逢いたい」という思いが胸を突いて溢れようとする。

今振り向いてしまえば自分も子供の姿に戻って曽祖母の元へと走っていけるような幻想に、喉元からせり上がってくるものがあった。


「……っ!」


胸が痛くなるくらいの想いが溢れ、流れる涙は拭えど拭えど止まらない。

けれど彼は口を固く結ぶ。


「ふぅ……」


深く吐く息と共に、あるはずのない逢瀬への欲求と期待を咀嚼する。

それは悲しみではない。

喪失感でもない。

ただ、とても……とても温かいものに溶かされた涙が次から次へと流れ落ちてくる。

彼はその頬を濡らす涙の雨をそのままに目を瞑り数秒、あるいは数分。


「…………よし」


どれだけの時間が過ぎただろう。

やがて彼は小さく呟き、再び目を開ける。

その真っ赤な目元には、既に雫は見られない。


もう、彼は過去に囚われていない。

過去に縛られ、変化を恐れていた彼はもういない。

彼の名を呼ぶ声が聞こえた、その意味を彼が取り違えることはもうない。


「じゃあ、は行くね」


彼の胸の中で膨らみ、今にも弾けようとしていた哀愁はもう感じない。

ただ、穏やかな優しさに満ちた声音でそう言うと、彼はもう滲むことのない春の景色の中へと足を踏み出す。


それは明治に生まれ、大正に育ち、昭和を生きて、平成に眠った曽祖母への言葉。


決してお別れではない。

曽祖母にお別れを告げることは二度と出来ない。

それは去りゆく平成、彼女の眠る時代への別れの言葉だ。


「……」


もう、声は聞こえない。

いや、さっきの声さえ幻だったのかもしれない。

けれども彼は振り向かない。

確かめない。

ただ、足を前へと進めていく。


平成は去っていく。

子供の頃、はるか先の未来だと思っていた平成の終わりが驚くほどに早く来てしまったように、これからの時間もあっという間に流れることだろう。

そしてその未来に、曽祖母や祖父母達はいない。

みんな過ぎ行く平成の時代に留まりつづけ、令和れいわへ、そしてその先の時代へと漕ぎ出していく彼をただ見送るだけ。

曽祖母達が彼の知らない時代を生きたように、彼は曽祖母達の知ることの叶わなかった時代を生きていく。


その平成の終わりに、見送りに来てくれた曽祖母にはどんな背中に見えたのだろうか。


「あ……桜が……」


強く風が吹き込む。

思わず目の前に掲げた手の先に、桜の花びらが舞う。


「花吹雪……」


桜が踊る。

緑の増えた丘を囲む桜の木から、まるで一世一代のハレ舞台のように無数の花弁が風に乗り、舞い踊る。

それはまるで歩み去る彼を先祖達が送り出してくれているようで、新たな時代が彼をいざなっているようで。


「行ってきます」


彼はその花吹雪に身を揉まれた。


時はただ静かに流れていくのみ。

過去を憂い未来を待てども、その流れの速さは変わることはない。


かつて偉い人はこう言った。

『未来はためらいながら近づき、現在いまは矢のように早く飛び去り、過去は永久とわに静かに立っているのみ』、と。


平成は過ぎていく。

静かに立つ明治、大正、そして昭和とともに、未来へと漕ぎ出す彼らをただ見送らんとしている。


新時代がやってくる。

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