第9話

 翌日、デイヴィッドはパブリック・ライブラリのある記事に目を留めていた。この壊れつつある世界で、ただの一人も死者を出していない町があるという。レインフルークスという町だ。それは、人里離れた田舎で昔ながらの生活を続けている非常に貧しい町であった。野菜を作り、虫を育て、自給自足に近い生活を数十年に亙り連綿と続けている。ある意味で社会から隔絶されているその町は、イデオロギーの面で敵を作ることはもちろん、誰かから狙われることなども決してないのだろう。

 レインフルークスの記事をぼんやり目で追いかけながら、体験ファームでトレイシーに言った言葉を思い出していた。あの時は、何の気なしにどこかで読んだ話を思い出しただけであったが、どこか、引っ掛かっていた。もし、この一連の事件? 事故? 騒動が、本当にテロリズムでも陰謀でもいかなる武力行動でもないのであれば、都市生活の何かが、電気と機械とシリコーンチップに埋もれた生活の何かが、突然の死を引き起こしているということも考えられなくはなかった。その昔、似たような事件を引き起こしたアメリカの巨大食品会社があったというようなことを、聞いたことがあった。たしか、小説や映画にもなっていたはずだ。


 その町で式を挙げようと言い出したのはトレイシーだった。二人の知っている身近な街は、どこもかしこも葬式と喪服で溢れ返っていたし、招待できるような親戚や、喜んで祝福してくれる友人もほとんどいなかった。生き残っている人間は、誰も彼もが疑心暗鬼と不安で下を向いて暮らしていたのだから。


 そこには、世界が忘れ去って久しい〈日常〉があった。人々は笑い、育て、慈しみ、些細なことで小さな諍いを起こしてはすぐに肩を抱いて許し合い、涙を流して暮らしていた。レインフルークスでは、大きな争いや、ましてや戦争の真似事が起こるようなことは、決してなかった。冷凍庫やマイクロウェーブはもちろん、コンピューターもネットワークもない、ウェアラブルを身につけている人間を見つけることもできなかった。それどころか、電気すらも通ってはいないのであった。日が暮れれば眠り、夜明けとともに目を覚ます暮らしは二人には想像すらできなかったが、レインフルークスに滞在した三日間の間に、デイヴィッドだけでなくトレイシーもすっかりここの暮らしに魅了されていた。

 三日目の夕方、二人はささやかな結婚式を挙げた。二人は無宗教だったが、小さな教会で永遠の──人類が滅びるかもしれない近い将来までのほんの束の間の──愛を誓った。牧師は異教徒の二人を心から祝福してくれた。貴金属の指輪は手に入らず、二人は村で手に入れた木製の指輪を交換しあっただけだったが、それでも良かった。二人は口づけをゆっくりと交わし、きつく抱き合った。どこからか、二人の頭上に花びらが降ってきた。いつの間にか、村の人々が集まっていた。幸せな笑みを浮かべ、口々におめでとうの言葉を述べながら、花びらを二人に浴びせかけた。


 それは、一種の進化であったのであろう。高度に管理された農場で集約的に飼育され、工場で画一的に処理されるグラスホッパーは、決して悟られることなくその捕食者を殺害できるよう、体組織の構造を変化させていったのだ。進化したグラスホッパーの体内では、その命を落としてから約二十四時間後にキニーネ毒の合成が始まる。五体が揃っている状態であろうが、すり身の状態になっていようが、化学変化の推移には影響がなかった。まるで呪いの込められた念のように、それは誰にも気付かれることなく細胞の奥深くで徐々に形を取り、捕食者の体内に入ると初めてその効力を現したのだ。毒物混入を調査する抜き取り検査でも、厳しい検疫を通ってもその成分は検知されることがなかった。流通に多少の時間差があったとしても、その毒素は人間の口に入る直前までは効果を現出させることはなかった。人間の手では決して排除されぬよう、念入りに進化したのだから。


 その後、文明世界がどうなっていったのかは、想像に難くない。だが、デイヴィッドとトレイシーがそれを知ることはなかった。二人はそのままレインフルークスに留まり、二度とアスファルトの地面を踏むことはなかった。三人の子供たちと十四人の孫に恵まれ、デイヴィッドは九十六歳まで生きた。トレイシーは百二歳まで生きた。


 そんな村が、この地球上には数十箇所存在していた。だが、これが人類の歴史にとって新たな夜明けであることを知っていたのは、ただの一人としていなかった。


(完)

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プロテイン・パック 淡波亮作 @awaryo

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