第8話

「なあ、トレイシー、結婚、しないか?」

「何よ急に」捕虫網を斜めに構えて今しもフィールドへと突進しようとしていたトレイシーは、いつもより半オクターブ高い声を発して肩越しに振り向いた。

「事件……戦争? これからどうなるか分からないだろ」

「うん」

 既に世界人口はかつての半数を切っていた。今、しかない。デイヴィッドはもう、タイミングを待つのは止めようと決めていたのだ。今、もしトレイシーに拒絶されれば、これから先、結婚したいと思うことはないという確信があった。拒絶されることはない、と判断する決め手はなかった。それでも、同じものを食べ、同じ風景を見ている時間が、二人の間にあった目に見えぬ何かをすっかり溶かし、流し去っていた。デイヴィッドには、そう思えたのだ。

「一緒にいられるうちにさ、一緒になろ」

「うん」

 ほんの数秒も待つ必要はなかった。何の判断も必要がない軽い会話のように、トレイシーが答えた。こんなに大事な返事なのに、デイヴィッドはつい、聞き返してしまった。

「それ、イエス?」

「うん」

 今度は力を込めて言い、トレイシーは大きく頷いた。

「そうか!」

 デイヴィッドは草原へ駆け出し、白い捕虫網を振り回した。上空では、その大きな口を閉じた黒い腹のホエールが、悠々とファームを通り過ぎて行った。


「あれ、ホエールって言うんでしょ?」

「空のやつ、な」

「最近、多いよね」

「そうだな。俺も最近まで知らなかった。インセクトの大群が出ると、出動するんだってな」

「うん。それ、最近、大群が多いってこと?」

「ああ、きっとあの黒いやつの行く先には、大群がいるんだ」

「ご馳走を捕まえに行くのね」

「ああ……、もしそのまま食べられたら、ご馳走だな」

「違うの?」

「ほとんどはプロテイン・パック、加工食品、それから保存食品用になる。つまりあいつは腹一杯にプロテインを詰め込んで、そのまま工場に直行ってわけだ」

「もったいないね、わざわざ不味くするために大量に捕まえちゃうんだ」

「あいつらの寿命は短いからな、大量発生の後は大量死が待ってる。ホエールに食われなければどっかで落ちて、死んで腐るだけだ」

「そ。じゃあま、しょうがないか」

「プロテイン・パックばかり食ってグルメ気取りの奴らだってそれこそ腐るほどいるからさ、それでいいんだよ」

「で、そういう人たちから、テロの犠牲になっていく」

「まあ、テロリストがどうやって毒を仕込んでいるかは分からないけど、本当の意味で食を大事にしていない人間から、犠牲になっている。そんな見方もあるよな」

「デイヴ、それは言い過ぎ。何を食べさせられているか分からない子供たちに、罪はないよ」

「ああ、それはそうだな。親と大人たちの責任だ。でもな、もしかしたら……、一部の学者が言うように、本当にそうやって、地球自身が生態系のバランスを取り直そうとしているのかもしれない」

「地球がテロリスト?」

「はは。地球がテロリストね……。だから人類がさ、地球にとっては排除すべき対象かも、ってこと」

「それが、地球にとってのバランス、ね」

 トレイシーは慣れた手付きでヒラリと網を振り、一匹の赤いグラスホッパーを捕らえた。

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