残夏(6)
あの日以来、男が墓地に現れることは、後藤が知る限り二度となかった。空になったベンチを覆う豊かな葉の天井が、長らくともに過ごした客人を失い、寂しげに揺れる。亡き級友が前触れもなくいなくなってしまったように、男もまた、忽然と姿を消してしまった。
とはいえ、男が全くなにも残さなかったかと言うと、そうではない。彼がいつも大事そうに抱えていた白い長封筒が、少年の墓碑の前に横たえられていたのだ。それが男自身が置いたものなのか、はたまた男を知る他の誰かが置いたものかは分からない。けれども後藤には、この手紙は男自身が自らの手で少年に捧げたものに違いないと思えた。そうであってほしかった。
男がいなくなったことを知ったその日、丁寧に糊付けされた封筒の表に、これまでなかったはずの“佐伯”の字を見出した後藤は、思わず笑みをこぼした。彼は封を切ることなく、線香を上げようと持ってきていたライターで火をつけ、手紙を燃やした。封筒の切れ端に記された達筆の文字列が、ほんの一瞬後藤の目前をひらりと舞って、炎に溶けていった。
男がいなくなってようやく、後藤は彼の名前を知ったのだ。
男が姿を消した後も、後藤は墓地に通い、亡き級友の墓に線香を上げることをやめなかった。少年を悼んでのことか、あるいはあの男を待っているのか――今になっては後藤自身にも分からない。ただ、導かれるようにしてここに足を運び続けている。
季節は廻り、今年もまた、墓地に夏が訪れる。ベンチの背を守るようにして立つプラタナスの葉が青々と輝き出すのを見ると、あの男のことが思い出された。彼は今どこで何をしているのだろうか。それとも、病に負けて、とっくにこの世からはいなくなってしまったのだろうか。後藤は、一度も当人に呼びかけることのなかった二人の名前を口の中で転がしつつ、鮮やかな夏色へと変わりゆく空を仰いだ。
ふと――背後から肩を叩かれた後藤は、不思議に思って振り返る。そこには誰の影もなかった。ただ、プラタナスがしゃんと立っているだけだ。彼は妙な心地になった。確かに、肩を叩かれたようだったのだが……
「嵯峨さん」
口をついて出たのは、言葉を交わしていた頃には知ることもなかった、あの男の名だった。背筋のまっすぐな木が、肯くように葉を揺らす。そのひょうきんな様子に、後藤は声を上げて笑った。木の葉の音も、笑っているようだった。
その日から後藤は、自販機で買ってきた緑茶をベンチの端に置き、その隣に座って墓を見つめるようになった。彼の姿は、傍から見れば奇妙なものだったかもしれない。けれどもそれは、彼が――いや、“彼ら”が亡き少年にしてやれる、最高の弔いだった。
夏は過ぎ、人は去ぬ。たとえそれらが形を失っても、遺された者たちは、去った季節を決して忘れない。苦悩であったり、懐かしみであったり……失われたあの夏の欠片は、彼らの胸のなかでくすぶり続ける。
後藤は、心を焼くじりじりとした痛みの正体を探ることをやめた。それは今や、彼と少年、そしてあの男を結びつける、たった一つのよすがなのだから。
空になったベンチに微笑みかけた後藤の内には、今も、儚い夏の残滓が煌々と輝いていた。
残夏 ハシバ柾 @fall_magia
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