残夏(5)

 温い雫がアスファルトを叩き、煩わしく自転車の車輪に絡みつく。

 久方ぶりの雨雲が町にやってきたのは、後藤が忘れ物を取りにと大学を訪れた帰り道のことだった。彼はあわてて紙類をビニールで包み、ペダルをこぐ足を早める。

 夏休み前はならいつも往復していた大学から家までの道のり。なんなら、目をつぶっていたって家に辿りつける――そう思っていた後藤は、いつもの墓地の表に立ってはじめて、自身が家路から外れていたことに気が付いた。大粒の雨に、靴の中までびしょ濡れにされてしまったあげく、道まで間違えてしまうなんて、ひどい日だ。

 途方に暮れた後藤は、仕方なく駐輪場に自転車を止める。

 駐輪場から短い階段を上った先の事務所は、カーテンが閉められているらしく薄暗かった。手前にある自販機だけが、駐車場の濡れたアスファルトをぼんやりと照らし出している。こんな日に墓参りに来る客もいないだろうに、けなげなものだ。

 事務所ででも雨宿りさせてもらおうと、階段から駐車場へと上がった後藤は、まさかとは思いつつ、男と並んで話したベンチの方を見やった。青々とした葉の天井に覆われた、濡れたベンチ。見慣れた猫背をそこに見出した後藤は、願望から現れた幻覚かと戸惑い、何度も目をこすった。けれども、彼の姿は変わらずそこにある。傘も差さずに、木の葉からこぼれる雨粒を受けながらも、まっすぐに墓の方を見つめるまなざし。

 ――彼だ。

 考えるより先に、後藤は駆け出していた。傘がないのは、彼も同じだった。


「何やってるんです、びしょ濡れじゃないですか!」


 駆け寄ってきた後藤に、男は小さな咳で答えた。二人の頭上で、雫を受け止めた大きな葉がぱたぱたとはしゃぐ。


「なにって、墓参りや」


 男は平然とそう言うと、後藤に向けて微笑んだ。その短いまつ毛から雨粒がこぼれる。後藤は、途中のコンビニで傘を買ってこなかったことを悔やんだ。


「そうじゃなくって……ああもう、事務所でタオル借りてきます。待っててください」


 ビニールで包んだ荷物をベンチに放り、身を翻そうとした後藤を、男の手が引き止める。脱力した細い指先は、それでも後藤の手首をしっかりとつかまえていた。 


「拭いてもすぐまた濡れてしまうやろ」


「それもそうですけど……いやいや、ここにいちゃダメですって。身体に響きますよ」


 後藤がそう諭すのにも、男は首を横に振るばかりだった。

 男一人残して自分だけ雨宿りするのを心苦しく思った後藤は、ズボンに水の滲みる不快感に眉をしかめつつも、おとなしく彼の隣に腰を下ろした。身体が冷えていく分、自身の吐息がやけに熱く感じられる。

 思えば、後藤の手首を掴んだ男の手もひどく冷えていた。雨の冷たさが、夏はもう終わりつつあるのだと囁いているようだ。

 ちょうど、男の方も後藤と同じことを考えていたらしかった。


「ひとの心をかき乱しては、嵐のように去っていく。なんとも不思議な季節やなあ」


「夏の話ですか」


「そう。去る時は後も残さん。あの少年と同じように」


 その言葉の冷ややかさは、この前会った時に感じたそれによく似たものだった。けれどもこのとき、天から注(そそ)がれる雨のしずくが、まるでガラスの輪郭を伝っていくように男の言葉をなぞり、彼の心の深くにあったものを後藤に垣間見せた。男の呪い――他でもない彼自身に向けられた自責の念と、深い後悔を。

 男と、彼が失った友人との間に何があったのか。後藤にはそれを知るすべもなければ、知る必要もない。後藤の目に映るのは、自分で自分に釘を打ち、動けなくなってしまった哀れな男の姿だけだった。

 かつて、亡き友人に“合わせる顔がない”と言った彼は、今も墓前に赴けず、このベンチに囚われたままでいる。もしかすると、これからもずっとそうしているつもりだったのかもしれない。まだ互いに言葉を交わす前の、一人、このベンチから墓を見つめていた男の姿を思い返した後藤は、物悲しさに襲われた。

 夏は過ぎ、人は去ぬ。それらが在った痕跡さえ、やがては木枯らしに吹き流されてしまう。茶色くしなびた葉に、誰が夏の面影を見出すというのか。


「……本当に、そうなんでしょうか。俺にはそうは思えませんけど」


 後藤のつぶやきは、無情に流れていく時間への、ささやかな抵抗のようにも思われた。

 たとえ秋が訪れて木の葉を落とし、冬が訪れて辺り一面が銀色に染め上げたとしても、そこに佇む人々は、夏が過ぎたことを知っている。かの季節がそこに在ったことを覚えている。 


「確かにあいつは、笑顔の写真さえ遺さずにいなくなってしまいました。でも、何にも残らなかったわけじゃないでしょう? だって、俺やあなたが、ここにいるじゃないですか。あいつのことを……五年前の夏の終わりを、“あいつ”がいなくなった事実を、ちゃんと覚えているじゃないですか」


 男は答えなかった。青々とした葉の輪郭を滑り滴った雫が、彼のこめかみから伝い落ちていく。うつむいたままの彼の表情は判然としなかったが、その頬を流れる雨の雫は、涙のようにも見えた。


「ずっと一人でここにいたから、あいつのことを覚えているのが自分だけみたいな気がしてたんでしょう。俺もそうなんです。通ってるうちに、あんなやつ存在してたのかなって思えてきて……。ごちゃごちゃ考えて、余計にわけ分かんなくなってました。でも、“縁”って言葉を思い出して、はっとしたんです。ほら、はじめて話した時にそうおっしゃってたじゃないですか。あれですよ。あれで、何もかも腑に落ちたというか」


 今は亡き級友に引き付けられるのが“縁”のためなのだとしたら、後藤が男を目に留めたのも、彼に声をかけたのも、何かの“縁”によるものに違いない。

 そもそも、後藤が誰の墓を目当てにここにやってきているのか、ずっとここから墓を見つめていた男ならば、知っていたはずなのだ。同じ相手を悼み、心を悩ませる者であると、気が付いていたはずなのだ。


「お願いします、教えてください。あいつは――佐伯は、どうして死んだんですか」


 男はしばらく黙り込んでいたが、ふいに傍らの杖をとり、立ち上がった。その背中は、これ以上踏み込まれることを拒むようなそれだった。

 男のことがようやく分かりかけてきたというのに、こんな形で別れるのはあまりにも寂しい。後藤はあわてて男に頭を下げる。


「待ってください! ……すいません、気を悪くしたなら謝ります。さすがに今のはなかったですよね。申し訳ありません」


 後藤がそう言うのにも、男は振り返ろうとしなかった。木陰から一歩踏み出した彼の肩に、雨粒が容赦なく突き刺さる。


「いかんなあ。そちらさん、話せば話すほどに私の若いころに似て見える」


 そう言った男の声は震えていた。彼はやはり後藤に背を向けたままだったが、それは、後藤に対して憤っているからではないらしかった。

 男の立ち姿も、もう、いつものようにしゃんとしてはいない。後藤にはなぜだか、弱々しく頼りないその後ろ姿こそが、男の本当の姿であるように思われた。 


「前にも言ったように、彼の気持ちは、彼にしか分からんのや。そうであるからこそ、そちらさんもここに通っているのやろ。私と同じに」


 それが、後藤が彼から聞いた、最後の言葉になった。

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