残夏(4)
夏休みはじめの月曜日。早々に級友の墓に参った後藤は、例の弁当屋で買ってきた二人分の弁当をぶら下げて男を待った。
待ち人は、正午を少し過ぎた頃、杖を突きつつ現れた。男はようやくベンチに辿りつくと、疲れ切った様子で身を預ける。これまでは杖に頼らずとも歩くことができていたというのに、どうしてしまったのだろうか。
「具合、良くないんですか」
「大丈夫、いつものことや。近頃は、薬のおかげで力が抜けてしまって」
後藤が気遣うのにも、男は笑ってみせるだけだ。後藤はいっそう不安になったが、男自身の口から病状が芳しくないと告げられることもまた恐ろしく思える。何とも言いかねた彼は、あれこれと訊ねる代わりに、男の分にと買っておいた弁当を差し出す。先週話題に上がった、“月曜の”日替わり鮭弁当だ。
「これは?」
「“木曜の”鮭弁です。よろしければどうぞ」
この一言で、男は後藤の意図を察したらしい。彼は弁当を受け取ると、嬉々としてふたを取った。やはり力は入らないのか、その手は震えている。後藤が気を利かせて割ってやった割り箸も、脱力した彼の手からはあっさりと滑り落ちてしまった。男が大丈夫と繰り返して微笑むさまを見た後藤は、いたたまれなくなった。
「つらいですよね。不便でしょうし……俺にできることがあれば、なんでも手伝わせてください」
「そうやなあ。じゃ、それを貰ってもかまわんかいな?」
男が指したのは、中華スープ用にとそえられたプラスチックフォークだった。男は後藤からそれを受け取ると、不器用ながらも片手で握りしめる。
「これなら握れる」
男のその言葉を聞いた後藤は、自分の言動があまりに失礼だったことに気づき、情けなくなった。
身体が不自由になってしまった彼の姿は、後藤の目に、“哀れ”に映っていた。これまで当たり前にできていたことができなくなる――若く健やかな後藤には、想像もつかない感覚。だからこそ後藤は、男自身が、うまく動かない自分の身体を忌み、嘆いているものだと思っていた。けれども彼は、そんな後藤に対し、まだ自分の力で立つことができると示してみせたのだ。
不思議と、後藤の無意識に謝罪の言葉は浮かばなかった。謝られるべきであるはずの当人が、そんなものを求めていないように思えたためかもしれない。
「変わっとらんなあ」
男は不器用に解した鮭を口に含むと、懐かしむように目を細める。その横顔は嬉しそうでありながらどこか物悲しくもあり、隣で見ている後藤をおかしな心地にさせた。
「学生の頃を思い出しますか」
後藤がそう問いかけると、男が不思議そうな顔をした。何かおかしなことでも言っただろうかと慌てる後藤の姿に、男はからからと笑った。
彼は、視線だけで亡き友人の墓を示すと、こう言った。
「ああ、なるほど、なるほど。少し前の話と言ったのは、本当に少し前の話だからでな。今でこそこの辺りに暮らす身ではあるけれども、私がここにやってきたのは、ほんの数年前なのやで。ただ、思い出の味と言われればそうかもしれん。一人ではすぐに食事を忘れてしまう私のために、何度か、彼が買ってきてくれてなあ。それも、決まって“木曜の”鮭弁当を。彼は、夕飯が食べられなくなるからと、並でなく小弁当ばかり……もともとあまり買い食いもせん子や、宅(うち)で夕飯を作って待っている母親を不安にさせたくなかったんやろな」
「優しかったんですね、その方」
「優しかった。優しすぎたくらいや。――自分自身以外には、とても」
その一言は、平生穏やかな男の口から出たと思えないほどに、冷たい音をもって響いた。その言葉に隠された真意を知らない後藤の肌がも、ぞわりと粟立つ。何がこの男にこれほどの怨みを抱かせているのか――訊ねてしまえば、自身も同じ淵を覗くことになるように感ぜられ、後藤は唾を飲んだ。
頭上を覆う木の葉のざわつきが、尻尾に静けさを引き連れて、風とともに抜けていく。残された静謐は、これまで男との間に感じてきた静けさよりも、いくぶん気詰まりなものだった。出るはずだった軽口が、喉の奥で解け消える。代わりにこぼれたのは、これまで胸に秘め続けてきた、亡き級友に対しての思いだった。
「……俺がいつも墓参りに来てる相手のクラスメート、自殺だったんじゃないかって言われてたんです。それが本当なのかただの噂なのかは、多分だれも知らないと思うんですけど。かわいそうですよね、まだ若いのに。あいつが何で死んだのか、ずっと気になってるんです。本当に自殺なのだとしたら、何を思ってそんなことをしたのか、とか……何がしてやれたかとは考えたことないんですが」
後藤はそこまで言い、乾いた唇を舐める。男がどんな顔をしているか見る余裕など、今の彼にはなかった。まるで、見逃された罪でも告白しているような心地だ。
「なんていうか、ずっともやもやしてるんですよ。生きてる時と、死んだ後の相手の扱いが自分の中で全然違ってて、なのにその理由も分かんなくて。どうしようもないからこんな風に墓参りしてるんですけど、それでもまだ……」
後藤の言葉は、ときおりふつりと途切れた。普段の饒舌さを捨て、ひとことひとことを吟味し、慎重に紡いでいるのだ。傍らの男はそれを分かってくれているらしく、急かすことなく後藤の話に耳を傾けている。
「申し訳ないと思ったわけじゃないです。いじめられてるのを見てるだけだったことなんかは、ちょっと申し訳ないと思いましたけど、それくらいです。直接俺が何かしたわけじゃないし。……でも、そうだなあ……生きてる間に、名前くらい覚えておきたかった」
うつむき、目を閉じた後藤の眼裏には、うっすらと、かの級友の姿が浮かんでいた。生きていた時の顔はうまく思い出せないが、遺影の笑顔がこわばっていたことは覚えている。もしかすると、教室でもあんな顔をしていたのかもしれない。
透明人間のようなあの少年は、笑顔の写真さえ遺さずにいなくなってしまった。誰に理由を告げることもなく、あまりにも突然に。
「もしかすると、俺、あいつのことが知りたいのかもしれません。それも、今のじゃなくて、生きているときのことを。本人が生きてる時はどうでもいいと思ってましたし、今さら知ってどうするんだって話ですけど。……これってやっぱり、あいつが死んだから気になってるだけなんでしょうか」
後藤にはまだ、自分がどうして亡き彼を気にかけるのか分からずにいた。それが分かれば、この墓参りもいつかは終わるのかもしれないが。その答えが“人一人いなくなった衝撃にうろたえているだけだった”という情けないものであっても、目の前の男の口から告げられるならば、素直に受け入れられる気がした。むしろ、そう言ってほしかったのかもしれない。
けれども男は、やんわりと問い返すだけだった。
「そう思うかいな」
「分かりません。けど、俺があいつの墓参りをしてる理由がただの好奇心だっていうなら、苦しいです」
「どうして」
後藤は言葉に悩んだが、緊張でからからになった喉に冷めた中華スープを流し込むと、ため息とともにこう答えた。
「それが一番悪いことであるような気がするんです」
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