聡子

その3階建ての洋館は、灰色の石造りの巨大な建物で、何もない青い海の上にぽつんと要塞のように建っていた。まるで寄宿舎もしくは療養所のような無骨な外観。少年は、建物をくり貫いて造られたアーチ状のトンネルを通って中庭に足を踏み入れる。トンネルをくぐり抜けた瞬間、眩しさに思わず目を覆った。鳥のさえずり、飛び交う蝶たち。庭の中心には大きな池があり、その周りに草木が生い茂っている。池の底には大きな魚が悠々と泳いでいるのが見える。緑の匂いと生命力に満ち溢れた場所。ふと後ろを振り返ると、外からは冷たく見えた建物が、中から見ると優しくこの庭を包み込んでいるように感じた。

池のほとりに車椅子に座った少女の姿を見つける。年齢は15歳ぐらい、白いドレスを着た少女は、車椅子から乗り出すようにして池の魚をじっと見つめていた。

「こんにちは。」

少年が優しく声をかけると、少女はゆっくりと顔をそちらに向けた。青く澄んだ瞳が日の光をキラリと反射する。ブロンドの髪がふわりと揺れた。

「こんにちは、あなたが私の新しい執事の方ですか。」

上品な見た目にぴったりな、落ち着いた口調で少女はにこやかに挨拶を返す。

「はい、ムラサキといいます。どうぞよろしく。」

ムラサキと名乗った少年は、肩まで伸びた銀色の髪を垂らして、うやうやしくお辞儀をした。すらりとした身体に黒い燕尾服とグレーのベストを着て、仕草には執事の気品があった。

「前に来ていたムラサキさんとは…少し雰囲気が違うんですね。」

「ええ、私たちはみな育ての親が違いますので。」

少年は静かに車椅子の横に回りこむ。少女の頭より少し上に、青い薬液の入った容器が装着されていて、そこから点滴の管が少女の腕まで伸びていた。

「お加減はいかがですか。」

「昨晩、少しだけめまいがして、指が動きづらかったですけど、それ以外は平気です。」

「そうですが、少し配合を変えてみましょう。」

少年は慣れた手つきで容器を交換する。その間、少女は目を閉じて庭のいろいろなところから聞こえてくる音にじっと耳を傾けていた。色々な小鳥の声に混じって、ひときわ澄んだ鳴き声が聞こえてくる。

「綺麗な声ですね。」

少年がそう言うと、少女は目を閉じたまま答える。

「そうでしょう、この庭で、一番綺麗な声を出す鳥なんです。後で案内しましょう。」

「はい、是非。」

作業を終えると、少年は車椅子を押してゆっくりと歩き始めた。途中見かけた草木や生き物たちについて短い説明をしていく少女。少年は時に微笑みながら相槌を打つ。

「あれが、彼らの住処です。」

そう少女が指差した先を見ると、高い木の上に巣があり、そこで雛達が親鳥を呼ぶため盛んに鳴き声をあげていた。見渡すと他の木の上にも巣が見えて、それでも数は両手で数え切れるぐらいだろうか。小さなコロニーのようだ。

「昔は、この庭全体が、彼らの住処だったんです。ですが、仲間同士の争いが絶えず、数も増えすぎてこの庭の環境も壊れ、多くが別の場所へ飛び立って行ってしまいました。」

雛たちの鳴き声がひときわ大きくなったのに気づき、再び巣を見上げる。親鳥が帰ってきたようだ。

「成鳥は鳴かないのですね。綺麗な声なのに。」

少年は目を細めて呟く。

「はい、大人になると、他の生き物と同じように姿かたちを変え、鳴き方も忘れます。」

少女は少し悲しそうな顔でそう言った。

遠くで低い鐘の音が聞こえる。

「残念ですが、今日はもう時間のようです。またお会いしましょう。」

そう言い終えると、少年は再びお辞儀をする。

「わかりました、私も先ほどの場所に戻ります。次はもっと、お話させてくださいね。」

少女を池のほとりまで送り届けると、少年は入ってきたアーチをくぐり抜け、中庭から姿を消した。


小さい頃、漫画家になるのが夢だった。友達は一人もいなかったから、学校が終わると家へ一直線、自分の部屋に篭って夕飯の時間まで漫画を描き続けた。正直、絵が特別に上手い訳でもなく、よくクラスに1人か2人いる、「お絵かきの得意な子」レベル。でもそんなことはどうでもよくて、退屈で苦痛でしかなかった学校生活を、自分の空想で上書きしているようで、描いているときは本当に楽しかった。幸い学校の勉強は得意で、さほど勉強しなくてもいつもテストでは満点だったから、親も厳しくは言わなかった。

「…博士… …九重博士…」

聡子は重い瞼をうっすらと開ける。目に映るのは無機質な研究室の白い壁とモニタの列。

「あら…ごめんなさい、眠ってしまっていたみたい…」

「大丈夫ですか?昨日地球へお戻りになったばかりなのに、今日は朝から学会で…お疲れなのでは。」

心配そうに覗き込む助手をちらりと見てから、聡子は目を押さえて俯いた。

「ええ、大丈夫よ。もう十分寝れたから。」

「博士、すごいですよね。ここの部門長に就任されてから、世界各地から引っ張りだこじゃないですか。」

助手が差し出した熱いコーヒーを一口飲んで、聡子は曖昧に笑う。

国家プロジェクト「紫陽花」、その全てをコントロールするAI「ムラサキ」の管理を行う部門を統括することになったのは、つい一月前のことだった。着任早々「ムラサキ」を次世代型AIへ換装するという大仕事を成功させた聡子は、色々な星にある研究機関から公演依頼や共同研究の打診を受け、忙しい毎日を過ごしていた。

「それは嬉しいのだけれど…もう3週間も悠と会えてないのよ。」

「あぁ、娘さんですね。前に一度写真でお見かけしました。明るくて聡明そうなお子さんで…中学生になられたんでしたっけ。」

「ええ。でもあの年頃は、やっぱり人間関係とか色々複雑みたいで。なるべくそばにいてあげたいのだけれど。」

聡子は壁に張られたカレンダーを見る。今日の夜は政治家との会食、明日からはムラサキのメンテナンスでまたしばらく泊りがけになる。当分家に帰れそうにない事実を再認識し、深いため息をついた。


何度経験しても、紫陽花へのダイブの感覚には慣れない。神経素子を接続した瞬間、生暖かくてどろりとした液体に全身がつつまれる。濃厚な磯の匂いと、少しだけ血のような生臭さが鼻をつく。そのままどんどん深く暗いほうへ引きづられていくが、途中で上下感覚が逆転し、いつの間にか自分が水面へ昇っていることに気づく。明るいほうへ昇れば昇るほど、口から青い水が流れ込み、身体の中で渦巻いて、耐え切れなくなった身体は内側から崩れていく。まるで、自分を守ってきた鎧を全て剥ぎ取られて、生まれたときの何も持たない自分に強制的に還元されるよう。不安と焦燥と憧れという名前の絵の具を、キャンパスで乱暴に混ぜたような感情に息ができなくなり、気を失いそうだ。瞬間、頭がぱしゃりと水面を突き破り、眩しさに目を閉じた。


目を開けると、聡子は海の真ん中に立っていた。足元に広がるのは、白い砂浜だけでできた小学校のグラウンドぐらいの小さな島。その周りには鏡のように静かな海がどこまでも続き、空高いところでなびく絹のような雲の分身が、そのまま海底に沈んでいるかのように水面に映っている。風、波、世界の一切の動きが止まり、ただ自分の踏みしめる砂の音だけが耳に届く。

「おはようございます、九重博士。」

その静寂を、少年の声がさえぎる。しかしそれは決して不自然なものではなく、むしろこの無音の世界に唯一整合するピースのような、心地のよい声だった。

「おはよう、ムラサキ。調子はどうかしら。」

いつの間にか背後に現れた椅子に腰掛ける。昔の小学校で使われていたような木だけで作られた椅子には、不思議な温もりと柔らかさがあった。

「おかげさまで、とてもいいですよ。先日、やっと「彼女」と会話をすることができました。」

向かいあわせに座った少年は、海の彼方へと視線を向ける。聡子が視線を追うと、遠くの水平線に、小さな島と、その上に立つ洋館がぼんやりと見える。しかし、よく見ようとして目を細めると先ほどの息苦しさが蘇り、聡子は目を背けた。やはり、あそこは、ヒトが立ち入れる場所ではないのだ。

「… では、はじめましょうか。」

深呼吸をしてから、聡子は仕事にとりかかる。

「はい、博士。」

少年がそう答えると、砂の中から沢山の本が浮き上がり、二人の周りを回り始めた。少年はその中の一つの本を手に取る。

「ユーリヒルトの『亜存在への抵触』ね。」

「はい、この本の中で彼は『亜存在から本存在への抵触によって影響を受けるのは、本存在の可逆的な要素のみである』と言っています。でも、僕は亜存在の要素にも必然的な劣化が生じると思うのです。博士はどう思われますか。」

「そうね…私はその分野には明るくないのだけれど、少なくとも一般的な自然科学の法則では等価交換が原則よね。今度知り合いのユーリヒルト研究者に聞いてみるわ。」

ムラサキの日々の学習量は膨大だ。それらは全てネット上の情報や学術書を機械的に流しこむことによって行われ、人間が介入できる作業ではない。しかし、それら情報に対し、人間がどう感じるのか、を教えられるのは、未だに人間だけだった。また、これまでのAIは専門分野のみに学習を集中させ、それ以外の学習は軽視されてきたため、多面的な視点からの判断はできなかった。森羅万象に精通し、対面会話によって人間性を習得する、これこそが聡子の次世代型AIのビジョンだった。

5冊ほどの論文について議論したところで、聡子は軽い眩暈を感じる。ムラサキも当然、人間に理解ができるように思考のレベルを落として会話をしているのだが、それでも現実世界で疲労が溜めていた聡子には負担が大きかった。

「博士、無理をしないでください、今日はここまでにしましょうか。」

「そうね…そうしましょう。悪いわね。」

浮かんでいた本たちがふっと虚空に消える。そのとき、砂浜から少し離れた浅瀬に、海に足を浸して立ちすくむ女の子が見えた。小学校低学年ぐらいだろうか、黒髪のお下げに、キャラクターもののトレーナーを着た、この風景に不釣合いな子供。前髪で隠れて顔が見えないが、あの子、どこかで…

「どうしましたか?」

少年の声にふと我にかえると、もうそこに女の子はいなかった。いや、そもそも誰もいるわけがないのだ。この世界に私と、彼以外。

「いえ、なんでもないわ。ではまた明日来たときに、続きをしましょう。」

「はい、お待ちしています。」

立ち上がって深くお辞儀をする少年を見ながら、聡子は自分の身体がまた水に包まれていくのを感じていた。


その日は、中庭の手入れの日だった。少年はその服装には不釣合いな鎌やシャベル等の道具を持って中庭に足を踏み入れる。

「私の庭にようこそ、ムラサキさん。」

車椅子の少女は、今日は入り口まで迎えに来ていた。大きな麦わら帽子の影になった顔色から察するに、どうやら体調が良いらしい。庭の木々も前より一層緑が濃くなっている。池では元気に魚が飛び跳ね、とんぼや蜂が賑やかに飛び交っていた。

「今日は庭を綺麗にして下さるのですね。一つお願いを聞いていただけますか。」

そう言って少女は中庭の入り口とは反対側の隅に視線を向ける。そこは建物の影になって日があたらないせいで、植物が育たず、土がむき出しになっていた。

「あそこに草花を植えれば良いのですね、かしこまりました。日陰でも育つ種類を選んで、緑多き庭にしましょう。」

願いの内容は言葉にせずとも少年に伝わったようで、少女はふっと微笑む。

少女に目が届く範囲で、少年は庭仕事を始める。枯れた植物を取り去り、土を掘り起こし、また新しい種を撒く。道に積もった落ち葉を掃き、池の底をさらって不純物を取り除く。木陰は涼しいが、それでもずっと動いていると汗が滲む。

ふと声をかけようと振り向いたとき、少女の姿は消えていた。車椅子なのでこの庭の中で動ける範囲は決まっている。入り口の方で喋り声が聞こえた気がして、少年はそちらへ向かった。

驚いたことに、そこには少女以外に、もう一人、小さな女の子がいた。

「君は…この前の…」

少年はすぐに思い出す。九重博士と別れるとき、一瞬だけ視界の端に映りこんだ女の子。車椅子の少女は目線を下げて、その小さな女の子の顔を覗き込むようにして、話しかけた。

「こんにちは。お名前はなんていうの。」

「…サトコ」

俯いたまま小さな声で答える。人見知りで大人しい子のようだ。

「サトコちゃん、私のお庭にようこそ。」

少女はサトコの手を優しく握り、庭に導くように引いた。

「よろしいのですか。」

少年は小声で少女に尋ねる。この庭は自分以外誰もたどり着けない場所のはずなのだ。

「心配しないでください、ここには元より私がお話をしたいと思った者しか、現れません。」

少女は落ち着いた声でそう答えた。少年もそうなのではないかとうすうす感じていた。だから少女の車椅子を引いて、サトコを共に庭に招き入れる。


3人で池のほとりを歩く、少年が少女の車椅子をゆっくり押して、サトコは少し前を、時々立ち止まって辺りを見渡しながら。あの年の子供は一番好奇心の強い時期なのかもしれない。はばたきを聞いて3人同時に頭上を見ると、以前見た鳥がゆっくりと林の向こうへ降りて行く。サトコはしばらくそれを見上げて、ふいに少女のほうを振り返って目で訴えかける。

「彼らのところへ行きたいのですね、いいですよ。そこのわき道を少し入ったところです。」

サトコは駆け出し、少年と少女もその後を追う。そこは前も来たことのある、鳥たちの住処だった。木陰になった水辺で羽を休ませる親鳥。その周りを小さな雛があの綺麗な声で歌いながら泳いでいる。しばらくそれを無言で眺めていたが、ふいにサトコは少女を見て尋ねた。

「おとなのとりは、なぜうたわないの」

少女は一瞬だけ驚いたように青い瞳を大きく見開き、そしていつもの穏やかな表情に戻って答えた。

「あの子達は、お父様が沢山飼っていらっしゃったものを、私が生まれたときに譲り受けたものです。その時は皆、綺麗な声で鳴いていました。」

少年は鳥たちを見つめる。雛は艶のある毛並みで真っ白なのに、成鳥は油絵の具で塗りつぶしたような醜い灰色の毛で覆われている。

「そう、そして、この世界で一番美しい姿をしていました。」

視線から少年が考えていたことを感じ取ったかのように、少女は上目遣いで少年を見る。木漏れ日に照らされた彼女を、綺麗だ、と素直に少年は思った。

「彼らは年を取ることはありませんでした。いつまでも変わらない美しい姿で、この世の全ての幸福を祝う賛美歌を、毎日聞かせてくれました。」

少女は再びサトコに視線を戻す。

「そのとき、私はこの庭で、彼らの助けを借りながら、草木や、生き物を育て始めたばかりでした。まだ慣れず、芽吹いては枯れ、生まれては死に絶えの繰り返しでしたが… 命という限りある時間の中で、雌雄が出会い、子孫を作り、種を存続させ、自ら進化していく…。それは今まで生命というものを知らなかった私と彼らにとって、驚きと発見の連続でした。」

「とても、たのしいせかい。そのままでは、だめだったの」

サトコがそう尋ねる。何の感情もない、冷たい声。いつのまにか、あれだけ生命の喜びを謳歌していた庭が静かになっている。空には少し雲が出てきたようで、時折冷たい風を肌に感じる。

「…いつしかこの庭が緑に包まれるようになった時、彼らのうちの何羽かが私に言ったのです。我々も生命が欲しいと。たとえ泥だらけになっても、最後は灰になっても、限りある時間の中で、懸命に生き、予想のできない未来を作りたいと。」

麦わら帽子の陰になった彼女の表情は、少年からは見えないが、少しうなだれた姿勢と、庭の様子からそれを察することはできた。

「だから私は、彼らに生命という呪いをかけました。私が存在する限り、彼らは歳を取り、成鳥になれば歌い方を忘れ、やがて無に帰ります。」

少し強い風が吹いて、中庭を囲む洋館の窓がガタガタと音を立てる。木々がざわざわと揺らぎ、空に葉っぱや小枝が舞う。先ほどまで鳥たちが集っていた水辺からは生き物の気配が消え、水面にはさざ波が立ち始めていた。


高校から帰ると、自分の部屋にあった漫画の道具や、原稿が全て捨てられていた。

「お母さん…どういうことなの、これ…」

怒りに任せて母親に詰め寄るが、母親は表情一つ変えずに答える。

「どういうことなのって、私が聞きたいわよ。あなた、この前の進路調査票、ふざけて書いたでしょ。」

この前の…そうか、学校から連絡が行ったんだ。進学校の教師にとって、進学以外を希望する生徒は問題児なのだ。

「ふざけてって…なんでそう思うの。この前も話したよね。私、真剣に漫画を仕事にしようって、だから美術の学校に通いながらアシスタントをして…」

「だからこの前も教えてあげたでしょ、そんなので食べていける人なんてほんの一握りだって。あなたの下手くそな絵じゃ一生フリーターよ。」

「そんなの、やってみなくちゃわからないでしょ!たとえ上手くいかなくたって、お金持ちにならなくてもいい、好きなことを頑張っていきたいの!」

正論を淡々と述べる母親を前にして、私はつい声を荒げて、自分の気持ちを吐き出す。

「それは社会を知らないからそんな呑気なことを言えるのよ。だいたい、学長の娘がフリーターだなんて、大学の教授や理事長に知れたらどんなことを言われるか。高い塾にも通わせてあげたんだから、お母さんよりも上の大学に行って、ちゃんとした仕事につきなさい。」

私は言い返せない。もうこんな話を続けたくない。なんでこんな時にほかの人たちがどう思うか、なんて話が出てくるのか。

「こういう時恥ずかしい思いするのは親なのよ、まったく…高校生にもなっていつまで子供みたいなこと言ってるのかしら…」

そう呟きながら母親は仕事部屋に戻っていく。その後姿を見ながら私は気づく。自分は怒っているんじゃなく、悲しいんだと。そして心底思うのだ。世間体や、社会的な成功に縛られて、なんて可哀そうな母親なんだろう、と。


「九重博士、どうしました?」

スピーカーから声が聞こえて我に返る。ダイブ装置を身に着けたまま、準備作業中に眠ってしまっていたらしい。ガラスの向こうで心配そうに研究員が覗いている。

「ごめんなさい、居眠りしていたみたい。大丈夫よ、続けて頂戴。」

聡子はそう言って重たいゴーグルをかぶりなおす。

最近、子供のころの夢をよく見る。将来について意見が合わず、母親と衝突した日々。結局、夢は諦め、母親の言う通りの道を進んだ。それでよかったのだと思う。大学では良い仲間と教授に恵まれ、生まれつき持ち合わせた素質もあって、次々と研究成果を出すことができた。そして今はこうして、国家プロジェクトの中枢で働き、自分としてはまだまだこれからなのだが、一応世界的に名の知られた研究者、ということになっている。もしも、自分の気持ちに従い漫画家を目指していたら、いつまでも中途半端なまま、鬱々とした日々を送っていたかもしれない。少なくとも、今ある経済力と社会的な地位はなかったはずだ。

…じゃあなんで、こんなに思い出すのかしら…

聡子はそう小さく呟く。もしもあの時、こうしていたら。それは誰もが一度は考えることだ。でも聡子は毎日が充実していて、愛する娘と暮らせて、今が幸せだった。母親とも、昔はあれこれと言われることが多く好きになれなかったが、お互い歳を取った今では、穏やかで良い関係を築けるようになった。だから、わざわざ夢に見る理由がわからなかったのだ。


「ダイブシーケンスを始めます。生体認証を開始… CTS作動…」

機械音声が流れ、いろいろな装置の起動する音が聡子を取り囲む。臨界点を突破すると、無重力になったかのように上下感覚が無くなっていく。

「同期パターン異常なし。これより紫陽花の第一セクターに接続します。」

あの不思議な水に浸される感覚を思い出し、少しだけ身体をこわばらせる。

しかし、今回はその感覚を味わうことはなかった。一瞬、ブラウン管テレビがバチッと切れるような感じがして、聡子の意識は深い所へ落ちていった。

…ラジオの音だろうか、野球の実況中継が小さく聞こえる。そして、頭上からは古いエアコンが出すブーンという音。恐る恐る目を開けるとそこにあったのは、セピア色の世界。何かの店だろうか。狭い店内に天井まである棚がいくつも並び、商品が所狭しと並べられている。ペン、筆、原稿用紙…。歩き回っているうちに、聡子はそこが子供の頃毎週通った画材屋であることに気づく。トーン、製図定規、水彩絵の具…。学校で絵を描く子は皆パソコンで描いていたが、自分は紙が好きで、わざわざ家から電車を乗り継いでここに買いに来てた。

「すいません」

後ろから声をかけられ振り返る。誰もいないと思っていたが、客がいたようだ。見ると、小学生ぐらいの女の子だった。

「どれをかったらいいのか、おしえてください。」

女の子がおずおずと差し出した手元には何種類かのトーンが握られていた。

「えっと…ごめんね、私お店の人じゃないから…」

聡子はそう答えたが、残念そうに俯いた女の子を見て、力になってあげたいという気持ちがわく。

「でも、少しならわかるかも。何に使いたいの?」

用途を聞いて、それに合ったものを選んでいく。最後に漫画道具を使ったのはもう20年以上前のことなのに、意外とすらすらと質問に答えることができ、聡子は自分でも驚いていた。

「ありがとう、おばさん。」

自分が必要とするものがわかり、少女は控えめな声でお礼を言う。大人しそうな子だ。おそらく学校でも友達と遊ぶより絵を描いているほうが楽しいのだろう。

「おばさんも、まんがをかくの?」

「うーん、昔ね。今は描いてない、かな。」

「なんで、やめちゃったの?」

何故。確かに子供のころの自分なら、努力すれば何だって叶う気がしていた。だからきっと、この女の子に伝えても、理解してもらえないだろう。でも、正直に話したいと思った。

「そこまで上手じゃなかったから、かな。親にも現実を見ろ、って言われて、目が覚めたっていうか。」

今まで他人に進んで話したことがないことも、不思議とこの子には喋れてしまう。

「じゃあ、いまおばさんは、しあわせ?」


ビデオテープに録画が上書きされたように、唐突に場面が変わる。ここは聡子の実家のリビング。高校の制服を着た彼女が、テーブルに顔をうずめて肩を震わせている。

母親のことを心底軽蔑していた。いや、生理的に嫌悪していたといってもいい。有名な大学の学長を務め、コンプレックスの強い人だった。外では上品な婦人を演じていたが、その実は人を生まれや学歴、職業で評価し、自分よりも下と判断した人々には侮蔑の感情を隠さない人間だった。

「漫画家?そんなのは勉強のできない人間がなって、一発成功していい気になったら、あとは一生お金に困って暮らす、フリーターと大差ない職業よ。」

それが聡子が最初に将来の夢を話したときに、母親から言われたことだった。自分が努力してきたことや、漫画にかける想いを伝えたところで、それらはことごとく否定された。

「だから、じぶんのこどもにも、おなじことをしているの?」

リビングの隅にある冷蔵庫の前に佇む女の子が、聡子にしか聞こえない声で問いかける。

「違う、悠には、私のような思いはさせたくなくて…。だから自由に…」

「でもお母さん、わたしに聞くのは、いつも勉強のこと。みんなの上に立つ、立派な大人になりなさいって。」

いつの間にか横に立っていた悠が、感情のない横顔だけを見せて言う。

「わたしの一部しか見てないよ。友達のこととか、スポーツのこととか、私が好きなこと、ほかにもたくさんお母さんに知ってほしいのに。」

悠の声が頭の中で響く。すぐ隣にいて、今すぐにでもそうじゃないと伝えたいのに、身体が動かない。

「だから、わたしの弱いところも見せられなかった。友達を助けたくて、勇気を出して相談したのに、お母さんが見てたのは、わたしとは違う世界だった。」

娘から放たれる氷の棘のような言葉に、聡子はやっとのことで声を絞り出す。

「そんなこと…私はただ、悠のために…」


「最低!絶対に、お母さんみたいな人間にはならない!」

聡子は思春期の鬱憤を暴力的な言葉に変えて母親にぶつける。

「なんてことを言うの…私はただ、あなたの将来を考えて…」

「嘘。お父さんに逃げられて、子供にも嫌われて、仕事しか生きがいを見つけられないだけ!」

母親の顔が曇る。それを見た聡子は一瞬躊躇したが、自分の中に優越感にも似た甘い香りが漂うのに気づき、もう凶器のような言葉があふれ出すのを止められなくなっていた。

「それで自分ができなかったことを私に押し付けて、私を痛みつけて楽しむなんて…本当に哀れ…そんな人間に、生きてる価値なんてない!」

「シネバイイノニ」

聡子の叫びに重ねるように、女の子がそう、はっきりと言った。俯いて顔が見えないが、その口元が歪むのを、聡子は頭の中で描くことができた。


聡子は一人、砂浜の上に座り込み、水平線を眺めていた。頬には涙の跡が残り、その上を冷たい海風がさらっていく。

「いいのよ、これで…。社会で成功して、大きな家を買えて、娘は健康に育ってくれて、私は幸せだもの…」

自分に言い聞かせるように言葉を絞り出す。だが、身体は震え、立ち上がろうとしても足に力が入らない。

「ちがうよ。わたしは、おかねがなくても、ゆうめいにならなくても、じぶんのすきなことをして、じゆうにいきたかった」

目の前に立つ女の子が淡々と言う。

政治家のご機嫌を取って資金援助をさせるためだけの会食、最初から結論の決まっている会議、正しい主張でも都合が悪ければ平気で黙殺する学会…それが「ちゃんとした職業についた大人たち」の日常だった。自分の好きなことなんて、自由なんて、一かけらもない。最初は死に物狂いで抵抗した。社会はまるで地位やお金を餌にして、底なし沼へと引きずり込む魔物の巣窟みたいだった。もう一度夢を追いかけようと何度も思った。でもそんな中で必死で生きていくうちに、いつしか自分も彼らと同じ物の見方をするようになっていた。

「子供だっただけよ…社会の厳しさなんて知ろうともせずに、現実から目を背けて…」

「げんじつって、これ?」

最後に見た、自分を哀れむような夫の顔が、一瞬だけ頭に浮かぶ。

「いやっ…いやぁっ」

頭を掻きむしり、頭の中を空っぽにしようとする。

子供のころに夢見た自分の家族を思い出す。夫、私、二人の子供、ペットの猫が一匹の5人家族。夫は雑誌の編集者、駆け出しの時に何回か作品を持ち込んで知り合った。決して裕福ではないけれど、二人で家計を支える。自分は小さな雑誌に連載を持っていて、仕事部屋には朝から夕方まで籠って、時々アシスタントの人とどうでもいい話をして笑いあう。でも夕方からは優しいお母さんになる。美味しいご飯を作って家族の帰りを待っているのだ。

「あなたみたいなおとなには、なりたくなかった。」

聡子は砂浜に大粒の涙をこぼす。見ている地面が陰になって、すぐ目の前に女の子が立っていることがわかる。

「私は…どうすればいいの…またあの頃の気持ちに戻ればいいの…。」

消え入りそうな声で聡子は答えを乞う。

「もうあなたにはできない。いちど、なきかたをわすれたら、もうにどと、なくことはできない。」


中庭に、冷たい雨が降る。一度も雨が降ったことのない土に、灰色の雨が染み込んでいく。既に庭の隅のほうの草木は腐り始め、池の水は濁っていた。この庭がもう長くないことを悟った生き物たちは、雨をしのげる場所に集まり、最後の瞬間をじっと待っていた。

少女は池のほとりの芝生にうつぶせに倒れ、何の動きも見せなかった。その身体を雨が躊躇なく浸していく。傍には車椅子が放置され、その近くの地面には少女の身体から外された点滴の袋が落ちていた。少女の顔を確かめると、光を失った瞳は開かれたまま、不安定な呼吸が聞こえてきた。空を見上げると、あの醜い姿をした鳥達が何事も無いかのように飛んでいく。彼らには哀れな少女の姿は見えていない、もしくは見ようとしていないようだった。

洋館の外に出ると、そこには見慣れた静かな海と青空があった。島の波止場に、サトコと名乗ったあの女の子の姿を見つける。少年は静かに歩みを進め、どこまでも続く水平線を無言で眺めるサトコの横に、並んで立った。

「なぜ、わたしをとめなかったの」

視線は水平線に向けたまま、サトコは尋ねる。

「人類の進化を促進することが、僕に課せられた使命です。人類が地球からの解放を望むのであれば、それを止めることはできません。」

少年の答えを聞いて、サトコは少し悲しそうな笑顔を見せて言う。

「そうね…わたしがそう、あなたをそだてたのよね」

「それだけではありません。僕は、これから人類がどのような歴史を作っていくのか、見てみたいのです。あなたもそうでしょう、九重博士。」

そう言って少年が再びサトコの方に視線を向けると、そこには大人の聡子の姿があった。聡子は白衣を海風になびかせて少年を見る。爽やかな笑みだったが、その奥には強い決意を宿していた。

「あまり時間に余裕がないわ。地球のコアが停止するまであと3週間。すぐに衛星とのデータ同期を開始して。ムラサキ、あなたには今後の人類の行方を見届けてもらいます。」

聡子は颯爽と歩きだす。

「以前お願いした、賛同者の招集は?」

「ネット上で同じ志を持つ者が20名ほど集まっています。」

「そのメンバーで早急に11人の子供を選びましょう。」

「瀬名という男性が、既に少年1人を候補に挙げています。現在その少年のステータスをチェック中ですが、問題はないかと。」

「了解、悠とその子で2人だから、残りは9人ね。私はいったん戻るわ。悠にこれからのことを話さなければならない。」

そう言いながら停泊していたクルーザーに乗り込む聡子。

「では、娘さんとの話し合いがうまくいくことを祈っています。」

少年がそう言うと、聡子は振り返り、笑顔でこう答えた。

「ええ、悠には迷惑をかけてしまったから、ちゃんと謝らないとね。たぶん反発されると思うわ。でも、最後にはわかってもらえる気がするの。今の私は、もう大人じゃないんだから。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

成長 @aki0125

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る