奈由紀
「ゆーちゃん、そっちはどう?」
奈由紀は手元で針を動かしながら、背中合わせで座る悠に声をかける。返事はない。悠はビーズになかなか糸が通らず、悪戦苦闘しているようだ。
「…ゆーちゃん?」
あまり邪魔しないほうがいいのかな…そう思い、恐る恐る奈由紀が振り返ると、
「イタっ」
そう甲高い声を出して悠が手を跳ね上げる。いくつかのビーズがばらばらになって床に落ちた。
「だ、大丈夫?」
奈由紀は急いで悠の手元を見る。幸い近くにあった縫い針に指が当たっただけで血が出ているとかはなさそうだ。
「よかった…あっ」
悠の机の上を見ると、フェルトで作った小さな動物マスコットが並んでいる。先ほど休憩を取ったときはクマとウサギだけだったが、オレンジ色のキリンがひとつ増えていることに気づいた。
「やったじゃん、かわいくできてるね!」
褒める奈由紀を上目遣いで一瞥した後、床に転がるビーズに視線を戻し悠はため息をつく。
「なっちゃん、わたし、もうむり…」
「え、なんで?」
「だって、ただでさえ動物ごとに作り方違って大変なのに、、一つ一つビーズで違う模様つけて、しかもそれを60個とか…小学生にはむりだよ…」
先ほどまで奈由紀が座っていた机に視点を向けると、そこには既に色とりどりのマスコットが机から落ちてしまいそうなぐらい並んでいる。そのどれもが不器用な悠が作ったものよりも出来栄えがよく、色使いも綺麗で、悠は疲労感がどっとくるのを感じた。
「がんばろうよ、ゆーちゃん。もう二人で半分はできてるんだし。それに、これは手芸部の伝統で、去年の6年生も2人でやったんだって。私たちならきっとできるよ!」
瞳をきらきらさせながら奈由紀は演説をするように鼓舞する。いつもはおっとりとして大人しいが、手芸のことになるととたんに熱血になってしまうのだ。
「そりゃなっちゃんは上手にできてるけどさ、わたしのは…」
悠は顔を机の上に乗せて、先ほどやっと完成したばかりのきりんを手に取って眺める。一応きりんには見えると思うが、足の付け根から綿が出ていたり、ビーズで作ったネクタイが首輪にしか見えなかったりと、お世辞にも上手いとは言えない。
奈由紀は首を横に振り、残ったクマとウサギを大事そうに両手で抱えながら言った。
「ううん、私のはただキレイなだけ。大きさも本の通りで、糸も飛び出てないけど、ただのマスコット。でもゆうちゃんのは生きてる感じがする。」
「生きてる…」
「うん、このクマさんはハチミツ大好きで優しい男の子、こっちのウサギさんはいつも飛び跳ねてる元気な女の子。」
悠は驚く。だってその子達を作っているとき、本当にそんなことを想像しながら作っていたから。
「そうかな…わたしはやっぱりなっちゃんみたく綺麗に作れるようになりたいな。」
そういいながらも、悠は褒められたことによる嬉しさを隠し切れないようだった。それを見た奈由紀はふんわりとした笑顔で言う。
「だいじょうぶだよ!ゆうちゃんならすぐ上手になるよ。あと半分ぐらい、私も手伝うから、二人でがんばろう。」
二人が出会ったのは小学校5年生の春、この手芸部の部室だった。この学校では5年生から部活動が必須になるが、放課後は友達と公園で遊ぶことが日課だった悠は、どこの部にも入っていなかった。男子に混じって遊び、毎日砂だらけで帰ってくるわが子を見て、少しでも女の子らしいことをさせようと母親に入部させられたのが手芸部だった。部員は少なく、自分を含めて4人。そのうち2人が6年生で、残りの一人が同じ5年生の奈由紀だった。初めて会ったとき、「手芸部がとてもよく似合う女の子」だと思ったのを覚えている。黒髪のツインテール、眼鏡、マイペースな言動、笑うと周りにお花畑が見える…。
奈由紀は1年のときから活動していて家でも裁縫をするらしく、その時には既に部で一番の腕を持っていた。全くの初心者だった悠は毎日奈由紀から手芸を教わるようになり、自然に二人は友達となった。
放課後になり、二人は川岸の遊歩道を並んで歩いていた。
「あ、そうだ。この前先生から聞いたんだけど、南中に行く子、私たちだけだって。」
澄んだ寒空に浮かぶ綿のような雲を見上げ奈由紀が言う。赤いランドセルの横には自作のマスコットがいくつか揺れている。
「そうなの?」
「うん、3組に加藤さんっているでしょ、あの子受験するんだって。」
「ふーん。そうなんだ。」
二人の住む街は学区の割り当てが小学校と中学校で異なり、同じ小学校でも数人が別の中学へ行くことになる。その数人になってしまった二人だが、それでも一緒の中学に行けることはお互い心強かった。
体操着を入れたナップサックをボールのように蹴り上げながら悠が呟く。
「…でもふしぎだね」
「何が?」
奈由紀が尋ねると、悠は少し岸を上がったところにある公園でサッカーをする子供たちを見つめていた。
「手芸部入った時、こんなのすぐやめてやる、って思ってた。でも、なっちゃんと一緒に作るのが楽しくて、いつのまにかもう卒業だよ。」
「ゆうちゃんは、やっぱりサッカーとかの方が楽しい?」
ずっと心のどこかで気になっていたこと。悠は運動が好きで、性格も明るくて、外で遊ぶ友達も沢山いる。奈由紀が今まで仲良くなった子とはだいぶ違っていて、もしかしたら親に言われたから我慢して自分と一緒にいてくれるのではないか。
その考えが伝わったしまったのか、少し不機嫌そうに悠は答える。
「そんなんだったら、もう他の部活に入ってるよ。うちの親、文化系のだったらなんでもいいって言ってたし。」
悠がまた前を向いて歩き出したので、少し後ろを奈由紀も着いていく。
「ごめんね、変なこと聞いちゃって。」
申し訳なさそうに視線をそらして笑う奈由紀。横目でちらりと見て、悠は自分ももう少し優しい答え方をするべきだったか、と反省する。
「そうだ、なっちゃん、本屋よってかない?この前かしてもらったマンガの続き、出てるみたいなんだ。」
雰囲気を変えようと、悠は寄り道を提案する。
「うん、行こう。私も手芸の本、今月号買いたいから。そういえばあのマンガって…」
再び横に並んだ二人は、話題に花を咲かせながら、膨らみ始めた桜のつぼみの下を歩いていった。
それぞれ欲しい本はすぐに見つかり、まだ時間もあったので二人は立ち読みコーナーに行くことにした。この本屋では売れ残った古い雑誌を店の一角に集め、近くにソファを置くことで休憩がてらそれらを読めるようにしている。いつもは小学生向けの雑誌しか探さないのだが、今日は女性誌の棚の前に立つ二人がいた。
「みてみて、ゆうちゃん。この人すごいキレイだよ!」
目を輝かせながら奈由紀が見せてきた雑誌には、バラの飾りが沢山ついたワインレッドのドレスを身にまとったファッションモデルが写っている。
「あぁ、うん…そうだね…」
悠は苦笑いをしながら一応同意するのだが、正直あまり興味が無い。というか、こんなに装飾があると動きにくいのではないだろうか、と妙に現実的な心配をしてしまう。
きっかけは今二人が貸し借りしている少女漫画だった。主人公の地味で貧乏な少女が、あるきっかけでファッションデザイナーの男性の家に居候することになる。居候を認める条件として自分を着せ替え人形のように扱う男性に抵抗を抱く少女だったが、いつしか二人は惹かれ合っていく。前の巻では、男性がデザインしたドレスを着て、別荘のあるプライベートビーチでプロポーズされる場面で話が終わっていて、続きを心待ちにしていた。
悠は足元に平積みされていた一冊に目を留め、両手で持ち上げる。表紙には水色に透き通った海と白い砂浜の写真。「夢を叶える 南の島で結婚式」そう書かれた雑誌はいわゆる結婚情報誌のようだ。
「なっちゃん、これ。マンガで出てきたところみたい。」
「ほんとだ~。ね、すわって読もう。」
二人でソファーに座りページをめくる。波打ち際と遠くに見えるヨット、大きな実をつけたヤシの木、砂浜に埋もれた貝殻、そんな写真が次から次へと目に入ってくる。そして結婚式場として作られた建物だろう、白い石造りの建物が砂浜に建てられ、そこから沖へ一直線の伸びる桟橋の先には、木で作られた六角形の屋根がついた建物が海に浮かんでいる。
二人はつい時間を忘れて、その写真に見入ってしまう。
「いいなぁ~」
最初に声を出したのは奈由紀だった。それにつられて悠も素直な感想を口にする。
「うん、ステキだね。」
「私ケッコンするなら、こんなところがいい。」
遠くを見るような瞳で言う奈由紀。
「なっちゃん気が早すぎ。まだ私たち、やっと来月中学生になるところだから。」
そう答える悠も、胸がときめいていることを隠しきれていない。二人にとって恋愛は少女漫画の中だけのファンタジーで、現実で男の子を好きになったり、ましてや付き合うなんて考えていなかった。でも、写真に写るどこまでも続く青い空と海を見ていると、自分たちが生きる先にも、いつか恋をして、デートをして、そして結婚するのだろう、と未知のものへの憧れに似た気持ちが芽生えていた。
「えへへ、そうだよね。でも、きっといつか、私もゆうちゃんも大人になって…」
「うん、それで、南の島に行って、こんな服を着て…」
ページをめくる度に、二人の夢は膨らんでいく。その日、本屋を出るころには、あたりはすっかり夕暮れで染まっていた。
卒業式の朝、少し早めに登校した二人は、マスコット作りの最後の仕上げに取り掛かっていた。既に完成したマスコットを「にゅうがくおめでとう」と大きく書かれた垂れ幕に縫いつけていく。慣れない制服を着て少し窮屈だが、今日までには終わらせなければならない。
「「かんせい~!」」
新1年生6クラス分の幕への縫い付けが終わると、二人は同時に歓声を上げてその場に座り込む。
「よかったぁ。わたしのせいでぎりぎりになっちゃって、間に合わなかったらどうしようって思ってた。」
部室の黒板に貼り付けられた幕にぶら下がるマスコット達を見ながら、悠が安堵のため息を漏らす。
「これで1年生の子たち、この学校が楽しそうって思ってくれるといいね。」
そう言って奈由紀は微笑む。結局マスコットの3分の2近くを作業の早い奈由紀が作ったが、悠も垂れ幕の作成でかなり貢献することができた。1ヶ月近い作業が終わった充実感と、部室とも今日でお別れという寂しさが混ざり合い、二人はしばらく無言で黒板を見つめる。
「…じゃあわたし、先生に言って…あれっ」
部室を出ようと立ち上がった悠は、足元にどの幕にも縫い付けられていないニワトリのマスコットが落ちているのに気づく。完成した幕には確かに60個のマスコットがついているから、どうやら自分が一つ余分に作ってしまったようだ。
「どうしよう、この子、余っちゃうね」
「うーんと…そうだ。」
何か思い出したというように奈由紀は自分の道具箱の中を探り始める。しばらくして出てきたのは黄色いヒヨコのマスコットだった。最初に試しに作ってみて、結局使わなかったものだと言う。
「ゆうちゃん、この子達にお互いの名前を書いて、交換しようよ。」
「なっちゃん、それ、なんか卒業式っぽい…」
「あはは、卒業式だよ、今日。」
二人はビーズで自分の名前をそれぞれが作ったマスコットにひらがなで縫い入れていく。そして「なゆき」と書かれたヒヨコを悠が、「ゆう」とかかれたニワトリを奈由紀が受け取るように渡し合った。
「じゃあ、中学に行っても、よろしくね、ゆうちゃん。」
「うん、こちらこそ、よろしく。」
しんみりとした空気が二人の間に満ちて、それ以上どう会話を続けてよいかわからず、お互いに目を伏せる。ふいにあの日下校中にした会話を思い出し、少し迷ってから、悠は顔を上げて奈由紀を見る。
「なっちゃん、わたし…手芸部入って、なっちゃんと友達になれて、ほんとに良かったよ。」
奈由紀は一瞬はっとしたように目を大きくしたあと、すぐに首を傾げ、こぼれるような笑顔を向けた。
「うん、私も。ずっと友達でいようね。」
その瞳の端に小さな雫が光るのに気づいて、今日ちゃんと言えて本当によかった、と悠は思うのだった。
春休みに入って1週間がたった頃だった。それまで毎日の様に連絡しあっていた奈由紀からのメールが急に来なくなった。家族で旅行に行くと聞いていたこともあり、悠も最初の2、3日はそれほど不思議には思わなかったが、春休みが終わりに近づいても状況は変わらなかった。電話をかけると呼び出し音が鳴り続き、留守電になってしまう。お互いの家はそれほど離れていなかったため直接行こうかとも思ったが、しばらくすれば入学式で会えることもあり、結局奈由紀に会わないまま春休みは終わった。
入学式の朝、自分と違うクラス名簿に奈由紀の名前を見つけた悠は、少しがっかりしながらも、久しぶりに奈由紀に会えることに胸を躍らせながら奈由紀のクラスに向かった。
入学式が終わった後、悠は職員室にいた。校庭からは入学生とその家族の声がうるさいぐらいに聞こえてくるが、職員室は悠と教員が数名いるだけで静かだった。
「あぁ、月島さんと同じ小学校なのね…」
奈由紀は教室にいなかったし、卒業式にも出なかった。いてもたってもいられなくなり、奈由紀のクラスの担任に事情を聞いた悠は、職員室まで一緒に来るように言われたのだ。
「えっとね、家庭の事情でしばらくお休みするみたいなの。」
家庭の事情?中学生になったばかりの少女にはそこから察することは難しい。悠の何事もはっきりとさせたい性分もあり、更に詳しく聞こうとする。
「事情って、何ですか。月島さんとは友達で、春休みの途中から連絡が取れなくて心配なんです。」
「そうなの…でも…先生もよく知らされていないの…ごめんなさいね。」
穏やかな笑顔で教師はそう返した。まるであまり触りたくないものから目を背けるように、視線は悠の後ろにある黒板に向けられていた。悠は納得がいかなかったが、それ以上は聞かなかった。
帰り道に奈由紀の家を訪ねる。家の前に立つと、隣の公園から満開の桜の甘い匂いと花びらが風に運ばれてきたが、まるで春の暖かさからそこだけ取り残されたように、奈由紀の家は静寂に包まれていた。インターホンを何回か押したが返事は無い。窓のカーテンがすべて閉まり、いつも駐車場にあった軽自動車が見えないが、それ以外特別に変わったところはなかった。
「なっちゃん、どうしちゃったんだろう…」
桜の花びらが浮かぶ川岸を俯きながら歩く。学校が始まったら、お互いの春休みの間のことを話して、一緒に部活を決めて…たくさんやりたいことがあった。
…もう少し早く、春休みの間に会いに行ってれば良かったのかな…
来ないメール、担任の態度、以前とは違う自宅の様子…もう2度と会えないと分かったわけではないのに、どうしても悪い方向に考えてしまう。もしかしたら、自宅の敷地に入ってでも中の様子を確かめるべきだったのだろうか。
「いやいやいやっ」
悠は立ち止まり、暗い考えを消すために頭を横に振る。きっと旅行先で車が故障し帰ってこれないのだ、携帯電も偶然故障してしまっただけで、奈由紀は少し長い春休みを家族で楽しんでいるに違いない。自分でも少し強引とは思いながらも、悠はそう考えて奈由紀を待つことにした。
中学校の最初の授業は、母親から聞いていた通りアジサイについてだった。すでに悠ぐらいの歳になればみんながなんとなく知っている内容だが、全ての生徒が中学校入学時に履修することになっている。「紫陽花」それは一言で言えば地球の延命装置。
CGを使ったビデオでの仰々しい説明が始まる。悠にとっては小さい頃から母親から何度も聞かされてきた話で、肘をついて窓の外をぼんやり見ながら、退屈を紛らわす方法を考えていた。
およそ500年前、地球は瀕死の状態だった。幾度となく繰り返された核戦争、自然回復不可能なところまで進んだ環境汚染、止まらない人口増加による資源の枯渇…。亜光速航行技術と短期テラフォーミング技術の実用化と同時に、諸国は地球に見切りをつけ、太陽系外の惑星やコロニーへと散っていった。その中で、日本だけは違う選択をした。古来から地球や自然への信仰があり、一方で優れた放射能除去技術や燃料の再活性技術を有していたこの国は、太陽系外への進出は最小限に留め、母なる星の寿命を延ばし住み続けることを選んだ。そのために莫大な国費と時間をかけて建造されたのが紫陽花だ。相模湾の沖合、もとは大島があった海上に雲を突き抜けてそびえたつ巨大な姿は、悠の住む関東平野のほぼ全域から望むことができ、富士山と共に日常風景の一部になっていた。太陽エネルギーを集めるための巨大な6角形のパラボラを半球状にしきつめ、その半球を黒い円錐形をした本体の周りに複数配置しているため、遠くから見るとその名が示す通り、小さな花が集まり一つの大きな花を形成する紫陽花のように見えた。地下では三原山の火口跡を利用し地球のコアまで制御柱が降りている。人工知能によって決定される最適なプランに沿って、太陽のエネルギーを基に地球のコアに働きかけ、重力、地殻変動、気象等の星の活動を人間が居住できる状態にコントロールする。試行錯誤の末、なんとか地球環境は千年前のそれまで戻り、少なくとも日本列島では四季のある平和な日常を人々は送っていた。
ビデオはそこで一時停止され、初老の男性教師が壇上にあがる。
「はい、もうすぐ時間なので、今日はここまでにしときましょう。」
そう言って彼は机の上の書類を片付けようとして、ふと思い出したように教室を見渡し始めた。
「そういえば、このクラスでしたかね…九重さんはいますか。」
やっぱり知られているのか…。悠は小さくため息をついて手を挙げる。教師は頬を緩ませて悠に立つように促す。
「九重さんのお母さんはですね、有名な研究者で、紫陽花のAIの管理のお仕事をなさっています。」
どよめきたつ教室。ためらいがちに立ち上がる悠に、教師はしばらく称賛を送り続けるのだった。
入学式から2週間が過ぎ、4月も中旬になる頃。道には散った桜の花びらが積もり、公園の木々は少しずつ新芽を出してきていたが、まだ日が落ちると冷え込みは厳しい。同じ小学校の出身者がクラスにいなくて不安だった悠にも、ぎこちないが、新しい友達と呼べる存在ができ始めていた。
昼休み、校舎と裏山で日陰になった渡り廊下を悠は一人で歩いていた。なったばかりの体育委員として、集めたプリントを職員室に持っていくためだ。目の前の職員室がある建物からおぼつかない足取りで歩いてくる人影を見つける。
「なっちゃん!」
悠は髪を揺らして駆け寄った。持っていたプリントの数枚が地面に落ちたが気にしない。奈由紀は声に驚いたように身体をびくっとさせて、ゆっくりと顔を上げた。
「…ゆうちゃん…」
いつもよりも低くかすれた、消え入りそうな声だ。見ると、目の下には隈ができ、ストレートでツヤのあった黒髪はボサボサで結わいていなかった。
「なっちゃん、大丈夫なの?なんで学校来なかったの?」
他に言うべきことはあるはずなのに、今まで抑えていた不安が溢れだし、つい問い詰めるような言い方をしてしまう。奈由紀は再び顔を伏せて、表情が見えない。
「連絡…できなくて、ごめんね…。私ね…」
奈由紀の肩は震えていた。地面に涙が落ちるのを見て、悠はなぜもっと優しい言い方ができなかったのかと後悔する。深呼吸をした悠はゆっくりと奈由紀の片手をとって、自分の両手で包む。
「ひさしぶり、なっちゃん。」
もう、自分の一番の友達が何か大きなことに苦しんでいて、助けが必要なことは明らかだった。だから、彼女がなるべく安心できるように、優しく手を揺らす。奈由紀は時折肩を小さく上下させて、すすり泣く声を抑えられなくなっていた。悠は体育館倉庫の脇にあるベンチを見ながら尋ねる。
「…向こう、座ろっか。」
ベンチに座った後、しばらく泣いていた奈由紀は、ようやく落ち着きを取り戻したが、その瞳は虚ろで、表情から以前の温かみは消えていた。ベンチまで悠に手を引かれて歩く時も、心なしかふらふらしているようで、悠は何を聞いてよいのか、もしくは黙っているべきなのか、迷っていた。
「お父さんとお母さんがね、死んじゃった。」
急に奈由紀が発した言葉に、悠は何も返事ができなかった。先ほどまで校庭から聞こえていた賑やかな声が、遠ざかっていく。奈由紀は抑揚のない弱々しい声で、途切れ途切れに話を続ける。
「二人で…食事に行くって…車がぶつかって…。私も病院に行って…でも…」
そこまで話して再び口をつぐむ。悠は何と言えばよいのかわからず、奈由紀の膝の上に置かれた左手に、自分の右手を重ねる。
「…ごめんね、ゆうちゃん…しばらくいろいろあったから…メールとか、できなくて…」
悠は大きく首を横に振る。
「ううん、いいよ。」
本当は、奈由紀の心の傷を少しでもいやす言葉をかけたいのに、言葉が見つからない。こんな中身のない返事しかできない自分が、もどかしい。カーテンの閉まった奈由紀の家を思い出す。そうだ、両親を失って、彼女はどこで生活するのだろうか、ちゃんと食事を食べているのだろうか。
「今は、なっちゃんは、どこに住んでるの。」
その質問をした時、奈由紀の手が小さく震え、体温が下がったのが伝わってきた。一瞬の沈黙の後、これまでよりも更に小さな声で答える。
「…前と、同じお家だよ。親せきの人が、引っ越してきたから。」
親戚の誰かが奈由紀を引き取って面倒を見ることになったのだろうか。奈由紀の反応が少し気になりなるが、ちゃんと保護者がいて、しばらくは同じ学校に通えるということだろうか。
「そうだ、放課後一緒に帰ろうよ。明日の朝もなっちゃんの家まで迎えに…」
「ゆうちゃん、ごめん。早く帰るように、言われてるんだ。朝も、遅くなるから、大丈夫。」
奈由紀が悠の言葉を少し早口で遮る。今までそんな風に話す奈由紀を見たことがなかった。でもきっと色々な手続きで忙しいのだろうと、悠は自分を納得させる。
「そっか…」
そう悠が呟くのと同時に、午後の授業開始5分前を告げるチャイムが鳴る。
「あ、もう昼休み終わっちゃうね…ゆうちゃん、話を聞いてくれてありがとう…もう、大丈夫だから…」
ベンチから立ち上がる奈由紀。気のせいかもしれないが、最初よりも少しだけ声に温度が戻ってきたように感じられる。
「じゃあ、また教室行くから。メールもするね。」
悠がそう言うと、奈由紀が顔を上げた。今日初めて、悠は奈由紀の顔を正面から見る。瞼には涙の跡が残り、鉛色の瞳は光を映していなかった。
「…うん、またね、ゆうちゃん。」
最後に一瞬だけ弱々しく口元だけ笑顔を作り、奈由紀は渡り廊下の方へと静かに歩いていく。悠はその姿を遠目で追いながら、友達のために自分に何ができるのか、何をするべきなのか、考えていた。
奈由紀は学校には来るようになったが、休む日の方が多かった。教室に行っても休みか、保健室で休んでいることが殆どで、まともに話ができない日々が続いた。たまに校内で見かけると悠は必ず話しかけに行ったが、奈由紀の変化に動揺せずにはいられなかった。新しいはずの制服はしわが付き、綻びが目立っていた。目は生気を欠き、何かにおびえているようにいつも震えていた。
助けたいのに、何もできないもどかしさ。それに加え、悠には中学生になってから強く違和感を感じていたことがあった。「友達」という言葉が持つ意味の変化だ。クラスメイトとの人間関係は複雑になり、「普通」からこぼれないよう、嫌われないよう、いつもみんなピリピリしていた。表面上は仲良くしていても、蹴落として、自分のストレスのはけ口にできる人間を、常に探している。 まるでそれが生物として当然の行為であるかのように、誰もそこから抜け出せない。
嫌な想像が頭をよぎる。周りよりも遅れて学校生活を始め、みすぼらしい格好をし、自分以外の誰とも話していない奈由紀。その不安は何度振り払っても、いつのまにか悠のすぐ傍に佇んでいた。
その日、移動教室に向かうため、悠は廊下を同じクラスの友達と歩いていた。ふと奈由紀の教室を見ると、教室の一角に女子が集まっている。奈由紀の机だ。
「ちょっと、待って…。」
悠はそう友達に告げ、教室の入り口まで駆け寄る。
「どうして学校来たの?」
「てか、臭いんですけど」
教室内では聞こえても、廊下からは聞き取れないぐらいの声。顔は周りの生徒の背中に隠れて見えないが、確かに彼らに囲まれているのは奈由紀だ。
「月島さん、ちゃんとお風呂入ってるのー?」
「ねぇ、お金なくて制服買えないって本当?」
少女たちは次々に奈由紀に質問を投げかける。答えが欲しいからじゃない、答えられないのを楽しんでいる。
悠が反射的に教室に飛び込もうとしたとき、後ろから腕を掴まれる。
「…」
同じクラスで一番よく話す子だった。腕を掴んだまま、無言で首を小さく横に振る。
「なんで…!」悠は腕を振りほどこうとする。
「あの子たち、嫌われると、怖いよ。」
がしゃん
大きな音が教室に響く。振り返ると、少女たちの足の隙間から、床に奈由紀の筆箱の中身が散らばっているのが見えた。
「あーごめんね、腕当たっちゃったー」
静止を振り切り一歩を踏み出そうとした瞬間、悠の世界は急に青白くなった。声を上げようとするが、窒息したように息ができない。足も自分のものでないように動かすことができない。
昔のことを思い出していた。小学校4年生の冬、いつものように放課後公園で遊んでいると、傍を歩いていた中学生のグループの一人に、友達が投げたボールが当たってしまった。その友達はすぐに謝ったのだが、そのグループは難癖をつけ始め、泣きながら謝り続ける友達を見た悠はつい言い返してしまったのだ。それが原因で目を付けられてしまい、しばらくの間、放課後に待ち伏せされ暴力を受けたり金銭を取られたりということが続いた。母親に砂だらけになって帰ってくる理由を尋ねられ、サッカーで転んだと嘘をついた。
今、自分が行けば奈由紀を助けられるかもしれない。でも、自分はどうなる?
教室の他の生徒はみな、奈由紀の机の方は見ないようにして、無関心を装っている。誰も助けようとする者はいない。
…私が、行かなきゃ…
本当の自分は、確かに心からそう思っているのに、身体が言うことを聞かない。いや、そもそもどちらが本当の自分なのか。頭の中がぐちゃぐちゃになって、考えがまとまらないまま、床にしゃがみこんで筆箱の中身を拾い集める奈由紀と目が合う。
瞬間、目を逸らしたのは、悠の方だった。奈由紀の視線を感じながら、悠は友達を連れて教室から遠ざかっていった。
それから菜由紀の状況は少しずつ、でも確実に悪化していった。まるで小さな子供がおもちゃをどれだけ乱暴に扱えば壊れてしまうかを学ぶように、若しくは内気な少年が猫の首をどこまで絞めたら死ぬのかを確かめるように。体操服が無くなり慌てて探すと、泥で真っ黒になって机に詰め込まれていた。給食費を確かに給食委員に渡したのに、受け取っていないと言われた。後ろの席の男の子も渡すところを見ていないという。最初は遠巻きに様子を見ていた生徒たちも、黙って俯くだけの菜由紀を見て、一人二人とその輪に入ってくる。ある者は好奇心から積極的に、別の者は恐怖心から消極的に。見ない振りをする生徒も、自分が安全な立場にいることで安心感を得ている点では、輪の中にいるのとさほど変わりなかった。ただ、生徒たちは決して直接菜由紀の身体に傷をつけるようなことはしなかった。そんなことをすれば、大人が介入し、菜由紀を取り上げられてしまうことをわかっていたから。取り上げられたら、だれかがその役割を負わなければならないから。
なのに、いつしか菜由紀の身体には痣ができるようになった。制服の襟や靴下に隠れて普段は見えないけれども、菜由紀の「近くに」いる生徒たちは気づいていた。まるで、自分たちが怖くてできないことを、誰かが代わりにやってくれているような跡。しかも、菜由紀の持ち物を汚したり捨てたりした時にその痣は増えるようで、どんなことを学校ですれば痣は増えるのか、それが彼ら彼女たちの間で関心事となっていた。
一人で川岸の遊歩道を歩く。5月に入って日差しはだいぶ暖かくなり、並木は新緑に輝いていた。雲ひとつ無い青空をぼんやりと見上げながら、悠は自分の灰色の心と向き合う。
教室から逃げたあの日から、悠は菜由紀と話せていなかった。いや、話せるわけが無かった。菜由紀の教室の前を通ることさえ避けていた。何もできずに時間が過ぎていく。人づてに聞く状況に耐えられず、もう大人に相談するしかないと思ったが、教師には相談したくなかった。悠も、当時の小学校の担任に打ち明けたことがある。しかし、暴力から逃げられたのはほんの1,2週間だった。再び始まった時、中学生達は学校に言いつけられた怒りをぶつけ、暴力は更に過酷になり、悠は担任に相談したことを心底後悔した。
「てことは、お母さんか…」
母親は研究や学会で忙しく、殆ど家でゆっくり話せることは無かったが、ちょうどその日は政治家との会食がキャンセルになったらしく、久しぶりに夕食を一緒に取れることになっていた。今までのことを考えると、相談しただけで問題が解決するとは思えないが、何かヒントは見つかるかもしれない。木々の葉が風で音を立てる中を、少し早足で悠は進んでいった。
「「かんぱーい」」
母親はワインの入ったグラスを、悠は同じグラスにオレンジジュースを入れて、テーブルの中央でかちんと鳴らす。
「ごめんね、悠。最近全然ご飯一緒に食べれてなくて。」
「ううん、大丈夫だよ。忙しいのにありがとう、お母さん。」
テーブルには母親が作った料理が所狭しと並び、リビングは上品でかつ食欲をそそる香りで満たされていた。ハンバーグ、パスタ、ポタージュ…夕方大慌てで帰ってきて作り始めたにしては、見た目も綺麗でどれも手が込んでいる。どう考えても今日一晩では食べきれない量だから、きっと今後2、3日の悠の食事になるのだろう。
「中学校はどう?」
サラダを小皿に移しながら母親が尋ねる。
「全部通信で予習したところだから、簡単だよ。特に数学と英語は今中2のところまで先取りしてるから。」
母親が一番最初に確認することは、勉強が問題ないかだ。それを知っている悠は、用意してきた答えをすらすらと喋る。
「そう、良かった。頑張っていて偉いね。委員会は何になったの。」
悠はサラダがよそわれた小皿を受け取る、トマトとちりめんじゃこ、クリームチーズを手作りのドレッシングであえたお気に入りのメニュー。
「えっと、学級委員は他の子にとられちゃって、体育委員になった。」
「あらら、そうなの…悠は本当に運動が好きね。」
最後は少し呆れたような口調だったが、娘が中学で自分の教えたことを守って生活していることを聞いて、母親の機嫌は良さそうだった。悠の目を見ながら諭すように続ける。
「学校の勉強ってつまらないと思うかもしれないけど、今頑張っておけば、大人になったときに楽よ。それに委員会や部活でチームワークを学ぶのも大事。なるべく委員長とかを目指して、今のうちから色々なことを経験しておいてね。」
「うん、わかった。」
悠は笑顔で返事をする。母親の教育に対する意識は高いが、決して勉強一辺倒というわけではない。中学も、小学校の間はのびのび遊んでほしいという理由で、受験をせず公立に入ることになった。仕事が忙しくて頻繁ではないが、こうしてたまに家族の時間も作ってくれる。だから悠もこういった話をされるのを億劫に感じたことはなかったし、できるだけ彼女の期待に沿いたかった。
今度はためらいがちに口を開く。
「あのね、お母さん…菜由紀ちゃんって覚えてる?」
以前菜由紀が家に遊びに来た時に、何回か顔を合わせているはずだ。
「えっ…あぁ、月島奈由紀ちゃんね…」
そう答える母親の声はさっきよりも少しだけ上ずっていたが、悠は気に留めず話を続ける。
「うん。でね…」
奈由紀の両親のこと、学校での出来事を、ゆっくりと話していく。小学生の頃、自分は母親に話せなかった。全てを話し終えて、最後に言った。
「…ねぇ、どうしたら奈由紀ちゃんを助けられるのかな。」
そのまましばらく返事を待っていると、優しい声で母親が話し始めた。
「悠、仲の良かった友達がそんなことになってショックなのはわかるけど…いじめはどこにでもあるわ。子供の間だけじゃなくて、大人になっても。」
「…うん…」
「奈由紀ちゃんには可哀想な言い方かもしれないけど、みんなと違ったり、弱かったりする子はどうしてもターゲットにされちゃうのよ。社会ってそうやって誰かの犠牲があって成り立っている部分もあるから…悠にはまだちょっと難しいかしらね。」
母親は慎重に言葉を選んで話していたが、それが逆にその言葉の裏にある無機質な世界観を浮き立たせ、悠を不安にさせた。
「それに、早いと思うかもしれないけど、そろそろ自分の高校受験のことも考えてほしいの。奈由紀ちゃんのお家は、その…色々とあるみたいだから、あんまり関わると、悠の学校生活にも影響があるかもしれないし…」
先ほどまであんなに美味しかった食事の味がわからなくなり、悠は皿の上の掃除をするように口に物を運んでいく。
「お母さんは悠に、いじめられる方にならないためにどうすればいいのか、考えて欲しいわ。」
放課後、悠は同じ1年生の体育委員数人と昇降口に向かっていた。6月の体育祭に向けて、色々な話し合いや準備が日が落ちるまで続くことも珍しくなかったが、その日は担当教師の用事で早めに終わり、その開放感から会話が盛り上がっていた。
「はー体育委員選ぶんじゃなかったー。入学してすぐ体育祭だもん」
軽く伸びをしながらそう言ったのは、奈由紀と同じクラスの佐々木だ。
「しかも先輩うざいの多くね?」
「そうそう、なんか体育委員だけに体育会系っていうか」
それに続いて周りの女子が小声で話す。
「九重さんは?なんか運動得意そうだし、体育委員って感じがするけど。」
佐々木に突然話題を振られ、慌てて悠は愛想笑いを浮かべる。
「そんな、全然だよ。小学校の時体育の成績悪かったし。それに、私もうちの先輩苦手、かな…」
「だよねだよね、特にあの白井っていう人…」
とにかく周りの言うことに賛同し、自分が周りと違う存在でないことを強調する。それが中学生になって悠が学んだルールの一つだった。話題は先輩への不満や悪口へと移っていく。委員会だけではない、部活でも普段の学校生活でも、小学校のときよりも上下関係が意識されるようになった。中には高圧的な要求や嫌がらせをしてくる上級生もいて、最下級生の彼女たちの心には行き場のない憎しみが渦巻いていた。
昇降口の靴箱の前に一人だけ生徒が立っていた。
「あっ」
佐々木はまるで店のショーウィンドウに気に入った服を見つけたかのように、その生徒に近づいていく。ほかの少女たちもそれに続く。悠はどうすればよいかわからず、顔を伏せてその場に留まった。
「月島さん元気~?どうしたのこんな時間に?」
靴を履き替えようとしていた奈由紀は、その声に身を強張らせる。中学に入ってからこんな遅くに奈由紀の姿を見るのは初めてだった。保健室で休んでいたのかもしれない。
「あれっ、月島さん一人で帰るの?友達は?」
後ろで別の生徒が「友達って」とクスクスと笑う。奈由紀は慌ててぼろぼろのスニーカーを床に置き、その場から逃げようとする。
「待ってよ、まだ話終わってないから」
ぐしゃり。誰かの足がスニーカーの片方を潰す。
「そういえばさ…」
佐々木が悠の方を振り返る。
「九重さんって同じ小学校じゃなかったっけ。月島さんに友達いたの?」
いつの間にか手のひらが汗ばんでいる。奈由紀に教えてもらいながらなんとか手芸部の作品を作れたときの嬉しさ、お互いの家でどんな中学生活を送りたいか話し合ったときの胸躍る気持ち…みんな本当にあったことなのに、煙がかかったようにぼやけている。
「えっと…あんまり知らない、かも」
その悠の返事を聞いて、奈由紀の体がびくっと震えた。今彼女の表情を見てしまったら思い出の全てが嘘になってしまう気がして、悠は視線を向けることができない。
「うわー、存在感なさすぎで誰にも覚えてもらえてないって、かわいそー」
少女たちはどっと笑い、更に奈由紀を囲む輪を狭くしていく。一人が奈由紀の鞄を無理やり剥ぎ取ろうとする。
こんな時なのに、いつかの母親との夕食を思い出す。それまで音だけだった母親の言葉から、意味がじわりと染み出してくる。みんなには、抑圧された鬱憤を晴らすことができる誰かが要る。それはたまたま不幸が重なって奈由紀になってしまったけど、自分かもしれなかった。自分も鬱憤を晴らす側なんだって、みんなに知ってもらわなければ。ちゃんと、大人になって、上手にやらなければ。
でも、これに加わることなんて、私にはできない。みんな、もう帰ろうよ。そう言おうと佐々木たちに近づいたとき、引っ張られて傾いた奈由紀の鞄から、何かが音を立てずに床に落ちる。白いマスコット。裏返っているが、それがニワトリであることを悠は知っていた。
「何これ、汚い」
誰かが靴で踏みつけ、生地に跡が付いた。
「あ…やめて…」
奈由紀が小さな声を出して、床に手を伸ばす。別の誰かが軽く蹴って、それは悠の足元に表向きに落ちる。
「九重さんごめんね~こっちにパスしてくれる?」
そう言う佐々木を見ようとして、その後ろの奈由紀と目が合う。
…助けてよ、ゆうちゃん…
すがるような視線。恐怖よりも、その感情のほうがずっと強く悠に伝わってきた。この場に、奈由紀を助けられるのは自分しかいない。でも助ける方法が思いつかない。いや、思いつかないんじゃなくて、もしかしたら、もう自分は…
「…あれ、何か書いてあるみたい…」
佐々木が近づいてマスコットを見ようとした時、悠は足元のそれを、床にあったすのこの下に押し込めた。
「うわっ九重さんひどっ」
「ないすぷれー」
また笑いが起こる。しばらくして、少女たちは満足したのか、奈由紀を残して帰っていった。悠が去り際にもう一度奈由紀を見ると、表情から先ほどまでの恐れや悲しさは消え、瞳はなんの感情も宿していなかった。彼女の体はもう震えず、ただ時間が止まったように悠の足元を見つめていた。
12月になると町はクリスマスのムードに染まり、商店街にはツリーや電飾がきらめいていた。その日、悠は友達と学校帰りにカラオケに寄った後、家路を急いでいた。ここ数日で急に夜が冷え込むようになり、マフラーと手袋が欠かせない。学校生活は充実していた。運動部に入って朝練は辛かったが少しずつ試合でも勝てるようになり、友達も増えて休日はモールやファーストフード店で楽しい時間を過ごしていた。
…お母さん、もう帰ってきてるかな…
今日は母親が久しぶりに帰ってきて夕食をとる日だったが、友達との時間が楽しく、予定よりも少し遅くなってしまった。住宅街に入り、気の早い近所のクリスマスのイルミネーションを横目に見ながら歩いていく。どこかの家からトマトと肉を煮込んでいるようないい匂いがして、何を作ったんだろう、と考えながら通り過ぎる。
白い息を吐きながら自宅の前に着くと、車庫は空だった。家も明かりはついておらず、母親はまだ帰ってきていないようだ。遅れるなんて珍しい、そう思いながら玄関を開け、真っ暗な家の中に入る。玄関を上がり、そのまま2階に上がろうとして、ふとリビングで緑色の光がひっそりと点滅していることに気付く。電話機の留守電メッセージのライトであることを思い出し、何気なく画面を確認すると、母親からのメッセージのようだ。何か用事が出来て帰れなくなったのだろうか、そう思って再生ボタンを押した。
『悠、晩御飯の約束守れなくてごめんね。実を言うと、しばらく忙しくて、家に帰れそうにありません。でも、大事な話があるのでメッセージを残します。ちょっと長いけど、よく聞いて欲しいです。あと、もし誰かが周りにいるのなら、このメッセージは一人になった時に聞いてください。』
悠は椅子を電話機の方に向けて腰かける。しばらくの静寂を挟んで、母親は話を始めた。
『信じられないかもしれないけれど、本当のことを話します…アジサイがあと3週間で、動作を停止します。』
スピーカーから流れてくる声は妙に落ち着いていて、優しかった。
『それが地球にどういう影響をもたらすか、正確にはわかりません。でも、確実に重力は失われます。おそらく大きな地震も起きます。3週間後の12月25日の夕方、この星は生き物が住めない場所になります。』
母親が語る未来は、今のこの平和な世界とかけ離れている。しかし、みんなが心のどこかで、いつかはそうなるかもしれない、と思っていた未来でもあった。本当は何百年も前に死んでいたはずの星。母親がこれまでアジサイの話をしたときも、言葉のどこかに、今の生活は永遠ではない、という香りを漂わせていた。だから、悠もこれが嘘だとは思わない。
『この話は、一部の人にしか伝えられていません。だから悠も、ほかの人には決して言わないでください。悲しいかもしれないけど、時間が無くて、ほとんどの人は地球に残ってもらわなければなりません。』
暗いリビングで、電話機の放つ光を瞳に映しながら、じっと悠は耳を傾ける。
『お母さん達が所属する大人のグループと、11人の子供だけが、地球から脱出できます。もちろん悠はその11人の中にいます。25日の朝に迎えの車が来るのでその人たちに従って船に乗ってください。お母さんは船で待っています。』
少し間をおいて、これまでとは違う、感情の滲んだ声で母親は続ける。
『ここからが、お母さんが悠に一番伝えたかったことです。…今まで、悠にはお母さんみたいな苦労をしてほしくなくて、社会のルールとか、常識とか、そういうものに従うように言ってきました。まるで大人になることが良いことのように…悠にはそう信じさせてしまったと思います。でも、地球が死んだ後は、世界が変わっていきます。いつか大人はいなくなって、子供が世界の主役になるでしょう。彼らはいつまでも子供のままで、毎日笑って生きることができます。』
『ごめんなさい。今更になって、お母さんは間違っていたことに気付きました。いえ…間違っていると分かっているのに、自分と悠を騙し続けてきました。罪滅ぼしにはならないかもしれないけれど、新しい世界をあなた達に託します。そこで悠を邪魔する物はなにもありません。悠ならまだ間に合います、お母さんとは違う道に進めます。…では、また時間ができたら、電話しますね。体に気をつけて。』
無機質な電子音と共に再生が終了し、静寂に沈むリビング。電話機の画面の微かな光だけが、悠の顔を照らしている。不思議と恐怖や絶望は無かった。自分の今いる場所や毎日笑いあっている友達が、すべて消えてしまい、二度と戻れない。それは確かに衝撃的だが、今この瞬間、悠の心で渦巻くのは純粋な違和感だった。母親の言う新しい世界に選ばれたのが自分?ふと奈由紀の顔が浮かぶ。悠は脱いだばかりのマフラーとコートを掴むと、家を飛び出した。
奈由紀の家は黒を塗りつぶしたような闇に包まれていた。雑草が伸び荒れ果てた庭には、ゴミ袋がいくつか放置されている。あれから奈由紀はほとんど学校に来ていなかった。以前、春に訪れた時よりも荒れている家をみて、悠は目を逸らし続けてきた自らの罪を改めて直視する。ここまでずっと走ってきたので息がまだ落ち着かない。インターホンを1、2回押して誰も出てこないことがわかると、迷わず悠は玄関のドアを何度も叩いた。
…お願い、出てきて。
冷たい金具の音がして、ドアが開く。その向こうには暗い廊下を背にして、少女が立っていた。
「な…奈由紀、ちゃん」
息を整えながら、久しぶりに名前を呼ぶ。汚れた部屋着、生気の無い表情。長くて綺麗だった黒髪は肩の辺りで無造作に切られていた。最初、悠は奈由紀に見つめられているように感じたが、すぐに奈由紀はそこに悠がいないかのように、ずっと遠くをぼんやりと見ているだけであることに気づく。
「夜遅くに、ごめん…伝えたいことが、あって…」
奈由紀は俯いてしまう。しばらくの沈黙のあと、小さな声で、短い言葉が返ってきた。
「…何」
あまり時間がない、いやもう遅すぎたかもしれない。悠はそう感じながら、先ほど母親に伝えられた事を奈由紀に話す。3週間後に地球の外へ逃げなければいけないこと、自分は生き延びることができる11人に選ばれたこと、そしてその後は大人のいない子供だけの新しい世界が待っていること。奈由紀はそれをただじっと聞いていた。全てを話してから、悠はここまできた一番の理由を口にする。
「でも…でもね、わたしが生き延びれるって、違う気がするの。わたし、奈由紀ちゃんに酷いことした。奈由紀ちゃんがみんなに酷いことされてるのに、見ない振りした。助けるために何かやらなきゃって沢山考えたけど、結局どれもできなかった。最初は自分も同じことをされるのが怖くて、でもその内これでいいんだって思い込んでた。小学生のとき、奈由紀ちゃんはわたしを助けてくれたのに…。」
目に涙を浮かべ声を震わせながら、自分が今までしてきたことを懺悔する。もしこんな状況にならなければ、あるいは一生伝えられなかったこと。その考えが悠の背中を少しだけ押していた。
「これじゃあお母さんと同じだよ。わたしに生き延びる権利なんて無い。奈由紀ちゃん、わたしはね…」
「やめて」
奈由紀の声が遮る。それは静かだが、先ほどの力の無い声とは違い、意思のある者の声だった。
「私は早く大人になって、大人がいなくても一人で生きていけるように、自分のことを自分で決めれるようになりたい。そして今、私を苦しめている人たちに復讐する。子供のままなんて絶対に嫌。」
それは悠の知っている奈由紀では無かった。まるで彼女の周りを茨の茎が取り囲んでいるような近づきがたい雰囲気。自分がしたことが、この春から彼女に起こっていたことが、ここまで友達を変えてしまったことに戦慄し、悠は何も言うことができない。
「それにあなたのお母さんは、子供だけの世界をまるで楽しい場所のように考えているみたいだけど、あなたも知っているはず。私の物を壊したり、悪口を言ってくる学校の子達、みんな楽しそう。小さい子が虫や動物を殺して家に帰ってきて、親の作った美味しいご飯を食べる。それが、子供の世界だよ。」
眼鏡の奥の瞳に鋭く見入られて、悠は息を呑む。
「私は逃げない。もし、あなたの言うとおりに、地球が死んでしまうのなら、私も一緒に死ぬ。そんなニセモノの世界、いらないよっ。」
そういい捨てて、奈由紀はドアを乱暴に閉めた。再び訪れた静寂の中、どこか遠くから聞こえてくる救急車のサイレン。悠は反射的にドアに向けて伸ばしていた手を、力なくゆっくりと降ろした。
…わたし、何やってんだろ…
情けない笑いがこみ上げてくる。話を聞いてくれるわけがない。自分は彼女を裏切ったのだ。そんな人間に、今更助けてあげるって言われて…助かってもそこは彼女の望む世界じゃなくて…。救えると思った、自分の浅はかさが可笑しかった。
「わたしに、なっちゃんに生きてって言う資格なんて、ない。」
そう呟いて、悠はドアに背を向け、歩き出した。
その後の生活は、いつもどおりだった。いつものように登校し、友達とお喋りし、平和な日常を過ごした。隣の席の男子と仲良くなり、期末テストの結果は上々だった。それが全て消えてしまうなんて、たちの悪い冗談を聞かされているようだった。だから、全てが何かの間違いであるように、何度も祈った。しかしその後母親から伝えられたように各地で地震が起き、不思議な現象が観測された。テレビはアジサイによる地球の延命措置に問題が発生していることを連日伝え、人々は不安を口にしていたが、疎開を実行する人はごく一部で、楽観論が大勢を占めていた。いつの間にか悠は、その後の電話で母親から与えられた課題ーどこの星でどんな暮らしがしたいかーを冷静に考えるようになっていた。
そして、何もすることができないまま25日の朝を迎えた。前日は終業式で、友達と来年もよろしくねと言い合って別れたばかりだ。自分だけがそれが嘘なのだと知りながら。学校から帰る途中の街はクリスマス一色で、商店街は子供連れやカップルで賑わっていたが、悠の周りだけ灰色だった。いや、もう明日からのことを考えるのに精一杯だったのかもしれない。ここ数日、ベッドに入っても目を閉じることができず、天井を見ながら一晩中考え事をしていた。でも昨夜は不思議とぐっすりと寝ることができたため、今朝は気分がはっきりしていた。
迎えは昼過ぎにやって来ると聞いている。早朝から悠は用意された段ボール箱に荷物を詰めていた。全てを持っていけるわけではない。必要なものだけを選んでいくと意外と少なくて、その軽さが自分の生き方を表しているようで悲しくなった。最後に机の引き出しの中をさらっていると、奥に押し込まれた何か柔らかい物が指先に触れた。
ゆっくり奥から出すと、それは黄色いヒヨコのマスコットだった。「なゆき」丁寧に糸で編みこまれたその文字は悠に思い出させた。自分が手芸部に入ったばかりの頃、奈由紀が丁寧に辛抱強く手芸を教えてくれたこと。家が同じ方向だとわかって、放課後一緒に下校するようになって…タイプの違う二人で最初はぎこちなかったけど、だんだんと奈由紀のことが好きになって。そして、このマスコットを二人で交換したときの、奈由紀の優しい笑顔。
「なっちゃんに…笑ってほしい…」
悠は自分しかいないがらんとした部屋で、ずっと心の奥で響いていた気持ちを言葉にする。あの時見た奈由紀の冷たい瞳、棘のある言葉、あのままこの世界と一緒に会えなくなるなんて、嫌だ。中学生になって色んなことが変わって、お母さんの期待に沿いたくて、自分の声を出さない様にしていた。ここから逃げ出せて生き続けられるってわかったときも、お母さんが良いと言うことにただ流されているだけだった。でも今自分がしたいことは、一番の親友に笑ってもらうこと。
悠は玄関に置かれた段ボール箱を蹴って家を飛び出した。空は灰色の雲に覆われて天気予報は夕方から雪。あの夜通ったのと同じ道を、また全力で駆け抜ける。でも、あの夜と同じ終わり方をするつもりはなかった。
奈由紀の家の前にはパトカーが何台かとまり、人々が集まって様子を伺っていた。家の周りに非常線が張られた異様な光景に足がすくむが、もう時間がない。人ごみを掻き分け、近くにいた警官に話しかける。
「すいません、奈由紀ちゃんに、会わせてください。」
驚いた表情で警官が答える。
「えっ、君、奈由紀さんのお友達?ちょうど良かった、我々も彼女を探していて…ちょっと待ってね、今話を聞くから。」
おーい、と奥にいる警官に手を振るのを見て、ここにいても奈由紀に会えないと理解した悠はまた走り出す。奈由紀が無事なのであれば、今日終わってしまうこの世界のことなど、どうでもよかった。でも、どこにいるのだろう。奈由紀と一緒に行ったことのある場所を手当たり次第に探す。公園、遊歩道、交差点…街はどこも休日で人が多いが、彼女の姿は無い。肩で息をしながら立ち尽くしていると、視界の端に本屋が見えた。
…あっ…もしかして…
奈由紀と二人で雑誌を読みふけった日のことを思い出す。掲載されていた南の島の風景はどれも綺麗だったけれども、どこも飛行機や船を乗り継いで行く場所で、今すぐ子供だけでいける場所では無かった。がっかりして雑誌を閉じようとしたとき、奈由紀がページ下のコラムに偶然、この町からバス一本で着く海水浴場に、小さいが雰囲気のいい桟橋があるという記事を見つけて、二人でいつかここに行こうと話し合ったのだ。
悠は海へ向かうバスに乗った。夏は海水浴の客で満員であろう車両も、この季節は乗客はまばらで、町を抜ける頃には乗客は悠一人になっていた。確信があったわけじゃない。でも、もうそこしか奈由紀が行きそうな場所は思いつかなかった。窓越しに空を見上げると、雲の割れ間から灰色の世界には不釣合いな青空がのぞき、厳かな光が幾重にも伸びていた。まるでこれから消え行く世界を慰めるかの様で、こんな時なのに悠を穏やかな気持ちにさせた。
時計を見ると、正午を過ぎている。
…もう迎えの車が来ていて、きっと私がいないことに気づいて、慌てて探しているのかな。悲しませてごめんね、お母さん。でもわたしは、こっちの世界を選ぶよ。
海岸沿いの最後の停留所で降りる。この前来たのはいつだっただろうか。久しぶりに感じる磯の香り。砂浜に下りると、冷たい海風が悠の髪をなびかせた。海水浴の施設は閉鎖され、錆びたボートが何隻か離れて係留されている。誰もいない冬の海岸、既に地上から人が消えてしまったかのような錯覚を起こさせる。そしてそれは、悠の願いでもあった。雑誌の記事の通りに小さな岬を回ると、砂浜から10メートル程海へ伸びた桟橋が、控えめにその姿を現した。塗装がされていない木製の質素な作りだが、周りには他に建物が無く、岬の裏側にあるため車の音も聞こえない、確かに穴場と呼べるような良い雰囲気があった。
桟橋の先端、橋が少し広くなった海の真ん中にベンチが有り、そこに沖の方を向いて奈由紀は座っていた。
「なっちゃん。」
後ろから声をかける。奈由紀はゆっくりと振り向いた。
「…なんで…」
「えっとね、わたしはなっちゃんに笑ってほしいんだ。」
悠がベンチに手をかけると、奈由紀はまた海の方を向いてしまう。
「わたしがしたこと、どれだけ謝っても何をしても消えない、だから許してもらおうなんて考えない。でもね、わたしがなっちゃんのことを好きなのは本当だから。一人ぼっちで、誰も助けに来ないところで、みんなを憎みながら、最後を迎えてほしくないんだ。」
水平線を見ながら、悠は自分の考えていることを正直に話す。ここからは岬が陰になってアジサイも見えない。何百年も前の、全てが平和だった海のようだった。
「だめだよ…もう船が…行っちゃう…」
奈由紀の肩は震えていた。
「ゆうちゃんは、選ばれたんだよ…生きなきゃ…私は船には乗れない、もう乗っちゃいけないんだ…ゆうちゃんに、死んでほしくないよ…」
奈由紀の膝に大粒の涙が零れ落ちる。心から全ての苦しみを搾り出すように、彼女は泣いていた。悠はベンチの正面へ回り、奈由紀の横に立って言う。
「大人が押しつけた理想郷なんて、わたしは要らない。わたしたちは、成長して、子供の頃のことを忘れて、汚れて、つまらなくなって、それでも必死に生きて行く。綺麗な殻で、守られる必要なんて無い。ずっと子供のままの世界なんて、死んでるのと同じだよ。だからわたしは、自分の居たい場所で、自分がしたいことをする。」
そこまで言って、悠は奈由紀に手を伸ばす。
「なっちゃん、わたしと一緒に、いてくれますか。」
奈由紀は一瞬戸惑った後、顔を上げて、悠の手を取った。その瞳には涙が滲んでいたけれども、あの日見た、ふんわりとした笑顔で、悠も顔をほころばせたながら、手を握り返した。
いつのまにか雪雲は流れ去り、海の上には夕空が広がっていた。高いところにある雲からひらりひらりと桜の花びらのような雪が舞い落ちる。
「ここ、いい所だね。」
「うん、ずっと行きたいって思ってたけど、結局今日になっちゃった。」
「あ、そういえば、太平洋側だから、夕日は陸に沈むんだね。」
「そうだね、南の島だったら、写真みたいに海に沈むのかな。」
「…なっちゃん、結婚式、今しちゃおっか。」
「したい。でも結婚式って、何するの。」
「えっと…わかんない」
「何それー」
夕日できらめく水面に囲まれて、二人で笑う。もっと早くにこうすることもできたはずなのに、結局こんなに時間がかかってしまった。でも後悔なんてしていない。たとえ一瞬でも、こうして自分の信じることをやって、一番好きな人と気持ちが通じ合ったのだ。この場所は、この地上で、いやこの宇宙で一番幸せな場所だと、自信を持って言える。
遠くの海岸から船が空へ昇っていくのが見える。お母さんは、他の選ばれた子供たちは、どんな世界を生きてゆくのだろうか、考える。
最初は、空気が静かに震えだすのを感じた。それはいつしか、チューバのような重厚な音になって、波の音に混じってはっきりと聞こえだした。そして、まるで音合わせをする開演前のオーケストラのように少しずつ音を重ねて、空全体に厚いうねりを生んでいった。
「もう時間だね。」
悠は優しく奈由紀の手を握る。
「うん。」
奈由紀も握り返し、首を傾けて微笑む。どんな怒りや悲しみだって変えることのできない、さわやかな笑顔。
「あっ…」
今更になって、奈由紀の鞄から、あのニワトリのマスコットが顔を覗かせていることに気づく。
「えへへ、気づかれちゃった…」
一旦手を解き、ニワトリを取り出し、膝の上に置く奈由紀。少し形が崩れ、刺繍やビーズの飾りが取れかかっている。
「実は…わたしも、連れてきてるよ」
そう言って悠は少し恥ずかしそうに上着のポケットからヒヨコを取り出す。作られたときから変わらない姿のように見えて、よく見ると頭のてっぺんに赤いフェルトが縫い付けられていた。
「えっ、これって…」
奈由紀が良く見ようと顔を近づけると、悠はきまりが悪そうに、慌ててヒヨコを奈由紀の鞄に押し込めた。素直になれない悠に、思わず奈由紀は笑ってしまう。
「はい、この子は、ゆうちゃんへ。」
悠は奈由紀から受け取ったニワトリを、自分のポケットに入れる。
「…行こう。」
「うん。」
二人は立ち上がって、もう一度手を取り合って、桟橋の端まで歩く。
「…波が、来るから…」
そう言って悠は、繋いだ手が離れないように、奈由紀の指と自分の指を絡ませて、海の彼方を見つめた。
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