陽太

午後の授業が終わり下校時間になると、陽太はランドセルを背負い、巾着袋を手に持ち席を立つ。周りでは同じようにクラスメイトが自分の机を片付けたり、一緒に帰ろうと声をかけ合っている。

持ち物ちゃんと持ったっけ…

そう思い机の中をのぞくと、いつか使い捨てた消しゴムがひとつ残っているだけで、必要なものはこの重いランドセルに全て入っているようだった。

歩き出そうとすると、後ろの席で日直日誌をつけていた友達に声をかけられる。

「陽ちゃん、またね」

「うん、また…」少し間をおいて陽太は言葉を続ける「来週ね」

「えっ、あっそうか、明日って最後の金曜日か」

「ヒサくんはお父さんとお母さん、帰ってくるんだっけ」

「うん3か月ぶり。やっぱり日曜の夜には戻るみたいたけど」

「来週また話聞かせてね」

「おっけ、月曜日の調理実習、材料忘れないでね」 と手を振る友達に手を振り返して、陽太は教室のドアを出た。

騒がしい校内を出ると暖かい日差しと少し冷たい海風を肌で感じる。たまに車が通り過ぎたり、ベランダで誰かが洗濯物を取り込んでいるのを見る以外、ほとんど人気がなく、町は昼過ぎの気だるい空気に包まれていた。町の図書館までは歩いて20分ほどの道のりだが、途中の商店でおやつを買い、堤防で海を見ながらそれを食べることが彼の日課になっているので、それよりも10分ほど余計にかかる。図書館に着いたときには15時を少し過ぎていた。

図書館の鍵は少しわかりにくい。家やその他の鍵と見た目があまり変わらないのだ。わかりやすいようにマジックで「としょ」と書いたのだがそれもだいぶ消えてきて、結局これだと思うものをいくつか試してようやく開けることができた。

おそらく50年以上はそこにある図書館は、コンクリートでできた白い建物で、扉にある「八潮村図書館」という字はもうほとんど読めないほどに塗料がはげていた。海からは少し離れた高台に建っていて、海風の匂いが運ばれてきたり、カモメの鳴き声が時折聞こえてくることはあるが、どの窓からも海が見えることはない。

ふぅ と息を吐きランドセルを受付の上に置き、巾着袋の中から先ほど買った飲み物を取り出す。1週間ぶりに開けた建物の中はヒンヤリとした空気と本のにおいに満ちていて、まずは換気をすることが陽太の最初の仕事だった。

建物を開けてから10分ぐらいした時、入り口のほうで誰かが入ってきた気配がした。こんこんとスリッパに履き替える音がしたので誰かはすぐわかる。

陽太は今月のおすすめリストを準備して入り口のほうに体を向け座りなおす。来訪者が入ってきた瞬間、

「こんにちは、瀬名さん」と声をかけた。

瀬名と呼ばれた人物は無精ひげを生やし、よれたYシャツとスラックスを履いた男性だった。年齢は20歳後半といったところで、よく言えば易しそうな、悪く言えば少し頼りなさそうな雰囲気を纏っている。彼は陽太へにこやかにお辞儀を返す。

「今日はどの本にしますか?」

そういいながら陽太は瀬名へA4の紙に印刷されたリストを渡す。

「ありがとう。うん…そうだな、えっと」

瀬名は受付前の椅子に腰掛けじっくりとリストを眺め始める。

1年ほど前、初めて瀬名がこの図書館に来たとき、何かいい本は無いかな、と漠然と聞かれたのが始まりだった。その時、陽太もちょうど図書館で働き始めたばかりで蔵書を把握しておらず、また初対面の人の好みがわかるはずもなく、困ってしまった。そこでたまたまその時自分が気に入っていた本を薦めたのだが、それが偶然瀬名の好みにも合ったらしい。以来陽太は、自分が読んで面白かった本を簡単な説明と共にリストにして渡すことにしていた。

「今日は…」瀬名が口を開く「この『赤いマーメイド』はどんな話なのかな」

リストの一番上に載せた本を指してリストを返す。

その本は先月新刊としてこの図書館に届き、ファンタジー好きの陽太はすぐに読んだのだが、とても面白く是非瀬名にも読んでもらいたいと思っていた。

「この本はですね、人魚の話で…話は伝説に沿って進むんですが、舞台が現代になっているんですよ、それで」

うれしそうに本の説明をする陽太を見ながら瀬名はうんうんと相槌をうつ。やはり本の話をしている時が彼の瞳は一番輝いて見えるのだ。

「…でも最後は伝説とは違って現実的な終わり方になるんですよね、そこが意外で…普通のファンタジーにひとひねり加えた感じなんです。とにかく、おすすめなので、どうぞ。」

陽太は自信満々という風に本を瀬名に渡す。

「ありがとう、じゃあこれ借りてくね。また…しばらくここで読んでてもいいかな」

「もちろんです。今日は5時ぐらいまでは開いてます。」

「そっか、助かるよ。」

そういいながら瀬名は図書館の隅の席に腰を下ろした。こうやって開館と同時に来て、本を借りて、しばらく読んでから帰るというのが彼の普段の行動だった。

来たときよりも少し風が弱くなったらしい。カーテンの動きが無くなって、波の音や浜辺で遊ぶ子供たちの声が時折はっきりと聞こえてくる。日は傾き、瀬名が座る机の表面をいくつも細く窓の形に分かれた光が、それでもまだくっきりと照らしていた。

陽太も受付に積まれた新刊の中から1冊を選び開く。今日は他に誰か来るだろうか。康介たちは漁協の手伝いと言っていたし、山崎のおじいさんは先週山に入ると言っていた。おそらく誰も来ないだろうか。そんなことを考えながら瀬名を見る。

この静かな図書館の中で、夕方までの間、お互いに離れた場所に座りほとんど言葉を交わすことは無いけれど、二人で本を読みふける時間が、陽太は好きだった。そして瀬名も同じように思ってくれていることを心のどこかで期待していた。

いつの間にか窓からの光が赤く染まっていた。学校で鳴る5時を告げるチャイムが町中に反響している。

「どうでしたか?」

本を肩掛けの鞄にしまい、席を立つ瀬名に陽太は問いかける。

「すごく、面白かったよ。良くある昔話かと思ってたら、途中から話が複雑になってきて…深読みするのが面白くて、まだ2章までしか読めてないよ。」

「良かったです。」

「やっぱり陽君の目に狂いは無いね。汐見町の本ソムリエだ。」

そう言いながら瀬名は貸し出しカードを陽太に渡す。

「えへへ、ありがとうございます…どうぞ。」

陽太は少し照れながら司書印を押してカードを返した。じゃあまた来週、とお互い挨拶をしてから瀬名は図書館を後にした。

司書としての1日の締めくくりとして、窓を閉め日誌をつける作業を進める。日誌には日付、天気、本館への連絡等の項目があるが、そこには事実をありのまま記すだけだ。でも陽太は最後の「その他備考」欄には彼なりにこだわりを感じ、毎回何かしら気の利いたことを書こうとしていた。

「今日は…うーん…」

少し考えて ソムリエの称号をもらう と記入した。


次の日、月の最後の金曜日は、図書整理の日と決まっていた。陽太は学校を休み、朝から図書館へ向かった。この街では殆どの大人ー労働力となる15歳ごろから70歳ごろまでーが海の向こうへ長期の出稼ぎに出ているため、街の中の大人が極めて少ない。そのため子供が職に就くことも決して珍しくなかった。本が好きだった陽太は本に関わる仕事を希望し、週に1,2日だけこの殆ど来訪者のいない図書館の管理を任されていた。

まだ暗いうちに誰もいない自宅を出発し、海岸沿いの道を歩く。肩にかけたバッグには早起きして作った弁当が入っている。しばらく歩くと空は水平線辺りから赤く色づいてきて、港から沖へ向かう船のエンジン音が聞こえ始めた。陽太はこの街の海が好きだ。波はいつも穏やかで透明度が高く、どの時間に見ても心が落ち着く。

図書館につく頃には辺りはだいぶ明るくなっていたが、建物の陰になった林は薄暗いままで、すこし不気味だった。今日は正面玄関を開ける必要は無いので、裏口から鍵を開けて入る。

やることは主に三つ。館内の掃除、新しく届いた本を正しく分類して蔵書へ追加する作業、もう一つは書架に並ぶ既存の蔵書を整理する作業だ。5月とはいえ、午後になって身体を動かしていると少し汗ばむので、まず館内の掃除から始める。利用者は少ないので汚れもなく掃除自体は簡単だが、建物の隅から隅まで一人で行うので時間がかかる。休憩を取りながら全ての掃除を終えた頃、時計は既に正午過ぎを指していた。

弁当を食べて一息つくと、先週届けられた荷物を開封した。今月の新刊は10冊ほど。それの一つ一つにこの図書館での整理番号を付け、正しい書架に入れていく。そう聞くと簡単な作業に思えるかもしれないが、整理番号は本のジャンルと結びついており、単純に一つのジャンルに当てはまる本ばかりではないため、見つけやすさや優先順位をよく考えて分類しなければならない。

「『ホテルマスカレード殺人事件』…これはわかりやすいな。ミステリ小説で…著者は…」

「『1年の季語辞典』…普通に考えれば大分類が文学で、中分類が詩歌だろうけど…趣味の棚に入れたほうが目に付きやすいかな、うーん…」

分類対応表や、現在の蔵書の配置を見ながら1冊毎にラベルを貼り付けていく。

最後の1冊の本に目が留まる。題名は「夢を科学する」 要約を見ると、ある大学教授が書いた本を新書として再販したもので、人間が寝ている間に夢を見る理由を脳科学の視点から一般にわかりやすく解説したものらしい。小学生の陽太には正直難しすぎる内容なのだが、この本に関心を持ったのには理由があった。陽太には時折みる夢があった。暗闇の中、ぽっかりと空いた大きな円、そこを覗くと見えるのは美しい水に覆われた惑星。その色は次第にくすんでいき、青は茶色に濁り、白は灰色に、緑は赤黒く染まる。そして目が覚めると瞼は赤く腫れ目には涙が溜まっているが、夢を見ている間は感情を感じない。まったく覚えのない光景で、その星の名前もわからないのだが、繰り返すその夢に何か意味があるのでは、と思っていた。

夢のことが何かわかるかも、と考えた陽太は作業を一時中断してその本を読み進める。本によると、夢を見る理由として主に二つの仮説があるらしい。一つは現実に経験したことを記憶するため、もう一つはそれを記憶から抹消するため。どちらにしても、記憶を整理整頓するプロセスが睡眠中に行われており、それが夢となって起きたときに思い出される。そして記憶するにしろ、忘れるにしろ、その対象は自己に影響の強い出来事であり、記憶の整理によって脳はその影響への対処を試みている、と筆者は結論付けていた。であれば、夢での悲しい光景は現実の出来事であり、自分はそれについて何かをしなければならない、ということになる。

幸い今月は新刊の数が少なく、時間が余りそうだ。その本を更に読み進めるため机に移動しようとした時、正面玄関のインターホンが鳴った。今日は閉館と看板が出ているのに誰だろう、そう思いながら陽太はインターホンに出る。

「はい、受付です。」

「陽太君かい、こんにちは。」

「瀬名さん!?すいません、今日は図書整理の日で…」

「忙しいときに悪いね、息抜きに付き合ってもらえるかな?」


図書館以外で瀬名に会うのも、彼の車に乗るのもこれが初めてだった。

「ちょっと近くを通ってね、たまには本以外の話もしたいと思ったんだ。迷惑だったかな?」

「いえ、そんなことないです、ちょうど作業もきりが良かったので」

陽太は少し緊張して答える。

この町は海岸沿いの山と海に囲まれた狭い土地に広がっていて、人口は1000人に満たない。出稼ぎにより、そのほとんどが子供か高齢者で、瀬名ぐらいの年齢の大人は学校の教師やその他の子供にかかわる職業として数えるほどしかいない。しかし瀬名に学校や町で会うことはなく、以前から何の仕事をしているのか不思議に思っていた。

車は町から離れて海沿いの道を進んでいく。

「陽太君は本当に本が好きなんだね、いつも真面目に働いていて本当に偉いよ。」

「図書館みたいに、本がたくさんあるところってとても落ち着くんです。僕、記憶に障害があるみたいで、あまり小さいときのことって思い出せないんですよね。でも本に囲まれていると、その分の隙間を埋めてくれてる感じがして…うまく、言えないです。」

「そっか…でも、そうやって好きなことがあるのはいいことだよ。」

「瀬名さんは、なぜいつもあの図書館に?もしかして、お仕事の休憩時間…とかでしょうか。」

「うーん、陽太君に会うため、かな。むしろあの図書館で君と時間を過ごすことが僕の仕事だからね。」

陽太とは反対側の海の向こうを見ながら瀬名はそう答えた。

自分に会うために?陽太にはよく意味がわからないが、それでも図書館でのひと時を瀬名も気に入ってくれていたとわかり嬉しくなる。

「あはは、ちょっと変なことを言ってしまったかな…忘れてくれていいよ。でも、君は本当に素敵な司書さんだ。これからもずっと、あの場所を守っていてほしい。」

瀬名がここまでストレートな物言いをする人物だとは知らなかった。褒められて悪い気はしないが、正直少し照れくさい。

「はい、いつかちゃんと司書の資格も取って、あの図書館でいろいろとやってみたいことがあるんです。今はあまりみんなに知られてないですけど、もっと町の人にも来てもらいたいです。」

「そうだね、その時は是非僕も参加させてよ。協力する。」

陽太は本来おしゃべりな方ではないけれども、瀬名の前では本の魅力や、自分の夢をつい時間を忘れて語ってしまう。自分と同じで大人しい人だと思っていたけれども、瀬名の言葉には、人をやる気にさせる不思議な力がある。そう陽太は感じていた。


車を駐車場に止め外に出ると、誰もいない広い砂浜が目の前に広がっていた。岬ひとつ隔てた海岸線からは近代的な船のターミナルが海に伸びていて、周りの素朴な風景と少しアンバランスな感じだ。月に1回、大人たちを乗せた船が発着する時以外使われることがなく、今もその上で羽を休めているうみねこ以外、動くものはいない。

「夕日が綺麗で、時々ここまで来るんだ。」

そう言いながら、瀬名は堤防に腰を下ろす。

「陽太君は、本のほかに好きなものはあるのかい?」

「好きなもの…とは少し違うかもしれませんが、料理とか掃除とか…家事をするのは楽しいです。」

「小学生なのに偉いね、じゃあ今度何かご馳走してもらおうかな。僕はそういうのは下手でいつも適当にしてしまうから。」

「両親は留守で一人っ子だから自分でやるしかないんです。料理も、晩御飯の時間にウチに来てもらえばいつでもご馳走できますよ。」

図書館以外でも瀬名と会う時間ができれば、もっと本の話ができる。それにいつの間にか、本と関係のないことでも、瀬名ともっと時間を過ごしたい、そう思っている自分がいた。

「ずっとそうだったのに、家で一人でいることが寂しくなるときがあるんです。兄弟がいればいいのに、って…」

「兄弟、か…」

急に瀬名は陽太から目をそらし、水平線を見つめた。これまで見たことのない、悲しそうな表情で。

「瀬名さん?」

「いやごめん、何でもないんだ。」

すぐにいつもの柔らかい笑顔を見て、陽太は安心する。先ほどの表情は見間違いだったのかもしれない。

太陽は既に水平線に近づいて、空の色が変わり始めている。風が少し出てきたようで、ウミネコ達が、海に浮かぶ岩のまわりをぐるぐると飛び交っている。

「長居してしまったね。図書館に帰って、残りの仕事を手伝うよ。」

「ありがとうございます。でも大丈夫です。あとは書架の整理だけだったので、来週またできます。」

二人は立ち上がり、堤防の上を駐車場に向かって歩いていく。

「今日はゆっくり話ができて良かったよ、またどこかへ誘ってもいいかな。」

「はい、もちろんです。でも、瀬名さんって、結構積極的な人なんですね。意外です。」

「あはは…いつもはそんな事ないんだけどね。今日はつい、グイグイ喋ってしまった…」

照れくさそうに苦笑いをして瀬名は答える。

「じゃあ、その勢いでもう一言だけいいかな。」

瀬名は陽太の方に向き直り、少し改まった口調で続ける。

「陽太君、僕は今、この静かな町で暮らして、毎日海を眺めて、時々君の図書館に行って本を読んで、こうやって君と時間を共有している、この世界が好きだ。」

二人の間を冷たい海風が駆けていく。

「君は、どうなのかな。」

瀬名の一見優しいが、強い意志のこもった視線に、陽太は動けなくなる。でも、正直に自分の気持ちを伝えなければ、と思い口をあける。

「僕は…僕も好きです。」

それを聞いた瀬名はふっと微笑み、こう答えた。

「良かった、それが聞きたかったよ。」


「陽ちゃん、おはよう。」

「おはよう、ヒサくん。土日はどこかいけた?」

3日ぶりの学校。子供たちのおしゃべりで教室はにぎやかだ。

「それがさ、二人とも帰ってこれなくて…」

「えっ、そうなの?」

「定期便にトラブルがあって、出航できなかったらしいんだ。久しぶりに家族で過ごせるって、姉ちゃんと楽しみにしてたのに…」

久史は悲しそうにうつむく。陽太もだいぶ長い間両親に会っていないような気がする。

「電話したんだけど、それも繋がらなくて。あとでメールが来たんだけど、向こうで他にもいろいろ問題が起こって、今すごく忙しいみたい。」

「そうなんだ…」

「なんかさ、前の方が良かったって、陽ちゃんは思わない?」

久史は椅子の背もたれに顔を載せ、不満そうに陽太を見つめる。

汐見町は元々、こじんまりとした街だった。人口が少なく皆つつましい生活を送っていたため、町内の産業で経済が完結し、食料の大部分が自給自足できていた。それが1年前、外に良い仕事があるという噂が広まり、大人が仕事で町を離れるようになった。最初は一部の大人だけがせいぜい1、2週間家を空けるだけだったが、そのうち高校生ぐらいの若者までが数ヶ月に渡って仕事に出るようになり、町からは人が消えていった。

親からは毎月多額の仕送りが来るし、陽太達よりも小さい子供には保育士が面倒を見る制度が作られたため、生活に不自由することは無かったが、両親と会えない子供たちの不安は消えなかった。

「ヒサくんはよく家族で山登り行ってたもんね。僕は…あんまり家族で何かをしたことないから、正直わからないや。」

「陽ちゃんはしっかりしてるからなー。仕事がんばってるし。転校してきたときより今の方がずっと元気だよな。」

陽太は2年前、4年生に進級したのと同時に3人家族でこの町に越してきた。とは言っても両親は既に家を留守にすることが多かったため、最初から一人暮らしのようなものだった。引っ越す前のこと、そして引っ越して最初の1年のことはあまり覚えていない。ただ、心にぽっかりと開いた穴があって、でもそれが何故できた穴なのかわからず、もがき苦しんでいたのを覚えている。新しい環境を受け入れる気力も無く、学校でも誰とも話さずぼーっとしていることが多かった。しかし、図書館での仕事を始めてからは、その喪失感も次第に薄れていき、自然と学校でも友達を作れるようになった。

「ヒサくんも何か仕事してみれば?康介くんって言う、4年生の子が図書館にときどき来るんだけど、漁協で手伝いしてるんだって。」

「仕事かぁ…それならウチの店手伝いたかったのに。父さんも母さんも、なんであんなに遠くに行っちゃったんだろう。」

「うん…そういえばヒサくんちの八百屋さん、僕が一人暮らしで大変だからって、よくおまけしてくれたっけ。」

チャイムが鳴ると教師が入ってきて、子供たちは自分の席へと戻っていく。

少し開いた窓から心地い風が入り、カーテンが揺れている。陽太はこの町に着いた日のことを思い返す。目の前に広がる、時間が止まったような青い海と空、見慣れぬ町と人。それまで当たり前だと思っていた人と場所を急に失ったという感覚。でもそれらが何だったのかを思い出せないもどかしさ。毎日が充実していて場所を忘れてしまっただけで、今も心のどこかに埋められない穴がある。

「小海くん、大丈夫?」

急に隣の席のクラスメイトに声をかけられ、我に帰る。何故だろう、教室が、滲んでいる。

「あれ…僕、なんで…」

目に手をやると、知らないうちに涙があふれていた。あの夢を見たときと同じように。


あれから瀬名とは更に打ち解け、図書館以外でも頻繁に会うようになっていた。週に数回、瀬名が陽太の家に来て、晩御飯を一緒に食べ、そのお礼として陽太に勉強を教えてから帰っていく。陽太は読書は好きだが、学校の勉強となると勝手が違い、特に算数は苦手だった。

「円の面積を求める公式は覚えたんです。だから1ページ目はできたんですけど、5番からの変な形の求め方がわからなくて…」

陽太は午前中に学校で配られた宿題のプリントを瀬名に見せる。見ると、確かに単純な円の面積を求める問題はできていたが、円を分割したり、四角や三角などの他の図形と組み合わせた面積が難しいようだった。

「うん、見たことない図形だと余計にわかりにくいよね。まずはこうやって、陽太君が知ってる形に分けていったらどうかな。」

瀬名はそう言いながら、プリントの図形が二つの半円と一つの正方形に分かれるように線を引いていく。

「あっ、そうか。じゃあ円の面積の半分と、この正方形と…?」

「それでもいいし、この半円とこの半円を一緒にすると、1個の円になるだろ?」

「ほんとだ、じゃあ半分しなくても、普通の円と正方形の面積を足せばいいんですね。」

陽太は覚えたばかりの公式を使ってゆっくりと、でも確実に計算をしていく。

「7番は少し難しいかな。わかる?」

瀬名が指さした図形は、三角の中に丸がぴったりと収まり、三角と丸の隙間の面積を求めるというものだ。

「う~ん、さっきみたいに線を引いて分けたいんですけど…」

「これは実際に紙で作った方がわかりやすいと思うよ。」

瀬名は近くにあったチラシをハサミで切り、三角と丸の形をした2枚の紙を作る。

「こうやって二つの図形が重なってるってことだろ?二つとも陽太君が知っている図形。それで重なっているところ以外を求めればいいんだから…」

「わかった、三角から丸を引けばいいんですね。」

「そうだね。テストでも、おそらく図形の形に切った紙を使っていいことになると思うよ。だから、今の手順で落ち着いて考えていけば大丈夫。」

今まで難しいと思っていた問題が、見方を変えてみれば簡単に解けることがわかり、陽太は嬉しくなる。

「なんだか、瀬名さんって先生みたいに教えるのが上手ですね。」

「そうかな…」

「ううん、先生より上手いかもです。実は今教えてもらったところも、学校の先生には聞いたんですけど、よくわからないままで…でも瀬名さんと勉強してるとこんな簡単なことだったんだな、って。」

「学校の先生は、どうしても授業以外の仕事が多くて、生徒一人一人の特徴や得手不得手まで把握できてないことが多いからね。」

瀬名はもう少し陽太に慣れてもらおうと、ハサミで色々な形の図形を作っていく。

「陽太君は本を沢山読んでて想像力があるから、文章や公式の丸暗記より、なるべく絵で考えた方がいいと思うよ。図形の面積でも計算問題でも、絵を描いてみると分かりやすくなったりするから。」


宿題がすべて片付くころには外はすっかり暗くなっていた。二人は陽太の家から通りへ出る坂道をゆっくり下っていく。街の明かりはまばらで、建物の合間から少しだけ、遠くに黒い海が見えている。

「初めて陽太君の図書館を訪れたとき、ちょうど去年の今ぐらいの季節だったけど、君は今よりも物静かだったね。」

「もしかして、今の僕は、すこしうるさいですか…」

「あはは、そういう意味じゃないよ。」

真面目に心配していた陽太が少し面白く、瀬名は笑ってしまう。

「でもいい変化だと思う。きっと今が本当の陽太君なんだよ。」

陽太は少し先に進んでから、瀬名の方を向き直り、おじぎをする。

「ありがとうございます、瀬名さん。」

「え…」

瀬名は突然の感謝に戸惑う。

「なんだか、瀬名さんが図書館に来てなかったら、僕こんなに元気になってない気がするから。」

手を後ろに回し、少し首を傾げて陽太は微笑む。月明かりで優しく光るその瞳を見て、夜の海の色だ、と瀬名は思った。

くるりと前に向き直り、歩き始める陽太。わずかだが風に潮の匂いが混じる。瀬名は目を閉じて軽く深呼吸をしててから陽太の後を追う。

坂を下りると、そこには錆び付いたバス停の看板があり、そこが二人の別れる場所だった。

「じゃあ、また。明後日はこの前の本を返しに図書館に行くよ。」

「はい、待ってます。あ、そうだ…」

陽太は目線を逸らして迷うようなそぶりを見せてから、俯いて瀬名に小さな声で告げる。

「こんど、瀬名さんの家にも…行ってみたいです。」

瀬名は少し驚いたような目をしたが、すぐに元の優しい笑みを浮かべて答えた。

「…そうだね、いつか来てもらえると嬉しいな。」

笑顔で大きく手を振って見送る陽太。彼は最後の瀬名の笑みに悲しみが混じっていたことに気づいていなかった。

瀬名は角を曲がる前にもう一度手を振り返してから、堤防沿いの道を歩き出す。真っ黒に塗りつぶされた海は、時折月の光を反射しながら、低い波音をたてている。

…きっと…きっと彼は変わらずにいてくれる。理想を隠して、現実では不条理を受け入れるしかなかったあの時とは違う。もう、理想は現実になった。

顔をあげ、遠くの灯台を見つめる。

…今度は、絶対に失わない。


次の日の夜、陽太の家の台所は、野菜と肉の甘い匂いに満ちていた。緑色のエプロンを付け、鼻歌を歌う陽太。大きな鍋には4人分はあるだろう肉じゃがが、ぐつぐつと湯気をあげている。じゃがいもに串を通し、抵抗なくすっと貫通することを確かめてから火を弱める。醤油を少しだけ入れて味を見る。小海家の肉じゃがは砂糖とだしが主役で、醤油はあくまでも脇役なので慎重に量を決めなければならない。口に含んだ汁をしばらく味わい、陽太は呟く。

「…ちょっとだけ塩入れよう…」

普通の肉じゃがは砂糖と醤油だけで甘辛さをだすのだが、この肉じゃがは醤油が少ない分、その日の材料の配分によっては味に締まりが足りないことがある。そういったときに二つまみほどの塩を入れると全体の味のバランスがとれるのだ。

「うん…これぐらいかな…」

もう一度味見をして満足すると、陽太はテーブルの上に容器を並べ始める。1つは明日図書館で食べる弁当箱、1つは明日の晩御飯として冷蔵しておくためのタッパ、もう1つはゴムパッキンと大きめの金具が付いた丸い容器だった。

今日の授業の復習をしていると20分ほどの煮込みもあっと言う間だった。まだ湯気が止まらない鍋の中身を、容器ごとに量を調節しながらそれぞれの容器に流し込んでいく。最後の丸い容器は特に、全ての材料がバランスよく入るよう、そしてその材料が汁に均等に浸かるよう、丁寧に入れていく。蓋をして金具を締め、少し傾けて中身が漏れないことを確認すると、陽太はよーし、とうなずき笑顔を見せた。

今晩の分だけ残した鍋をコンロに戻し、後片付けを簡単に済ませる。丸い容器は安定して持ち運べるように無地の紙袋に入れた。エプロンを外し、椅子に掛けてあったパーカーを羽織る。その上に小さめのボディーバッグを背負い、紙袋を持つ。既に暗くなった外に出ると、日中降っていた雨は上がり、月も時折雲の隙間から姿を見せていた。まだ舗装や草木は濡れていて、空気も冷たい。

…瀬名さん、いるかな…もしいなかったら、明日お弁当として持っていこう。

陽太が瀬名の家を知ったのは今週の初めだった。下校の途中、夕食の材料を買いにスーパーに寄ったのだが、いつもの店が臨時休業で閉まっていた。汐見町にはスーパーは2つしかなく、もう1つの店は遠いためほとんど行ったことがない。いつもであれば諦めて翌日にするのだが、ちょうど食材を切らしていたため、20分かけてその店まで歩いた。その帰り道、偶然、赤いトタンに覆われたアパートの2階に入っていく瀬名の姿を見たのだ。

…でも、いきなり行って迷惑だったりして…

今更、不安がよぎる。でも、今まで家に来てくれるのも、出かけに誘ってくれるのも、いつも瀬名の方からで、自分はその気持ちを受け取るだけだった。自分から動いてみたい、いつもとは違うことをしたい、そうしたら瀬名さんはどんな顔をするんだろう。その気持ちが足を動かした。

…ちょっと甘めの肉じゃがだけど、おいしいって思ってくれるといいな。

これからのことを考えると、手の振り方は自然と大きくなり、足取りも軽くなる。しかし紙袋の中身のことを思い出し、しまったというように立ち止まり、また静かに歩き出す。それを繰り返しながら、陽太はぽつぽつと明かりが灯る夜の街を進んでいくのだった。


山を背にして少し高台に建つアパートの周りは街灯が少なく、トタンの壁は昼間見た時より黒みがかってほとんど茶色に見えた。切れかかった蛍光灯が点滅しながら断続的に音を立てるのを見て、先ほどまでの浮かれた気持ちが夜風で冷めていくのを感じる。陽太はなるべく足音を響かせないように気を付けながら錆び付いた階段を上り、2階の一番奥の部屋へ近づく。

ドアの上にある窓から明かりが漏れているのを見て陽太は少し安堵した。「204 瀬名」と表札もあり、やはりここが彼の家の様だ。陽太は緊張した面持ちでインターホンを鳴らす。故障しているのか、チャイムは聞こえない。ドアに耳を近づけると、微かにラジオのような音が聞こえる。

…出かけてるのかな…

陽太は紙袋をドアノブにかける。明日弁当として持っていってもいいと考えていたが、やはり暖かいままで食べて欲しい。それに、おそらく近くに軽い買い物をしに行っているだけで、すぐに戻ってくるような気がしたのだ。バッグに入れてあったメモ帳を1枚ちぎり簡単に瀬名への伝言を書こうとしたとき、紙袋の重さのせいか、風で押されたのか、ドアがキィと音を立てて少しだけ開いた。

「あ…」

中から明かりが漏れ、細い光が陽太の足元にのびる。鍵がかかっていないということは、中にいるのだろうか。

「…こんばんは…」

陽太は開いたドアから顔を覗かせ、小さな声で呼び掛けてみたが返事はない。玄関には電気が点いているが、廊下の先にある部屋は暗く人の気配が感じられない。やはり料理を置いて帰ろう。そう思ってドアを閉めようとしたとき、ふと足元に置かれた靴が目に入る。2つはおそらく瀬名のものだろう、黒い革靴と茶色のサンダル。もう1つは白地に赤色のラインが入ったスニーカーなのだが、サイズからして陽太よりも僅かに小さな子供用に見える。かかとの部分にマジックで書かれた名前を見つける。

「小海…。えっ…?」

自分の名字が書かれていたことに驚き、陽太はしゃがみこみスニーカーを近くで見つめる。よく見るとしっかりとした作りで、何かの競技用だろうか。あまり傷や汚れは無くほとんど新品に見えるが、埃をかぶって色が褪せており、長い時間ここに置かれていたようだ。

…なんで瀬名さん、僕の名前が書いた靴なんて…

気になるが、玄関の中に入ってしまったことに気付き、慌てて外に出ようと立ち上がる。すると先ほどまでは見えない角度にあったもう一つの部屋の扉が視界に入った。そこには緑のアルファベットで「HINA」と書かれた木のプレートが掛かっていた。


陽太は躊躇なく玄関を上がり、廊下の奥へ足を進めていた。

「…7月19日の気象情…をお伝えし…  明日から…夏休み…行楽地ではおおむね…」

廊下のつきあたりにあるドアは半開きになっていて、暗い部屋の中からは明るいアナウンサーの声が途切れ途切れに聞こえていた。その前を通り過ぎ、プレートがかかった部屋の前に進んでいく。その部屋の中を見なければならないという衝動に押されて。自分の胸にある空虚を埋めるものが、そこにあると確信していた。

勢いよくドアを開けた陽太が見たのは、窓から差し込む弱い街明かりに照らされた、何の変哲もない部屋だった。教科書が無造作に積まれ文房具がちらばる勉強机。白の羽毛布団と薄いピンクの枕が載った小さめのベッド。コート掛けに蓋が開いたままぶら下げられた赤いランドセル。壁に貼られたバスケットボール選手のポスターと、壁に掛けられた白地に赤いラインの入ったスポーツウェア。まるで時間が止まったかのように、全てが静かに存在していた。陽太はゆっくりと部屋に入り、勉強机の棚に置かれた写真立てを見つめる。幸せそうな家族写真。夏休みの旅行先で撮ったのだろうか、父親と母親、そしてその間に立つ陽太と同じぐらいの歳の少女と…今よりも少し幼い陽太自身の姿。

急に陽太の周りの世界がセピア色に変わる。窓の外には青空、高いところに薄く広がる雲、視線を下に移すと僅かだけ葉を残した庭木があり、その向こうに拡がる住宅街。

…ここ…僕の家だ…

後ろを振り返ると、先ほど歩いてきた瀬名の部屋の廊下があるはずの場所に、階段の踊り場があった。音が聞こえてくる。

「おーいもう出発するぞ。」足元から響く男性の声。

「陽菜、準備して…あら、陽太は?」女性の声が続く。

「まって、まだ降りてきてない。連れてくる!」そう応えながら勢いよく階段を昇ってくる少女。

そのまま部屋の中の陽太には気づかず隣の部屋に走っていく。

「あーまた本読んでるし。お昼食べたら行くって言ったじゃん。」

「お姉ちゃん、僕、これ読んでるから、行きたくない…」

「だーめ。ほら、ちゃんとマフラーと手袋して。」

「え~おもしろかったのに…」

少女はぐずる少年の手を引いて、階段を駆け下りていく。

…そうだ、僕、お父さんとお母さんと、お姉ちゃんと、ここに住んでた…

記憶が蘇ってくる。大きな庭付きの家、優しい両親、バスケットボールが好きで活発な2つ上の姉、溢れるほど好きな本を並べた自分の部屋、毎年夏休みに旅行に行っていた高原…。同時に気付く。汐見町に引っ越してきてから両親も姉も「いなく」なったこと。

…なんで僕、忘れて…

立つことを忘れ、膝から崩れ落ちる。頬を涙が伝った。

「陽太君」

突然、後ろから声をかけられる。振り向くと、部屋の入口に瀬名が立っていた。気が付くと世界は元の色に戻り、ずっと瀬名のアパートにいたことを思い出した。廊下からの光で逆光になった瀬名の表情はよく見えない。

「瀬名さん…僕…ごめんなさい、料理を…食べて欲しいと思って…それで…」

勝手に部屋にあがってしまい、びっくりさせただろう。悲しい気持ちを抑えて、俯きながら言葉を絞り出す。

「大丈夫かい?」

優しい口調に、少しだけ気持ちが落ち着く。

「はい、あの…勝手に入って、すいませんでした。」

かすれた声で答えると、瀬名はゆっくりと部屋に入ってきた。手には陽太が持ってきた紙袋を持っている。

陽太が顔を上げて瀬名を見たとき、壊れたビデオテープのように記憶が断続的に再生され始めた。記憶の中の部屋には夕日が差し込み、部屋に入ろうとする瀬名の手には鈍い光を放つものが握られている。ひどい頭痛を伴って、暴力的に流れる記憶が現実を塗りつぶしていく。

「いやだ…だれ…来ないで…」

腰を床につけたまま、瀬名から遠いほうへと後ずさる。腕とひざが震えて上手くカーペットを捉えられない。

「陽太君、落ち着いて、怖がらないで。」

瀬名が冷静な声で言う。現実の瀬名か、記憶の中の彼か、どちらが喋ったのか陽太にはもう区別がつかない。

背中がベッドにあたり、ふいに陽菜がまだベッドで寝ていることに気付く。

「お姉ちゃん!おきて、お姉ちゃん…!」

力任せに陽菜の身体を揺さぶる。起きない。重くて冷たい身体。その内彼女を覆う羽毛布団に、赤黒い染みが広がっているのに気づく。

そこでふっと気が遠くなり、陽太は羽毛布団を握りしめたままカーペットの上に倒れこんだ。後に残ったのは暗い静かな部屋と、死んだように眠る陽太を見つめる瀬名だった。


陽太は夢を見ていた。そこは船の中。ものすごい速さで高度を上げていく。陽太は何かの透明なケージに入れられているようで、身体が重く動かない。地表が遠ざかり、雲を抜け、大きな窓から見える景色はどんどん暗くなっていった。やがて暗闇に浮かぶ、自分が生まれ育った地球。しかし海は土砂で濁り、陸を侵食していた。大地にはいくつも赤い亀裂が走り、緑は焼き尽くされて、星は煙に覆われていた。声がしたためかろうじて眼球を動かすと視界の端で子供たちが輪になって座っているのがわかったが、話の内容までは聞こえなかった。再び曖昧になる意識。夢はぷつんとそこで途切れた。


「もうかなりを思い出してしまっている。」

台座に横たわる陽太の額から指を離して、少年はそう言った。赤い宝石のような瞳、ひざまで伸びた銀色の髪、内側から白く輝く透明な肌。確かに動いているのに、生きているのかわからない、そんな少年の声は、聞いた者の知性を刺激するような、凛とした響きを伴っていた。

「2回目になるからね…記憶がさらに深く定着してしまっている。彼の心にかなりの負荷をかけることになるよ。」

真珠の色をしたケープの裾を揺らしながら、少年はゆっくり歩みを進める。歩いているのだから床はあるはずだけれど目には見えない。足元も、周りも、そして見上げても、全ての方位にどこまでも闇とその中に浮かぶ無数の銀河が広がっている。少年の歩みの先には、椅子に座り手を握り締めて俯く瀬名の姿があった。

「僕のせいだ、僕のエゴで陽太君を助けてしまったから…いけないとわかっていたのに、陽太君に近づいてしまったから…」

そう話す瀬名の背中は震えていた。少年は歩みを止め、哀れみを含んだ眼差しを瀬名に向けて答える。

「ミツル、僕はあの時、君に警告したはずだよ。彼に姿を見せてはならない。君がどれだけ注意しようと、互いを傷つけることになると。」

瀬名は僅かに顔を上げ、目線の先の闇を見つめる。目の下には隈ができ、もともとの無精ひげは更に伸び、数日間思いつめていたことが伺える。

「陽菜はあの時には既にだめだった。僕が好きだった陽菜は汚い大人たちに汚されていた。あれ以上生かしておくのはかわいそうだった。」

遠くで彗星のような光線が走り、キーンという乾いた音が空間にこだまする。瀬名の瞳には涙が溜まっていた。

「でも陽太君はそうじゃなかった。助けなきゃいけないと思ったんだ。今の世界で陽菜の分まで、永遠に子供でいて欲しいと願ったんだ。」

瀬名は搾り出すように言った。少年は再び歩き出し、瀬名に問いかける。

「それが、僕の話も聞かず、彼の前に姿を現した理由かい。」

「そうだ…でも、理想郷に、理想を求める者が干渉してはいけなかったんだ…自分でどんなにごまかしても、僕達はもう大人だ。子供に影響を与えずに共に過ごすなんてできなかった。」

少年は眠る陽太の姿と自らの指を見比べ、少し考え込んだ後、こう問いかけた。

「彼の気持ちには気づいていたのかい。」

その瞬間、空間から彼ら以外の一切の音と光が消え、冷たい沈黙が満ちた。その沈黙からもう一度世界を生み出すように、瀬名が口を開いた。

「ああ、怖かった…陽太君も陽菜の様になってしまうんじゃないかって。」

空間に呼応するように、瀬名の声も少しずつ温度を失い、震えは無くなっていった。

「でもそれ以上に自分が不気味だった。どこかでそれを求めているとわかってしまったから。」

それを聞いた少年は、少しあきれたような苦笑を浮かべ、瀬名の横に立って言った。

「大きな犠牲を払って、僕達は今の世界を手に入れた。でもどうやってその世界を動かしていけばよいかわからなかったから、この星で一つの可能性を試していた。これからどうするのかは、ミツル、君に任せるよ。僕はただ、人類に場所を提供したにすぎないからね。」

瀬名は横を向き、少年をまっすぐ見つめながら言った。

「ムラサキ、この星でのテストを次の段階に進めよう。時間はかかるかもしれないが、完全な子供だけの理想郷を作るんだ。」


最初に見えたのは無機質な白い天井。ぼやけた視界がはっきりするのを待って、首を横にすると、白いカーテンが風で揺れていた。反対側を向くと、いくつかベッドが並べられていて、ここが病室だとわかる。

思考が朦朧としている。なぜ病院のベッドで寝ているのか、今が何月何日なのか、思い出せない。ただ、窓からかすかに聞こえる波の音と海鳥の声が、心を穏やかにしてくれていた。

ふいに廊下から慌しい足音がしてそちらを見ると、中学生ぐらいの少女が看護服を着て病室に駆け込んできた。

「小海さん、気がついたんですね! 良かった~今簡単に検査しますから。」

少女に追走して医療ロボットも病室に入ってくる。

「えーっと、まずここを押して… これがここに繋がって… あれっ、ここはどうだったっけ…」

慣れない手つきで少女はロボットから伸びるセンサーを陽太の身体に付けていく。画面上の指示を何回も確認して、やっと検査が始まった。

「あの…僕、なんでここに…」

画面とマニュアルを交互に凝視する彼女には悪いと思いながらも、陽太はたずねた。

「あっ、ごめんなさい、その説明が先でした! ちょっと待ってくださいね…」

経験が足りないことを考慮しても、少しそそっかしい性格のようだ。大丈夫かな…陽太は心の中で苦笑いをしてしまう。少女はいったん検査を中断し、ベッド脇の椅子に腰掛けて説明を始める。

「昨日の夕方、小海さんが図書館の中で倒れていたところを、たまたま訪れた人が見つけて運んできてくれたんです。軽い熱中症でしたので身体を冷やして、栄養剤を点滴しました。そのあと1日近くずっと眠ってて…」

陽太はうっすらと思い出す。そうだ、図書館での書架整理作業中に倒れてしまったのだ。改めて耳を澄ますと、波の音をかき消そうと競うように蝉が鳴いているのに気づく。屋内とはいえ、夏も盛りの時期に水分を取らずに作業を続ければ当然そうなってしまう。それにしてもあの誰も来ない図書館に来訪者がいたとは…後でその人の住所を聞いてお礼をしよう。

「そうでしたか…ありがとうございました。でもすごいですね、中学生で、こんな難しい仕事についていて。」

陽太は素直に思ったことを少女に伝えた。医療や教育等、難易度が高い職業は、汐見町でも子供はアシスタントとしてしか雇われていなかったはずだ。何か理由があるのだろうか。

「今はこんな状況ですからね…」

少女は少し声のトーンを落として続ける。

「これまでみたいに大人に頼れないですから、子供でも、できることは少しずつ覚えていかないと。」

「…こんな状況って、何のことですか…?」

陽太には少女の言っていることが理解できなかった。すると、少女のほうが不思議な顔をして陽太を見つめる。

「えっ、ほら、小学校でも話があったと思いますけど…。大人たちが働きに行っているコロニーで事故があって、船がこっちに帰ってこれなくなっちゃって…。救援のためにこの町からもお医者さんとか大人が沢山向こうへ行ってしまったから…」

そうだ、思い出してきた。それで今汐見町は以前にもまして大人が減って、子供の役割が大きくなっているんだ。自分には両親がいないからあまり気にしていなかったのだろうか…そう陽太はぼんやり考える。

「そうでした、ごめんなさい変なことを聞いてしまって…。」

「いえいえ、起きたばかりでちょっと混乱してるんですよ、きっと。それよりも、小海さんは図書館でしたよね、いいな~私も座り仕事がよかった。」

「あはは、でも図書館も意外と大変ですよ。毎月、本部から新しい本が送られて来て、それと一緒に書架を整理しないといけないんです。誰も借りる人がいないのに、何で来るんだろうって不思議なんですけど。」

ロボットからビーと警告音が鳴る。少女は慌てて立ち上がり画面を確認すると、大きなため息をつき、とても申し訳なさそうに陽太のほうを見た。

「すいません…あの、止めたと思ったのに検査してたみたいで…もう1回、最初から取り直してもいいですか…」


検査が終わり、少女が出て行くと、病室は再び静かになった。少し暑いからとつけてもらった扇風機の風が、時折陽太の前髪を揺らす。退屈しのぎにと少女が置いていった雑誌の束から適当に1冊を抜き取って開いた。

どこか技術の発達した星で発行されたらしいその雑誌には、のどかな汐見町では誰も気にもとめないような、最先端の研究結果や論文が並んでいた。『銀河系全域で観測されている二次性徴の遅れについて』というページが目に留まる。使われている用語が難しくあまり理解できないが、子供の身体に異常が起きていて、いろいろな星の科学者たちが共同で研究を進めているということらしい。

雑誌の横に置かれていた汐見町の広報にも目を通す。ここは、表面の99%が海に覆われ、わずかな陸地にこの街だけが存在する、銀河系の辺境の惑星。今後、労働力の不足が深刻化することを見越し、町の行政にも中学生や高校生が関わっていく方針が伝えられていた。また、従来日常生活をなるべく人間主体で送ってきたこの町でも、警察等すぐに子供が取って代わることが難しい仕事をロボットやAIに代行させることについての検討が始まったそうだ。

僕の図書館は、何か役割を果たすことができるだろうか。陽太は考える。今は誰も来ないさびしい建物だけれど、いつかみんなに必要とされる場所になって、この町に貢献したい。何かが大きく変わろうとしている。人類はより幸福になるのか、それとも不幸になるのか。窓から吹き込む風に少しだけ心躍る香りを感じ、陽太はベッドから立ち上がるのだった。

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