成長

@aki0125

陽菜

教室で資料作りをしていると、ふいに塾長から声をかけられた。

「瀬名君、遅くまでお疲れさま。明日の準備かな?」

瀬名は背筋を伸ばし、少し声を上ずらせて説明する。

「お疲れ様です。あの・・・明日の数学のプリントが、まだできていなくて…」

夜9時の最後の授業が終わってから作業を始め、時計はそろそろ10時を示そうとしていた。今日はいつもより担当した授業の数が多かったこともあり、心身ともに疲労が強く、パソコンの画面を見つめる目をさっきから何度もこすりながらの作業だった。

塾長は印刷され机の上に並べられたプリントの1枚を手に取り、ふむふむとうなずきながら読みだす。

「実にわかりやすい、さすが瀬名君だ。そうか、ここは難しいけれど、こういうふうに書き直せば子供たちにわかりやすいんだね。」

「ありがとうございます!はい、そこは・・・」

気をつけた点、工夫した点をいくつか説明していく。塾長はひとつひとつの点になるほどと感心したり、共感してアドバイスを加えていく。

大人がそうであるように、生徒にも色々な性格の子がいる。勉強の苦手な子、集中力のない子、緊張して質問ができない子・・・。一人ひとりと向き合い、なるべく多くの子達が苦手を克服できる授業をすることが、瀬名が塾講師になったとき心に決めたことだった。

「でも、すいません、まだ日誌が書けていなくて…週明けには必ず提出しますので…」

「そんなものは時間のできたときにすればいいんだよ。」塾長は満足げな顔で微笑む。

「塾にとって一番大切なのは、子供たちの親御さんがお金を出して塾に通わせる価値のある授業をすることだ。他の講師には授業は出来合いのもので済ませて、もともと勉強の得意な子供たちを志望校に入れることを優先する者もいる。まぁ、要領がいいんだよね、彼らは。」

実際、問題のある子だと気づいた瞬間、その子がいくら学ぶ姿勢を見せようとも適当にあしらう講師も中にはいる。そして最初からレベルの高い学校に入れることが確実な生徒に時間を割いたほうが、講師としての実績を作るには効率がいいのだ。

「僕はそれを批判したいわけじゃない。何しろ実績を残して生徒を呼び込まないと経営は行き詰ってしまうからね。でも、瀬名君みたいに、時間はかかるかもしれないし…そうだね…華やかではないかもしれないけど、勉強が苦手な子供たちに根気強く教えることができる講師も、必要なんだよ。」

瀬名はもともと人見知りで、口下手で、講師に向いていないことは自分でもよくわかっていた。実際、初めて大勢の生徒の前で授業をしたときには緊張で身体が震え、頭は真っ白で、気づいたら授業が終わり呆然と教壇に立っていた。でも授業の後、生徒から個別に相談を受け、その子供に合った方法で疑問点を解決していく瞬間にとても充実感を感じたのだ。そこで塾講師になって1年間、一人ひとりに向き合うことに力を注いできた。だから、塾長の言葉は、自分の方向が間違っていなかったと、とても勇気付けられるものだった。

「そう言っていただけて、本当に嬉しいです」瀬名は立ち上がって頭を下げる。

すると塾長もこれはこれはという風に立ち上がって深々とお辞儀を返した。

「お礼をしなければならないのは僕のほうだ。君に来てもらえて本当に良かったよ、困ったことがあったら相談に乗るから何でも言ってほしい。では僕は本部に寄っていくから、後は頼んだよ。」

そう言って塾長は機嫌よさそうに教室を後にした。お疲れ様でしたと見送り、瀬名は1日の疲れが吹き飛んだかのように、再び資料作成に没頭し始める。その日瀬名がビルの戸締りをしたのは、日付が変わるころだった。


「なんか今日暗くね?」

先ほどまで鉛筆回しに集中していたと思っていた陽菜が突然言葉を発した。見ると覗き込むようにこちらを見つめている。

「えっ…そうかな…いい天気だと思うけど」瀬名は窓を見ながら返事をする。今日は梅雨の晴れ間で、青空には入道雲の子供のような小さな雲がいくつも並んでいた。

「違うよ、ミッツが」

「へ、俺が?あー…」

おそらく原因は午前中に受けた、ある保護者からの電話だ。陽菜とは別の、成績は平均的な生徒なのだが、親の方針で地域でもトップクラスの難関私立中学を志望しており、大幅な成績アップを要求されていた。しかし生徒本人は友達のいる公立に入りたいと思っており、勉強にもやる気を見せず、指導は思うように進んでいなかった。正直瀬名は無理やり受験勉強をさせることにも抵抗を感じており、生徒本人のために何ができるのか悩んでいた。そんな中受けさせた模試では当然良い判定は出ず、親からクレームが来たということだ。

「まぁちょっと・・・いろいろあってね。」

「せっかく久しぶりの晴れなのに~ミッツのせいでジメジメするぅ」

陽菜は椅子を背もたれが後ろの机に当たるまで傾け、大きく伸びをする。小麦色に焼けた肌、子供らしく細いけれど引き締まった腕。バスケ部で毎日ランニングをしている陽菜は、無駄のない綺麗な身体つきをしていた。

「ごめんごめん、そうだよな…うん、落ち込むのやめるよ。」

「そうしたまえ!」そう完全に上から目線の感想を述べると、今度は机に顔を近づけプリントに何かを書こうと鉛筆を握り締め、考えを巡らせているような表情に変わる。が、それは一瞬で、素晴らしい悪巧みを思いついたというような顔を瀬名に向けた。

「せんせーは、こんな日に、どこかへいくご予定はないんですかー」

「うーんそうだな…しばらく高根山には行ってないから行きたいかな。あの辺りはヤシロコウがたまに見られるから…」

「ふ~ん。で?誰と?」

「誰とも。かなり山林を移動するからな。それに、一人のほうが静かなスポットで、自分が満足するまで観察できるし…」

いつの間にか陽菜から不審者を見るような目を向けられていることに気づく。

「ということはまだカノジョもいないお一人さんだと」

「いや、まぁ…仕事が忙しくて…」瀬名は困ったという感じで頭をかく。

あきれた~つまらない~という風に陽菜は深いため息をつき、プリントを机の端に押しやり天井を見つめた。

陽菜が5年生になってから少し恋愛に興味を持ってきたのか、こういう質問が時折くるようになった。おそらく大人になれば皆、恋をし、週末はデートに勤しむ、と考えているのだろう。恋愛に全く縁のない瀬名としては、好奇心に満ちた少女を楽しませる回答ができず、申し訳ないとさえ感じることがある。それよりも、初めてそれに気づいた日から、決して抜くことのできない、いつか心臓に到達するトゲが身体に刺さったような不安から、目を背けられない自分がいた。

「陽太も大丈夫かな…なんだかミッツと同じにおいがするんだよね~」

「陽太君…弟だっけ?」

「うん、あの子、部屋が本で埋まってて、休みの日も友達とあそばずに本ばっか読んでるの」

「あはは、確かに俺と似てるかもね。どんな本が好きなの?」

「よく知らないけど…ファンタジーとか? しょうらい図書館ではたらくんだ~って言ってる」

ふと時計を見て、思ったよりも長話をしてしまっていたことに気づく。

「で、さっきの問題はできたのか?」

「わかりません!教えてミッツ!」元気にお辞儀をしながらプリントを差し出す陽菜。瀬名は、はいはいと教材を開き、隣に座って解説を始める。

陽菜に最初に会ったのは去年の秋口だ。さらさらの黒髪のショートカット、大きく澄んだ瞳、ボーイッシュで活発な女の子、というのが第一印象だった。小学校のバスケ部でエースだった彼女は4年生の夏休み明けのテストでよくない結果を出し、部活を続ける条件として親にこの塾に入れられた。特に算数で大分遅れをとっていたので、担当が数学の瀬名は彼女を頻繁に担当することになった。

最初は正直勝気な感じが苦手で、勉強にも興味を示さず、新人講師だから舐められているのではないかと悩んだ時期もあった。が、何回かこうして授業後に個人指導を繰り返すにつれ、いつのまにかこの塾で一番仲の良い生徒になっていた。瀬名が新人講師なりに一生懸命に教えようとしていることが陽菜に伝わり、また実際成績も徐々にだが良くなり、陽菜が信頼感を持ったのだろう。

「できたーっ!」陽菜は全てから解放されたというように気持ちよい伸びを見せる。

「お疲れ様、よく頑張ったな。」

「ミッツー、私すごいよ、こんなむずかしい問題できちゃってる、しかもなんか楽しい…4年のときもう算数の問題見るだけでだめだったのに…」

「陽菜が頑張ったからだな、うん。」

「いやいやーミッツのおかげやし、ありがと!」

こげ茶のランドセルに筆記用具を詰めながら、屈託のない笑顔で礼を言う。

「そういえば、この前話してくれた大会に向けて練習は進んでる?」

「ばっちし。この前のテスト良かったから、今回は男子の応援にも行けそう。」

塾講師なのだから、本当は他の事をやめさせてでも成績を伸ばせばよいのだが、それはしたくなかった。生徒がやりたいことがあるのなら、それが勉強でなくても自分のできることで応援したい。それが生徒一人ひとりに向き合うということだと考えたからだ。

1階のエントランスまで一緒に降りてきて、くるりと瀬名の方を向いて小さく手を振った。

「じゃあね、ミッツ、また明日~」

「うん、またな。気をつけて。」瀬名も手を振り返す。

自分のことを、塞ぎこんでいた学生時代、一度も呼ばれなかったあだ名で呼ぶほどに慕う彼女。おそらく同年代だったらここまで仲良くなることはなかっただろう。スカートを履いているのは見たことがなく、いつもTシャツズボンにスニーカー、男女関係なく友達が多い。学生時代よりも大分改善されたが、今でも相手が異性というだけで人と距離をとりたくなる彼にとっては、子供というのはどちらでもない、自分をありのまま受け入れてくれる存在だった。活発な性格も仲良くなってみれば自分の口下手な、けれども生徒の前では講師として努めて隠している、本性と相性がいいのかもしれない。

塾の玄関を出て、スキップ気味に駅の方へ向かう陽菜。角を曲がり見えなくなるまで、彼女を教えられる自分は本当に幸せだと、瀬名は考えながら見つめていた。


明日から夏休みということで、休み時間の教室は夏休みの話で持ちきりだ。家族で海外に旅行に行く、部活で合宿がある…聞いているだけで、こちらも子供時代に戻ったような気持ちになる。

「瀬名君、ちょっと」

突然廊下にいる塾長から声をかけられ、今さっき集め終わったプリントの整理を一旦中断して廊下へ向かう。

「お疲れ様です、何でしょう。」

「突然なんだが、明日から清里での合宿に参加してもらうことはできないだろうか。」

「えっ、清里・・・講師研修ですか?」

夏の清里合宿といえば、本部が毎年開催しているもので、所謂カリスマ講師と呼ばれる者たちが指導役となり、全国から集められた将来有望な若手講師に手ほどきを行う、というものだった。基本的に1校からは塾長の推薦で1人のみ参加可能であり、向上心のある講師達にとっては有名講師に直接指導を受けられる憧れの機会だった。

「もちろん無理にとは言わない。期間は夏休み中の3週間だから、こちらでの夏期講習には後半の一部しか参加できないことになってしまう。」

陽菜の顔がよぎる。彼女は夏期講習に申し込んでいたから、本当であれば夏休み中頻繁に受け持つことになるのだろう。ここ数ヶ月調子も上がってきているようで、時間のある夏休み中に進度を上げれば、休み明けのテストで良い結果を残せるかもしれない。

「でも、私で良いのでしょうか…他に講義の得意な先生はいますし、私が有名講師の真似ができるとは思えなくて。」

言うまでもなく、カリスマ講師の大半は喋りが上手く、生徒受けも良く、所謂熱血教師的な資質を持つ。正反対の性格の自分が参加したところで、役不足なだけではないか。今まで瀬名はそう思っていたので彼らの真似をしようと考えたことも無かった。

「逆に私はそこに期待しているんだ。たしかに脚光を浴びるのは堂々としていて情熱的な講義をする者であることが多い。でも生徒の中には瀬名君のような物静かで繊細な感覚を持った人間に教えてもらいたいという者もいる。瀬戸君がカリスマ講師からその技術を学んだら、どんな授業が行われるのか見てみたいんだよ。」

正直塾講師自体、強く望んでなったわけでは無かった。学生時代、勉強は得意だったがそれ以外の活動に意味を見出せなかった。就職活動では面接で落とされ続け、ようやく内定がとれたこの塾も、人と話すのが苦手な性格ではどうせもって1年だろうと、最初は不安でいっぱいだった。それが自分なりに努力してきたことが認められるだけでなく、将来に期待までされていると伝えられ、瀬名は嬉しさを噛み締めていた。

「ありがとうございます。私でよければ、是非参加したいと思います。」

「受けてくれて良かった、明日からの夏期講習の代役には阿佐木先生を充てよう。」

詳細はまたメールするからね、と上機嫌で廊下を去っていく塾長。夏への期待と少しのプレッシャーに浸りしばらくそれをぼーっと見つめていたが、ふいに次の授業5分前を告げるチャイムが鳴る。次の授業ではたしか陽菜がくるから、このことを伝えなければ、と考えながら瀬名はプリントの整理を急ぐのだった。


授業が終わると2人の生徒から質問を受けたので、順に個別指導を行う。その間陽菜はしばらく友達と喋っていたが、友達が帰ると退屈そうに窓の外を眺めていた。梅雨らしくどんよりとした空。朝から弱い雨が続いて、7月にしては少し肌寒い。

金曜日は母親の帰宅が遅いらしく、授業後に教室で時間をつぶしていることが多い。その時間にこの1週間でわからなかったところを瀬名と復習するのが、毎週のルーチンとなっていた。

「ごめん、おまたせ」2人が帰り、教室に他に誰もいなくなると瀬名は陽菜に声をかける。

「まった~ミッツおそいよ~」

少しふてくされた顔で、陽菜は教科書を開く。

「小海さん、どこの復習をご希望でしょうか」

少しおどけた言い方をしながら瀬名が教科書を覗き込むと、そこは小数の割り算のページだった。確かに今までの整数での割り算と違い感覚的に理解が難しいことから、つまづく生徒が多い分野でもある。

瀬名はまず陽菜がどこに不安を感じているのか探りながら、少しずつ解説を進めていく。ちらっと陽菜をみると、先ほどとはまったく違う真剣な表情で聞き入っている。

幼いころからスポーツをしてきた彼女は、勉強に苦手意識があったが、もとから瞬発的な集中力は高かった。担当するようになってしばらくしてそれに気づいた瀬名は、一気に全てを理解させるのではなく、部分ごとに解説と演習を行い、少しずつ理解を深めさせるようにしていた。そして合間合間に雑談の時間を設け、部活や学校のことを聞くなど、リラックスして学習が行えるよう心がけていたが、それがいつしかお互いの楽しみになった。

「え~しばらくミッツ来ないの?」

夏期講習に参加できないことを話すと、予想通り残念そうな返事が返ってくる。

「ざんねんやなー…夏休み勉強がんばろうと思ってたのに…」

「おいおい、先生がいなくても頑張ってくれよ。」

「あっでもちょうどいいかも、わたしも前半忙しくて、どれだけ塾これるかわかんないかも…」

「試合とー合宿だっけ?」

「うん、そんで帰ってきたら夏祭り友達と行くんだ」

今から楽しみでしょうがないという風に足をばたばたさせて答える。

「土岐川のか、いいなぁ~充実してるじゃないか」

瀬名自身は子供のころの夏休みの思い出というと、両親と旅行に出かけていたことぐらいしか思いつかない。外で遊ぶ友達もなく、そもそも休みの日は家で勉強と読書をしているのが一番充実していた。でも陽菜のはしゃぐ姿を見ていると、自分がそうやって中学高校と過ごしてしまったのが少し残念で、あの時、陽菜のような友達と一緒に過ごしていたら、と空想せずにはいられなかった。

「でもちょっと合宿ユーウツなんだ~ 男子もいっしょとか意味わからんし」

男子バスケ部は強豪で、女子よりもさらに練習に力を入れていると聞いたことがある。あと、やんちゃな子が多いらしく、よく女子部員に意地悪をしてくるらしい。陽菜はいじめられる様な性格ではないし、この歳の子供ならよくある戯れなので、時折陽菜から文句を聞かされる瀬名は軽く聞き流している。

「ふんふん大変だなー…よし、勉強の続きするぞ。」

休憩時間の5分が過ぎたのを確認し、瀬名は教科書の続きを開く。陽菜はまた聞いてくれないーとすこし拗ねたまま勉強が再開するのだった。

しばらく質問ができないとあって話は盛り上がり、個人指導が終わったのはいつもより30分ぐらい遅かった。雨はやんでいたが外は暗くなっており、コンビニに行くついでに瀬名は駅まで陽菜を送っていた。

「終業式の前日は、何か特別なメニューだったりしないのか」

「んーと…コーヒーアイス出たよ。じゃんけん勝って3つ食べた」

笑顔でピースをしてくる。

「いいよな~毎日違うメニューが食べれて…俺最近自炊ワンパターンでさ。」

「コーヒーアイスはいいけどトマトアイスはムリ、あれありえんし」

たわいもない会話をしながら駅までの道を並んで歩く。信号待ちで立ち止まった時にちらっと見た陽菜の横顔は、街や車の明かりに照らされて、明るい教室で見るより少しだけ大人っぽく見えた。

瀬名はこの少女が明日から本当に充実した夏休みを過ごすことを知っている。部活、合宿、祭り…おそらく家族で旅行や海に出かけたりもするのだろう。学生時代の自分には縁のなかったこと。できることならそれを近くで見守って毎日のように報告を聞いて、その時間を共有したいのだが…とは言っても会えないのはたった3週間なのだ。講師研修から戻ってからたくさん話を聞けばいい。きっと彼女は塾では話しきれないような思い出を沢山作るのだろう。

「ミッツ、コンビニだよ」

いろいろ考え事をしていたら、いつの間にか自分の目的地に来ていた。

「じゃあ、合宿とか気をつけてな。忙しいかもしれんけど勉強もちゃんとするんだぞ。俺が帰ってくるまでに…」

「わかってるって。チャプター5までの練習問題でしょ。ミッツにも宿題あるからね。」

「へ?」

陽菜はくるりと瀬名に向き直り、いたずらな笑みを浮かべる。

「カノジョさん作ること!がんばってね~。じゃっ」

苦笑いをする瀬名を残して、陽菜は駅の改札口へ上がるエスカレータに向かって駆けていく。エスカレーターに乗ってからこっちを向いて元気よく手を振る陽菜に、少しだけ手を振り返してから瀬名はコンビニへ入っていった。


瀬名が参加した清里での研修は、とても充実したものになった。研修施設は山奥の古いコンクリート造りの建物で、正直怪談スポットと言われても疑わないだろう。周りに何も無いのには少し戸惑ったが、夏到来を告げるセミの声と近くの川から聞こえるせせらぎが心地よい。普段の雑多な講師業から離れ3週間、本来の授業スキルの習得に専念することができた。また研修を受けに全国から集まった他の若手との有意義な情報交換の場ともなった。帰りのバスの中、瀬名は塾長へ提出するレポートの作成をしながら、今後の授業にどういかそうか、考えを巡らせていた。

慣れない環境で過ごしたせいか、帰ってきてから2日間は体調を崩して塾を休んでしまった。ちょうど土日をはさんだため、塾に出勤できたのは8月も後半になっていた。

同僚より少し遅れて参加した1年ぶりの夏期講習、クーラーの効いた教室を見渡すといつもの席に陽菜の姿があった。ふいに3週間前に駅でした会話が思い出される。

「残念、恋愛のれの字もなかったよ…」

瀬名はそう心の中でつぶやき授業を進めるが、陽菜の服装がいつもと少し違うことに気付いた。

「…珍しいなスカートなんて」

最近流行りだしたチェックの膝丈のものに見える。窓からの日差しが強くよく見えないが、上着もどことなく可愛らしいデザインのものを着ているようだ。陽菜ももう高学年だ。今まで親が選んでいた服を、自分で選びたいこだわりができたのかもしれない。

授業が終わると、瀬名はいつものように陽菜の席へ向かう。休憩時間ということで換気のために窓を開けたため、そこから蒸し暑い風と大通りの車の音が入ってくる。

「ミッツおひさー」

いつものようにフランクな挨拶をする陽菜。良かった、いつも通りだ。と安心感を覚えた自分に瀬名は一瞬戸惑ったが、平静を装い会話を続ける。

「試合勝ったか?」

陽菜は自慢げにピースサインを突き出す。

「おめでとう、良かった。ネットで見たけど試合結果までわからなくてさ。」

「じっさいギリだったけどね~相手のエースめっちゃ強かったし」

「坂下小だろ?すごいよ、たしか去年の地区準優勝だったよな。」

「うん、だから先生もキセキや~ってよろこんでた。」

陽菜と共通の話題を持つため、地域のバスケ事情についてはある程度調べていた。陽菜は試合で良い結果を残せたのが本当に嬉しいのだろう、自分がどんな活躍をしたのか、チームはどうピンチを切り抜けたのか、しばらく話し続けた。

「祭りはどうだった?今年は大玉上げたのか?」

その瞬間、陽菜の周りの空気が変わったように感じた。

「お祭りは…どうだったっけ…えっと、花火見れたよ」

先ほどまで瀬名を遠慮なく見つめていた瞳は少し伏せ気味になり、西日のせいか、頬が少し赤い。初めて見る表情だった。

「そう…か。去年は強風で取りやめになったからな。先生も見たかったな。」

「うん…綺麗…だった」

陽菜は膝の上で指を交差させ、さらに俯く。陽菜の周りだけ、夏の蒸し暑さとは違った火照りが見える。眩暈がする。

自分がいない間、陽菜の夏休みは充実していたようで、嬉しい。でも、目の前にいる彼女は、自分の知る陽菜だろうか。

沈黙のせいで、夕方になってより勢いを増したセミの声が耳につく。

「あ…そうだミッツ、これ、お土産」

陽菜がいま思いついたというようにカバンから取り出したのは、おそらく家族旅行のお土産だろう。瀬名はぎこちなさを出さないようにしながら受け取る。

「おお、ありがと…ってこれ去年と一緒じゃないか。」

「あはは、だってうちいつもここ行くもん」

陽菜の笑いと共に、いつのまにかいつもの教室の音に戻っていた。隣の教室ではつのまにか授業が始まっていて、別の講師の声が聞こえる。

その後、今日は用事があると言って陽菜は早めに教室を後にした。もう完全にいつもの陽菜だった。例えば何かに怒っているとか、塾をやめたくなったとか、悪い出来事を予想わけじゃない。むしろ瀬名自身は研修で成長を実感し、陽菜は充実した夏休みをおくっていて、いいことじゃないか。それでも消えない違和感と焦燥に、瀬名はむしろ自分がおかしくなってしまったのではないかと、誰もいなくなった教室でしばらく立ちすくんでいた。


研修の成果か、しばらく塾を離れて自身を客観的に見ることができたのか、瀬名は以前より大勢の生徒の前で講義を行うことに不安を感じなくなった。また、今まで自分には合わないと避けてきたいわゆる「講義テクニック」も実践できるようになり、自身でもより多くの生徒の心をつかむ講義をできるようになったと実感していた。夏期講習最終日の実力テストで、瀬名の生徒達は塾でも上位の伸びを見せ、塾長から表彰を受けた。

「ミッツ、見て、すごいっしょ」

休み明けの学校でのテストが終わると、陽菜は真っ先に結果を瀬名に見せた。1年前は想像もできなかったような良い出来。夏休み前に苦手としていた部分でもしっかり点数が取れている。

「よくやったな、陽菜、おめでとう。」

そう言って瀬名はいつものように頭をなでようとして、ふと手を引っ込めた。

「お母さんにもほめられた。これで新しいバッシュは私のものだ」

陽菜は得意げにふふーんと胸を張る。

「そうだ、陽太も来年から塾かようかも。あの子も国語以外ぜんぜんだから。お母さん、ミッツのクラスに入れさせたいって」

「姉弟で担当できるのか、それは楽しみだ。これで先生も給料上がるな。」

「そうなの?じゃあミッツも私に何かちょうだいよ、私のおかげじゃん」

「あはは…うん、何か考えておくよ。」

気軽に冗談を言い合える陽菜との関係は何も変わらない。一番仲の良い生徒であると同時に、違う立場で共に成長していけるパートナーとも言えるかもしれない。

ただ一つ、あの日から、陽菜はあれだけ面白がっていた恋愛の話をしなくなっていた。もともと彼女の年齢を考えれば実際の恋愛がどうこうというよりも、好奇心から質問しているだけだろう、と瀬名は考えていた。活発な陽菜のこと、興味が別のことに移ったとしても不思議ではない。


9月下旬になり、夏の終わりが近づいていたが、今年の残暑は体に堪えるものだった。塾長の推薦で夏休み明けから担当する授業が増えたこともあって、疲労が溜まっていた。日曜日の昼下がり、たまたま午後に担当する授業が無かった瀬名は、駅前の本屋で参考書を漁っていた。10月から更に理科も担当することになったのだが、高校卒業以来、数学以外の学問にはほとんど触れていない。生徒に教える前にまずは自ら基礎を思い出しておこうと思ったのだが、予想以上に参考書の種類が多く、どれを買うか選びかねていた。

ちょうどいい、この時間は塾からここまで歩いてくるだけで眩暈がするほどの暑さだ。夕方までゆっくり本を選ぼう… 瀬名はそう考えながら何気なく本棚の向こうに連なる信号待ちの車列を見つめる。

ふと、向かい側の歩道に、見知った顔を見つける。陽菜だ。今日は日曜日だから友達と待ち合わせでもしているのだろうか。日差しを避けて喫茶店の屋根の下に立つ彼女は、いつもの学校帰りに塾に来るときと違い、女の子らしい服を着ている。瀬名が見たことのない肩掛けのバッグを少し不安そうに握りしめ、携帯を覗きながら時折辺りを見まわしていた。

友達が来たのか、ぱっと笑顔を見せる陽菜。瀬名の視野が無意識に彼女の周りを街並みから切り取る。男の子が走ってきて陽菜の前で立ち止まる。彼は中学生か、高校1年生ぐらいだろうか。少し話をする二人。そして並んでゆっくりと歩きだした二人は、手を…


夏の断末魔のような日差しがアスファルトに反射して全方向から体を刺す。1日で一番暑い時間帯に、瀬名は一人自宅までの道を歩いていた。住宅街に入ると、時折原付が走り抜けていく以外、ほとんど人の気配が無い。

先ほどの光景が頭の中で繰り返される。瀬名には見えなかったが、きっと陽菜は幸せに笑っていた。そして今は二人で、きっと何物にも代えがたい時間を、青春を過ごしているのだろう。

瀬名が知る陽菜は、少しいたずら好きなところもあって、生意気な言葉遣いをすることもあるけれども、活発で、明るい子供だった。瀬名に欠けているものを補ってくれる存在だった。それがこの夏休み、少しだけ大人に近づいて、これからも少しずつ大人になっていくだけ。

そう、人間はみな成長していくのだ。特に大人から見た子供の変化は目まぐるしい。色々な人との関わりの中から時に喜び時に傷つきながら成長していく。

言うまでもなく、自分が陽菜にとって塾の先生以上の存在でないことはわかっていたし、それを変えたいとわずかでも思ったことは無い。そして自分がすべきことは決まっている。これからも塾の先生として陽菜の学習面をサポートし、彼女の成長を見守っていくのだ。そして自身は、生徒たちとの触れ合いを通して更に講師として成長していくべきだ。

瀬名は、自分が何に動揺しているのか、なぜあの光景を見たとき、選びかけの参考書を元の場所に戻すこともせず適当な場所に押し込み、その場所から逃げ出したのか、答えを見つけようとした。しかし、うだる暑さの中、息苦しさは加速していき、世界は色を失っていった。


気づくと、アパートのドアの前で、仰向けになってもがくセミを見つめていた。

…陽菜は、もう子供じゃない。そしていつか大人になる。絶対に、止められない。

汗が、既にびしょびしょになったシャツの中で肌を這う。溢れた汗が前髪から落ち、重力に逆らえずに地面にたたきつけられる。

…陽菜は自分から望んで変わった?…違う、まわりの人間に、大人に、変化を止められない身体と心に飲み込まれただけだ…

今まで彼女を守っていると思っていた世界が、どす黒く変色していく。成長という響きの良い言葉で目をくらまされ、見えなくなっていた。自分たちが歩いている道が、どこへ続くのか。

…俺は、陽菜にそのままでいて欲しかった。でも、それは叶わないことだから、俺自身を騙すようになっていた。

セミはもう動いていない。

…本当は、嬉しくなんかない。今の陽菜には何も望まない。あれはもう陽菜じゃない…

ドアを開けると、カーテンを閉め切って作られた暗闇がこちらを向く。

「なぜ、みんな大人になることを受け入れてしまうんだ?」

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